日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(3)」抜粋202

日々の神の御言葉「征服の働きの内幕(3)」抜粋202

0 |2020年8月15日

征服の働きで達成される成果は、主に人間の肉が反抗をやめることである。つまり、人間の知性が神について新たに理解できるようになり、人の心が完全に神に従うようになり、人が神のために存在することを決心することである。人の性格やその肉体がどのように変わるかによって、その人が征服されたか否かが決まるのではない。むしろ、考え、意識、理知が変化するとき、つまり、精神的態度全体が変わるとき、神に征服されたのである。従うことを決意し、新たな心的態度を自分のものとし、もはや神の言葉や働きに自分なりの観念や意図を持ち込まず、頭脳は普通に考えられ、つまり、神のために心から努力できるなら、このような人は完全に征服された人である。宗教の領域では、多くの人々は肉体を抑制したり、十字架を負ったりして生涯にわたって大いに苦しみ、最期の息を引き取るまで苦しみ忍耐することさえする。中には死ぬその朝まで断食を続けている者もいる。このような人々はよい食物やよい衣服を生涯自らに否定し、苦しみだけを重視する。彼らは肉体を抑制し、自らの肉を捨てられる。彼らの苦しみに耐える精神は賞賛に値する。しかし、彼らの考え方、観念、精神的態度、そしてまさに古い本性は、まったく取り扱いを受けていない。彼らは自らを真に理解していない。彼らが心に抱いている神の姿は、伝統的な抽象的で漠然としたものである。彼らの神のために苦しもうという決意は、熱意と積極的な性格から来ている。彼らは神を信じてはいるが、神を理解していないし、神の心を知りもしない。彼らは神のためにただ盲目的に働き、盲目的に苦しんでいる。彼らは識別することを一切重視しないし、自分たちの奉仕が実際に神の心を満たすようにするにはどうするかということもほとんど考慮していない。また、神を理解するためにはどうするかということもほとんど知らない。彼らの仕える神は本来の姿のものではなく、自分たちが作り上げた神、彼らが人から聞いた神、あるいは、書物にある伝説的な神である。そして、彼らは生き生きとした想像力と信仰心から神のために苦しみ、神が望む働きに取り組む。彼らの奉仕はあまりに不正確で、実際にはほんとうに神の心を満たすような奉仕をしている人は誰もいない。どんなに苦しむことを厭わないとしても、彼らの元来からの奉仕についての考え方と彼らの想像する神の姿は変わっていない。彼らは神の裁きと刑罰、精錬と完成を経験していないからであり、誰も彼らを真理で導いていないからである。たとえ救い主イエスを信じていても、彼らの誰一人として救い主を見たことがない。彼らはただ伝説と噂で神を知っているだけなのである。だから、彼らの奉仕は目の見えない人が父親に仕えているように、目を閉じて行き当たりばったりに仕えているにすぎない。このような奉仕で最終的に何を達成できるであろうか。そして、誰がそれを認めるのであろうか。最初から終わりまで、彼らの奉仕はまったく変わらない。彼らは人間の作り出した教えを受け、自分たちの性質と好みとに基づいた奉仕をする。それでどんな褒美を受けられるのであろうか。イエスを見たペテロでさえ神の心にかなう奉仕の仕方を知らなかった。彼が理解したのは最後、老年になってのことである。このことから、取り扱いも刈り込みも経験したことがなく、導いてくれる人がいたことがない、目の見えない人々について何が言えるであろうか。現在のあなたたちの奉仕はそうした目の見えない人たちのもののようではないのか。裁きを受けていない人々、刈り込みと取り扱いを受けず変わらずにいる人々──こうした人々はまったく征服されていないのではないか。そうした人々が何の役に立つだろうか。考え方、人生の理解、神についての理解が何の変化もなく、少しも実際に得たものがないのなら、けっして奉仕によって顕著な成果を得られない。ビジョンなしで、神の働きについての新しい理解なしでは、征服された者にはなれない。そうであるなら、あなたの神に従う方法は、あの苦しみ断食する人たちと同じである。──それは少しも役に立たない。彼らのすることには証しがないからこそ、その奉仕が無駄だとわたしは言うのである。彼らは生涯をとおして苦しみ、監獄で過ごし、あらゆる瞬間に耐え、愛と優しさを重視し、十字架を負う。彼らは世の中からけなされ、拒まれ、あらゆる苦難を経験してきた。彼らは最後まで従うが、それでも征服されておらず、征服されたことについて何の証しもできない。彼らは少なからぬ苦しみを経ているが、心の中ではまったく神を知らずにいる。彼らの古い考え方、古い観念、宗教的実践、人間がつくった理解、人間の考えは取り扱いを受けていない。そこには新しい理解がまるでない。彼らの神についての理解は、少しも真実でも正確でもない。彼らは神の心を誤解している。それが神に仕えるということでありえるであろうか。あなたが過去にどのように神を理解していたとしても、あなたは今日も同じ理解をもち続けており、神が何をしようと、自分なりの観念や考えに基づいた神に関する理解をもち続けているとしよう。つまり、神について新しい本物の理解を何ももっておらず、神の真の姿や性質を知ることができないでいるとしよう。あなたの神についての理解がまだ封建的な迷信的な考え方に基づいていて、人間の想像や観念に導かれているとしよう。もしそうなら、あなたはまだ征服されていないのである。わたしがこうしたことを今述べているのは、あなたに理解させ、この認識によって正しく新たな理解へと導くためである。また、あなたのもっている古い考えや古い認識を捨てて、新たな理解をもてるようにするためでもある。もしほんとうにわたしの言葉を飲み食いするなら、理解は大きく変わるであろう。神の言葉を飲み食いするときに従順な心を持ち続けるなら、考え方は変わるであろう。繰り返し刑罰を受け入れられる限り、古い考え方は徐々に変化するであろう。古い考え方が新たなものに置き換えられるなら、実践もまたそれに伴って変わっていくであろう。このようにして、奉仕はますます適切なもの、ますます神の心にかなうものになっていくであろう。もし自分の生活、人生の理解、神についての多くの観念を変えられるなら、持って生まれた性質は徐々に減じるであろう。これが、そしてこれこそが、神が人間を征服した結果なのである。これが人間に見られる変化である。神を信じていながら、あなたの知っていることが、自分の体を抑制し、耐え、苦しむことだけで、自分のしていることが良いのか悪いのか、まして、それが誰のためなのかはっきりわかっていないのなら、どうしてそのような実践が変化につながるであろうか。

『言葉は肉において現れる』より引用

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