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人の本性における共通点と相違点を理解する

あなたがたは神における自らの信仰の歩みや、真理を追い求める道筋をはっきり見ているだろうか。実際、神に対する信仰とは何だろうか。わずかな苦難に苦しんだら、もうそれきりだろうか。ある人々は裁きや刑罰、刈り取りや取り扱いを受けたり、自分たちの真の姿が明らかにされたりするともはや終わりで、結末は形作られてしまう。ほとんどの人々はこの事柄をはっきりと見極めることはできず、目の前の道をどのように歩めばよいのか分からないまま、皆そこで立ち止まる。通常、取り扱いや刈り込みを受けたり挫折を経験したりしないとき、人々は神を信じつつ真理を追い求めたいと感じ、神のみ心を満足させるべきだと感じるものである。しかしちょっとした挫折やいくつかの困難が生じるやいなや反逆の本性があらわになり、特に忌まわしい様子を見せ、やがて自分自身でさえその本性が特におぞましく感じられるようになる。とうとう自分自身でその行く末を、「もうだめだ、私は見捨てられた、こんなことをしている私はもう終わったも同然ではないのか。神はもはや私を救ってくださらないに違いない」などと決めつけてしまう。このような状態に陥っている人々は多く、むしろすべての人がそうだとさえ言えるかもしれない。なぜ人々はそのように自分自身を描くことができるのだろうか。これは、神が人々を救われるという意図を人々が理解していない証拠である。あなたはたった一度扱われただけで、長い間真理を追い求めないまま過ごすようになる。小さな一つの過ちを犯すと自らの務めを全うしなくなる。取るに足りない状況が原因で停滞してしまう。人々はあたかも、追い求めるエネルギーを持つために完璧でなければならないと感じているかのようだ。自分たちが堕落しすぎていることに気づくなら、追い求める姿勢はなくなってしまう。多くの人々が「ああ、もう私は終わりだ。間違いなくもう手の施しようがない。もはや私が救われる道はない。たとえ神に赦されたとしても、私は自分自身を赦すことなどできないだろう。私は決して変わることはない。」などといった気落ちする否定的ななことを言っている。神の御心を人々が誤解していることは、神の働きを人々が理解していないことを示す。実のところ、人はふつう霊的に成長するなかで、時にその堕落した性質を明らかにする。彼らは物事を行うにあたり清くはなく、責任を取らず、献身的ではなく、おざなりに仕事をする。これは極めて自然なことであり、避けられない。もしこうした事柄が明らかにならなければ、どうして人類が堕落していると言えるだろうか。もし人類が堕落していなければ、神の救いの働きに意義がなくなる。現状は、人々が真理を持たず、真に自分自身を理解しておらず、自らの状態をはっきり見ていない。したがって彼らの状態は明らかにされ、明白なものとされる必要がある。これらの事柄を明らかにすることによってのみ、あなたがたは光を見ることができる。人々はみな無感覚かつ鈍感である。もし神がこのように働かれなければ、あなたがたは変わらないだろう。あなたがたにとって困難はあらゆる段階で起こる。私はこれをあなたがたと論じ、正しくし、あなたがたが手綱を取ることで正しい道筋へとかじ取りできるようにする。さもないと、あなたがたはいつも極端に物事を行い、常に行き止まりに突進し、道筋もないのに進んで行き、自分自身を描くだろう。人々は救いの経験を始めるとき、自分たち自身を理解しないが、ついに皆自分たち自身について理解してこのように言う。「ああ、私こそまさに悪魔、サタンだ!人々は悪魔、サタンだ。今度こそもう私も終わり。救われることなどできない。もはや救出される機会も可能性もない」と。人々というのは本当にとてつもなくもろく、取り扱いにくいものであり、極端に走る傾向がある。もしいつの日か人々が真に神の御心を理解するならば、このように言うことだろう。「ああ、私は自分の堕落がずっとこれほどまでに深いものだったということにようやく気付いた。