日々の神の御言葉「神の働きと人の働き」抜粋172

日々の神の御言葉「神の働きと人の働き」抜粋172

53 |2020年7月2日

聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は聖霊であり、聖霊あるいは7倍に強化された聖霊と呼ぶことができる。とにかく、それらは神の霊であり、時代によって神の霊の呼び方が異なっているだけのことなのだ。しかしそれでも本質は一つである。したがって、神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。聖霊の働きはさまざまで、いかなる条件にも制限されることはない。その働きは人によって変化し、伝える働きの本質も異なる。時代が異なれば働きも異なり、国によっても異なる。もちろん、聖霊は多くの異なった方法で、多くの原則に従って働くにもかかわらず、どのように働きが行われようと、どのような人々に作用しようと、本質はつねに異なり、異なる人々に行う働きすべてには原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きがはっきり限定されており、非常に計画的だからである。人間の姿をした神の肉でなされる働きは人々を対象とする働きと同じではなく、その働きは人々の力量の違いによっても変化する。人間の姿をした肉でなされる働きは人々に対しては行われず、人間の姿をした肉では、人々に対する働きと同じ働きは行わない。一言で言えば、聖霊がどのように働こうとも、対象が異なれば働きは決して同じではなく、働きに用いる原則はさまざまな人々の状態や本性に応じて異なってくる。聖霊は、人々に本来備わっている本質に基づいてさまざまな人々に働きかけ、本来備わっている本質を越えた要求はしないし、実際の力量を越えた働きかけもしない。そこで、聖霊の人に対する働きによって人々はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人の実際の力量は限られている。聖霊が人々を用いようと、人々に対して働こうと、人々が働きから恩恵を受けられるように、その働きはつねに人々の力量の限界に応じている。用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。聖霊の無数の働きはすべて、人に利益を与え、啓発することを目指している。しかし、完成される人もいれば、完成のための条件を持っていない人もいる。つまり、後者は完成されることはなく、ほぼ救いがたい人々で、聖霊の働きを持っていたかもしれないが、結局は取り除かれる。すなわち、聖霊の働きは人々を啓発することだが、それは、聖霊の働きを持った人すべてが完全に完成されることを意味するのではない。なぜなら、多くの人が追求する道は完成への道ではないからである。彼らは聖霊からの一方的で相互性のない働きを持っているだけで、主観的な人間の協力、あるいは正しい人間の追求はないからである。このようにして、これらの人々への聖霊の働きは完成される人々のための働きになる。人々は聖霊の働きを直接見ることはできないし、自分で直接触れることもできない。働く賜物を持った人々の助けを通して表現されるだけである。つまり、聖霊の働きはそうした人々が表現することによって信奉者に与えられる。

『言葉は肉において現れる』より引用

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