II. 受肉の真理について

1. 「受肉」というのは、神が肉において現れることであり、神はその肉の姿で、自分の創った人間のもとで働く。さて、神が受肉するには、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するというのは、神が肉体において生き、働くということ、その実質において肉となり、一人の人間になるということを意味する。

『言葉は肉において現れる』の「神が宿る肉の本質」より

2. 受肉とは、神の霊が肉になる、つまり、神が肉になるということであり、肉体が行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の職分を果たすことはできない。つまり、他の誰でもなく、受肉した神の肉体だけが、つまりこの普通の人間性だけが、神性の働きを表せるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神が宿る肉の本質」より

3. 普通の人間性を持つキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間の思考を有している。「顕現」とは、神が人間になること、霊が肉になることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性を持つ肉体に宿るということで、それによって神の神性の働きを表す――これが顕現、または受肉の意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神が宿る肉の本質」より

4. 受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

5. 受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

6. 受肉した神はキリストと呼ばれ、キリストは神の霊がまとう肉である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を有している。キリストの神性はいかなる人も有していないものである。キリストの普通の人間性は肉における普通の活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」より

7. 神の本質を備えた人間だからこそ、被造物であるすべての人間の上に立ち、神の働きを行えるどの人間よりも上位に位置する。そのため、このような人間の外形をまとうすべての者たちの中で、また人間性を有するすべての者たちの中で、神だけが受肉した神自身なのである。他はみな、被造物たる人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるものの、被造物である人間には人間性しかない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なこととして、神性をも備えている。神の人間性は肉体の外見や毎日の生活において見ることができる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があって初めて表され、人々が想像するほど超自然なものではないので、人々がそれを見るのは極めて難しい。……神が肉となったのだから、その本質は人間性と神性が組み合わさったものである。この組み合わせこそが神自身、地上における神自身と呼ばれるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神が宿る肉の本質」より

8. 神の肉における生活と働きは二つの段階に分けられる。第一の段階は職分を始める前の生活である。神は普通の人間の家族において暮らし、ごく普通の人間性を有し、人間生活の通常の道徳や法に従い、人間が必要とする普通の物事(食物、衣服、睡眠、住まい)を必要とし、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情を持ちつつ生活を送る。つまり、この最初の段階で、神は神性においてではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はいまだ普通の人間の外形をまといつつ、通常の人間性において暮らし、超自然的なしるしは表向き何も示さない。しかし、純粋に自身の職分のために生きており、この期間の普通の人間性は、神性の普通の働きを維持するためにのみ存在する。そのころには、普通の人間性が職分を果たせるほどに成熟しているからである。そのため、生活の第二段階では、普通の人間性において職分を果たすことになり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせた生活である。第一の段階で神がまったく普通の人間性において生活を送るのは、その人間性がいまだ神性の働き全体を維持することができず、依然として成熟していないからである。人間性が成熟し、自身の職分を担えるようになって初めて、自身が果たすべき職分を果たし始めることができるのだ。神は肉体を持つ者として成長し、成熟する必要があるので、その生活の第一段階は普通の人間性におけるものである。第二段階に入ると、人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、受肉した神が職分を果たしながら送る生活は、人間性と完全な神性を兼ね備えたものである。受肉した神が出生の瞬間から本格的に職分を果たし、超自然的なしるしや不思議を示し始めたなら、肉体の本質を一切持たないだろう。ゆえに、受肉した神の人間性は、肉体の本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉に固有の性質である。「神は肉となっても完全に神であり、まったく人間ではない」と言うのは冒瀆である。なぜなら、このような発言はまったく存在せず、受肉の原則に反しているからである。神は職分を始めた後も、働きを行なうときは人間の外皮をまといつつ、依然として神性の中で生活する。ただその際、神の人間性は、神性が普通の肉体の中で働きを行えるようにするという目的だけを果たす。ゆえに働きを行うのは、人間性に宿る神性なのである。人間性ではなく神性が働きを行っているわけだが、その神性は人間性の中に隠れている。要するに、神の働きは完全な神性によってなされるのであって、人間性によってなされるのではない。しかし、働きを行うのは神の肉である。このような神は人間であり、同時に神であると言えるだろう。神は肉において生きる神となり、人間の姿と人間の本質を持つが、同時に神の本質も備えているからである。

