第13節 裁きと刑罰、試練と精錬をいかに経験するかについて

587. 神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な鍛錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。

『言葉は肉において現れる』の「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」より引用

588. 人の状態と神に対する人の態度に直面した神は新しい働きを行ない、人が神に対する認識と服従、そして愛と証しをもつことを可能にした。したがって、人は神による精錬、裁き、取り扱い、刈り込みを経験しなければならず、それがなければ神を知ることは決してなく、神を真に愛し、神への証しを行なうこともできない。神による人間の精錬は単に一面的な効果のためでなく、多面的な効果のためである。神はこのような方法でのみ、進んで真理を求める人々の中で精錬の働きを行ない、それによってその人たちの決意と愛を完全にする。進んで真理を求める者、神を切望する者にとって、このような精錬以上に意味のあるもの、大きな支えとなるものはない。つまるところ、神は神なのだから、神の性質が人によってそれほど容易に知られたり、理解されたりすることはない。最終的に、神が人と同じ性質をもつことはあり得ず、したがって人が神の性質を知るのは容易なことではない。真理は人が本質的に有しているものでなく、サタンによって堕落した人々が容易に理解できるものでもない。人には真理がなく、真理を実践する決意もないので、苦しみを受け、精錬されたり裁かれたりすることがなければ、その人の決意が完全なものになることは決してない。すべての人にとって精錬は耐え難く、非常に受け入れ難いものであるが、神が自身の義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓き、そしてより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬のさなかである。事実と真理の比較を通じ、神は自己と真理に関するより大きな認識を人に授け、神の旨をより深く理解させ、そうしてより真実かつ純粋な神への愛を人が抱けるようにする。それらが精錬を実行する神の目的である。人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する。精錬は人に対する実際の試練の一つであり、実際の鍛錬の一形態であって、精錬のさなかでのみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる。

『言葉は肉において現れる』の「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」より引用

589. 神への信仰において人が求めるのは将来の祝福を得ることであり、それが信仰における目標です。すべての人にこの意図と望みがありますが、人の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。人が清められていない側面がどれであろうと、その側面において精錬されなければなりません。それが神の采配なのです。あなたが自分の堕落を認識できるよう、神はあなたのために環境を整え、そこでの精錬をあなたに強います。最終的に、あなたは死んで企みや欲望を諦め、神の支配と采配に服従したいと思うまでになります。それゆえ、数年間の精錬を受けず、ある程度の苦難を経なければ、人は自身の考えや心における肉の堕落の束縛を捨て去ることが出来ません。あなたはどの側面においてもいまだサタンに束縛され、自分の欲望と要求を抱いていますが、それらの側面において試練を受けなければなりません。教訓は試練を通じてのみ学べるのであって、それは真理を得て、神の意図を理解できるということを意味します。実際、多くの真理はつらい試練を経験することで理解されます。楽な環境にいるときや状況が好都合なとき、神の考えを理解したり、神の全能性と知恵を認識したり、神の義なる性質を正しく理解したりすることは誰にもできません。そのようなことはありえないでしょう。