幸いなことに、神は私を救われ、私は光輝く人生を見ることができるようになり、正しいいのちの道を歩むことができる。私は感謝しきれないほど神に感謝している。」と。それはあたかも夢から目を覚まし光を見るかのようである。これは偉大なる救いを受け取るということではないだろうか。彼らは神をほめたたえるべきではないのだろうか。ある人々は死が近づくときでさえ、自分自身を理解せず、依然として頑なであり、明らかにされた事実を受け入れることができない。彼らは自分たちがかなり善良で、私は良い人間なのになぜあんなことができたのだろうと感じる。あたかも不当に責められているかのように思われる。ある人々は、何年も神からの働きかけを受けた後、最終的にそれでもなお自分たちの本性を理解しない。彼らはいつも自分たちのことを善良な人々であり、一瞬の不注意で過ちを犯したのだと考え、今でもなお従うより抹消されることを望む。このような人ははなはだしく傲慢かつ無知であり、真理を受け入れていない。彼らは決して作り変えられて人間になることはできない。ここから、人々の本性がたとえ神に対する拒絶と背信のなかにあったとしても、彼らの本性にはそれぞれ違いがあることをあなたがたは見出すことができるだろう。そのためには人々の本性をより深く理解することが必要である。

人々の本性には、理解されなければならない共通の特徴がある。すべての人々が神に背を向ける可能性があるのは共通の特徴だが、人はそれぞれ自分の急所を持っている。ある人々はこれが好き、ある人々はあれが好き、ある人々はこれを重んじ、ある人々はあれを重んじる。これらが人々の本性の違いである。ある人々はちょっとした苦しみを耐えることができるが、ある人々にとってはわずかな苦しみに耐えることが難しい。それは、その本性で切望することが異なっているからである。同じ出来事に遭遇しながらも、耐えることができる人とできない人がいるのはなぜだろうか。それは、彼らの本性となるものが異なるからである。ある人々の堕落した本性は激しく表れ、ある人々の堕落した本性は穏やかに表れる。しかし彼らの本性の実体は同じである。これは共通の特徴である。どのような本性であるかがどのような種類の人々であるかを決定する。たとえ他の人々と共通の特徴があったとしても、彼らは同じ種類の人々ではないかもしれない。なぜ彼らは同じ種類の人々ではないのだろうか。それは彼らの本性が持つものが一目瞭然ではなく、それほど強くないからである。例えば、肉欲は人々に共通の特徴ではないだろうか。皆それを持っている。さらに、この部分は克服するのが極めて難しい。しかしながら、これはある人々にとって特に強烈である。彼らがそれに直面すると、それを克服できず他の人々と一緒に逃げ出すか、他の人々が逃げ出すよう導く。こうした人々はその本性が邪悪だと言える。ある人々はこの事柄にしっかりと直面することができず、わずかに情熱的で肉欲的ではあるが、かといって恥ずべきことはせず、自制でき、それらを避ける。するとあなたはこうした人々の本性が邪悪だとは言えなくなる。肉には常に情熱と肉欲がある。ある人々は軽率に行動し、肉欲におぼれ、したいことならなんでもする。しかしある人々は全くそのようではない。彼らは真理を追い求め、行動するうえで真理に依り頼むことができ、肉を捨て去ることができる。たとえ肉の欲を持っていたとしても、彼らはそれを異なった方法で表す。それが人それぞれ互いに異なる点である。ある人々は金銭をむさぼり、彼らがお金や魅力的な物を見ると自分自身のためにそれが欲しくなり、それを手に入れる願望は並外れて強い。こうした人々の本性は、金銭への貪欲とむさぼりである。何かを見ると彼らは貪欲になり、二万ドル、三万ドルでさえ教会のお金を平気で使い、盗み、金額が高ければ高いほど、もっと大胆にそれを行おうとする。彼らは単に神を畏れていないのである。これは貪欲な本性である。ある人々は十ドルか二十ドルを使っても良心の呵責を感じる。彼らは祈るために神のみ前に急いで来てひざまずき、後悔の涙を流し神に赦しを請う。