質問5:主イエスは受肉した神であり、このことは議論の余地がありません。今、全能神は受肉して再来した主イエスであるとあなたがたは証しを立てていいますが、宗教界の牧師や長老たちはあなたがたが信じているものはただの人間であり、あなたがたは騙されていると言っています。私たちにはこれがわからないのです。主イエスが受肉して贖いの働きをなさるために来られたとき、ユダヤ教のパリサイ人たちもまた主イエスはただの人であり、主イエスを信じる者は誰もが騙されていると言っていました。したがって、私たちは神の受肉についての真理のこの側面を探求したいのです。受肉とはいったい何なのですか。受肉の本質は何ですか。私たちとこれについて話してください。

回答

主イエスが神様の受肉であるということは確かですね。では、なぜ主を信じているんですか?主イエスが神様だと思っていますか?あなた方が信じるのは、聖書に書いてあることと聖霊の働きのためです。しかし、あなた方は主イエスと会ったことはありません。どうして主を知っていると言えるんですか?あなた方の発言はペテロの受け売りじゃないですか?主イエスはキリストにして生ける神様の子だとね。主イエスが神様ご自身の現れだと信じているんですか?あなた方には主イエスの神性が感じ取れるんですか?主が真理を表しに再臨された時には必ず、その声が分かると言えますか?あなた方の信仰は、ただ「主イエス」というその名前を信じているだけです。主イエスの神性を理解してはいません。理解しているのなら、なぜ神様の霊の声を聞き分けられないんですか?全能神は神様からの真理を表し、それは聖霊の声と言葉だと、なぜ認めないんですか?神様が表す真理を否定しているようだ。その様子では、受肉された神様を知らないのは明らかですね。あなた方が2千年前に生きていたとしたら、主イエスの時代にいたとしたら、間違いなくユダヤ教の指導者やパリサイ人と一緒に主イエスを非難していたでしょう。皆さん、そうとは思いませんか?ユダヤ教の指導者たちやパリサイ人は、長年唯一神を信じていました。なのになぜ主イエスを認めなかったのか?なぜ主イエスを磔にしたんでしょうか?一体どうしたことでしょう。宗教界の牧師や長老たちは、なぜ聖霊の声を聞けていないんでしょうか?終わりの日の全能神の働きをなぜいまだに非難するんでしょう?皆さん、神様を信じながら神様の受肉を認めない人は反キリストではないですか?ユダヤ教の指導者は受肉された主イエスを弾圧しました。彼らは神様に暴かれた反キリストだったんです。終わりの日に受肉された全能神を拒絶して、非難する牧師や長老たちも、また神様の働きで暴かれた反キリストではありませんか?いま明らかに、宗教界の牧師や長老の多くが、全能神の終わりの日の働きを拒んでいます。彼らは全能神の働きや御言葉を見もせず、聞きもしません。全能神は人類を清め救うための真理を表され、勝利者の集まりを作られました。世界中に神の国の福音は広がっています。これは動かぬ事実です。どうして宗教界の指導者たちは神様の働きに気づかないんでしょうか。全能神はただの人間だなどといつまで愚かなことを言うつもりでしょう。なぜそうなったんでしょう?天の神様をただ漠然と信じている者が多いからです。受肉した神様を理解する者が少ないからです。主イエスがパリサイ人をとがめられたのはなぜですか?漠然とした天の神様だけを信じ、受肉された神様を拒絶したからです。

祭司長や律法学者、パリサイ人は、主イエスの言葉と働きに触れて、権威と力を見たはずです。では、なぜあんなに主を拒絶し、冒涜したんでしょうか。主が悪魔のかしらを使って、悪霊を払っていると言いがかりをつけた。そして、ついに主イエスを生きたまま磔にしたんですよ。これはどういうことでしょうか?主イエスを普通の人間だと思ったから。そんなことをしたんでしょう?彼らが言ったとおり、ナザレ人の大工の子だと思ったからでしょう?受肉された神様の肉体は、超常的な性質を持っている。パリサイ人はそう思っていました。その体は大きく、力強く、英雄のごとく、威風堂々、御言葉は地鳴りのように響き、畏怖を感じて誰も近づけない。それこそ、神様だと、彼らは受肉とは何かを全く理解しないばかりか。主イエスの言葉と働きに真理を求め、神様の性質を知ろうともしませんでした。主イエスをただの人間と見なして、勝手な考えで主を裁き冒涜したんです。こうして彼らは神様を信じながらも認識を得ず、神様を拒みました。今日、牧師たちは全能神をただの人だと言いますが、これはユダヤ教の祭司長やパリサイ人たちが、主イエスの信者を非難したのと何ら変わりはありません。まさに、現在の牧師や長老の多くは、神様を信じながらも同時に拒んだ、偽善的なパリサイ人と同じです。天国の神様だけを信じ、キリストを否定する不心得者です。何の権利があって、キリストに従う人々を非難するんでしょうか。

