19. 偽善とは何か。

関連する神の言葉

「パリサイ人」という呼び名の定義は何ですか。それは偽善的な人で、あらゆる行いにおいてまやかしで芝居じみて、自分が善人で親切で前向きであるかのように見せかける人のことです。パリサイ人は本当にこうですか。彼らは偽善的なので、彼らのうちに表わされ露わにされるものはすべて偽物であり、どれも見せかけです。それは彼らの本当の顔ではありません。本当の顔は心の中に隠されて見えないのです。真理を追い求めず理解もしないなら、その人の宗教的知識と、その人が得た理論はどうなりますか。人々がしばしば口にする教義の言葉になるのですか。人は自分をよく見せようと、こうしたいわゆる正しい教義を使います。どこに行っても、彼らが話題にすることや言うこと、そして彼らの外面的な振る舞いは、他人の目には正しく善いものに映ります。それらはどれも人間の観念や嗜好と合致しています。他人の目には彼らは信心深く謙虚に映ります。自制心が強く寛容で、他人に対して愛情深いです。実際にはそのどれもが偽物です。すべて見せかけなのです。表向きは神に忠実ですが、舞台裏で行なうことはどれもうわべだけのものです。表面上は家族や職業を捨てており、懸命に働き自分自身を費やしますが、実際には密かに教会から利益を得たり、捧げ物を盗んだりしているのです。彼らが外に向けて露わにすることも、彼らの振る舞いもすべて偽物です。これが偽善的なパリサイ人という言葉の意味です。「パリサイ人」というこれらの人々はどこから来ますか。不信心者のあいだに現われますか。彼らはみな信者のあいだに現われます。信者がなぜこのようになるのですか。もしや神の言葉が彼らをそのようにしたということがありえるでしょうか。彼らがそのようになるのは、誤った道を進んだことが主な理由です。彼らは神の言葉を自分を武装する道具と捉えます。それらの言葉で武装し、収入を確保したり、ただで何かを手に入れたりする元手として扱うのです。彼らは宗教的な教義を説くだけで、神の道に従ったことはありません。彼らのよい振る舞いやよい行ないと仮にされているもの、彼らが捨てたり費やしたりした小さなかけらはどれも完全に作り物であり、いずれも彼らの打つ芝居なのです。彼らはまったく偽物で、すべては見せかけです。このような人の心に神への畏れはこれっぽっちもなく、神を本当に信じてさえいません。それどころか不信心者の一味なのです。真理を追い求めなければ、そうした道を歩き、パリサイ人になります。それは恐ろしいことではないですか…

『キリストの言葉の記録』の「いのちの進歩を表す六つの指標」より

表面的なよい行ないを追い求め、霊的な外見を用いて自己を装うことに最大限の力を尽くす。霊的な人の真似をする。口にすること、行なうこと、明らかにすることにおいて霊的な見せかけを作り出す。人々の観念や想像において賞賛に値するいくつかの物事を行なう。これらはすべて偽の霊性を追い求めることであり、偽善です。高いところに立って言葉や道理を述べ、よい行ないをし、よい人になり、真理を追い求めることに集中するよう人々に説いても、自分自身の振る舞いや本分を尽くすことにおいて、あなたたちは真理を探し求めたことがなく、真理の原則によって行動したことがなく、真理において何が語られているか、神の心は何なのか、神が人間に求める基準は何なのかを理解したことがなく、これらのどれも真剣に受け止めたことがないのです。何らかの問題に遭遇すると、自分自身の意志にだけ従って行動し、神を脇に追いやります。これらの外面的な行ないと内面的な状態は、神を畏れ悪を避けることですか。信仰と真理の追求に何のつながりもなければ、何年神を信じようと、心から神を畏れ悪を避けることはできません。それでは、そうした人々はどのような道を歩くことができますか。彼らは何を身につけて日々を過ごしているのですか。言葉や道理ではないのですか。彼らは自分をパリサイ人のようにするため、神に仕えているとされる人々のようにするため、自らを武装し、言葉や道理で自分を飾りながら日々を過ごしているのではないのですか。これらすべての行動は一体何なのですか。彼らは動作を淡々と済ませているに過ぎません。信仰の旗を振り、宗教的な儀式を行ないながら、祝福されるという目的を達成するために神を騙そうと試みているのです。彼らはまったく神を崇めていません。

