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キリストの裁きを経験する証し

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48.真の変化とは何を意味するのでしょうか?

河南省南陽市 進入

ブラザーやシスターが私の落ち度を指摘した時や私の意見に耳を貸さなかった時、私は納得できないと感じたり、彼らと言い争ったりしました。後になって自分の行動を後悔しましたが、このようなことに直面すると、私は自分の邪悪な性格を露呈してしまいます。これで随分悩み、こう考えました。なぜ他人の言葉で私は恥ずかしい思いをして怒るのだろうと。8年間神様に従っているのに、私はなぜ全く変わらないのだろうと。心配になって何度も神様に答えを求めました。

ある日、お祈りの最中に、男性信者の通過儀式を見ました。「皆、自分の傲慢さとうぬぼれ、ねじ曲がった心、ずる賢さを毛嫌いしています。ほとんどの人々はある程度は変わります。ある種の人々は傲慢でうぬぼれており、理性に欠け、性格がねじ曲がっていてずる賢いのですが、こうした人々はほとんど変わりません。なので、彼らの表現や行動にもほとんど変化がありません。傲慢さ、うぬぼれ、ねじ曲がった心、ずる賢さは、単純で変化しないのでわかります。これは経験に関係があります。最初から最後まで、彼らは自分の性格を変える気はありません。どのように他人がいのちに入るのかを観察しているだけです。その結果、彼らは後に取り残されます。彼らは他人の傲慢さとうぬぼれしかわからないので、他人だけが神様によって審判にかけられ懲らしめられるべきだと信じています。彼らは自分達は神様に抵抗していないと考えているので、神様の審判と懲らしめは他人事にすぎません。このように神様の言葉を理解するということは一風変わったことであり、彼らが変化しないのも不思議ではありません(「キリストの言葉の記録」で、「性格の変化を求めるには、聖霊のいのちに注目することが必要」)。この時点で私は目覚めました。私はなぜ何年も神様に従ったのに自分が変わらなかったのか、その理由に気づきました。神様を信じていましたが、自分の性格を変えようとしなかったからです。自分がいのちに入ることではなく、他者がどのようにいのちに入ったのかに注目していただけだったからです。この時、自分がせかせか歩き回って急いで「働き」を行わざるを得ない光景が目に浮かんできました。神様の言葉を飲み食いしても、その言葉を使って私は一度も自分の状況を考慮しませんでした。私はいつも神様の言葉に照らし合わせつつ、他人に教えを行って他人を判断していました。私が真実を伝えた会議では、他人の問題と難題を解決するだけで、私が何を実践すべきなのかについて考えたことは一度もありませんでした。私は人間の堕落した実態について、神様の啓示の言葉を伝えたのですが、私は他のブラザーやシスターを例に挙げ他人を使って警告を行い、私自身は判断の対象から逃げていたのです。私は神様の言葉を使って自分自身の状況を理解し、自分の実践すべきことを見出したことがほとんどありませんでした。…なので、何年経っても、私自身のいのちの入りはほぼ空白のままだったのです。それでも、まだ私は自分が思いやりがある人間で、自分のブラザーやシスターのいのちの重荷を背負っていると思っていました。特に昨年から現在にかけて、私が若いシスターとパートナーを組んで一緒に義務を果たせるよう教会が手配してくれたので、私は引き続き私の「重荷」を背負い、彼女がいのちに入るのに気を配りました。このシスターが傲慢で意固地であることが明らかになった時、私は神様の言葉を使い、彼女と意思疎通を図りましたが、心の中でこう思っていました。あなたはただ傲慢すぎるだけよ、と。このシスターは自分の将来と運命を詳細に練り上げていて、マイナス思考から自分自身を解放できなかったので、私は神様の適切な言葉を見つけ彼女と一緒に飲み食いをして、神様の望みは私達を救うことであると伝えました。でも、私は心の中では彼女を軽蔑していました。ほとんど時間が残っていませんが、あなたはまだそんなに熱心に祝福を求めているのですか。このシスターが心を開き、どんな風にしばしば人々を疑うのかを私に言った時、私は正直な人間における真実を話しましたが、心の中では彼女にむかついていました。あなたは厄介者なのよ、と。このシスターが苦境にあってもその理由を言えなかった時、私は彼女に自分自身を吟味して、性格を分析するようにと言いました。しかし、私自身については、露呈した私の内面に対して、神様の言葉を使って自分を理解して分析することまで気が回りませんでした。…私は堕落しすぎているのは他人だけで、神様が審判を行って懲らしめるべきなのも他人だけだと思っていて、自分には神様の言葉を適用していなかったのではないでしょうか。他人がいのちに入ることだけに気をつけて、自分を置いてきぼりにしていたのではないでしょうか。その瞬間やっと私は路上の一文無しの乞食と同じくらい自分が貧しく哀れな存在だと気づき、私の心は後悔の念でいっぱいになりました。