終わりの日に、神様は人々に御言葉と働きを表すため、全能神として受肉されました。外見からは全能神は普通の人間に見えます。実際に人々の間に暮らし、人と関わり合いながら生活しておられます。そして必要に応じて真理を表し、神の家から裁きの働きを行われるんです。全能神の働きを経験する中で、私たちはその御言葉を、自身の耳で聞いたことがあります。神様の経営計画の奥義を、全能神が解き明かされるのもこの目で見ました。例えば、人類を救う計画の3段階について、神様の経営計画の目的、受肉の奥義について、サタンによる人類の堕落、その手口と真相についても説かれました。神様がいかに人を清め、救い、完成させるか。裁きの働きの意味と目的、さらには神様が誰を愛され、誰を呪うのか。誰が救われて、誰が滅ぼされるのか。人類の終着点と人類の最後について、神様の国がどのように地上で築かれるかなどです。全能神はこれらの真理を表しました。そして人を裁き、サタン的な性質と神様を拒む本質を暴かれます。人間がサタンによって、いかに堕落させられたかを自覚させるためです。私たちは傲慢で、自己顕示欲が強く、陰険で、自己中心的です。人間らしさを失い、神様の御前に生きる資格すらない。しかしそれでも、神様は受肉して戻られ、堕落して汚れた人々の間で謙虚で、ひっそり暮らしておいでです。そして人を裁き救うために、真理を表しておられます。私たちは身にしみて感じます。神様の本質はとてもお優しく、尊いものだと、神様の人類への愛は本物です。御言葉による裁きを経験して、私たちは義にして聖なる、犯しがたい神様の性質を理解しました。全能神の権威と力をそこで感じたんです。そして神様への畏敬の念が増しました。真理を求め始めて、私たちの性質に変化が起こり始めたんです。その時、私たちは確信を持ちました。受肉された全能神が我らを清め救うために、真理を示されたと分かったんです。私たちが傲慢さや陰険さ、サタン的な性質を取り除き、正直に生きることができるようにです。全能神は私たちと共に生き、諸教会を訪ね歩いておられます。そのお姿は普通の人と変わりません。しかし、全能神は真理を説き、神様の義なる性質のすべてを明らかにされています。全能神の働きを経験した者は真理と道と命とを受け取っています。神様の働きはとても実践的で賢明なんです。神様は謙虚で、美しいお方です。神様には傲慢さなどありません。堕落などとは無縁です。尊い神様が巨人のように堂々とした、誰もが賛美する肉体を身に纏うのなら分かります。しかしそうはされなかった。堕落した人を救うため、普通の人間の肉体を身に纏い、普通の姿を取られた。そして汚れた人間のもとに来られました。さらに御言葉を表し、私たちを裁き、命の糧をくださいます。神様はしがない人間として受肉され、すでに多大な侮辱と苦しみを耐え忍ばれて、堕落した人類からの中傷や非難だけでなく、共産党政府からの迫害にも遭われています。それでも、計り知れないご意思の強さで、真理を表し、人類を救おうとされています。人類を救うために、苦痛を味わっておられます。神様の愛は本物なんです。神様がいかに尊く、すばらしいお方か、これでお分かりでしょう?どんな言葉でも言い表せません。全能神は私たちを神様に近づけ、神様に出会わせてくださいます。それは私たちが神様を知り、真に愛せるようにです。神様に完全にされるのです。神様を心から賛美し、従うためです。全能神は人にして、神様唯一無二の神様にして天地万物の創造主なんです。なのに、宗教界の指導者たちは、全能神をただの人だと言います。では聞きますが、ただの人に神様の真理と御言葉が表せますか?ただの人に人類を清め救う働きができるでしょうか?ただの人なら、その働きによって、堕落した人々を完全にし、神を知り、神に従う者へと変えることができるでしょうか?誰もいない、一人もいないのです!全能神だけにできる実践的な働きです。全能神はこの世の救い主の現れです。実践的な神様の受肉なんです。全能神だけが人類を救うことができ、すばらしい終着点を与えてくださるんです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