『言葉は肉において現れる』の「神が宿る肉の本質」より

9. 受肉した神の人間性は、肉における普通の神性の働きを維持するために存在する。神の普通の人間的な思考が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的な思考をするのは、神が肉において行うすべての働きを支えるためだと言えるだろう。この肉体に普通の人間の精神がなければ、神は肉における働きができず、肉においてすべきことを成就できないだろう。受肉した神は普通の人間の頭脳を持つが、その働きに人間の思考が混ざり込むことはない。人間性と頭脳を持ち合わせるという前提条件の下、神は普通の頭脳でもって人間性における働きを行うが、普通の人間の考えを行使することでその働きを行うのではない。神の肉体がどれほど崇高な考えを持とうと、神の働きが論理や思考に汚されることはない。つまり、神の働きは肉体の頭脳から生まれるのではなく、人間性における神性の働きの直接的な表現なのである。神の働きはすべて成就すべき職分であり、そのどれも頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、そして磔刑は、イエスの人間としての頭脳の産物ではなく、人間の頭脳を持つ人にはなし得なかったことである。同様に、今日の征服の働きも、受肉した神が果たすべき職分だが、人間の意志による働きではない。それは、受肉した神の神性が行うべき働きであって、肉体を持つ人間になし得る働きではない。ゆえに、受肉した神は普通の人間の頭脳を持ち、普通の人間性を有していなければならない。なぜなら、普通の頭脳を持つ人間性において、自身の働きを行わなければならないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。

『言葉は肉において現れる』の「神が宿る肉の本質」より

10. 受肉した人の子は、その人間性を通じて神の神性を表わし、神の旨を人類に伝えました。また、神の旨と性質を表わすことで、霊的領域に暮らし、見ることも触れることもできない神を人間に表わしたのです。人々が見たのは、肉と骨から成る、姿形のある神自身でした。そうして受肉した人の子は、神の身分、地位、姿、性質、そして神が所有するものと神そのものを、具体的かつ人間的なものにしました。人の子の外見は、神の姿に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質、および人の子が所有するものと人の子そのものは、神自身の身分と地位を完全に示すことができました。ただ表わし方に違いがあっただけなのです。人間性と神性の両方において、人の子が神自身の身分と地位を示していたことは否定できません。しかし、この時期、神は肉を通じて働きを行ない、肉の見地から語り、人の子の身分と地位をもって人間の前に姿を見せたのであり、人々はそれによって、人類の間における神の真の言葉と働きに遭遇し、それらを経験する機会が得られました。それはまた、謙虚さの中にある神の神性と偉大さについて、人間が見識を得ることを可能にするとともに、神の真正さと実在に関する予備的な認識と定義を得ることも可能にしました。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

11. 受肉した神は外見こそ人間とまさに同じで、人間の知識を学んで人間の言語を話し、ときには人間自身の方法や話し方を通じて自身の考えを表わしますが、人間や物事の本質に対する見方は、堕落した人々のそれらに対する見方と絶対に同じではありません。受肉した神の視点と立っている高さは、堕落した人間には決して到達できないものなのです。と言うのも、神は真理であり、神がまとう肉もまた神の本質を有しており、神の考え、および神の人間性によって表わされるものも真理だからです。堕落した人々にとって、神が肉において表わすことは真理の施し、いのちの施しなのです。これらの施しは一人の人間だけでなく、全人類に対してなされます。……受肉した神の肉体がいかに平凡でも、いかに普通でも、いかに卑しくても、さらには人々がどのような軽蔑の眼で受肉した神を見下そうと、人類に対するその考えと姿勢は、人間には備えることも真似ることもできないものです。受肉した神は常に神性の視点から、そして創造主としての立場の高さから、人類を観察します。神の本質と心構えを通じて絶えず人類を見るのです。神が一般的な人間と同じ低さから、あるいは堕落した人間の視点から人類を見ることはあり得ません。人が人類を見るとき、彼らは人間のビジョンをもって見るのであり、人間の知識、規則、理論といったものを基準として使います。それは、人々が自分の目で見られるものの範囲内、堕落した人々が到達可能な範囲内にあります。神は人類を見るとき、神性のビジョンをもって見るのであり、神の本質と、神が所有するものと神そのものを基準として使います。人には見ることができないものもその範囲に含まれており、そこが、受肉した神と堕落した人がまったく違う点なのです。この違いは、人間と神のそれぞれ異なる本質によって決まります。両者の身分と地位、そして物事を見る視点と高さは、これら異なる本質によって決まるのです。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