『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より

周りの注意を引こうとする傾向がある人たちがいる。そのような人たちは、兄弟姉妹の前では神に負い目があると言っているが、陰では真理を実践したりすることもなく全く違うことを行っている。彼らは宗教熱心なパリサイ人たちではないか。神を心から愛し、真理を持っている人とは神に忠実でありながらそれを誇示しない人のことである。その人は問題が起こると喜んで真理を実践し、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。問題が起きると知恵を用い、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ真に仕えている人である。神に負い目があるとただ口先だけの人たちも中にはいる。彼らはしかめっ面をし、感情たっぷりにみじめな表情を装って一日中過ごしている。なんと卑劣な態度だろう。彼らに「どんな風に神様に負い目があるの。教えてください。」と聞いたとしたら、彼らは何も答えられないだろう。あなたが神に対して忠実ならば、公の場で口にするのではなく、神に対するあなたの愛を実践で示し、そして心から神に祈りなさい。神に言葉でしか接しない人たちは全て偽善者である。一部の人たちは祈りの度に神に対する負い目を語り、聖霊の働きがないにも関わらず祈る度に涙を流す。このような人たちは宗教的儀式と観念に捕われている。彼らはそのように儀式と観念で生きることを神は喜び、表面上の神への敬虔や悲しみの涙を神は好むと常に信じている。そのような馬鹿げた考え方を持つ者からどんな良いことが生まれようか。謙遜を振る舞おうと人前では憐れみ深いかのように話す人たちもいる。人前で故意に卑屈になり、無力の子羊のように振る舞う人たちもいる。これが神の国の人の有様だろうか。神の国の人とは、いきいきとして自由で、純真で率直、正直で愛に溢れ、束縛されない生き方をしているはずである。そのような人には品性と尊厳があり、どこに行っても証し人として立つことができる。神と人に愛されている人である。信仰に未熟な人たちは外観にこだわりすぎる。彼らはまず神に扱われ、打ち砕かれる時期を通らなければならない。信仰を持つ人たちは、外見は同じでも、彼らの行動と行いは褒めるに値する。そのような人たちこそ神の言葉に沿って生きている人たちだと言える。もしあなたが多くの人々に福音を毎日述べ伝え、彼らを救いに導いても、あなたが依然として規則や教義にのめりこんで生きているなら、神に栄光をもたらすことはできない。そのような人たちは宗教熱心なだけの偽善者である。

そのような宗教熱心な人たちはいつ集まっても、「お元気でいらっしゃいましたか。」と尋ねる。そして姉妹は、「神様に負い目がありますが、神様の御心をなかなか成就することができません。」と答える。また別の人は「私もなんです。神様に負い目がありますが、神様に満足していただくことができません。」と答える。この僅かな言葉にも、彼らの心の奥深くにある卑劣な心が表現されている。そのような言葉は実に忌まわしく、あまりにも不快だ。そのような人たちの本性は神に敵対している。現実に焦点を合わせている人たちは、心にあることをそのまま言葉にし、会話の中で自分たちの心をさらけ出す。偽りの行いはひとつもなく、礼儀にこだわらず、空虚な社交辞令もない。彼らはいつも単刀直入で、この世の規律を守ることはない。また、理性を失って大げさに振る舞う人たちがいる。他の人が歌うと踊り始め、鍋の米が焦げていることさえも気が付かない。そのような人たちは敬虔でもなく、尊敬に値しない。あまりに軽率な人たちである。全て現実の欠如の顕れである。ある人たちは霊的いのちについて語り合うとき、神に負い目があるとは語らなくても心の中には神への心からの愛を秘めている。あなたが神にどれほど負い目があるかは他の人たちとは無関係だ。あなたは人ではなく神に負い目があるのだから。それならあなたがこのことを絶えず誰かに話したところでどうなるのだろうか。あなたは外観の熱心さや見せかけではなく、現実において成長することに重点を置くべきだ。