ご質問の受肉とは何か。キリストとは何か。この問題はどの信者も理解しがたい真理の奥義でしょう。主イエスが神様の受肉だと何千年にもわたって、知られていても、受肉とは一体何なのか。受肉の本質は誰も理解していません。終わりの日に全能神が来られ、やっとこの奥義が人類に解き明かされたんです。では全能神の御言葉を聞きましょう。

全能神は言われます。「受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である 。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

「受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より)

「普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。『顕現』とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

「神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない 。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。…神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

全能神の御言葉から、受肉とは神様の霊が肉体をまとわれること、つまり神様の霊が普通の人間性と普通の人間の思考をもつ肉体として具体化され、それによって人間のあいだで働いて語る普通の一般人になられることがわかります。この肉体には正常な人間性がありますが、同時に完全な神性も兼ね備えています。外見上、その肉体は普通で正常に見えるものの、神様の働きを引き受け、神様のお声を表し、人類を率いて救うことがおできになります。それは完全な神性を有しておられるからです。完全な神性とは、神様の霊が有しておられるすべてのもの、すなわち神様に固有の性質、神様の聖く義なる実質、神様が所有されているものと神様そのもののすべて、神様の全能性と知恵、神様の権威と力がすべて、肉において具体化されたことを意味しています。その肉体はキリストであり、この地上にいらして働きをなさり、人類をお救いになる実際の神様です。キリストの外見は普通で正常な人の子ですが、私たち被造物の人間とは本質的に異なります。被造物の人間には人間性しかなく、神性の本質はかすかな形跡すらありません。しかしキリストには普通の人間性だけでなく、より重要なこととして完全な神性があります。ゆえに、キリストには神様の実質があり、神様を完全に表現し、神様ご自身としてすべての真理を表し、神様の性質と神様が所有されているものと神様そのものすべてを表し、私たちに真理と道といのちを授けることがおできになります。被造物の人間は誰ひとりとして、こうした偉業はできません。キリストは肉において働かれ、語られ、神様の性質と神様が所有されているものと神様そのもののすべてを表されます。神様の御言葉をどのように表され、神様の働きをどのように行なわれようと、常に普通の人間性の中でそうなさるのです。キリストは正常な肉体をおもちであり、超自然的なことは一切ありません。このことは、神様が肉体をまとわれ、すでに普通の人間になられていることを証明しています。この普通で正常な肉体は、「言葉は肉において現れる」という事実を実現しています。キリストは受肉された実際の神様なのです。キリストは完全な神性をおもちなので、神様を表現し、真理を表し、人類を救うことがおできになります。キリストは完全な神性をおもちなので、単に神様の御言葉を伝えたり広めたりするのではなく、直接表すことがおできになります。キリストはいつでもどこでも真理を表し、人間に糧を与え、潤し、牧し、全人類を導くことがおできになります。キリストが完全な神性をおもちだということだけで、神様のご身分と実質を有しておられることが十分証明されます。キリストは受肉された神様であり、実際の神様ご自身であると私たちが言うのはそのためです。