12. 神の霊が纏っている肉は神自身の肉である。神の霊は至高であり、全能で、聖く、義である。同様に、神の肉も至高であり、全能で、聖く、義である。このような肉は、人間にとって義であり有益なこと、聖いこと、栄光あること、そして力あることしか行えず、真理や道義に反することはできず、ましてや神の霊を裏切るようなことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題――裏切り(2)」より

13. 自身が肉となったため、神は自身の肉において神の本質を実現し、よってその肉は神の働きを引き受けるのに十分である。神の霊の働きはすべて、受肉の期間中にキリストがなす働きに取って代わられる。また、受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。そこに他の時代の働きが混ざり合うことは決してあり得ない。また肉となる以上、神は肉の身分で働きを行う。そして、肉において到来する以上、神は自身のなすべき働きを肉において成し遂げる。神の霊であれ、キリストであれ、いずれも神自身であり、神はなすべき働きをなし、果たすべき職分を果たす。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」より

14. 神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

15. もしも肉にならなければ、神は人には見ることも触れることもできない霊のままだろう。人は肉の被造物であり、人と神は二つの異なる世界に属し、違う性質を有している。神の霊は肉でできた人と相容れることができず、両者の間に関係を築く術はなく、また言うまでもなく、人が霊になることはできない。そうであれば、自身本来の働きを行なうべく、神の霊は被造物の一つにならなければならない。神は最も高い場所に昇ることもできれば、へりくだって人間という被造物になり、人類のあいだで働きを行ない、その中で暮らすこともできる。しかし、人は高みに昇って霊になることができず、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。神が肉となって自身の働きを実行しなければならないのは、それが理由である。同じように、最初の受肉の際、受肉した神の肉体だけが磔刑を通じて人類を贖えたのであり、その一方、神の霊が人のための捧げ物として十字架にかけられることは不可能だったに違いない。神は直接肉になり、人のための捧げ物となることができたが、人が直接天に昇り、神が人のために用意した罪の捧げ物を受け取ることはできなかった。そういうわけで、可能なのは天地を何度か行き来するよう神に求めることだけで、人間を天に昇らせ、その救いを受け取らせるのは不可能だろう。と言うのも、人はすでに転落しており、またそれ以上に、人が天に昇ることは到底できず、まして罪の捧げ物を得るなど不可能だからである。よって、イエスが人類のあいだに来て、人には到底成し遂げられない働きを自ら行なうことが必要だった。神が肉となるたび、絶対にそうする必要がある。もしもいずれかの段階が神の霊によって直接行なわれることができたなら、神が受肉という屈辱に耐えることはなかっただろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

16. 救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉のそれよりはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きは、神が接するすべての人とより効果的に結びつく。そのうえ、触れることのできる形を持つ神の肉体は、人間に理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識をいっそう深めることができ、神の実際の業の深い印象を残すことができる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかし、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊富な知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間は神の働きの知恵を直に経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要はない。これが受肉した神の働きの正確さと本物の価値である。霊は、人間の目に見えず、想像し難いことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなどである。しかし、頭脳を有する人間にとって、こうしたものは何ら明瞭な意味を持たない。こうしたものは感動や、漠然とした意味しかもたらさず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りしながら歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、ましてや推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きに取って代わることができない。肉の働きは、霊の働きよりもはるかに正確な、必要とされる目標と、ずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与える働き、そして見て触ることのできる働きである。現実的な働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間を堕落した邪悪な性質から救える。それを成し遂げられるのは受肉した神だけであり、受肉した神だけが、人間をかつての堕落した邪悪な性質から救えるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

17. ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

18. 肉における神の到来は主に、人々が神の実際の業を見られるようにし、形のない霊に肉の姿を与え、人々が神を見て触れられるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を生き、神のものとされ、神の心に適うことになる。神が天において語るだけで、実際に地上へ降臨しなかったとすれば、人々はいまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くばかりで、神の言葉を現実として持ってはいなかっただろう。神が地上に来たのは何よりも、神が獲得しようとする人々の模範、手本として行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神によって真に獲得され得るのである。

『言葉は肉において現れる』の「実際の神は神自身であることを知るべきである」より

19. 神がある程度まで自分を卑しめて初めて、つまり、神が肉となって初めて、人間は神の知己、そして神の心を知る者となれるのだ。神は霊の存在である。かくも崇高で測り知れない霊の知己になる資格が、どうして人々にあるだろうか。神の霊が肉へと降臨し、人間と同じ外見をした被造物になって初めて、人々は神の旨を理解でき、本当に神のものとなれる。神は肉において語り、働きを行う。人類の喜び、悲しみ、患難を共にし、人類と同じ世界に生き、人類を守り、そして導き、それによって人々を清め、救いと祝福を得られるようにする。これらのものを得て、人々は神の旨を真に理解し、そうなって初めて神の知己となれる。これだけが実際的なことである。神が人の目に見えず、触れることもできないのなら、どうして人が神の知己になれようか。これは空虚な教義ではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

20. 裁かれるのは人間、すなわち肉体を持つ堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではないのだから、裁きの働きは霊の世界ではなく、人間のあいだで行われる。人間の肉体の堕落を裁くことについては、受肉した神以上にふさわしい者はおらず、その資格がある者も神以外にいない。仮に神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないだろう。そのうえ、そうした働きは、人間にとって受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができないからであり、そのため効果は即座に上がらず、まして人間が神の侵しがたい性質をより明確に見ることはできないだろう。受肉した神が人類の堕落を裁かなければ、サタンを完全に打ち負かすことはできない。……この働きが神の霊によって行われたなら、サタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉体に優る。仮にこの働きを霊が直接行ったならば、人間の不服従を残らず裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた、神に関する人間の観念を通して行われ、人間は霊について何の観念も抱いたことがないからである。そのため霊は、人間の不義をよりよく暴くことができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らないすべての者の敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人類のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、全人類の裁きは霊が直接行うのではなく、受肉した神の働きなのである。受肉した神は、人間が目で見て触れることができる。また、受肉した神は人間を完全に征服できる。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

21. もしも神の霊が直接人に話しかけたら、ダマスコへ向かうパウロが光の中で地にひれ伏したように、人類はみなその声に服従し、暴きの言葉がなくても倒れるだろう。神がこのように働きを続けたなら、人は言葉の裁きを通じて自分の堕落を知ることができず、ゆえに救いも得られないはずだ。神は肉となることでのみ、自身の言葉を自らすべての人の耳元に届けることができ、それによって聞く耳のある人がすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けられるようにする。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるのではない。この実践的でありながら並はずれた働きを通じてのみ、長きにわたって奥深くに潜んでいた人の古い性質が完全に暴かれ、人はそれを認識して変えられるようになる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいて、彼は実践的に語り、裁きを下すことで、言葉による人への裁きという成果を挙げる。これが受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉した神の権威と、言葉の働きが挙げた成果を知らしめるため、また霊が肉において降臨し、言葉による人間の裁きを通じてその権威を実証することを知らしめるためになされる。受肉した神の肉体は平凡かつ普通の人間性の外形だが、受肉した神が権威に満ちており、神自身であり、その言葉が神自身の表現であることを人に示すのは、彼の言葉が挙げる成果である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

22. あなたが知らないかもしれない真実が一つある。すなわち、人間の堕落した性質と反抗心と抵抗は、人間がキリストを見るときに暴露され、そのときに暴露される反抗心や抵抗は他のどの時よりも絶対的に完全に暴露される。それは、キリストは人の子、すなわち普通の人間性をもつ人の子であるため、人間はキリストに栄誉を与えることも尊敬することもないからである。神が肉において生きているために、人間の反抗心は徹底的に、詳細まで鮮明に光にさらけ出される。それで、キリストの到来は人類の反抗心をすべて明るみに出し、人類の本性を際立たせた、とわたしは言うのである。これは「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と呼ばれる。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より