『キリストの言葉の記録』の「試練のさなかにどう神を満足させるべきか」より引用

590. 神の性質を知らなければ、あなたは試練の最中に必ず倒れる。なぜならあなたは神がどのように人々を完全にするか、どのような手段で神が人々を完全にするのかに気付いていないからである。それゆえ、神の試練があなたに降りかかり、それがあなたの観念に合わないとき、しっかり立っていることができない。神の本当の愛は神の全性質であり、神の全性質が人に示される時、これはあなたの肉体に何をもたらすのであろうか。神の義である性質が人に示される時、その人の肉体は必然的にひどい痛みに苦しむ。あなたがこの痛みに苦しまなければ、あなたは神に完全にされることができず、本当の愛を神に捧げることもできない。神があなたを完全にすれば、神は必ずその全性質をあなたに示す。天地創造の時から今日まで、神が人間にその全ての性質を見せたことはなかった。しかし、終わりの日のさなか、神は自ら運命づけて選んだこの人々の一群に神の性質を明らかにし、人を完全にすることによって神の性質をさらけ出し、それによって人々の一群を完全にする。それが人への神の本当の愛である。人への神の本当の愛を経験するには、激しい痛みに耐え、高い代償を払うことが要求される。そうして初めて人は神のものとされ、その本当の愛を神に返すことができ、そうして初めて神の心は満ち足りる。人が神により完全にされることを望むなら、また、神の意志を行い、真実の愛をあますところなく神に捧げることを望むなら、人は多くの苦しみとたくさんの苦痛を周囲の状況から経験しなければならず、死よりもひどい痛みに苦しむことになる。最終的には人は真実の心を神に返すことを強いられる。人が本当に神を愛しているかどうかは、困難と精錬の間に明らかにされる。神は人の愛を清めるが、これも困難と精錬の真っただ中でなければ達成されない。

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より引用

591. 人は自分の性質を変えることができず、神の言葉による裁きと刑罰、苦難と精錬を経験するか、あるいは神の言葉による取り扱い、懲らしめ、そして刈り込みを受けなければならない。そうして初めて、その人は神への従順と忠誠を実現することができ、もはや神に対していい加減ではなくなる。人の性質が変わるのは、神の言葉による精錬のもとである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受けることでのみ、その人はあえて軽率に行動することがなくなり、平静沈着になる。最も重要な点は、神の現在の言葉、および神の働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を脇にのけて進んで従うことができる、ということである。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」より引用

592. 多少の制約や苦難を受けることは、あなたがたのためになる。気楽な生活を与えられるとあなたがたはだめになる。それでどうして守られることができようか。今日あなたがたは、刑罰を受け、裁かれ、呪われているため、守りを与えられているのだ。あなたがたは多くの苦難を受けてきたために守られているのだ。そうでなければ、とっくの昔に堕落していただろう。わたしはわざと物事を難しくしようとしているのではなく、人間の本性は変え難いものなので、人間の性質を変化させるため、こうしなければならないのだ。現在あなたがたにはパウロのような良心や理知すらなく、彼のような自己認識さえ持っていない。あなたがたは霊を目覚めさせるために、常に圧力をかけられ、常に刑罰と裁きを受けなければならないのだ。刑罰と裁きはあなたがたのいのちにとって最良のものだ。そして必要に応じて、事実の到来による刑罰も受けなければならず、そうして初めてあなたがたは完全に従えるようになる。あなたがたはその本性からして、刑罰と呪いがなければ、頭を下げることも従うことも望まない。事実を突きつけられない限り効果はない。あなたがたの人格はあまりに卑しく無価値なのだ。刑罰と裁きがなければ、あなたがたが征服されることは難しく、その不義と不従順を克服することも困難だろう。あなたがたには古い本性が極めて深く根付いている。もしあなたがたが王座に就いたなら、天の高さや地の深さを知る由もなく、ましてや自分がどこへ向かっているかなど見当もつかないだろう。自分がどこから来たかさえわからないのに、どうして創造主を知ることができようか。現在の時宜を得た刑罰と呪いがなければ、あなたがたの終わりの日はとっくの昔に訪れていただろう。そしてあなたがたの運命については言うまでもなく、一層危機に瀕するのではないだろうか。この時宜を得た刑罰と裁きがなければ、あなたがたは一体どれほど傲慢になり、下劣になるだろうか。この刑罰と裁きがあなたがたを今日へと導き、その存在を維持してきたのだ。もしあなたがたが自分の「父」と同じ方法で「教育」されていたなら、一体どんな領域に入ることになるだろうか。あなたがたには自らを制し、反省する能力がまったくない。このような人々は、ただ干渉も妨害もせずに従い服従しさえすれば、それでわたしの目的は達成される。あなたがたは今日の刑罰と裁きをもっとしっかり受けるべきではないか。その他にどのような選択肢があるのか。