人のうわべだけの善行が何を表すだろうか。そのようなものは肉を表し、外見上最善のことをしたところで、ただあなた個人の性質を現すだけで、いのちを現すわけではない。人のうわべだけの行動では神の願いを成就することはできない。あなたは絶えず神に負い目があると言うが、誰かにいのちを与えたり、神を愛するように誰かを導いたりすることすらできない。それで神を満足させられると信じているのか。あなたは自分のしている事が神の心からの願いであり、霊的なことだと信じているが、実にばかげている。あなたは自分が喜ぶものや自分が願うものを神も喜ぶと信じている。あなたが喜ぶものが神の喜びを表すだろうか。人の性格が神を表すことができるのか。あなたが喜ぶものはまさしく神が忌み嫌うもので、あなたの習慣は神がひどく嫌い拒絶するものである。もしあなたが神に負い目を感じるなら、神の前に出て祈りなさい。それを誰かに話す必要などない。神の前で祈ることもせず、人の注目を引こうとするばかりでも神の心の願いを成就することができるだろうか。もしあなたの行動が常に見せかけだけなら、あなたは最もうぬぼれが強い人間だ。表面上良い行いをするだけで、現実性に欠けている人はどんなタイプの人間か。それは偽善者のパリサイ人で、単に宗教熱心でしかない。あなた方が見せかけの行いを止めず、変わることができないなら、あなた方の中にある偽善的要素は増大するであろう。偽善的要素が大きくなればなるほど神に抵抗するようになり、そして遂には神に見捨てられるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「信仰においては現実に焦点を合わせなければならない――宗教的儀式を行なうことは信仰ではない」より

正常な霊的生活は、神の前で生活することである。祈りを捧げる時、心を神の前で静め、祈りにより聖霊の啓示を求め、神の言葉を知り、神の心を理解することができる。神の言葉を食べ飲みしている時、神がすぐに行うことを望んでいることについて一層明瞭かつ明晰に理解し、新たな実践の道を得て、保守性を回避することができるので、実践はすべていのちの進展を実現させることを目的とする。たとえば、祈りは美辞麗句を述べることや、自らの負い目を神の前でわめくことを目的とするものではなく、むしろ自らの霊を訓練し、神の前で自らの心を静め、万事において神の言葉の指導を求め、自らの心を日々新たな光へと惹かれてゆくものとし、受動的になったり怠惰になったりすることを避け、神の言葉を実践する正しい道へと進んでゆくことを目的とする。現在、ほとんどの人が方法に重点を置き、真理を求めていのちの進展を実現しようと努めていない。人々が逸脱するのは、この点である。また、新たな光を授かることができるにもかかわらず、方法が変わらない人々がいる。過去の宗教的観念を取り入れて今日の神の言葉を授かるので、彼らが受け容れるのは、宗教的観念が含まれる教義であり、現在の光を純粋に受け容れていない。したがって、彼らの実践は不純である。つまり、新たな名称の同じ事を行っており、実践がいかに優れていたとしても、それは依然として偽善的である。神は、毎日新たな事をするよう人々を導き、毎日新たな識見と認識を得て、時代遅れとなったり、単調となったりしないことを要求する。長年にわたり神を信仰してきたにもかかわらず、方法が全く変わっておらず、外見上は熱意に満ちて多忙で、神の前に来て静かな心で神の言葉を享受しないのであれば、何も得ることはできないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「正常な霊的生活について」より

どうして神を信じるのか。ほとんどの人はこの質問に戸惑う。彼らは常に実際の神と天の神について2つのまったく異なる観点を持っている。そのことから分かるのは、彼らが神を信じるのは神に従うためではなく、何か恩恵を被るため、あるいは災難の苦しみから逃れるためなのである。その時だけ彼らは多少従順になるが、その従順さは条件付きである。それは、彼ら自身の個人的な将来性のためであり、彼らに押し付けられたものである。それでは、あなたは何故神を信じるのか。ただ自分の将来の見込みや運命のために神を信じるなら、信じない方がよい。そのような信仰は自己欺瞞、自己安心、自己満足である。あなたの信仰がもし神への従順という基礎に置かれていなければ、あなたは最終的には神に反抗することになり、その結果神に罰せられる。自分の信仰において神への従順を求めない者は皆神に反抗する者なのだ。神は、人々が真理を求め、神の言葉を渇望し、神の言葉を飲食し、それを実行に移し、その結果神への従順に達することを求めている。これがあなたの本当の動機ならば、神は必ずあなたを高め、必ずあなたに対し恵み深くなる。このことに疑問の余地はないし、誰もこれを変えることはできない。あなたの動機が神への従順のためではなく、何か他の目的があるならば、あなたが言うこと、行うことのすべては――神の前での祈り、さらにはあなたの行動の一つひとつさえ――神に反するものである。あなたの話し方は穏やかで、温厚かもしれないし、あなたの一つひとつの行動や表現はすべて正しく思われ、あなたは神に従う者のように見えるかもしれない。しかし、あなたの動機と神への信仰におけるあなたの見解に関して言えば、あなたの為すことのすべては神に反しており悪である。表面は羊のように従順に見えるが、心に邪悪な意図を抱いている人々は羊の皮を被った狼であり、直接神を犯し、神は彼らを一人として容赦しない。聖霊は彼ら一人ひとりを暴露するので、偽善者は全て必ず聖霊に忌み嫌われ、拒絶されることは誰の目にも明らかになる。心配しなくてもよい。神は彼ら一人ひとりに応じて取り扱い、解消する。