23. 神が肉になるのは、肉もまた権威をもつことができ、また受肉した神が現実的な方法で、つまり人が見たり触れたりできるような方法で、人類の間で働きを行なうことができるからである。その働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりもはるかに現実的で、その成果も明らかである。これは、受肉した神の肉体が実践的な方法で語り、働きを行なえるからである。受肉した神の肉の外形は権威をもたず、人が近づけるものである。一方、受肉した神の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。受肉した神が語り、働きを行なうとき、人は彼の権威の存在を感じ取れない。それにより、受肉した神は実際的な性質をもつ働きを容易に行なえる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

24. 神が受肉したのは、自身の働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体を持ち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体を持つ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象なので、神は救いの働きの全段階で、人間を自身の働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在であり、血と肉から成っているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、自身の働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために、人間と同じ属性を持つ肉とならねばならない。神が働きを行うために受肉しなければならないのはまさに、人間が肉体を持つ存在であり、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないからである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

25. 人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物の中で最高のものである。そのため、人間は神の救いを必要としている。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉体、人間の魂であって、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神の救いの対象である。人間の肉体はサタンによって堕落させられているので、まず人間の肉体が救われなければならない。人間の肉体は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっており、公然と神に敵対し、神の存在を否定するまでになっている。この堕落した肉体はまったく手に負えず、肉体の堕落した性質以上に取り扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の肉体に入って混乱させ、人間の肉体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。そのため、神はなそうと意図した働きを行い、サタンと戦うべく、挑戦に立ち上がり、受肉したのだ。神の目的は堕落させられてしまった人間の救いと、自分に反抗するサタンを打ち負かし、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人類を救う。したがって、それは二つの目的を一度に果たす働きである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

26. 人間の肉体はサタンによって堕落させられており、何も見えなくさせられていて、まことに深く傷つけられた。神が自ら肉において働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉体を持つ人間であり、サタンもまた人間の肉体を用いて神の働きを妨げているからである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉体を堕落させ、人間はサタンの化身となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければならない。この働きは極めて実際的なものである。神が肉において働いているとき、実際は肉においてサタンと戦っている。肉において働くとき、神は霊の領域で働きを行っており、霊の領域における働き全体を地上で現実のものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの化身(もちろん、これも人間である)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形を持つ人間になることがますます必要であり、それによってサタンと真の戦いを繰り広げること、神に対して不服従で、神と同じ外形を持つ人間を征服すること、そして神と同じ外形を持ち、サタンによって傷つけられた人間を救うことができる。神の敵は人間であり、神の征服の対象は人間であり、神の救いの対象も神の被造物たる人間である。そのため、神は人間にならなければならない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなる。神はサタンに勝利し、人類を征服し、そのうえ、人類を救うことができる。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

27. ある意味で、終わりの日の神の受肉は、人間の観念において漠然とした神が占めている場所を除き、それにより人間の心に漠然とした神がもはや存在しなくなるようにするのである。神はその実際の言葉と働き、地上のあらゆる場所を移動すること、そして人々の間で行う極めて現実的かつ普通の働きを通じて、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然とした神の場所を取り除くのである。別の意味では、神は肉の体が語る言葉を使って人間を完全にし、すべてを成就する。これが神が終わりの日に達成する働きである。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より