受肉の最大の奥義は、神様の肉体が立派な姿をしているかどうかや、普通の人間の姿のようであるかどうかとはほとんど関係ありません。むしろそれは、完全な神性がこの普通の肉体の中に隠されている事実と関係しています。私たちの誰ひとりとして、この隠された神性を見つけることも目にすることもできません。主イエスがおいでになって働きをなさったときと同じように、当時の誰ひとりとしてお声を聞かず、主の御言葉と働きを経験していなかったなら、主イエスがキリスト、つまり神の御子でいらっしゃることに誰も気づかなかったでしょう。ゆえに神様の受肉は、私たち人間のあいだへと密かに降臨なさる最善の方法なのです。主イエスがおいでになったとき、私たちのうち誰ひとりとして、主がキリスト、すなわち受肉された神様でいらっしゃることが外見からわかった人はおらず、主の人間性に隠された神性が見えた人もいませんでした。主イエスが真理を表され、人類の贖いの働きをなさったあと、ようやく何人かの人が主の御言葉に権威と力があることを見いだし、そのとき初めて主に従うようになりました。主イエスが復活なさったあと、人々の前に姿を現わされて初めて、主が受肉されたキリストであり、神様の出現でいらっしゃることを人類は認識したのです。主が真理を表されることも働きをなさることもなければ、誰ひとり主に従わなかったでしょう。ご自身がキリストであり神の出現であるという事実を証しされていなければ、誰ひとりキリストを認識していなかったでしょう。人間は自分の観念と想像の中で、その人が本当に受肉された神様なら、その肉体には超自然的な特性があるはずだと考えています。立派で力強い姿をしていて、圧倒的な存在感をもつ超人に違いなく、話し方に権威と力があるばかりか、行く先々でしるしや不思議を行なうはずだ、肉となられた神様はこのようであるはずだ、と考えるのです。そのような人は、外見がどこにでもいる一般人と同じく普通で、正常な人間性を有している人は受肉された神様ではないはずだと考えます。ここで思い出しましょう。主イエスが受肉されてお語りになり、働きをなさったとき、どのように真理や神様のお声を表されようと、ユダヤ教の祭司長や律法学者やパリサイ人は主を認識しませんでした。弟子たちが主イエスの証しをするのを聞いたときも、彼らは、これはヨセフの息子ではないか、ナザレ人ではないか、とさえ言いました。祭司長や律法学者やパリサイ人が主のことをこのように言ったのはなぜですか。主イエスが外見上は普通の人間性を有しておられたからです。主は普通の平均的な人であり、立派で圧倒的な存在感がなかったため、彼らは主を受け入れませんでした。実際のところ、神様が受肉なさっている限り、定義に従えば、正常な人間性を有してなければならず、神様が身にまとっておられる肉体が普通の正常な肉体であり、一般人のように見えることを人間に示さなければならないのです。神様が普通の人間性をもつ人でなく超人の肉体をまとわれたなら、受肉の意味はすべて失われるでしょう。ゆえに、キリストは正常な人間性をおもちでなければなりません。そうすることでのみ、キリストが肉となられた御言葉でいらっしゃることを証明できるのです。

全能神の御言葉を読みましょう。「受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。…もし最初の顕現で、神が二十九歳になる前に普通の人間性をもっていなければ──もし生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、もし、話せるようになってすぐに天の言葉を話せたなら、地上に初めて着いたときにすべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら──そのような人は普通の人間とは呼ばれなかったであろうし、そのような肉は人間の肉とは呼ばれなかっただろう。もしキリストがそういうものであったなら、神の受肉の意味と本質は失われていたであろう。キリストが普通の人間性をもっていたことは、キリストが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。キリストが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、キリストが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、キリストの働きは、キリストが神の言葉、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが『言葉は肉となる』、『言葉は肉において現れる』ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

「もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。『神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない』と言うのは瀆神行為である。なぜなら、これは受肉の原理に反する、あり得ない立場だからである。…

…受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。…だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より)

全能神の御言葉から、受肉された神様は正常な人間性をおもちでなければならず、さもなければ神様の受肉とはならないことがはっきりわかります。外見上、受肉された神様は普通の一般人のように見え、その人間性に超自然的なものはありません。ゆえに、私たちが自分の観念と想像によってキリストを判定するなら、キリストを認めることも受け入れることも決してありません。せいぜい神様に遣わされた預言者か、神様に用いられる人だと認識するくらいです。本当にキリストを知りたければその御言葉と働きを学び、その方が表されることは神様ご自身のお声かどうか、表される御言葉は神様の性質と、神様が所有されているものと神様そのものすべてのあらわれかどうか、その方の働きとその方が表される真理は人類を救えるかどうかを確かめなければなりません。そうしてはじめてキリストを知り、受け入れ、従うことができるのです。真理を探し求めず、神様の働きを調べないなら、たとえキリストの御言葉を聞いてキリストの働きの事実を見たところで、いまだにキリストを知らないままです。朝から晩までキリストとともにいたとしても、キリストを普通の人間のように扱い、そのためキリストに抵抗して断罪します。事実、キリストを認めて受け入れるには、神様のお声を認識して、その方が神様の働きをなさることを認めるだけでいいのです。しかしキリストの神性の実質を知り、それによってキリストへの真の服従を成し遂げて実際の神様を愛するには、キリストの御言葉と働きの中にある真理を突き止め、神様の性質と、神様が所有されているものと神様そのものすべてを見、神様の聖なる実質、全能性、知恵を見、神様が愛すべき方でいらっしゃることを見、その真剣な御旨を正しく理解しなければなりません。そうすることでのみ真にキリストに服従し、心の中で実際の神様を崇拝することができるのです。

