日々の神の御言葉「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」抜粋503

2020年9月17日

人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、そうした人々が神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。多くの人は真理を実践せず、証しに立つことができない。そうした人には、神の愛、神についての証しが欠けているのだが、神はそうした人々を最も嫌われる。彼らは神の言葉を飲み食いするが、表に現れるのはサタンであって、神の言葉をサタンが汚すのを許しているのだ。そうした人々の内には、神の愛がかけらもない。彼らが表現するものは全てサタンから出ている。もし心がいつでも神の前で安らかであるなら、また、周囲の人々や物事、あるいは、自分の周りで起こっていることに常に注意を払っていて、神の負っているものについて心を留めているのなら、また、いつでも神を畏れ敬う心をもっているなら、神はあなたの心の中で教え導いてくれる。教会には「監督者」であるものがいて、他の人々の過ちに殊更注意を払い、それを真似て見せる。彼らは物事を識別できず、罪を憎まず、サタンに関わることを嫌いも不快に思いもしない。そうした人々はサタンの事がらに満たされており、ついには神から完全に見放されるだろう。ビジョンを基礎とし、進歩を求める人々は、神の前に畏敬の心をもち、言葉や行いが穏やかで、神に敵対したり、神を怒らせたり、あるいは、神の内なる働きを無にしたり、それまでに経てきた苦難や実践してきたことすべてを無にしたりすることを決して望まない。そうした人々には、進んでそれまで以上の努力を注ぎ、もっと神を愛そうという気持ちを持っている。

『言葉は肉において現れる』より引用

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