人々は皆弱さを持っており、あなたは金銭をむさぼるのはこの人物だと言うことができない。それは単に堕落した性質が現れているだけである。ある人々は他者を裁くのが好きだ。彼らはこのように言う。「あの人は三ドルか五ドル使って神のみ前に祈らなかった。次は二十ドルか三十ドル使うだろう。彼は貪欲だ。」このように語るのは正しくない。人々には堕落した性質があり、間違いなく普通の弱さを持っている。いくつかの弱さは人々の堕落した性質でもあるが、堕落した性質とその種の本性には違いがある。 あなたはそれらすべてをまとめて一緒にしたり、人々を独断的に裁いたりすることはできない。他者を裁くのは、人々にとって最も有害なことである。もし物事を見極めたり、はっきりと見たりすることができないなら、根拠のない主張はせず、人々を傷つけないようにすることである。真理を理解することなく物事を語り実行するのは原則がなく、他者やあなた自身にとって益にはならない。

あなたがたは神を信じているが、どのような目標に到達すべきかについて明確ではない。神が求められることと完全に一致して信じたり追い求めたりしている人など一人もいない。あなたがたの内には有り余るほどの問題が存在し、もしかしたらあなたがたは今それらについてはっきりとはわからず、自分の考えや本性の特長を深くまで掘り下げておらず、それらを分析しきれなかったかもしれない。いつか、あなたがたはこれらの言葉を理解し、そしてそのときに自分自身を理解できるだろう。

人々の本性には、多くの空しいことがらもある。人々は素敵な服を着たり携帯で話をしたりするとき、声のトーンが変わる。また、女性はハイヒールを履くと歩き方が変わる。人々の心に存在する何が、そしてどのような本性がこのような邪悪で醜いことをあらわにさせるのだろうか。それらこそがまさに人々が理解する必要のある人間の本性である。現代の人々は今でも、こうした人間の本性の事柄をコントロールするために自分たちの意志の力に頼っており、結果的に彼らは何も明らかにしない。しかし人々は経験を重ねつつ、真理の各側面に対する理解を深めつつ、また自分たちの本性を理解しながら、少しずつ神の求めに沿って霊的に成長し、そうした事柄が徐々に変化し始める。人々は霊的に成長し始めるとき、まず肉を捨て去ることを実践しなければならない。その後、真理を真に認め、理解したときに彼らは肉を捨て去るための特別な力を必要としなくなる。そのとき、人々は真理に従って意識的に歩むことができるようになる。彼らは行いにおいて原則と制約を持ち、その境界線の中にとどまる。人々が初めて神の言葉を体験するとき、そこには難しさがある。彼らは真理を理解していないがために、常にこれはどうしたらいいのか、あれはどうしたらいいのかと尋ねる。さらに人々の否定的な状態にいつも悩まされ、彼らはもはや取るべき道はないと感じる。否定的な状態については心配しないことである。いくつかの事柄は解決できるからだ。もし あなたが それらを明らかにできるのであれば、明らかにするとよい。明らかにできないものに関しては心配せず、ただ普通に真理を実践し、霊的に成長し、さらに真理を明らかにすることである。そうするならついにはいつの日か、真理があなたにとって明白なものとなり、多くの事柄をはっきりと見ることができ、その時に否定的な状態は自然になくなっていくだろう。そうなればあなたがたは、もともと陥っていた状況の中にはいないのではないだろうか。少なくとも以前よりその状態は減っている。もしあなたがたゆまず真理を追い求めることにのみ焦点を当てるなら、どのような問題も解決できる。自分自身の問題を解決できるということは、前進であり、成長である。人の経験がある点を越えると、その人の人生に対する見方、存在意義、また存在の基盤は全く変えられる。それはあなたが生まれ変わり、全く異なる人になることである。これは驚くべきことだ。それは大きな変容であり、すべてをくつがえすようなものである。名声、利益、地位、富、快楽、世の栄光が重要ではないと感じるようになり、あなたはそれらを苦も無く手放すことができるようになる。