第2章 終わりの日における神の裁きの働きについての重要な言葉

57. 時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

58. 人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

59. 今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な鍛錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。

『言葉は肉において現れる』の「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」より引用

60. 終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

61. 裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行わなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

62. 神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行なっている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」より引用

63. わたしが今日語る言葉は、人の罪を裁き、人の不義を裁き、人の不従順を呪うためである。人の狡猾さや不実さ、人の言葉や行ないなど、神の旨にそぐわないものはどれも裁きの対象にされなければならず、人の不従順は罪として非難されなければならない。神の言葉は裁きの原則を中心としており、神は人の不義を裁き、人の反抗心を呪い、人の醜い顔を暴くことで神自身の義なる性質を明らかにする。聖さは神の義なる性質の表われの一つであり、神の聖さとは実のところ神の義なる性質なのである。あなたがたの堕落した性質が今日の言葉の背景であり、わたしはそれを用いて語り、裁き、征服の働きを実行する。それだけが実際的な働きであり、それだけが神の聖さを完全に光り輝かせる。あなたの中に堕落した性質の痕跡が一切なければ、神はあなたを裁かず、あなたに神の義なる性質を示すこともない。あなたには堕落した性質があるのだから、神はあなたを逃さず、これを通じて神の聖さが示される。もしも神が人の汚れと反抗心があまりに大きいことを知りながら、語ることもあなたを裁くこともせず、あなたの不義を罰することもないならば、それは神ではないことを証明する。罪に対する憎しみがなく、人と同じくらい汚れているからである。今日、わたしがあなたを裁くのはあなたの汚れのためであり、わたしがあなたを罰するのはあなたの堕落と反抗心のためである。わたしはあなたがたに力を見せびらかしているのでも、わざとあなたがたを抑圧しているのでもない。わたしがそうしたことを行なうのは、この不浄の地に生まれたあなたがたが、かくも深く汚れに染まっているからである。あなたがたは高潔さと人間性をすっかり失い、この世の最も不潔な場所で生まれた豚のようになってしまった。そのためあなたがたは裁かれ、わたしはあなたがたに怒りを解き放つのである。まさにこの裁きのために、神が義なる神であること、神が聖い神であることをあなたがたは理解できたのである。まさに神の聖さと義のために、神はあなたがたを裁き、あなたがたに怒りを解き放つのである。神は人の反抗心を見ると義なる性質を表わすことができ、人の汚れを見ると聖さを表わすことができるので、これは神が神自身であり、聖く汚れがない存在でありながら、不浄の地で暮らしていることを示すのに十分である。人が誰かと悪事にふけり、聖いところも義なる性質もなければ、その人に人間の不義を裁く資格はなく、人間の裁きを実行するのにもふさわしくない。人が別の人を裁くなら、それは自分の顔面を平手打ちするようなものではないだろうか。互いに同じくらい汚れている人たちに、どうして自分と似た者を裁く資格があるだろうか。聖い神自身だけが汚れた人類全体を裁けるのである。人がどうして人の罪を裁けようか。人の罪を見てその罪を非難する資格がどうして人にあり得ようか。神に人の罪を裁く資格がないのであれば、どうしてそれが義なる神自身でありえようか。人の堕落した性質が明かされるとき、神は人を裁くために語る。そのとき初めて、神が聖いことを人は目の当たりにする。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」より引用

64. 神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しをすることができる」より引用

65. 終わりの日とは、すべてのものが征服を通して、その種類に分類される時のことである。征服は終わりの日の働きである。つまり、一人ひとりの罪を裁くことが終わりの日の働きである。そうでなければ、どうして人を分類できるというのか。あなたがたの間で行われる分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての地のあらゆる民も征服の働きの対象となる。つまり、被造物であるすべての人が種類別に分類され、裁きの座の前に進み出て裁かれるということである。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も何ものも種類別に分類されることを避けることはできない。あらゆる人が種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地にあるすべてが終結に至ったからである。どうして人間が己の存在の終結の日を逃れられようか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より引用

66. 神はどのような手段で人を完全にするのか。それは神の義なる性質によって成し遂げられる。神の性質はおもに義、怒り、威厳、裁き、呪いから成り立っており、神はおもに裁きという手段で人を完全にする。中にはそれが理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う人がいる。そのような人は「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうして完全になれるのか」と言う。神の働きを理解しない人はこのように言うのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく容赦がないものの、人の中にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の中にある本質的な物事を露わにするが、神はそのような裁きを通じて肉の本質に関する深遠な認識を人に授け、そうして人は神の前で服従する。人の肉は罪から成り、サタンに属するものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である。ゆえに、人に自分を認識させるには、神の裁きの言葉がその人に降りかかり、ありとあらゆる精錬が用いられなければならない。そのとき初めて神の働きは成果を生む。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より引用

