X. 偽の羊飼い、反キリスト、偽キリストを識別するには

1. 資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

2. 聖霊の現在の働きに従わない人たちは神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど駆け回ろうとも、そのどれも神には意味がなく、神はそうした人を賞賛しない。今日、神の現在の言葉に従う人はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人は聖霊の流れの外にあり、そのような人は神に賞賛されない。聖霊が現在発する言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、それが神の旨にかなうのは不可能である。宗教的観念の中で生きるなら、その人は神の旨にかなうことを何一つ行なえず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念の中での奉仕であり、神の旨に従う形で奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従えない人は神の旨を理解せず、神の旨を理解しない人は神に奉仕できない。神は自身の旨にかなう奉仕を望んでおり、観念や肉の奉仕を望まない。聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、その人は観念の中で生きている。そのような人の奉仕は妨害と混乱を引き起こし、そのような奉仕は神に真っ向から反している。そのため、神の歩みに従えない人は神に奉仕することができない。神の歩みに従えない人は間違いなく神に逆らっており、神と相容れることができない。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より

3. 人の頭脳内の働きは人にはあまりにも容易に達成できる。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場に依存して働く。長い間彼らに従う人は、その才能に感化され、その存在の一部に影響を受ける。彼らは人の才能、能力、知識に重点を置き、超自然的なものや多くの深遠で非現実的な教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人の性質の変化に注目せず、むしろ人が説教し働くようになるような訓練に注目し、人の知識を向上させ豊富な宗教的教義を充実させようとする。人の性質がどのくらい変化するかや、人がどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人の本質には関心を持たず、ましてや人の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人の観念に反論せず、観念を明らかにもしないし、ましてや人の欠点や堕落を刈り込んだりはしない。彼らに従う人のほとんどは自分の才能をもって奉仕し、彼らが放つのは宗教的な観念と神学的な理論だけであり、それは現実とは離れており、人にいのちを与えることはまったくできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人を、後に働いて他者を導くことになる有能な神学校卒業生に育てることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

4. 多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神はあえて大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなうように仕えるには」より

5. あなたは自分の元来の性格のまま、個人的な好みに沿って神に仕えている。さらに、自分が行おうとすることは神を喜ばせるものであり、自分が行いたくないことは神に憎まれるものだと常に考え、働くときも自分の好みにだけ沿っている。これを神への奉仕と呼べるだろうか。最終的に、あなたのいのちの性質はほんの少しも変わらず、それどころか、自分の奉仕のせいでますます頑固になり、そのため、堕落した性質がさらに深く染みこんでしまう。このようにして、おもに自分の性格に基づいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に沿った奉仕から派生する経験が、あなたの中で形をなす。それらは人間の経験と教訓であり、俗世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教官僚に分類することができる。目を覚まして悔い改めなければ、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストや反キリストになるのだ。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる。神に仕える者たちが自分の性格に従い、自分の意志に沿って振る舞うなら、彼らはいつでも追放される危険を犯している。他人の心を勝ち取り、彼らに説教して操り、高い地位に昇るために、自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位の恩恵にしがみつく人は、神の前に倒れる。このような人はパウロと同類であり、自分の経歴の長さを誇ったり、自分の資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きを妨害する。

『言葉は肉において現れる』の「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」より

6. あなたは浜辺の砂粒ほどもある、膨大な数の細かな認識を語れるが、そのどれにも現実の道は含まれていない。あなたはその話で人々を欺こうとしているのではないか。ただ空虚な見栄を張っているだけで、その裏付けとなる実質は何もないのではないか。そのような行為はすべて人々に有害だ。理論が高尚で現実性が欠如していればいるほど、人々を現実に導くことができなくなる。理論が高尚であればあるほど、あなたは神に背き反抗するようになる。霊的理論を後生大事にしてはならない。そのようなものは役に立たない。中には、霊的理論を何十年も語り続け、霊的偉人になったものの、結局いまだ真理の現実に入れない者もいる。このような者は、神の言葉を実践したことも、経験したこともないので、実践の原則や道がない。真理の現実を自ら持たないこうした者たちが、どうして他者を神への信仰の正しい軌道に乗せられるだろうか。彼らはただ人を迷わせることしかできない。それは他者を傷つけ、自分も傷つけているのではないか。あなたは少なくとも、目の前にある現実の問題を解決できるようにならねばならない。つまり、神の言葉を実践して経験し、真理を実践できるようにならなければならないのだ。これだけが神への服従である。いのちに入って初めて、あなたは神のために働く資格を得る。また真摯に自分を神のために費やして初めて、あなたは神に認められる。いつも大言壮語していたり、仰々しい理論を語ったりしてはならない。そのようなことは現実的でない。霊的理論をもったいぶって語り、人々に尊敬されたところで、それは神を証ししているのでなく、むしろ自分を誇示しているのだ。それが人々のためになることは絶対になく、啓発することもない。いともたやすく霊的理論を崇め、真理の実践に専念しないようにしてしまう。これは人を迷わせているのではないか。このようにし続けていれば、人々を縛って罠にかける空虚な理論や規則が多数できてしまう。それは実に腹立たしいことだ。