これは人間の似姿にある人だ。最終的に完全な者とされた人々は、このようなグループの一員となるだろう。彼らは真理のため、神のため、そして義のために生きる。これが人の似姿である。ある人々は尋ねるだろう。「人とは何か」と。現今の人々は、人々ではない。もし彼らが人々ではないとしたら、何か。あなたは彼らが動物、家畜、サタン、悪魔であると言える。要するに、彼らは人々の姿をしているだけで、通常の人間性を持っていないために人々と呼ばれるには値しない。人々は動物であっても、言葉や考え、思いがあり、テクノロジーを作ることができるため、高度な動物として区分しなければならないとあなたは言うだろう。未信者らは自分たちの先祖は類人猿であって、彼らは動物で、人ではないと言い、人々が悪魔やサタンであると言うのは適切である。なぜならそれが人々の本性であり、彼らが表し、表現するものだからである。したがって、人々は悪魔やサタンであると言う方がふさわしい。彼らは魚や鳥ではなく、人間の似姿でもない。長年の信者には長い年月にわたる経験があり、若干の深い理解もあり、程度の差はあってもいくらか神を理解することができ、多少、神が懸念することについて心配し、神が考えることについて考える人もいるだろう。彼らにはそうした意思がある。これはいくらか人の似姿であり、道半ばである。信仰をもったばかりの人は刑罰や裁きを経験しておらず、多くの懲らしめや取り扱いも経験していない。多くの真理も聞いておらず、神の言葉を読むだけで、それを真に経験していない。彼らはさらに遠く離れたところにいる。人々が得る経験の深さは、彼らがどれほど変わるかを決定する。あなたの経験が少なければ少ないほど、そしてあなたの真理への理解が少なければ少ないほど、あなたが内面に得る人間的な要素は少なくなる。もしあなたに何も経験がなければ、あなたは変えられずに生きているサタンであり、あなたは単に悪魔の一人である。あなたはこれを信じるだろうか。あなたはいつかこれらの言葉を理解するだろう。昨今、善良な人々がどこにいるというのか。人間の似姿なしで、あなたはどうして人と呼ばれることができるのだろうか。善良な人々などありえない。人々は外側に人間の殻を持っているだけで、人間の実体を持ってはいない。人々が人間の姿をまとった獣であると言うのは大げさではない。

神の働きを経験するなかであなたが人の似姿でありたいと願うならば、あなたはこうした言葉の啓示、刑罰、裁きを経験しなければならない。そうすればいずれあなたは一新されうるだろう。こうすることが必要であり、もし人々がこの方法で行わないならば、彼らは変わることができない。彼らはそれを少しずつ行わなければならず、裁きと刑罰、そして継続的な刈り取りと取り扱いを経験しなければならない。人々の本性に現れた事柄は、明らかにされなければならない。それらが明らかにされ、それらをはっきりと理解した後に、人々は正しい道を歩むことができる。ある一定期間の経験を経ていくつかの真理を理解した後でのみ、固く立っている確信を得る。あなたの現在の状態は不足している。浮かれて飛び跳ねている事実とは裏腹に、実はそれこそあなたがたにとって最も危険な時なのだ。すべての人々は危険の淵にいる。私はこれを何度も言ってきたが、多くの人々はこうした言葉の意味を理解しない。ある人々はこのように考えるだろう。「危険?どの危険のこと?私の現状はかなり良く、危険の中に陥るなどありえない。自分の道を踏み外したり、見失なったりすることなどほとんどない。神は私に恵み深いのだ」と。あなたがたは誰が恵みを受けないと言うのか。すべての人は恵みを受けるが、すべての人は危機にあり、また、危機にあって恵みを得るのは、あなた にとって特別な祝福の一つである。 人々は現在ほぼあるべき場所にいると感じているが、それを言う事実こそがまさにそれとは全くかけ離れたところにいるのを証明している。

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