神様の導きのもと、私は神様の言葉がこう言っているのに気づきました。「人々はこのようなことを言う。将来への展望は脇において、より現実的になれ。人々が祝福されることを考えないようになることをあなたは求めるが、あなた自身についてはどうなのか。あなたは祝福されるという人々の考えを否定しつつ自分は祝福を求めるのか。あなたは他人が祝福を受けることを許さず、しかし自分では祝福を受けることを密かに考えている。それであなたはどうなるのか。詐欺師である。あなたがこのように行動するとき、あなたの良心は非難されないのか。心の中であなたは恩義を感じないのか。あなたは詐欺師ではないのか。あなたは他人の心の言葉を詮索するが、あなた自身の心にある言葉については何も言わない。あなたは何と価値のないゴミであることか。」(『言葉は肉において現れる』の「四十二番目の言葉の解釈」より)神様の言葉が剣のように鋭く私の心を突き刺し、私は心底恥ずかしくなりました。私は自分がしてきたことを全て考えました。神様が私の本性を明らかにすると、私は詐欺師なのではないでしょうか。うわべでは私は義務を果たしているように見えますが、実際には私は自分の熱意を神様から神様の信頼を奪い取るために使っていました。うわべでは、私は自分のブラザーやシスターを助けていましたが、実際には彼らの心に自分を印象づけたくて、言葉や教義を使って彼らの尊敬や大望を奪い取っていました。他人に地位を求めるな、傲慢になるなと言いながら、私はよく他人を見下し、自分のブラザーやシスターの落ち度を正しく認めることができず、他人に服従することさえ拒否していました。自分の未来や運命に支配されるなと言って、他人に祝福を受ける意図をあきらめさせておきながら、自分は将来の計画を立て、自分の未来を本当に案じてさえいました。私は他人のずる賢さと懐疑心にいらいらしていた一方で、よく他人の言葉を気にして、他人は自分のことをどう思っているのだろうと心配していました。他人には、自分自身の性格を分析して心の奥底の思考を把握し自分自身を理解せよと言っておきながら、自分については、自分の悪意を隠して、自分の言葉と行動が神様に監督されないようにしていました。…私は何年間も真実を語っておきながら、私は教義に生きていました。人間性を語りながら、悪の道を生きていました。なので、今日では私は言葉で言い表せないほど傲慢になっていて、誰にも服従せず、人間性と理性をすべて失っています。まさに神様がおっしゃる通りです。「理解する教義の数が増えれば増えるほど、性格が傲慢になる」(『キリストの言葉の記録)の「神様のために人間に課された要件が多すぎる」)私は教義を自分の資産だとみなしましたが、自分を理解すること、教えを実践して神様に従うこと、真実を得ることには注意を払いませんでした。これでどのように私の人生の傾向を変えることができたでしょうか。神様の実践的な働きと言葉から、私達は自分に必要な真実を賜ります。神様は私達が光と啓蒙をもたらすという義務を果たすことで、真実を理解することを望んでいられます。この光と啓蒙は日常経験と教えの実践に取り込まれ、ブラザーとシスターにも、もたらされます。しかし、私は教義で自分を理論武装することに専念して、教義の話をすることを自分の義務だとみなしていました。他人に聖なる聖霊の啓蒙を無私無欲で教えて、他人に真実を実践させていましたが、自分では教えを実践していませんでした。その結果、私は自分を置き去りにして、自分のブラザーとシスターも傷つけました。私は本当に現代のパウロです!

神様、啓蒙と啓発を賜り、ありがとうございます。おかげで何年も神様を信じてきたのになぜ自分の性格を変えられなかったのかに気づきました。働きだけに注目していたからです。自分がいのちに入ることに気を配るのではなく、教義で理論武装して自分をみせびらかしていたからです。私は傲慢で無知すぎる自分が大嫌いです。自分が真実を愛していないことも大嫌いです。真実を愛していなかったので、真実に入って変化を求める機会を多数逃しました。私は神様の言葉を通じて真実をよりよく理解することに意欲的です。これは、自分自身に対する理解を深めるため、神様の言葉を熱心に実用的に実行して真実に入るため、実践的な生活を通じて神様に恩返しするためです。

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