『言葉は肉において現れる』の「もっと現実に集中しなさい」より

7. 各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、「わたしたちの信仰について、指導者に相談しなければならない」と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。この人たちはパウロの同類です。

『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」より

8. 傲慢さの表われは神への反逆と抵抗です。傲慢で、尊大で、独善的な人は自身の独立王国を築き、自分のしたいことを何でも行なう傾向にあります。そうした人はまた、他人を自分の手中に連れてきて取り込みます。そうしたことをできるというのは、その人の傲慢な本性の本質がサタンのそれと同じであることを意味します。大天使のそれと同じなのです。傲慢さと尊大さがある程度まで達すると、その人は大天使になり、神は必ずや脇へのけられてしまいます。あなたがこのような傲慢な本性を有しているなら、神はあなたの心に居場所を持ちません。

わたしたちは宗教界の多くの指導者に何度も福音を説いてきましたが、いかに真理を説教しようとも、彼らはそれを受け入れようとしません。なぜでしょうか。それは彼らの傲慢さが習性となり、心の中にもはや神がいないからです。「宗教界の何人かの牧師の指導下にある人たちは本当に生き生きとしている。中心に神を持っているようだ!」と言う人がいるかもしれません。こうした牧師の説教がいかに高尚であろうとも、彼らは神を知っているでしょうか。心の中で真に神を畏れているなら、人々を自分に従わせ、自分を賛美させるでしょうか。他人を独占するでしょうか。真理を探し求め、真の道を考察している人々に、あえて制限を課すでしょうか。神の羊は本当は自分たちのものであり、自分たちに耳を傾けるべきであって、自分の言うことに真理が含まれていると信じているなら、彼ら自身が神として振る舞っているのではありませんか。このような人間はパリサイ人よりも悪い存在です。彼らは反キリストではありませんか。ゆえに、彼らは自らの傲慢さのゆえに、裏切る行動をしたのです。

『終わりの日のキリスト講話集』の「傲慢な本性は、神に対する人の抵抗の根源である」より

9. 神が肉になり、人の間で働くようになると、すべての人が神を見、神の言葉を聞き、神がその肉体の内側から為す業を見る。そのとき、人の観念はすべて泡となる。神が肉に現われるのを見た人は、喜んで神に従うならば断罪されることはないが、意図的に神に敵対する人は神の反対者とみなされる。そのような人は反キリストであり、故意に神に対抗する敵である。……受肉した神に故意に対抗する人は、その不従順ゆえに罰せられる。神に故意に対抗するそのような人が神に反対するのは、神についての観念を抱いていることに由来し、それが神の働きを妨害する行動をその人にとらせるのである。この人は意図的に神の働きに抵抗し、破壊する。単に神についての観念があるだけでなく、神の働きを妨害する活動にも携わり、この理由ゆえにこのような人は断罪されるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より

10. 最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。神の新しい働きに対して敵対する態度を常にとり、従う意志など微塵もなく、喜んで服従したり謙虚になったりすることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で自分を称揚し、決して誰にも従わない。神の前では、自分が説教に最も長けており、他の人に働きかけることにおいても自分が一番熟練していると考える。自分が所有する「宝」を決して手放さず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。教会にはこのような人が、確かに一定数存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まる。彼らは言葉(教義)を説くことを自分の最高の本分と捉えている。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らにあえて触れようとする者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりとしていない。神の家で「王」となり、何代にもわたってはびこり、他の者たちに圧政を加える。このような悪魔の群れは、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔がわたしの目の前にいるのを、どうしてわたしが許せようか。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」より

11. あなたがたが神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなたがたの観念と生まれ持った傲慢さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなたがたが元々あまりに反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後、人がどこから来たのかさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きの正誤について演説を行う者もいる。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。人間性が非常に低俗で、理知のかけらもない。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識せず、それどころか神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図もする。このように理不尽な人たちがどうして神を認識できようか。人は、神を求めて経験する過程で、神についての認識を得るようになる。つまり、気まぐれに批判する中で聖霊の啓きを受け、それを通して神を認識するのではない。神についての認識が正しくなるほど、人は神に反抗しなくなる。逆に、神についての認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格、そして道徳観は、あなたが神に逆らう資本であり、あなたの良心が堕落し、あなたの性質が醜悪であり、あなたの人間性が下劣であればあるほど、あなたはますます神の敵になる。強力な観念の持ち主や独善的な性質の者は、受肉した神とさらに敵対するが、そのような者たちは反キリストである。

