日々の神の御言葉「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」抜粋6

日々の神の御言葉「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」抜粋6

99 |2020年5月18日

人間が持つ信仰は真理の代替とはなり得ない

 一部の人々は、苦難に耐え、代償を払い、表面上の行動も極めて良好であり、尊敬されて皆から賞讃されている。あなた方はどう思うだろうか。こうした表面上の行動は、真理を実践しているとみなせるだろうか。この者は神の趣意を満たしていると言えるであろうか。人々が、こうした者に対して何度も、神を満足させている、真理を実践する道を歩んでいる、神の道を歩んでいると考えるのは、何故だろうか。このように考える者がいるのは、何故だろうか。これを解釈する方法は、ひとつしかない。それは、どのような解釈であろうか。それは、多くの人々にとって、真理の実践とは何か、神に満足してもらうとはどのようなことか、真理の現実を知るとはどのようなことか、といった疑問が不明瞭だ、ということである。そうしたわけで、表面上霊的で高貴で高尚な印象を与える者に、しばしば騙される者がいる。文字上の事柄や教義上の事柄について語ることが出来て、言動や行動が賞讃に値する者について、その者を賞讃する人々は、その者の行動の本質や背後にある原則、目的について検討しない。また、こうした人々はその者が真に神に服従しているか、真に神を畏れ、悪を避ける者であるかを検討しない。こうした人々は、その者の本質的な人間性を見抜くことが出来ない。むしろ、こうした人々は、その者に最初に知り合ってから、徐々にその者を賞讃し、崇敬し、最終的にその者は、人々の崇拝対象となる。さらに、一部の人々の考えでは、自分が崇拝する対象となる者、家族や職業を捨て、表面的に代償を支払うことが出来る崇拝対象が、真に神を満足させるものであり、好ましい結末と終着点を迎えることができる者であると信じている。こうした人々の心の中では、これらの崇拝対象が、神が賞讃する人々である。人々にこのように考えさせる原因は何であろうか。この問題の本質は何であろうか。この問題により、どのような結末が引き起こされるであろうか。まず、この問題の本質について話をする。

 人々の観点や行動、人々がどのような原則を選択して実践するかという問題、そして人々が通常強調する物事に関するこうした問題は、基本的に全て神の人類に対する要求とは無関係である。人間が重要視する物事が浅薄であるか深遠であるか、文字や原則であるか、現実であるかを問わず、人間は、最も遵守すべき物事を遵守せず、最も知るべき事柄を知らない。その理由は、人間が全く真理を好まないということである。したがって、人間は神の言葉による原則を探して実践するために時間や労力を費やすことを望まない。むしろ、人間は近道をし、理解していること、知っていることをまとめて、優良な慣行や行動とすることを望む。ゆえに、こうした概要が人間の目標となり、実践すべき真理となる。このことによる直接的な結末は、人間が真理を実践する代替として、人間の優良慣行を用いることであり、それは神の機嫌を取りたいという人間の欲望も満たす。これにより、人間は真理に対抗し、神に釈明し、対立するようになる。それと同時に、人々は無節操に神を忘れ、自分の心の中の崇拝対象を神の代わりとする。人間にこうした無知な行動や見方、あるいは一方的な見方と行動を取らせる原因は、ただひとつである。本日はそのことについて述べる。その理由は、人間は、神に付き従い、日々神に祈りを捧げ、神の言葉を読んでいても、実際には神の趣意を理解していないということである。このことが問題の原因である。神の心を理解し、神が好む物事や嫌悪する物事、神が求める事柄や拒む事柄、神が愛する人間と嫌う人間、神の人間に対する要求において神が適用する基準、神が人間を全きものとする際に採る方法を理解している者がいたとすれば、その者は、それでもなお自分の個人的な考えを持つ事が出来るであろうか。その者は別の人間を崇拝できるであろうか。普通の人間は、そうした者の偶像となり得るであろうか。ある者が神の趣意を理解している場合、その者の観点は、もう少し理にかなっている。そうした者は、堕落した人間を自分の判断で崇拝対象とすることは無く、また真理を実践する道を進んでゆく際に、僅かな簡単な規則や原則を任意で遵守することが真理を実践することであるとは考えない。

『言葉は肉において現れる』より引用

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