日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 62
2020年6月4日
ここでは、神が人間を創った時点以降における神の旨と考え、そして行動についてまとめ、天地創造から恵みの時代の開始時点までに神が行った行為について検討する。その後、神の考えのうち、人間に知られていないものがどれかを知ることが出来るようになり、そうした未知の考えから、神の経営計画の秩序を明確化して神が経営の業を作った背景やその起源と展開過程を完全に理解し、そして神の経営の業により神が望んでいる結果、すなわち神の経営の業の核心と目的について完全に理解することが可能となる。これらの事柄を理解するためには、人間が存在しなかった、遠い過去の静寂の時代まで遡る必要がある。
神が目覚めた時、神が最初に考えたことは、常に神とともに生きる人、すなわち命ある人間を創ることであった。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話すことのできる者であった。次に、神はまずひと握りの土を取り上げ、神が考えていた最初の人間を創り、その人間をアダムと名付けた。命を持ち、息をする人間を創った後、神は何を感じたであろうか。神は、ともに過ごす愛すべき人間が居ることの喜びを、初めて感じたのである。また神は、父としての責任と、それに伴う憂いを初めて感じた。この生ける人間という存在は、神に幸福と喜びを与えたので、神は初めて慰めを感じた。これが、神が自身の考えや言葉だけでなく、自身のふたつの手によって実現した最初の業であった。こうした命を持ち、息をして、肉と血で創られた身体を持ち、神と話ができる人間の存在が神の前に現れた時、神は嘗てない喜びを感じた。神は責任を真剣に感じ、人間という生き物に心惹かれるだけでなく、人間の行動すべてが神を感動させ、神の心を和ませた。こうして、この人間という生き物が神の前に現れたときに初めて、神は、更なる人間を得たいという考えを持った。こうした一連の出来事は、こうした神の当初の考えから始まったことである。神にとって、こうした出来事は初めてのことであったが、その当初の出来事においては、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、憂いであれ、神が感じたことを分かち合う相手が、神には存在しなかったのである。この時以降、神は、それまで感じることのなかった、真の寂しさと悲しさを感じた。神は、人間が神の愛と憂いや、神の人間に対する意志を受け容れることも理解することも出来ないと感じたので、神は引き続き悲しみと心の痛みを感じていた。神は人間に対してこのようなことを行ったにもかかわらず、人間はそれに気付くことがなく、理解することもなかった。人間が神に与えた喜びと慰めは、幸福のほか、ほどなくして悲しみと寂しさも神に与えたのであった。以上が、この時点で神が考え、感じていたことである。そうした事を行っている間、神の心には憂いが入り交じり、それは喜びから悲しみへ、そして悲しみから痛みへと変化していった。神が望んだのは、人間に神の心にある事柄を早急に知らせて、神の旨を理解させることのみであった。そうすれば、人間が神に従うようになり、神と調和するようになる。人間は神の言葉を聞いてなお黙していることがなくなり、神の業をどのように支援するかを知らずにいることはなくなり、そしてなによりも、人間が神の要望に無関心でいることはなくなるであろう。こうした神が最初に完了した事柄は、極めて有意義であり、神の経営計画と現在の人間にとって大いに有意義であった。
神は万物と人間を創った後、休むことはなかった。神は自身の経営を実施するのを待ちきれず、また自身が愛する人間を得るのも待ちきれなかった。
その後聖書には、神が人間を創ってすぐに、全世界に大規模な洪水があった、と述べられている。この洪水の記録ではノアについて述べられているが、ノアは、神の働きを完了させるべく神とともに働くようにという神の命令を聞き入れた最初の人間であると言える。無論、神が地上に居る人間に対して、神の命令に従って何らかの行動をするよう召し出したのも、この時が最初であった。ノアが箱舟を完成させると、神は地球に最初の洪水を起こした。神が洪水により大地を破壊した時は、人間を創ってから、初めて神が人間に対する嫌悪感に圧倒された時であった。こうした事態により、神は洪水により人間を破壊するという悲痛な決断を余儀なくされた。地球が洪水により破壊された後、神は、こうした洪水による破壊を二度と行わないという、初めての契約を行った。この契約のしるしは、虹であった。これが神と人間との最初の契約であり、したがって虹は、神による契約の最初のしるしであった。この虹は実体のある、物理的な存在であった。この虹こそが、洪水で失った従前の人間に対する神の悲しみを喚起させ、失われた人間が見舞われた出来事を、神に恒常的に回顧させる存在なのである。神は歩を緩めることなく、神の経営を次の段階へと進めずにはいられなかった。次に、イスラエル全土における神の業において、神はアブラハムを最初に選んだ。これは、神がアブラハムのような者を選んだ最初の時でもあった。神はアブラハムにより人間を救う業を始め、その後もアブラハムの子孫により業を継続することを決意した。こうしたアブラハムに対する神の行動は、聖書で確認することができる。その後、神はイスラエルを最初の地として選び、選民であるイスラエルの人々を通して律法時代の業を開始した。この時も、神は初めて、イスラエルの人々に対して人間が従うべき明示的な規律を定め、その規律を詳しく説明した。神が人間に対して、犠牲の捧げ方や生活のしかた、すべきことと、すべきではないこと、従うべき祝祭等の期日、あらゆる行動の原則とすべき事柄について、こうした具体的な基準となる規律を定めたのは、これが初めてであった。神が人間に対して、生活に関する詳細かつ標準的な規制と原則を授けたのは、これが初めてであった。