『言葉は肉において現れる』の「神の三階の働きを認識することは、神を認識する道である」より

12. 荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは「健全な体質」をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より

13. 受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

14. 受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの実質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

15. 受肉した神はキリストと呼ばれ、キリストは神の霊がまとう肉である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を有している。キリストの神性はいかなる人も有していないものである。キリストの普通の人間性は肉における普通の活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、あれいは神性であれ、いずれも父なる神の旨に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、キリストの本質は神自身のものである。この本質が神自身の働きを妨げることはなく、神が自身の働きを破壊することは決してあり得ず、自身の旨に逆らう言葉を語ることも決してない。

(中略)

キリストは肉における神自身を表し、神自身がなすべき働きを自ら遂行するものの、天なる神の存在を否定したり、自身の業を大々的に公表したりすることはない。むしろ、自身の肉の中に謙虚に隠れたままでいる。キリスト自身以外でキリストを偽って名乗る者はみな、キリストの性質を有してはいない。そうした偽キリストの傲慢で自画自賛的な性質をキリストの性質と比べたならば、どのような肉体が真のキリストであるかが明らかになる。偽れば偽るほど、そうした偽キリストは自分自身を誇示し、人を欺くしるしや不思議をますます行うことができる。偽キリストは神の特性を有していないが、キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを完了させるためだけに肉となるのであり、単に人々が神を見られるように肉となるのではない。むしろ、彼は働きを通して自身の身分を明確にし、自身が表すものによって自分の本質を証明する。彼の本質は根拠のないものではない。彼の身分は自身の手によって握られてはいなかったのであり、それは彼の働きと本質によって決定される。……

キリストの働きと表れによって、キリストの本質が決定される。キリストは託された働きを、真心でもって完成させることができる。キリストは天なる神を心から崇め、真心でもって父なる神の旨を求めることができる。これはすべて、キリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な表れも彼の本質によって決定されている。わたしがこれをキリストの「自然な表れ」と呼ぶのは、キリストの表れが模倣でも、人による教育の結果でも、人による長年の育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それは彼の中に本来備わっているものである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」より

16. この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約聖書はメシアの到来を預言し、この預言の結果はイエスの出現であった。これはすでに起きたことであり、別のメシアがまた来るというのは間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは間違いである。すべての時代には一つの名前があり、名前はそれぞれ各時代の特徴を含んでいる。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならない。しかし今回神はまったくそのようではない。もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より

17. 悪霊に取りつかれ、「わたしが神だ!」と声高に叫ぶ人がいる。しかし最後に、彼らは暴かれる。と言うのも、自分が表わすものについて、彼らは間違っているからである。彼らはサタンを表わし、聖霊は彼らに何の注意も払わない。どれほど高く自分を称揚しても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、神の愛するひとり子である」と叫ばない。しかし、わたしが行なう働きは神の働きである。わたしに叫ぶ必要があるだろうか。称揚の必要はない。神は自身の働きを自ら行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表わすのである。バプテスマに先立ち、イエスは神自身ではなかったのか。受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証しをされて初めて神のひとり子になった、などと言うことは到底できない。その働きを始めるずっと以前、イエスという名の人間がすでにいたのではないか。あなたは新しい道を生み出すことも、霊を表わすこともできない。霊の働きや、霊が語る言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを行なうこともできない。神の知恵、不思議、計り難さ、そして人間を罰する神の性質全体を表現することは、どれもあなたの能力を超えている。ゆえに、自分は神だと主張しようとしても無駄である。あなたには名前があるだけで、実質がまったくないのである。神自身はすでに来た。しかし、誰も神を認識せず、それでいて神は働きを続け、霊を代表して働く。あなたが彼を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかし、彼が行なう働きは霊の働きで、神自身の働きを表わしている。人にどのような名前で呼ばれるか、彼には関心がない。その名前が彼の働きを決定できるのか。あなたが彼を何と呼ぼうと、神に関する限り、彼は神の霊の受肉した肉体である。彼は霊を表わし、霊によって承認されている。あなたが新しい時代への道を切り開けないなら、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをしたりすることができないのであれば、あなたが神と呼ばれることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

18. 人間が自分を神と称しながら、神性を示すことも、神自身の働きを行うことも、あるいは神を表すこともできなければ、それは間違いなく神ではない。なぜなら、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることが、その人の内にないからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

前へ: IX. 神の働きと人間の働きの違い

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