『言葉は肉において現れる』の「実践(6)」より引用

593. 人が試練を受けている際に弱くなったり、自分の中で消極性が生じたり、神の旨や自分の実践の道が明らかでなくなったりするのは普通のことである。だがいずれにせよ、あなたはヨブのように神の働きを信じなければならず、神を否定してはならない。ヨブは弱く、自分が生まれた日を呪ったにもかかわらず、人生におけるすべての物事がヤーウェによって授けられること、そしてそのすべてを奪うのもまたヤーウェであることを否定しなかった。いかにして試されようとも、ヨブはこの信念を堅持した。あなたが自分の経験の中で、神の言葉を通じてどのような精錬を受けようとも、神が人類に求めるのは、要するに神への信仰と愛である。神がこのようにして働きを行なうことで完全にするのは、人々の信仰と愛、そして志である。神は人々を完全にする働きを行なうが、人はそれを見ることも、それに触れることもできない。こうした状況において、あなたの信仰が必要とされるのである。肉眼で見えない何かがあるときに、人々の信仰が必要とされる。また、あなたが自分の観念を捨てられないとき、あなたの信仰が必要とされる。神の働きについてよく理解できないとき、あなたに求められるのは信仰をもつこと、そして揺るぎなく立って証しをすることである。ヨブがこのような状態に達したとき、神がヨブの前に現われ、ヨブに対して語った。つまり、あなたが神を見られるのは自分の信仰の中からだけであり、あなたに信仰があるとき、神はあなたを完全にするのである。信仰がなければ、神はそれを行なうことができない。あなたが何を得たいと望もうと、神はそれを授ける。あなたに信仰がなければ、あなたは完全にされることができず、神の業を見ることもできないし、ましてや神の全能を見ることなどできない。自分の実際の経験の中で神の業を見るという信仰があれば、神はあなたの前に現われ、あなたを中から啓いて導く。この信仰がなければ、神がそれを行なうのは不可能である。あなたが神への望みを失ったとしたら、どうして神の働きを経験できるだろうか。したがって、あなたに信仰があり、神に対して疑いを抱かず、神が何をしようと神に対する真の信仰をもっているときにだけ、神はあなたの経験を通じてあなたを啓いて照らし、そのとき初めてあなたは神の業を見ることができる。これらはすべて信仰を通じて成し遂げられる。信仰は精錬を通じてのみ生じるのであって、精錬なくして信仰が育まれることはあり得ない。「信仰」というこの言葉は何を指すのか。信仰とは、見ることも触れることもできないものがあるとき、神の働きが人間の観念にそぐわないとき、また、それが人間の手に届かないときに、人間がもつべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。苦難や精錬のとき、人は信仰を必要とする。そして信仰の後には精錬が続く。精錬と信仰は切り離せないのである。神がどのように働きを行なおうと、また自分の環境がどのようなものであろうと、あなたはいのちと真理を追い求め、神の働きに関する認識を求め、神の業を理解し、真理にしたがって行動することができる。そうすることが真の信仰をもつということであり、あなたが神への信仰を失っていないことを示している。あなたが精錬を通じて真理を追求することにしがみつき、神を真に愛し、神への疑念を募らせない場合にのみ、そして神が何をしようとも真理を実践して神を満足させ、神の旨を深く求め、神の旨に気を配ることができる場合にのみ、あなたは神に対する真の信仰をもつことができる。以前、あなたが王として治めるだろうと神が語ったとき、あなたは神を愛した。また、神があなたに自身を公然と示した際、あなたは神を追い求めた。だが現在、神は隠され、あなたは神を見ることができない。そして、あなたは多くの問題にぶつかっている。ならば今、あなたは神への望みを失うのか。ゆえに、あなたはいかなる時もいのちを追い求め、神の旨を満たすことを求めなければならない。これが真の信仰というものであり、最も美しい真実の愛である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬を経なければならない」より引用

