日々の神の御言葉「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」抜粋10

日々の神の御言葉「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」抜粋10

198 |2020年5月20日

神を畏れず、邪悪を避けないことは、神への反逆である。

 現在、あなた方は、神や神の言葉と面と向かっているような状態である。あなた方の神に関する認識は、ヨブの認識よりも遙かに多い。わたしがこのことを取り上げたのは何故だろうか。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなた方に、ある事実を説明したいと思うが、その前に質問することがある。ヨブは神に関する認識が少ししか無かったが、神を畏れ、悪を避けることができた。それでは、現在の人間にそれが出来ないのは何故であろうか。(酷く堕落しているからである。)酷く堕落している、というのは、表面的な回答であるが、わたしは決してそう思わない。あなた方は、「酷い堕落」「神への反逆」「神に対する不忠」「不従順」「真理と繋がっていない」など、一般に言われている原理や言葉を挙げて、全ての疑問を説明しようとする。そうした行動は誤っている。性質が異なる複数の質問の答えとして、同じ語句を用いるというのは、必然的に真理や神への冒涜の疑いが生まれる。わたしは、そうした回答を聞きたくはない。それを考えて欲しい。あなた方のうち、この問題を考えたことのある者はいないが、わたしは毎日欠かさずにその問題を見て、それを感じている。あなた方はそうした行動をとり、わたしはそれを見ている。あなた方がそうした行動を取っている時、この問題の本質を感じることは出来ない。しかし、わたしがその問題を見ると、わたしにはその本質が見え、それを感じることが出来る。その本質とは何であろうか。現在の人々が、神を畏れることも、悪を避けることも出来ないのは、何故だろうか。あなた方の回答では、この質問の本質を説明することが全く出来ず、この問題の本質を解決出来ない。なぜなら、この問題には、あなた方が知らない根源があるからである。その根源とは何であろうか。あなた方はそれについて話を聞きたいと思うであろうから、この問題の根源について話をする。

 神が最初に業を行った時、神は人間をどのように見なしたであろうか。神は人間を救済した。つまり、神は人間を神の家族の一員、神の業の対象、征服の対象、救いの対象、神が全きものとすべき対象と見なした。神が業を始めた当時、神の人間に対する姿勢は、このようなものであった。しかし、この当時において、人間の神に対する態度は、どのようなものであっただろうか。神は人間と疎遠であり、人間は神を見知らぬものとみなした。人間の神に対する姿勢は誤っており、人間は神への接し方を明確に知らなかったと言えるだろう。そこで、人間は神に対して、自分の好きなように接し、行動した。人間には、神に関する観点があったであろうか。当初、人間には神に関する観点が無かった。人間が観点と呼んでいたものは、単に神に関する概念であり、想像であった。人間が持っていた概念に該当するものを人間は認め、該当しないものについては、表面上は従ったが、人間は強く反発し、反感を抱いていた。これが当初における人間と神の関係であった。つまり、神は人間を家族とみなしていたが、人間は神を見知らぬ存在として扱った。しかし、一定期間にわたる神の業の後、人間は神が何を実現しようとしているかを理解するようになった。人間は、神が真の神であり、人間が神から与えられ得るものごとが分かるようになった。この当時において、人間は神をどのようにみなしていたであろうか。人間は、神を命綱とみなし、恵みと祝福、約束を得ることを願っていた。その一方、この時点において、神は人間をどのようにみなしていたであろうか。神は、人間を征服対象と見なしていた。神は言葉により人間を裁き、試し、試練を与えることを望んでいた。しかしこの時点において、人間にとって、神は自分自身の目標を達成するために利用できるものであった。人間は、神により示された真理は征服と救いをもたらす能力があること、そしてそこには神から求める物事、人間が求める終着点を得る機会があることを知った。そのため、人間の心には僅かな誠意が生まれ、神に付き従うことを望んだ。その後しばらくして、人間は神に関する表面的な教義上の認識を得た。人間は次第に神と「馴染んで」いった、と言えるであろう。神の言葉や説教、神が与えられた真理、業などのため、人間は徐々に神に「馴染んで」いった。したがって、人間は、神が見知らぬ存在ではなくなった、人間は既に神に従う道を歩んでいるものと誤解した。現在に至るまで、人間は真理に関する説教を数多く聞き、神の業を数多く体験してきた。しかし、様々な要素や状況による干渉や妨害を受け、大部分の者が真理を実践することも、神に満足してもらうことも出来ない。人間は益々怠惰で自信を喪失した状態になっている。人間は、益々自分の結末が不明であると感じるようになっている。人間は敢えて遠大な理念を持つことなく、進歩しようとしない。人間は不本意ながら流され、一歩ずつ前進する。現在の人間の状態について、神の人間に対する態度は、どのようなものであろうか。神の唯一の願望は、そうした真理を人間に与え、人間に神の道を浸透させ、様々な方法で人間を試すために様々な状況を用意することである。神の目標は、そうした言葉、真理、業により、人間が神を畏れ、悪を避けることが出来るような結末をもたらすことである。わたしの知る大部分の人々は、神の言葉を、教義であり、文書であり、従うべき規則であるとみなしている。人間が何かに取り組み、話をし、試練に直面する時、人間は、神の道を、人間が遵守すべき道として認識しない。人間が大きな試練に直面した時には尚更そうである。そのような時に神を畏れ、悪を避けようと実践している者を、わたしは見た事が無い。そのため、神の人間に対する姿勢は、激しい嫌悪と反感に満ちている。神が人間に対し、時には数百回にわたって繰り返し試練を与えても、神を畏れ、悪を避けることを望むという決意を示す明らかな姿勢が人間には見られない。人間にはこの決意が欠けており、またそうしたことを表現しないので、現在における神の人間に対する姿勢は、神が憐れみや寛容を示し、忍耐や我慢を示していた、以前の姿勢と同じではなくなってしまった。むしろ、神は人間に極めて深く落胆している。こうした落胆の原因となるのは、誰であろうか。神の人間に対するこのような姿勢を左右するのは、誰であろうか。それは、神に付き従うひとりひとりである。神の長年におよぶ業のなかで、神は人間に対して数多くの要求を伝え、人間のために様々な状況を計画した。しかし、人間がどのように行動するか、神に対する人間の姿勢がどのようなものかによらず、人間は、神を畏れ、悪を避けるという目標に明白に従って実行することが出来ない。したがって、そうした事柄をひとつの格言にまとめ、その格言を用いて、先ほど話をした、神を畏れ、悪を避けるという神の道を歩むことが出来ない理由に関して全て説明する。それは、どのような格言であろうか。その格言とは、神は人間を神の救いの対象とみなし、神の業の対象とみなす。人間は神を自分の敵とみなし、正反対のものとみなしている。あなた方は、これについて明確に理解したであろうか。人間の姿勢、神の姿勢、人間と神の関係といった事柄は、極めて明瞭である。如何に数多くの説教を聞いたとしても、あなた方が自分でまとめた事柄、すなわち神に忠誠であること、神に従うこと、神に従う道を求めること、人生を神と共に過ごすことを望むこと、神のために生きることなどは、わたしにとっては、意識的に神の道を歩むことつまり神を畏れ、悪を避けることでは無い。そうではなく、こうした事柄は、あなた方が特定の目的を達成するための道筋である。これらの目的を達成するため、あなた方は一部の規則に不本意ながら従う。さらに、神を畏れ、悪を避ける道から人間を遠く引き離し、神を再び人間に反対する立場に置くのは、まさにこうした規則である。