ここで「初めて」というのは、神はそれ以前に同様の業を行ったことがなかった、という意味である。そうした事柄はそれまで存在せず、神は人間を創り、あらゆる生き物を創ったにもかかわらず、こうした業を完遂することは、嘗てなかった。こうした神の業には、全て神の人間に対する経営が関与している。こうした業は、全て人間と、神による人間の救いと人間の経営に関連するものであった。アブラハムの後、神は再び初めての選択を行った。すなわち、神は、律法にもとづきサタンの誘惑に耐え、引き続き神を畏れ、悪を避け、神を証することのできる人間として、ヨブを選んだ。また、神がサタンに対し、ある人間を誘惑するのを許し、神がサタンと賭けをしたのも、この時が最初であった。神は最終的に、サタンと対峙してなお神を証し続けることのできる人間、神を証してサタンを完全に辱めることのできる人間を初めて得ることになった。神が人間を創って以来、ヨブは、神を証することのできる人間として、神が獲得した最初の人間であった。神がヨブを獲得した後、神は経営に一層熱心になり、神の業の次の段階へと進み、次の選択と業を行う場所の準備をした。
ここまで述べてきた話で、あなたがたは神の旨を真に理解したであろうか。神は、人間を経営し救うことが、何よりも重要であると考える。神はこうした業を、自身の考えのみで行うのでもなく、また言葉のみ行うのでもなく、とりわけ何気なく行うのではない。神は、こうした業のすべてを計画に基づき、目的をもって、基準を定め、神の旨にしたがって行う。こうした人間を救う業は、神と人間の両方にとって極めて重要であることは明白である。業がいかに困難であったとしても、障害がいかに大きかったとしても、人間がいかに弱かったとしても、あるいは人間の反逆心が強かったとしても、神にとっては、そのいずれも困難とはならない。神は絶え間なく努力を続け、神が行う意向である業を経営する。また、神はすべてを計画し、すべての人間と、神が完了させたいと望むすべての業を経営しているが、そうした業はそのいずれも嘗て行われたことがない。神がそうした方法によって、人間を経営し救う大規模な計画に対して甚大な犠牲を払ったのは初めてである。神がこうした業を行っているうちに、神は、神の甚大な努力、神の中にある物事、神の存在、神の英知と全能たる存在、そして神の様々な性質について、人間に対し、少しずつ、かつ率直に示す。神は、従前行われたことがなかった啓示を、そうした事柄のすべてについて、少しずつ、かつ率直に行う。したがって、全宇宙において、神が経営し、救おうとする人間を除いては、神にそれほど近づき、緊密な関係を持つ生命体は存在しない。神の心において、神が経営し、救うことを望む人間が最も重要であり、したがって神はこうした人間を最も重要視する。たとえ神がこうした人間のために甚大な犠牲を払ったとしても、またこうした人間により神がひたすら傷つけられ、背かれたとしても、神はこうした人間を見捨てることは決してなく、不平不満を言うことも後悔することもなく、神の業をひたすら続行する。これは、遅かれ早かれ人間は神の呼び声で目覚め、神の言葉により動かされ、神が創造主であることを認め、神のもとへ戻ることを、神が知っているからである。
今日ここまでの話を聞いて、あなたがたは、神の業は、すべて極めて普通であると感じるかもしれない。人間は、言葉と業により、神の旨の一部を常に感じ取っていると考えられるが、人々の感情や認識と、神の旨との間には、常に一定の差がある。そのため、わたしは、神が人間を創った理由や、神が希望を持つあらゆる人々を獲得したいという神の望みの背景にある事柄を、全ての人々に周知する必要があると考えている。全ての人々が心の中で明瞭になるよう、こうした事柄を全ての人々に話すことは、不可欠である。神のひとつひとつの考えや発想、そして神の業のあらゆる段階や期間は、神の全体的な経営の業と密接に関連しているため、神の業の各段階における神の考えや発想、そして旨を理解することは、神の経営計画の根源を理解することに等しい。神に関する知識の深化は、こうした基礎に立脚する。前述した、神が世界を創った時に神が行った全ての事柄については、現代の人々にとっては情報のひとつに過ぎず、また真理の追究に無関係であるかのように考えられる。しかし、経験を積んでゆく過程で、そうした事柄が単なる情報のように単純なものでも、ある種の謎のように単純なものでもないということに気付く時が来るであろう。今後の人生のなかで、心の中に少しでも神が存在できる場所がある時、あるいは神の旨を一層深く、完全に理解した時、本日わたしが話した内容の重要性と必要性を真に理解するであろう。あなたがたが本日の話をどの程度認めるかに関係なく、こうした事柄を理解し、知ることは、必要なことである。神が行動を起こし、何かしらの業を行う時、その業が神の考えによるものか、神みずからの手によるものかを問わず、また神がその業を行うのが最初であるか最後であるかを問わず、究極的には、神には計画があり、神の業には、すべて神の目的と考えが存在する。こうした神の目的と考えにより、神の性質が示され、また神の中にある物事や神の存在が表現される。神の性質、そして神の中にある物事や神の存在という、二つの事は、あらゆる者が理解しなければならないことである。ある者が神の性質、そして神の中にある物事や神の存在を理解した場合、その者は、神が行なった業がなぜそのような業であり、語った言葉がなぜそのような言葉だったかを徐々に理解できるようになる。そうした理解の後、神に従い、真理を求め、性質の変化を求めることに、一層強い信念を抱くことができるようになる。つまり、神に関する人間の理解と、神への信仰は不可分である、ということである。
『言葉は肉において現れる』より引用
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。
その他動画シリーズ