594. 精錬の働きの目的は、おもに人々の信仰を完全にすることである。最終的に、あなたは立ち去りたいのに立ち去れないという状態に至る。中には希望のひとかけらを奪われてもなお信仰をもてる人もいる。そして人々は自分の将来の見込みについて、もはや何の希望も抱かない。そのとき初めて神の精錬は完了する。人間はいまだ生死のあいだを彷徨う段階に達しておらず、死を味わったことがないので、精錬の過程はまだ終わっていない。効力者の段階にある者たちでさえ、極限までには精錬されてはいなかった。ヨブは極限の精錬を経ており、頼れるものが何もなかった。すべての希望を失い、頼るものが何もなくなるところまで、人は精錬を受けなければならない。それだけが真の精錬である。効力者の時期において、あなたの心が神の前で常に静まり、神が何を行なおうと、あるいは自分に対する神の旨が何であろうと、常に神の采配に従ったなら、あなたはその道の果てに、神がなしたすべてのことを理解するだろう。あなたはヨブの試練を受けると同時に、ペテロの試練も受ける。ヨブは試された際に証しを行ない、最後にヤーウェがヨブに示された。証しを行なった後、ヨブは初めて神の顔を見るのにふさわしい者となったのである。「わたしは汚れた地から隠れ、聖なる国に自分を現わしている」と言われたのはなぜか。それは、聖くなって証しを行なわなければ、神の顔を見る品位は得られない、という意味である。神の証しを行なえなければ、あなたには神の顔を見る品位がない。精錬に直面した際、退いたり、神に不満をぶつけたりして神の証しを行なわず、サタンの笑い者になったとしたら、神の出現を得ることはできない。あなたがヨブのように、試練のただ中で自らの肉を呪い、神に不満をぶつけず、文句を言うことも、自分の言葉で罪を犯すこともなく、自分の肉を忌み嫌うことができれば、あなたは証しを行なっている。ある程度の精錬を受けてなお、ヨブのように神の前で完全に服従し、神にその他の要求をしたり、自身の観念を抱いたりしないのであれば、神はあなたの前に現われる。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬を経なければならない」より引用

595. 神が働きを行なって人間を精錬するとき、人間は苦しむ。人間に対する精錬が大きいほど、神に対するその人の愛は大きくなり、その人の中で神の力がさらに示される。逆に、人の受ける精錬が少なければ少ないほど、神に対するその人の愛も少なくなり、その人の中で示される神の力も少なくなる。人に対するこうした精錬と苦痛が大きいほど、またその人の経験する苦悶が多いほど、神に対するその人の愛が深まり、神への信仰もさらに純粋なものとなり、神に関する認識もより深いものになる。あなたは自分の経験の中で、精錬を受けながら大いに苦しむ人、多くの取り扱いと懲らしめを受ける人を目の当たりにし、神への深い愛を抱き、神に関するさらに深遠で鋭い認識をもつのはこのような人だと理解する。取り扱いを経験していない人には表面的な認識しかなく、ただ「神は本当に良いお方だ。人々が神を享受できるよう、彼らに恵みを授けられる」と言うことしかできない。取り扱いと懲らしめを経験していれば、神に関する真の認識について話すことができる。したがって、神が人間の中で行なう働きが驚異的であればあるほど、それはいっそう貴重であり、有意義なものになる。それがあなたにとって測り知れないものであればあるほど、またそれがあなたの観念と相容れないものであればあるほど、神の働きはますますあなたを征服することができ、またあなたを獲得して完全にすることができる。神の働きの意義はなんと大きいことか。神がこのようにして人間を精錬しなければ、またこのような方法によって働きを行なっていなければ、神の働きは効果に乏しく、その意義を失ってしまうだろう。神がこの集団を選んで獲得し、終わりの日に完全にするであろうことは、過去に語られていた。その中に、並外れて大きな意義がある。神があなたがたの中で行なう働きが偉大であればあるほど、神に対するあなたがたの愛はいっそう深く純粋なものとなる。神の働きが偉大であればあるほど、人は神の知恵に関する何かをいっそう把握し、神に関する認識もより深くなる。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬を経なければならない」より引用

