日々の神の御言葉「神の働きと人の働き」抜粋174

0 |2020年7月28日

人の働きはその人の経験と人間性を表す。人が提供するものと、人が行う働きがその人を表す。人の見識、人の推論、人の論理と豊かな想像力はすべてその人の働きの中に含まれている。特に、人の経験はいっそうその人の働きを表すことができ、人が経験してきたことはその働きの構成要素になるだろう。人の働きはその人の経験を表すことができる。人々が受動的状態で経験していると、彼らの交わりのほとんどは消極的要素で構成される。彼らの経験が積極的で、彼らがとりわけ積極的側の道を持っていれば、彼らが分かち合うものは非常な励みになり、人々は彼らから積極的な供給を得られるだろう。働き手がこの時消極的になれば、彼の分かち合うものはいつも消極的要素を含んでいることになるだろう。この種の交わりは重苦しいもので、他の人たちは彼と交わった後は、無意識のうちに気が滅入ってしまう。信奉者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が本来どのような人物かはその人の表現するものでわかり、聖霊の働きは人の状態によってしばしば変化する。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、その人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合うものは神の言葉とは違う。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを信奉者に伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す——この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは心が到達できないもの、すなわち、自分の心の中に持っていないものを分かち合うことはできない。人が表すものが自分の経験でなければ、それは想像、あるいは教義である。一言でいうと、その言葉には現実性がない。社会の状況と接触がなかったら、あなたは社会の複雑な関係を明確に話すことはできないだろう。家族がないのに、他の人々が家族問題について話していたら、あなたは彼らが話していたことの大半を理解できないだろう。そこで、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表す。だれかが罰や裁きの理解に関して話しているのにあなたにその経験がないならば、あなたは彼の認識をあえて否定しないし、ましてや100%それについての確信などない。それは、彼が交わるものはあなたが一度も経験したことのないもの、あなたが知らなかったもので、あなたの心では想像できないものだからである。あなたは彼の認識から罰や裁きに関連する将来の道筋が理解できるだけである。しかし、この道は教義に基づく理解として役に立つだけで、あなた自身の理解に取って代わることはできないし、ましてや経験と取って代わることはできない。おそらくあなたは彼の言うことはまったく正しいと思うだろうが、自分で経験すれば、多くの事柄においてそれが実行不可能であるとわかる。おそらくあなたは耳にする認識の一部は完全に実行不可能だと感じるだろう。あなたはその時点でそれについての見解を心に抱き、受け入れはするが、進んで受け入れるわけではない。しかし自分が経験すると、あなたに見解を与える認識はあなたが実行する方法になる。そして実行すればするほど、彼の言葉の本当の価値と意味を理解する。経験をした後、あなたは経験したことについて持ったはずの認識について話すことができる。さらに、本当で実際的な認識を持つ人々と、教義に基づき、価値がない認識を持つ人々を区別できるようにもなる。そこで、あなたが話している認識が真理と一致するかどうかは主にあなたが実際的経験を持っているかどうかによる。あなたの経験の中に真理がある場合、あなたの認識は実際的で価値がある。経験を通してあなたは優れた識別力や洞察力をも得て、認識を深め、行動する時知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人々が話す認識はどんなに高度でも教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば多分非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人々は霊的問題にまったく経験がないからである。これらの人々は霊的問題では啓発されておらず、人の魂を理解していない。認識のどのような側面を話題にしているのかにかかわらず、それがあなたの存在そのものからくるものである限り、あなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人々、つまり、真理または現実を所有していない人々が話すことも彼らの存在そのものからくるものということができる。なぜなら彼らの教義は深い熟考からようやくたどりついたもので、深く思考している彼らの精神の結果であるからだが、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。

『言葉は肉において現れる』より引用

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