 本日話をしている問題は、多少重い内容であるが、どのようなものであったとしても、今後の経験において、わたしが述べた事柄をあなた方が実行できることを願っている。神を無視したり、空気のようなものとみなしたりしてはならず、自分に都合の良い時だけ神が存在するような気がするが、それ以外の時は神が存在しないような気がするようであってはならない。あなたが、無意識のうちにそのように認識している場合、あなたは既に神を激怒させている。おそらく「神を空気のようなものとみなしたことは無いし、常に神に祈りを捧げ、神に満足してもらっている。自分の行動もすべて神の要求されている範囲や基準、原則に該当する。自分は独自の考えで物事を進めてなどいない。」と言う者がいるかも知れない。物事に取り組む姿勢は確かに正しい。しかし、何らかの問題に直面した時、あなた方はどう思うであろうか。何らかの問題に直面した時、あなた方はどう実行するであろうか。神に祈りを捧げ、願い事をしているときだけ、神の存在を感じる者もいるであろう。しかし、問題に直面した時、そうした者は自分で考えた事に固執したがる。こうした行動は、神を空気のような存在とみなすものである。こうした状況において、神は存在しないとみなされている。人間は、神は、自分に神が必要な時だけ存在すべきであり、不要な時は存在すべきでないと考えている。人間は、自分の考えに従って行動すれば、それで十分であると考える。人間は自分が満足する方法で行動できると考えている。人間は、神の道を求める必要は無いと考えている。現在こうした状態、こうした状況にある者には、危険が差し迫っているのではなかろうか。一部の人々は、「危険が差し迫っているか如何によらず、自分は長年にわたり信仰を続けて来たし、神は私を見捨てることに耐えられないので、私を見捨てられないだろうと思う。」と言う。「私は、自分が母親の胎内にいた時から現在まで、通算40年から50年の間、主を信じている。時間に関して言えば、神に救われる者として最も適格である。生き残る者として、自分は最も適格である。この40~50年間のうちに、自分は家族も職務も捨てた。金銭や地位、楽しみや家族で過ごす時間など、持っていた物すべてを捨てた。あれこれと贅沢な食事をしたこともなく、楽しみに興じたこともない。あちこち名所観光をしたわけでもない。普通の人間が耐えきれないような苦悩も経験してきた。それでも神が私を救えないとしたら、私は不当に扱われていることになり、そうした神は信じられない」と言う者もいる。こうした考え方の者は多いであろうか。(多い。)それでは、本日、あなた方が事実を理解できるよう支援しよう。こうした考え方の者は、全員墓穴を掘っている。なぜなら、自分の想像で自分の目を覆っているからである。神が人間に対して要求する基準を置き換え、神の真の趣意を受け入れるのを阻害し、神の真の存在を感じられないようにし、神により全きものとされる機会を喪失させ、神の約束に関与しないようにさせているのはまさに自分の想像であり、自分の結論である。

『言葉は肉において現れる』より引用

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