596. 神の精錬が大きいほど、人の心は神をさらに愛することができる。心の苦しみはその人のいのちに有益であり、神の前でより安らぎ、神との関係がより近くなり、神の至高の愛と救いをよりよく理解できる。ペテロは何百回も精錬を経験し、ヨブは数度の試練を受けた。あなたがたが神によって完全にされることを望むのであれば、同じく何百回もの精錬を経験しなければならない。この過程を経てこの段階に頼らなければ、神の旨を満たして神によって完全にされることはできない。精錬は、神が人を完全にする最良の手段である。精錬と厳しい試練だけが人々の心に神に対する真の愛をもたらすのである。苦難がなければ、人々は神に対する真の愛をもたない。試練によって内側から試されず、真に精錬を受けなければ、人々の心は常に外側を漂い続けるだろう。ある程度まで精錬された後、あなたは自分の弱さと困難を理解し、自分に欠けているものがどれほどあって、遭遇する数多くの問題を乗り越えることができないのか、そして自分の不従順がいかに大きなものかを知るようになる。人が自分の実際の状態を真に認識できるのは試練のあいだだけであり、試練こそが人をよりよく完全にできるのである。

『言葉は肉において現れる』の「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」より引用

597. あなたは数多くの失敗や弱さを経験し、消極的な状態に何度も陥ったが、それはすべて神の試練だと言える。なぜなら、あらゆることは神に由来し、すべての物事や出来事も神の掌中にあるからである。あなたが失敗しようが、弱かろうが、躓こうが、そのすべては神次第であり、神の手の内に握られている。神の視点から見れば、それはあなたの試練であり、あなたがそのことを認識できなければ、それは試みになるだろう。人々が認識すべき二種類の状態がある。その一つは聖霊に由来するものであり、もう一つの根源はサタンの可能性がある。前者は、聖霊があなたを照らし、あなたが自分を知り、自分を忌み嫌い、自分について悔いるようにし、神に対する真の愛をもち、神を満足させることを決心できるようにする状態である。後者は、自分のことを知っているものの、消極的かつ弱いという状態である。この状態は神の精錬だと言えるし、サタンの試みだとも言えるだろう。それは神による自分の救いであると認識し、自分はいま神に大きな借りがあると感じ、その時から神にその借りを返そうとして、そのような堕落に二度と陥らず、神の言葉を飲み食いすることに努力し、自分のことを常に至らない存在であると見なし、切望する心をもつならば、それがまさに神の試練である。苦難が終わり、あなたが前進を再開した後も、神は引き続きあなたを導き、あなたに照らしと啓きを与え、糧を施すだろう。しかし、あなたがそれを認識せず、否定的になり、ただ自暴自棄になって失望し、そのように考えるのであれば、サタンの試みがあなたに臨むだろう。ヨブが試練を受けたとき、神とサタンは互いに賭けをし、神はサタンにヨブを苦しめることを許した。ヨブを試していたのは神だったが、実際にヨブのもとへ来たのはサタンだった。サタンとしてはヨブを試みたのだが、ヨブは神の側についていた。そうでなければ、ヨブは試みに負けていたはずである。人間は試みに負けるとすぐ危険に陥る。精錬を受けることは神からの試練だと言えるが、あなたが良い状態になければ、それはサタンによる試みだとも言える。あなたがビジョンを理解していなければ、サタンはあなたを責め、あなたのビジョンを曖昧にさせるだろう。あなたは知らぬ間に試みに負けるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬を経なければならない」より引用