28. 肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには追い求めるべき目標が必要であり、また神を知るには、神の本当の業と神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した肉体でのみ可能なことであり、いずれも普通の現実の肉体でのみ成し遂げられる。だからこそ受肉が必要なのであり、堕落した全人類がこれを必要としている。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の姿を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずはその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の姿を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られない。人々の心にある漠然とした神の姿を言葉だけで暴いたり、捨て去ったり、一掃したりすることはできない。そうしたところで、これら深く根付いているものを人々から消し去るのは不可能だろう。そうした漠然とした超自然的なものを、実際の神と神の真の姿によって置き換え、人々にそれらを徐々に知らしめることでのみ、目指すべき成果が得られる。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであることに気づく。この成果を上げられるのは、霊による直接の導きではなく、ましてや特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が正式に働きを行うとき、人間の観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然的な神とは正反対なものだからだ。人間が本来持つ観念は、受肉した神と対比して初めて明らかになる。受肉した神と比較しなければ、人間の観念が明らかになることはない。言い換えれば、現実を引き立て役としなければ、漠然とした物事は明らかにならないのである。言葉によってこの働きを行える者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者も誰一人いない。神の働きを行えるのは神自身だけであって、他の誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がいかに豊かだろうと、神の現実性と正常さを言い表すことはできない。神が人間のあいだで自ら働き、自分の姿と実在とを完全に示して初めて、人間はより実際的に神を知ることができ、よりはっきり神を見ることができる。肉体を持つ人間には、この成果を上げることができない。もちろん、神の霊もまた、この成果を上げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救えるが、この働きは、神の霊が直接成し遂げることのできないものである。そうではなく、神の霊がまとう人間の肉体、そして受肉した神の肉体だけが成し遂げられるのだ。この肉体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備える一人の人間だが、完全な神性を備えた神でもある。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、やはり人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。結局、どのような名で呼ばれようと、それはやはり人類を救う神そのものなのである。神の霊は肉体から切り離すことができず、肉の働きは神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊の身分を用いて行われるのではなく、肉体の身分を用いて行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、肉体が行う必要のある働きは、霊には直接できないものであり、受肉した神だけが可能である。これがこの働きに必要なことであり、また堕落した人間が必要とすることである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

29. 肉における神の働きで最もよい点は、神に付き従う人々に正確な言葉と勧告、そして人類に対する具体的な旨を残せることであり、ゆえにその後、神の信者はこの道を受け入れる人に対し、肉における神のすべての働きと全人類への旨をより正確に、より具体的に伝えることができる。受肉した神による人間のあいだでの働きだけが、神が人間と共に存在し、共に生活する事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きを目撃したい、神自身の言葉を聞きたいという人間の願望を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人類に示された時代を終わらせ、また、人類による漠然とした神への信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な美しい時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけでなく、さらに重要なこととして、現実的かつ正常な神、義にして聖い神、経営計画の働きを明らかにする神、奥義と人類の終着点を示す神、人類を創り、経営の働きを終わらせる神、そして数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにする。神は漠然の時代を完全に終わらせ、人類全体が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、人類全体がサタンに仕えた時代を終わらせ、全人類をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな、受肉した神が神の霊の代わって行った働きの結果である。神が肉において働くとき、神に付き従う者たちは、存在するように見えると同時に存在しないように見えるものを、それ以上求めて手探りせず、漠然とした神の旨を推測することをやめる。神が肉における働きを広めるとき、神に付き従う人々は、神が肉において行った働きをすべての宗教、すべての教派に伝え、神のすべての言葉を全人類の耳に伝える。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実であり、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、そして事実であって、噂ではない。これらの事実は、神が働きを広める証拠であり、働きを広めるために用いる道具でもある。事実がなければ、神の福音はすべての国、あらゆる場所に伝わらない。事実がなく人間の想像だけであれば、神は決して宇宙全体を征服する働きを行えない。霊は、人間には触れることも見ることもできないものであり、また霊の働きは、神の働きのさらなる証拠や事実を人間に残せない。人間は決して神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じるだろう。人間は決して神の顔を見ないし、神自身が語る言葉を聞くこともない。結局、人間の想像など虚しく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、そして神自身の働きを、人間が真似ることはできない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が人間のあいだで自ら働いて初めて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法によって人間は神を見て、神の真の顔を知るようになる。そして、これは受肉していない神には不可能なことだ。神は自身の働きをすでにこの段階まで実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神自身の肉における働きは、その経営全体の働きをすでに九十パーセント完了させている。この肉体は、神によるすべての働きによき始まりをもたらし、また神によるすべての働きを要約しており、神によるすべての働きを広め、この働きのすべてに最終の周到な補足をした。したがって、別の受肉した神が第四段階の働きを行なうことはなく、第三の受肉した神による不思議な働きも存在しない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

