日々の神の御言葉「神の働きと人の働き」抜粋179

2020年7月30日

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。6000年に及ぶ神の働きで、あなたは何か規範を見つけ出すことができるだろうか。人が行う働きの中にはたくさんの規則や制限があり、人間の脳は独善的すぎる。そこで、人が表すことは自分の経験すべてのなかの多少の知識と認識であり、これから離れては何も表すことができない。人の経験、あるいは認識は生まれながらの才能、または本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる器官を持っているだけで、神性が何であるかを直接表す器官は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき器官である。神の言葉を受ける器官を失い、人間の本能を失った人物はもっとも大切なものも失い、神に造られた人としての本分を失う。神の言葉、または神の働きについての認識、または経験を持たない人物は、その本分、つまり、神に造られた存在として行うべき本分を失い、神に造られた存在としての尊厳を失う。肉の形で表されようと、聖霊によって直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職務である。人は自分自身の経験、あるいは認識を神の働きの間に、またはその後に表す(すなわち、人は自分の人格を表現する)。これは人の本能と本分であり、人が達成すべきことである。人の表現は神が表すものに遠く及ばないし、人の表すものにはたくさんの規則があるが、果たすべき本分は果たさなければならないし、しなければならないことはしなければならない。自己の本分を果たすために人間的に可能なすべてを人はしなければならず、ほんの少しでも留保があってはならない。

『言葉は肉において現れる』より引用

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