598. 試練を経ている間、神がどのような働きを行なおうと望んでいるか、どのような働きを完遂しようと望んでいるかを知らなくても、人間に対する神の意向は常に善であることを知るべきである。あなたが誠心誠意神を追い求めれば、神があなたのもとから去ることはなく、最後はきっとあなたを完全にし、人々を適切な終着点に連れて行く。現在、神が人々をどのように試しているかを問わず、神が人々に対し、その行ないに基づき、適切な結末と報いを与える日がいつか来る。神が人々を特定の地点まで導き、その後見捨てて無視することはない。なぜなら、神は信頼に足るからである。現段階において、聖霊は精錬の働きを行なっており、あらゆる人間を精錬している。死の試練と刑罰の試練から成る働きの段階において、精錬は言葉を通じて実行される。人々が神の働きを経験するには、まず神による現在の働きと、人がどのように協力すべきかを理解する必要がある。まさしく、これはすべての人が理解すべき事柄なのである。神が何を行なおうと、つまりそれが精錬であろうと、あるいは神が黙してさえいても、神の働きの諸段階のうち、人の観念に沿うものは一つもない。神の働きの各段階は、人間の観念をばらばらに打ち壊す。それが神の働きである。しかし、神の働きが一定の段階に達したのだから、神は何があろうと全人類を死に追いやらないのだと信じる必要がある。神は人類に約束と祝福の両方を与え、神を追い求める者はみな神の祝福を得られるが、そうしない者は神に捨て去られる。それはあなたの追求次第である。他に何があろうと、神の働きが終わりを迎えるとき、すべての人が適切な終着点を得るのだと信じなければならない。神は人類に美しい抱負を与えてきたが、追い求めずしてそれらは成就できない。あなたがいま知るべきなのは、神による人々の精錬と刑罰は神の働きであるが、人のほうも常に性質の変化を求めねばならない、ということである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より引用

599. 神への信仰には、神への服従と、神の働きを経験することが必要とされる。神はすでに多数の働きを行なっており、人にとって、それはどれも完全化、精錬、さらには刑罰だと言えるだろう。神の働きの各段階のうち、人間の観念と一致するものはいまだかつてなく、人々が享受してきたのは神の厳格な言葉である。神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。神から祝福されているときの追求が優れていても、神の祝福がなければ逃げ出すのであれば、それは純粋さだろうか。あなたは、その道が正しいと確信しているのだから、最後までその道に従い、神への忠誠を保たなければならない。あなたは、神自身があなたを完全にすべく地上に来たのを見てきたのだから、自分の心をすべて神に捧げるべきである。神が何を行なおうと、たとえ最後にあなたにとって好ましくない結末に決めたとしても、それでもあなたが神に従えるのであれば、それが神の前で純粋さを保つということである。聖なる霊体と純粋な乙女を神に捧げることは、神の前で真摯な心を保つことを意味する。人類にとって、真摯さとは純粋さであり、神に対して真摯になれるというのは、純粋さを維持するということである。これがあなたの実践すべきことである。祈るべきときは祈りなさい。集まって交わりをもつべきときはそうしなさい。賛美歌を歌うべきときは歌いなさい。肉に背くべきときは背きなさい。自分の本分を尽くすとき、どうにか切り抜けようとしてはならず、試練に直面したときは堅く立ちなさい。それが神への忠誠である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より引用

600. ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は不従順で、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたが私を求められなくとも、私はあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたが私を裁かれる時、私は満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、私がもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、私はあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、私は一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

601. 人は肉の中に生きるが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰なくしては、人間はサタンと同様にけがれている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間のための最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい鍛錬は、人間をサタンの影響から解放し、自分の狭い世界から解放し、神の顔の光の中で生きることができるようにする。刑罰と裁きよりも優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたが私を罰し、裁かれる限り、私はあなたが私を見捨てていないことを知るでしょう。たとえあなたが私に喜びや平安を与えられず、私を苦しみの中で生活させ、私に無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたが私を見捨てない限り、私の心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きは私にとって最高の守りであり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたが私に与えられる恵みが私を守っています。現在あなたが私に授けられる恵みは、あなたの義なるご性質の表れであり、刑罰と裁きです。さらに、それは試練であり、なによりもそれは、苦難の生活です」。彼は肉の喜びを脇へ置き、一層深い愛と一層大きな守りを求めることができた。なぜなら、彼は神の刑罰と裁きから、極めて大きな恵みを得たからである。人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光であり、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