30. 神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人類のためであって、神自身の益のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもとから持つもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人類のために行うこと、人類のために犠牲にすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人類のためである。受肉した神の働きには想像を絶する困難が数多く伴うが、それが最終的に上げる成果は、霊が直接行う働きの成果をはるかに超える。肉体による働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分を持たないし、受肉した神は霊のような超自然的な業を行えず、ましてや霊と同じ権威など有していない。しかし、この平凡な肉の行う働きの実質は、霊が直接行う働きの実質をはるかに上回る。そしてこの肉自体が、全人類の必要に応えるものなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

31. この肉体が人間にはできない働きを行えるのは、その内なる実質が人間のそれと異なっているためであり、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからである。この肉体が人類にとって極めて重要なのは、それが人間で、またそれ以上に神であり、通常の人間にはできない働きを行うことができ、地上で共に暮らす堕落した人間を救うことができるからである。神は人間と同じ外見を持つが、受肉した神はいかなる重要人物よりも人間にとって重要である。それは、神の霊には不可能な働きを行い、神自身について神の霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人類を得ることができるからだ。その結果、この肉体は普通で平凡であっても、その人類への貢献と、人類の存在に対する意義により、極めて尊いものとなる。そしてこの肉体の真の価値と意味は、誰にとっても計り知れないものである。この肉体は直接サタンを滅ぼせないが、神は自身の働きによって、人類を征服してサタンを打ち負かし、完全に支配下に置くことができる。神がサタンを打ち負かして人類を救えるのは、受肉したからである。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、その代わりに肉となり、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きを行う。このようにして、神は自身の被造物のあいだで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、自身の被造物のあいだでよりよく自分自身を証しできる。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

32. 神の働きの三段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接行うことはない。霊が行った律法の時代の働きは、人間の堕落した性質を変えることを伴わず、神に関する人間の認識と何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代における、受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにとって重要かつ不可欠な一部である。ゆえに堕落した人間には、受肉した神による救い、受肉した神の直接的な働きのほうが必要なのである。人間は、受肉した神による牧養、支え、潤し、滋養、裁き、そして刑罰を必要としており、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要である。受肉した神だけが人間の心を知る者となり、牧者となり、現実に存在する助けとなれる。そのすべてが、現在と過去の両方において受肉が必要とされる所以である。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

33. 人間は受肉した神との関係の中で、敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして拒絶から愛へと進化する。これが受肉した神による働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることでのみ救われ、また神の口から出る言葉を通してのみ、徐々に神を知るようになり、神に敵対しているあいだに神に征服され、神の刑罰を受けているあいだにいのちの糧を受ける。この働きはどれも受肉した神の働きであって、霊としての身分を持つ神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深遠な働きであり、神による三段階の働きの中で最も大事な部分は、二段階にわたる受肉による働きである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」より

34. イエスが行なった働きの段階は、「言は神と共にあった」という言葉の内容を満たしたに過ぎない。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが神による最初の受肉だったことのより大きな証拠である。この段階の働きはまさに「言葉が受肉した」という表現の内なる意味を実現し、「言は神と共にあった。言は神であった」という表現に一層深い意味を添えたのであり、「初めに言があった」という言葉を堅く信じさせるものである。つまり、神は創造の時に言葉をもっており、神の言葉は神と共にあり、神と不可分だった。そして最後の時代、神は自身の言葉の力と権威を一層明らかにし、人が神のすべての道を目にできるようにする。すなわち、神のすべての言葉を聞けるようにするのだ。それが最後の時代の働きである。……それは二度目の受肉の働きであり、そして神の最後の受肉であるため、この働きは受肉の意義を完全なものとし、神の肉におけるすべての働きを完全に遂行して明らかにし、神が肉にある時代の幕を閉じることになるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