私たち信者はみな、主イエスが宣べ伝えられた道、主が表された御言葉、主が明らかになさった天国の奥義、主が私たち人間になさる要求がどれも真理であり、神様ご自身のお声であり、神様のいのちの性質と神様が所有されているものと神様そのもののすべての表明であることを知っています。病人を癒やす、悪魔を追い払う、風や海を静める、五つのパンと二匹の魚で五千人の空腹を満たす、死者を蘇らせるといった奇跡はすべて神様ご自身の権威とお力の表明であり、被造物である人間は誰ひとりそれを有しておらず、行なうこともできません。ペテロ、ヨハネ、マタイ、ナタナエルなど、当時真理を探し求めていた人は、主イエスの御言葉と働きから、主が約束されていたメシアでいらっしゃることを認識したので、主に従って主の救いを受けました。一方、ユダヤ教のパリサイ人は主イエスの説教を聞き、主が奇跡を行なわれるのを見たにもかかわらず、それでも主イエスを力も名声もない普通の人に過ぎないと見なし、ゆえにいささかも恐れることなく、図々しくも主に抵抗して断罪し、最後には主イエスを十字架にかけるという最大の罪を犯しました。パリサイ人の教訓は深く反省する必要があります。それは真理を憎み神様を憎む彼らの反キリスト的な本性をはっきりと暴き、堕落した人類の愚かさと無知をさらけだしています。現在、受肉された全能神は主イエスと同じく、普通の人間性の中で神様ご自身の働きをなさっています。全能神は堕落した人類が救われるのに必要なすべての真理を表され、終わりの日に神様の家から始まる裁きの働きをなさいます。全能神は堕落した人類のサタン的本性と人類の堕落の真相を裁き暴かれるだけでなく、人類をお救いになる神様の六千年にわたる経営(救いの)計画の奥義をすべて明らかにされており、人類が罪から自由になり、神様に清められて救っていただける道を解明してこられました。また神様に固有の義なる性質、神様が所有されているものと神様そのものすべて、神様の独特な力と権威をも表してこられました…全能神の御言葉と働きは、神様ご自身の身分と実質を完全に示しているのです。現在、全能神に従う人はみな全能神の御言葉と働きに神様のお声を聞き、肉体に神様の御言葉の表れを見、全能神の玉座の前に出て神様による清めと完全化を受けています。いまだに全能神を否定し、全能神に抵抗し、断罪する宗教界の人たちはユダヤ教のパリサイ人と同じ間違いを犯しており、終わりの日のキリストでいらっしゃる全能神をどこにでもいる一般人のように扱い、全能神が表してこられたすべての真理を探し求めて考察することにわずかな努力も払わず、かくして再び神様を十字架にかけて神様の性質を激怒させています。見てわかるとおり、自分の観念と想像に固執して、キリストが表される真理を探し求めも考察もしないなら、キリストが表される神様のお声を聞き分けられず、キリストの働きを受け入れて従うこともできず、終わりの日における神様の救いを受けることもありません。受肉の真理を理解しなければ、神様の働きを受け入れてそれに従うことができず、キリストを断罪して神様に抵抗し、神様の懲罰と呪いも受けることになります。ゆえに、私たちが信仰において神様に救っていただくには、真理を探し求めて受肉の奥義を理解することが極めて重要なのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

前へ: 質問4:宗教界の牧師や長老たちは主の肉における再臨についての証しは偽りであると信者によく説教します。これは以下の聖句をもっぱら根拠としています。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)現在、私たちには真のキリストを偽キリストからどのように見分けるべきかわからないので、この質問についてはっきり説明していただけませんか。

次へ: 質問(6)私たちは皆、主イエスが神の受肉であったことを知っています。ご自身の働きを終えた後、主は十字架につけられ、そして復活し、すべての弟子の前に出現され、栄光ある霊体で天に昇られました。聖書に、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1:11)とあるとおりです。つまり、主は再び来られるとき、復活した霊体が人の前に出現すると聖書は確認しています。終わりの日に、なぜ神は人の子という肉の形で受肉して裁きの働きをされるのですか。主イエスの復活された霊体と、主の人の子としての受肉の違いは何ですか。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。
連絡先
Line経由で連絡する

関連記事

4. 真の祈りとは何か。

関連する神の言葉 真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。…

2.なぜ宗教界はいつもキリストを否定、拒絶、非難し、それゆえに神の呪いに苦しんできたのか。

参考聖書箇所 「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農…

43. 神は何に基づいて人の最後の結末を決定するのか。

関連する神の言葉 今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にひとりひとりの言葉や行動、わたしに従った道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、あらゆる…

設定

  • 文章
  • テーマ

単色

テーマ

フォント

文字サイズ

行間

行間

ページ幅

目次

検索する

  • 表示テキスト内検索
  • 全文検索