602. 人間はサタンの影響下で生活し、肉の中に存在する。人間が清められず、神の守りを受けないのであれば、人間は一層堕落するであろう。人間が神を愛することを望むのであれば、人間は清められ、救われなければならない。彼は祈って言った。「神よ、あなたが私を優しく扱われる時、私は喜び、安らぎを感じます。あなたが私に刑罰を与えられる時、私はそれにも増して喜びと安らぎを感じます。私は弱く、予期せぬ苦しみを受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、私の不従順さと弱さの故であることを、あなたは知っておられます。私が泣くのは、自分があなたの望みを満足させられないからであり、私が悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの要求に満たないからです。しかし私は進んでその領域に到達しようとし、あなたを満足させるためにできること全てを喜んで行います。あなたの刑罰は私に守りをもたらし、私に最高の救いを与えてくれました。あなたの裁きはあなたの寛容さと忍耐にまさります。あなたの刑罰と裁きがなければ、私はあなたの憐れみと慈愛を享受することはできないでしょう。現在、私はあなたの愛が天を超越し、あらゆるものを凌いだことを、一層理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけではなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、私は多くのことを与えられました。あなたの刑罰と裁きなくしては誰一人として、清められることも、創造主の愛を経験できることもないでしょう。私は数百回の試練と患難を受け、死に瀕したことさえありましたが、それらによってあなたを真に知り、最高の救いを得ることができました。もしあなたの刑罰と裁き、そして鍛錬が私からなくなったら、私は闇の中、サタンの領域で生きることになるでしょう。人間の肉にどんな益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きが私からなくなるなら、それはあなたの御霊が私を見捨て、もはやあなたが私と共におられないようなものでしょう。そうであるとしたら、どうやって私は生きてゆけましょうか。あなたが私に病を与えられ、私の自由を奪われても、私は生き続けることが出来ますが、あなたの刑罰や裁きがなくなったならば、私は決して生きてゆくことはできないでしょう。私にあなたの刑罰と裁きがなかったとしたら、私には言葉にできないほど深いあなたの愛を、私は失うでしょう。あなたの愛がなければ、私はサタンの領域下で生活することになり、あなたの栄光の御顔を見ることはできないでしょう。私はどうして生き続けられるでしょうか。そのような闇や生活は、私には耐えられないでしょう。私があなたと共におられることは、あなたにお目にかかることと同様ですから、どうして私があなたから去ることができましょうか。私はあなたに対し、たとえそれが短い励ましの御言葉であったとしても、私の最大の慰めを奪わないよう懇願し、願います。私は従前あなたの愛を享受し、今はあなたから離れることができません。どうして私があなたを愛せないでしょうか。私は、あなたの愛のために、多くの悲しみの涙を流しましたが、そうした生活は一層有意義であり、もっと私を豊かにし、さらに私を変化させ、被造物が持つべき真理を私が一層得られるようにすることができると、常に感じて来ました」。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

603. あなたが完全にされることを追求する者であるならば、あなたは証ししてこう言うであろう。「この神による段階ごとの御働きにおいて、私は神の刑罰と裁きの御働きを受け入れた。また私は大いなる苦しみに耐えてきたが、神がどのようにして人間を完全にされるのかを知り、神が行われた御働きと神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。彼の義なるご性質が私の上に臨み、祝福と恵みをもたらした。私を守り、私を清めたのは神の裁きと刑罰である。もし私が神による刑罰と裁きを受けておらず、神の厳しい御言葉が私の上に臨んでいなかったとしたら、私は神を知らず、救われることがなかったであろう。現在、私は被造物として、創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に重要なことには、神のご性質は人間が享受するに値するので、あらゆる被造物は神の義なる性質を享受し、神の義なる裁きを享受しなければならない、ということを理解している。サタンに堕落させられた被造物として、神の義なるご性質を享受すべきである。神の義なるご性質には、刑罰と裁きがある他、それ以上に、大いなる愛がある。現在、私は神の愛を完全に得ることはできないが、それを見る幸運に恵まれており、そのことにおいて、私は祝福されている」。これこそが、完全にされた者の歩んだ道であり、彼らが語る認識である。そうした者はペテロと同じであり、ペテロと同様の経験がある。このような人々は、いのちを得た者でもあり、また真理を持っている者である。彼らが、最後まで経験する時、神の裁きの時に、必ずサタンの影響を自分から取り除き、神のものとされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