『言葉は肉において現れる』の「神への信仰において、あなたは神に従うべきだ」より

説教と交わりの参考箇所

牧師と長老が偽善のパリサイ人にして反キリストであるかどうかを識別するのは、彼らが人を表面上どう扱っているかを見るだけではできません。大切なのは、彼らが主と真理をどう扱っているかを見ることです。表向きは愛情をもって信者に接することもありますが、主への愛はあるでしょうか。人に対しては少なからぬ愛情があっても、主と真理には飽き飽きして憎悪に満ち、終わりの日のキリスト、すなわち全能神を裁き、断罪するなら、偽善のパリサイ人ではありませんか。反キリストではありませんか。表向きは説教して懸命に働いているように見えますが、それが栄冠と報いを得るためであれば、主に従い忠実であることになるでしょうか。人が偽善であるかどうかを識別するには、おもにその人の心の中と意図を見る必要があります。それが識別の最も重要な側面です。神は人の心の奥底を探られます。そのため、人が本当に主を愛し、従っているかどうかを見る上で重要なのは、その人が主の御言葉を実践して守り、主の戒めを守っているかどうか、さらにその人が主イエスを褒め称え、証しをしているかどうか、神の御心に従っているかどうかを見ることです。周知の通り、パリサイ人は会堂でしばしば聖書を人々に解説し、万事において聖書の規則を遵守し、信者に愛情をもって接していました。しかし、彼らが実際にしたことはすべて、神の御言葉を実践することでも、神の戒めを守ることでもなく、人に見られるためにしたことでした。主イエスが「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし」(マタイによる福音書23:5)と仰せられて彼らを暴かれたとおりです。彼らはわざと会堂や街角に立って長い祈りを捧げることまでしました。断食中には、そうしていると人に分かるよう、わざと自分の顔をとても悲しげに見せました。あらゆる人に見てもらうために、意図的に路上で善行を積んだりもしました。「手をきちんと洗うまで食べてはならない」といった古来の伝統や宗教儀式も守り続けました。……信者を惑わし、自分たちを支えて崇めるようにさせるため、パリサイ人は些細な事柄で騒ぎ立てて自らを偽り続け、信者が宗教的な礼拝を行い、歌と賛美を唱え、先祖伝来の伝統に固執するように導くだけで、神の御言葉を実践し、神の戒めを守り、真理の現実に入るようには導きませんでした。さらに、真理の実践にも、神への従順と崇拝にも導きませんでした。彼らがしたのは、表向きの行いを用いて信者を混乱させ、惑わすことだけだったのです。主イエスが教えと働きに来られたとき、信心深いふりをしたこのパリサイ人たちは自分の地位と生活基盤を保つために、「聖書を守る」ことを装って実際には神の律法と戒めを公然と放棄しました。主イエスについて噂をでっちあげ、偽りの証しを行い、猛烈に断罪して陥れ、信者が主イエスに従うのをあの手この手で阻みました。ついには権力者と共謀までして、主イエスを十字架につけたのです。したがって、パリサイ人の偽善で真理を憎む本質は完全に暴露されました。彼らの反キリスト的本質がこうして完全に露呈したのです。これはパリサイ人の本質が偽善、陰湿、不実、悪意だったことを示しています。彼らはみな神の道を捨て、人々を惑わして閉じ込めた偽の羊飼いでした。信者を惑わして縛り、宗教界を支配して神に反抗し、受肉したキリストを猛烈に否定し、断罪して憎みました。このことは、彼らが自分たちの独立王国を築こうとした反キリストであることを証明するのに十分です。