35. 今回、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。さらに、それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神はその体を通して肉へと戻る。それはごく普通の肉体である。他の人々との違いを生み出すものは何も見受けられないが、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化し、終わりの日の神の働きを引き受け、人が理解する神の性質全体を表すものである。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいるではないか。あなたは天の神を理解することを切に願っているではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲しているではないか。この人はこれらの秘密、つまり、今まで誰一人としてあなたに語ることのできなかった秘密のすべてをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についても語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が、数多くの測り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには不可解かもしれないが、この人が行う働きの目標全体は、人々の思うように、この人が単なる肉ではないことを理解するのに十分である。なぜならこの人は、終わりの日における神の旨と、神が人類に示す配慮を表しているからである。あなたは天地を揺るがすかのような彼の言葉を聞くことができず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを受けることもできないが、その言葉から神が怒りに満ち溢れていることを聞き、神が人類に憐れみを示しているのを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、またそれ以上に、全人類に対する神の憂慮に気づくことができる。人は終わりの日の神の働きにより、地上で人々のあいだで生きている天の神を見られるようになり、また神を知り、神に従い、神を畏れ、神を愛することができるようになる。これが、神が二度目に肉へと戻った理由である。今日人が見るものは、人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的に神は、あなたがたに次のことを示すだろう。すなわち、この人が存在していなければ、天と地は巨大な変化を経験し、この人が存在していなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになる、ということである。終わりの日にあなたがたを救うべく、受肉した神が来ていなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずだということを、神はあなたがたに示すだろう。またこの肉が存在していなければ、あなたがたは永遠に大罪人で、死体のままであるということを、神はあなたがたに示すだろう。この肉が存在しなければ、全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日に神が人類へと繰り出す、さらに厳しい懲罰から逃れるのは不可能であるということを、あなたがたは知るべきである。この普通の肉が生まれていなければ、生きようと懇願しても生きられず、死を願っても死ねない状態に陥るだろう。この肉が存在しなければ、今日、あなたがたは真理を得て神の玉座の前に来ることができず、それどころか、あなたがたの深い罪ゆえに、神によって罰せられるだろう。神が肉へと戻ることがなければ、誰にも救いの機会はなかったはずだということを、あなたがたは知っていたのか。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずだということを、あなたがたは知っていたのか。そうであれば、あなたがたは神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなたがたは、この普通の人から多くの利点を引き出すことができるのに、なぜ喜んでこの人を受け入れようとしないのか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」より

36. 終わりの日における神の働きのすべては、この普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、またそれ以上に、あなたに関係するすべてのことを決定できる。このような人が、あなたがたが思っているように、言及する価値もないほど取るに足らないということがあり得るだろうか。この人の真理はあなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。この人の業の証しは、あなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。あるいは、この人がもたらす道は、あなたがたが歩む価値などないということなのか。結局あなたがたがこの人を忌み嫌い、見捨て、距離を置く理由は何なのか。真理を表すのはこの人であり、真理を施すのはこの人であり、あなたがたに従うべき道をもたらすのもこの人である。あなたがたが依然として、これらの真理の内に神の働きの痕跡を見つけられないということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類が十字架から降りることはできなかったはずだが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる者たちが神に認められることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなたがたに神の本当の顔を見る機会はなく、またその資格もない。と言うのも、あなたがたはみな、はるか昔に滅ぼされているべき対象だからである。二度目に受肉した神の到来のゆえに、神はあなたがたを赦し、あなたがたに憐れみを示してきた。いずれにしても、最後にわたしがあなたがたに言い残さなければならない言葉はやはりこうである。受肉した神であるこの普通の人は、あなたがたにとって極めて重要である。これこそが、神が人々のあいだで成し遂げた偉大なことなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」より

37. 新しい時代の到来を告げるという明白な目的のために神は肉となる。そしてもちろん、神が新しい時代の到来を告げるとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身なのだから、前の時代を終わらせるのも神自身でなければならない。それは、神がサタンを打ち負かし、世界を征服する証拠である。神自身が人々のもとで働くたび、それは新しい戦いの始まりとなる。新しい働きの始まりがなければ、当然古い働きの終わりもない。そして古い働きの終わりがなければ、サタンとの戦いがまだ終結していないことを証明している。神自身が来て人のあいだで新しい働きを実行して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しい生活、新しい始まりを得ることができる。そうでなければ、人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。……神の働きは神自身によってなされる。神の働きを始動させるのは神であり、それを終わらせるのも神である。働きを計画し、経営するのも神であり、それ以上に、働きを結実させるのも神である。聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営の働きに関連することはすべて神自身によって行なわれる。神は六千年にわたる経営計画の支配者で、誰も神の代わりにその働きを行なうことはできず、神の働きを終わらせられる者もいない。なぜなら、すべてをその手に掌握しているのは神だからである。世界を創造した神は、全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより自身の計画をすべて成就させるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

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