604. 神の言葉は一つ一つが私たちの急所を突き、私たちは傷ついて恐れに満たされる。彼は私たちの観念、想像、そして堕落した性質を明らかにする。すべての言動から思いや考えの一つ一つに至るまで、私たちの本性や本質は神の言葉によって暴かれ、私たちは恥じ入って隠れる場所もなく恐怖に震える。彼は私たちの行動、目的や意図、そして自分でも知らなかった堕落した性質まで、すべてを一つ一つ私たちに示すので、私たちは自分の惨めな不完全さをすべて見せつけられ、さらには完全に打ち負かされた気持ちになる。彼は私たちが反抗したことを裁き、神を冒涜し糾弾したことで私たちを罰し、自分たちが神の目には何の贖うべき特徴もなく、生きたサタンなのだと思わせる。希望は粉々にされ、もはや神に理不尽な要求をしたり希望を持ったりすることもなくなり、夢さえも一夜にして消え去る。これは誰一人として想像できず、受け入れることもできない事実である。一瞬のうちに私たちは内面の平静を失い、この先どうやって進んでいけばいいのか、どうやって信仰を保っていけばいいのかわらなくなる。まるで自分たちの信仰が振り出しに戻ったような、そして主イエスに会ったことも、主を知ったこともないような気持ちになる。目の前のすべてが私たちを困惑させ、ためらいに揺れ動かせる。私たちは狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには抑えきれない憤りと屈辱感がくすぶる。そしてうっぷんを晴らそう、出口を探そうと試み、さらには救い主イエスを待ち続けて、イエスに胸中を打ち明けようとさえ考える。表面上は平静で、高慢でも謙虚でもないように見えるときもあるが、心の中ではこれまでにない喪失感に苛まれている。ときには表面上いつになく冷静に見えることもあるかもしれないが、内面は荒れた海原のような苦悶に揺れている。彼の裁きと刑罰は私たちの希望と夢のすべてを奪い去ったため、贅沢な望みはみな葬られ、私たちはあの人が救い主で自分たちを救えるのだと信じようとはしなくなる。彼の裁きと刑罰は私たちと神との間に亀裂を作り、それがあまりに深いため、誰も渡ろうとさえしない。彼の裁きと刑罰によって、私たちは人生で初めてこれほどの挫折と屈辱を感じたのである。私たちは彼の裁きと刑罰によって、神の名誉と人の侮辱に対する神の不寛容とを本当に認識した。それと比べると、私たちはなんと卑しく汚れていることか。彼の裁きと刑罰によって私たちは初めて、いかに自分たちが傲慢で尊大か、いかに人間が決して神と同等でなく、神と肩を並べることは一切ないかを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私たちはもうこのような堕落した性質の中で生きることをやめたい、この本性と本質からできるだけ早く抜け出したい、神にとって卑劣で不快なものでなくなりたいと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私たちは神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と采配に反抗することはなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私たちは生き残ることを再び切望するようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった……。私たちは征服の働きから抜け出し、地獄から、死の影の谷から抜け出した……。全能神は私たちを、この一群の人々を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、数多くの敵を打ち倒したのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より引用

605. 長い年月の後、人間は、鍛錬と刑罰の試練を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行ないの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身がわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に向けた不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る……と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ被造物である人類を気遣い、神の手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けず、もはやヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする――ああ! わが主、わが神!

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より引用

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