今の私たちにはパリサイ人の偽善のさまざまな表われがはっきりわかります。それらを今日の宗教界の牧師や長老たちと比べると、彼らがパリサイ人と同様であり、主の御言葉を実践することも、主の戒めに従うこともない人であり、さらに、主を褒め称えて証しする人ではないことに気づかないでしょうか。彼らは盲目的に聖書を信じ、聖書を崇拝し、聖書を賞揚する人です。通常の礼拝、朝の交わり、パンの分かち合い、聖餐への列席など、さまざまな宗教儀式に固執しているだけなのです。人に対しては謙虚で辛抱強くあれ、敬虔さと愛情をもてと説くことのみに専念し、心の中では神を愛さず、しかも神に従わず、神を畏れる心がまったくありません。彼らの働きと説教は、聖書の知識と神学理論を保持して解説することにだけ焦点を当てています。しかし、いかに主の御言葉を実践し経験するか、いかに主の戒めを守るか、いかに主の御言葉を広めて証しするか、いかに天の父の御旨に従うか、いかに神を真に愛し、従い、崇めるかといった、主イエスが人類に求められる一切のことに関しては、彼らは主の御旨を探しも求めもせず、理解しようともせず、さらに人を実践や遵守に導くこともしません。彼らが聖書の知識と神学理論を至る所で説いてまわる目的は、自分を誇示し、自分を確立させ、人に自分を尊敬させて崇拝させることなのです。それゆえ、全能神が真理を表わされて終わりの日の裁きの働きをなさるべくおいでになったとき、この牧師と長老たちは、宗教界で永久的な力を得るため、信者を支配して自分の独立王国を築くという野望のため、主イエスの御言葉に公然と背き、噂を捏造して全能神を裁き、攻撃して冒とくし、信者が真の道を求めて調べるのを全力で阻止しようとしました。たとえば、主イエスは人々に賢いおとめであれとお説きになりました。人々は「見よ、花婿が来る」という叫びを聞いたら、外に出てお迎えするべきなのです。しかし牧師と長老たちは、主イエスの再臨の知らせを聞くと、逆にあの手この手で教会を封鎖し、信者が真の道を求めて調べるのを妨げようとしました。主イエスは人々に隣人を自分のように愛せよとお説きになりました。しかし牧師と長老たちは信者を扇動して、終わりの日の全能神の働きを証しする兄弟姉妹を中傷させ、殴らせました。主イエスは人々に嘘をつかないように、偽りの証しをしないようにとお求めになりましたが、牧師と長老たちはありとあらゆる嘘をでっちあげて全能神を中傷し、悪魔の中共と共謀までして終わりの日の全能神の働きに抵抗し、それを断罪し、全能神教会の名を汚しました。……このことから、宗教界の牧師と長老によるこれまでの言動が主の教えに完全に背いていることがわかります。彼らは偽善のパリサイ人と同様です。みな人々を盲目的に導き、神に抵抗し、人々を惑わす人なのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

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質問32:パリサイ人はしばしば会堂で人々に聖書を解説しました。外見上は、彼らは敬虔で思いやりがあるように見え、明らかに律法にそむくようなことを何ら行ったようには見えませんでした。ではなぜパリサイ人は主イエスに呪われたのですか。パリサイ人の偽善はどのように現れたのですか。なぜ今日の宗教界の牧師と長老たちは偽善的なパリサイ人と同じ道を歩いていると言われているのですか。

回答 主を信じている人は主イエスがパリサイ人を嫌い、彼らを呪い、彼らに7つの災いを下したことを知っています。これは偽善的なパリサイ人たちを見極め、その支配から逃れ、神の救いを得るのに意味があることです。残念ながら、信者の多くがパリサイ人たちの偽善を見抜けません。主イエスが彼らを…

質問17:主が受肉して終わりの日に真理を表し、人に対する裁きと清めの働きを行うためにすでに再来なさっているとあなたがたは証を立てていますが、宗教界の牧師と長老たちは主が雲に乗ってこられ、信者はたちどころに形を変え、主と会うために雲の中に携挙されるであろうと信じています。これはパウロが次のように言った通りです。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ人への手紙3:20-21)主は全能であり、主がなし得ないことは何一つありません。神は一言で私たちを変えて清めることがおできになるでしょう。それならばなぜ真理を表し、人間に対する裁きと清めの働きの一段階を行うために神が受肉なさる必要があるのですか。

終わりの日に神が裁きの働きをされ、人を清め完全にする過程は私達が想像できるほど単純ではありません。主イエスは一言でラザロを死から蘇らせました。サタンによって完全に堕落させられ、神を拒み抗う人類を清めて、神を理解し、服従し、崇拝する人類に変えたり、生きた悪魔となり何千年も腐敗している人類を20年から30年の間に真理を持つ人間らしい人間に変えることは、サタンとの戦いなのです。

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