67. 神は自身の裁きを用いて人を完全にしており、人を愛し、救ってきた。しかし、神の愛にはどれだけのものが含まれているのか。そこには裁き、威厳、怒り、呪いがある。神は過去に人を呪ったが、底なしの淵に完全に放り投げたわけではなく、そうした手段を用いて人の信仰を精錬した。人を死に追いやったわけではなく、人を完全にすべく業を行なったのである。肉の本質はサタンに属するものである。それは神が言った通りなのだが、神が為した事実はその言葉通りに成就したのではなかった。神があなたを呪うのは、あなたが神を愛するようになるため、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを罰するのは、あなたが目覚めるようにするため、そして内なる欠点を認識し、人が完全に無価値であることを知るようにするためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りはどれも、人を完全にするためのものである。神が今日行なうすべてのこと、神があなたがたの中で明らかにする自身の義なる性質は、いずれも人を完全にするためのものである。それが神の愛である。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より引用

68. 神が人を裁くにしても、あるいは呪うにしても、それは人間を完全にする。どちらも人の中にある不純なものを完全にすべくなされるのである。この手段を通じて人は精錬され、人の中に欠けているものが神の言葉と働きを通じて完全にされる。厳しい言葉であれ、裁きであれ、あるいは刑罰であれ、神の働きの各段階は人を完全にするものであり、絶対的に適切なものである。どの時代においても、神がこのような働きを行なったことはない。今日、あなたがたが神の知恵を理解するよう、神はあなたがたの中で働きを行なっている。あなたがたは内面においていくばくかの苦痛を味わってきたが、心は安定していて平安である。神の働きのこの段階を享受できるのは、あなたがたの祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、あなたがたが今日、自分における神の働きの中で見られるものは愛である。神の裁きと精錬を経験しなければ、その人の行ないや情熱は表面的なものにとどまり、性質はいつまでも変わらない。それで神に得られたと言えるのか。今日、人の中には傲慢やうぬぼれがいまだ数多くあるものの、その性質は以前に比べてずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際に苦痛を感じることがあっても、あなたの性質に変化が起こる日はいずれやって来る。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明かを知る。またその時、あなたは神の旨を真に理解できる。

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より引用

69. 人間は神の刑罰と裁きにより精錬され、容赦のない暴露を受け、その目的は罪ゆえに人を罰し人の肉体を罰することであるが、このどれも肉を罪に定めて滅ぼすことを意図してはいない。言葉による厳しい暴露はすべてあなたを正しい道に導くためである。あなたがたはこの働きの多くを直接に体験しており、明らかにそれはあなたがたを悪の道へとは導かなかった。それはすべてあなたに正常な人間性を実際に生きさせるためであり、これはみなあなたがたの正常な人間性をもって達成できる。神の働きの一つひとつの段階はあなたの必要にもとづいて、あなたの弱点と実際の背丈に沿っており、荷えないような重荷は一つとしてあなたがたの上には置かれていない。今日あなたにはこのことが明らかではなく、まるでわたしがあなたに厳し過ぎるように感じている。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと確かにあなたはいつも思っている。しかし、あなたが受けて苦しむのは刑罰と裁きだが、これは実際はすべてあなたへの愛であり、最も偉大な保護である。もしこの働きの深い意味が把握できないのなら、あなたが経験を続けることは不可能である。この救いはあなたに慰めをもたらすべきである。我に返るのを拒んではならない。ここまで来たのだから、この征服の働きの意義はあなたにはっきりわかるはずである。このことについて、もはやあれこれと考えを抱いてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(4)」より引用

70. 現在なされている働きは、人々に古い祖先であるサタンを捨て去らせるためのものだ。言葉による裁きはすべて、人間の堕落した性質を明らかにし、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きはすべて、人々の心を貫き通す。一つ一つの裁きは人々の運命に直接関連しており、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らはそれらすべてを手離し、それによって人生を知り、この汚れた世界を知り、神の知恵と全能性を知り、そしてサタンに堕落させられた人類を知ることができるからだ。この種の刑罰や裁きを受ければ受けるほど、人の心は傷つき、霊は目覚めることができる。こうした極端に堕落し、最も深く騙されている人々の霊を目覚めさせることが、この種の裁きの目標である。人には霊がなく、すなわち人の霊はとうの昔に死んでしまっていて、人は天が存在することも神が存在することも知らず、自分が死の淵で葛藤していることなど知るよしもない。自分がこの邪悪な地上の地獄に生きていることなど、どうして知ることができようか。自分のこの腐った屍が、サタンによる堕落のため黄泉の国に落ちたのだと、どうして知ることができようか。地上のすべてはもうずっと前から、人類によって修復不能なほどに破壊されてしまっていることを、どうして知ることができようか。そして今日、創造主が地上に到来し、救うことができる堕落した人々を探していることを、どうして知ることができようか。ありとあらゆる精錬と裁きを体験した後でさえ、人の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上まったく反応しない。人間はいかに堕落していることか! この種の裁きは空から降って来る残酷な雹のようなものだが、人にとっては甚大な利益がある。人々がこのように裁かれなければ、何の成果も得ることはできず、人々を苦悩の淵から救い出すのはまったく不可能だろう。この働きがなければ、人々が黄泉の国から這い上がることは非常に難しいだろう。彼らの心ははるか昔に死んでおり、彼らの霊ははるか昔にサタンに踏みにじられてしまったからだ。堕落の底に沈み込んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたに呼びかけ、熱心に裁くことが必要であり、そうして初めてあなたがたの凍りついた心を呼び覚ますことができるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」より引用

71. 神が人を完全にし、完成させ、獲得することは、肉に対して剣と強打の他は何ももたらさず、さらに終わりのない苦しみ、大火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらすのだということを知らねばならない。これが人類を経営する働きの内幕であり真実である。しかし、これらはすべて人の肉に向けられたものであり、敵意の鉾先はすべて容赦なく人の肉に向けられている(人には罪がないからである)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。それは神の働きが人類だけのためではなく、計画全体のためでもあり、さらに神が人類を創造した時の元来の旨を実現するためでもあるからだ。そのため、人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練を伴い、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は極めて少ないか皆無である。ましてや神と素晴らしい時を過ごす幸せな瞬間を、肉において楽しめることなどない。肉は汚れており、それゆえ人の肉が見たり味わったりするものは神の刑罰以外の何ものでもなく、人にとっては好ましくないものであり、それはまるで正常な理知を欠いているかのようである。なぜなら神は、人に好まれず、人の背きを許さず、敵を忌み嫌う自らの義なる性質を表わすからである。神は必要なあらゆる手段を用いて自身の性質全体を公然と明らかにし、それによって六千年にわたるサタンとの戦いの働き、すなわち全人類の救いの働きと古きサタンの打倒とを終わらせるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「人類の経営の目的」より引用

72. 終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

73. 多くの人が神の二度目の受肉について悪い感情をもっている。神が肉になって裁きの働きを行うということが、人には信じがたいからである。それでも、しばしば神の働きは人間の期待を大幅に超え、それは人間の知性には受け入れがたいことである、とわたしは言わなければならない。人は地上の蛆虫にすぎないが、一方、神は宇宙を満たす至高の存在であるからである。人の知性は蛆虫だけを生み出す汚水のたまった穴に似ており、一方、神の考えが指揮する働きの各段階は神の知恵の結晶である。人は常に神に敵対しようとしているが、これに関しては、最後に誰が負けるかは自明であると、わたしは言う。自分のことを黄金より価値があるとみなさないように、わたしはあなたがたに強く勧める。もし他人が神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたにはできないのか。他人に比べてあなたはどれくらい高位に立っているのか。もし他人が真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたもそうできないのか。神の働きには止めることのできない勢いがある。あなたのした「貢献」のためだけに神は裁きの働きを繰り返すことはなく、このような好機を逃すと、あなたは無限の後悔に苛まれることになる。もしわたしの言葉を信じないなら、天空にある偉大な白い玉座があなたに裁きを下すのを待っていなさい。すべてのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したが、それでもイエスによる人類の贖罪の事実は全宇宙に、そして地の果てまで広がったことを知らなければならない。これは神がはるか昔に成し遂げた一つの現実ではないのか。もしイエスがあなたを天に引き上げるのをいまだに待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]であるとわたしは言う。あなたのような真理に不忠実で、祝福だけを求める偽信者をイエスは認めることはない。それどころか、何万年も焼かれるように火の湖にあなたを投げ入れるのに憐れみを一切見せないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

74. 裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

脚注

a. 「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。

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