32. 賢明な乙女にはどのような恩恵が与えられるか。愚かな乙女は災のために朽ちるか。

関連する神の言葉

「聖霊の働きに従う」とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要求に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。そのような人々は神の賞賛を受け、神を見ることができるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることができる。さらに、奉仕の過程で自らの性質をだんだんと変えることができる。このような人々のみが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人々である。聖霊の働きにより排除される人々は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人々である。そのような人々が公然と神に反対するのは、神が新しい働きを為し、神の姿が彼らの観念にある神の姿と同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神を裁き、そのため神により嫌悪され、拒絶される。神の最新の働きについて認識を持つのは簡単ではないが、しかし意図的に神の働きに従い、神の働きを求めることができれば、人々は神を見、聖霊の最新の導きを得る機会を得るだろう。神の働きに意図的に反対する人々は、聖霊の啓きや神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けることができるか否かは、神の恵みと、人々の追求と、彼らの意図にかかっている。

聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができ、さらには、古い観念を脇へ置いて、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって予め決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔は人間の言葉では十分明確に表現することはできないので、神はその本来の性質の表現を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を経験した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言葉で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中で人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」その時、あなたは、これほどの多くの言葉を語ったこの普通の人間が本当は神の再来であることをまったく疑う余地なく知るだろう。そしてあなたは自分がいかに祝福されているかを本当に感じ、自分がもっとも幸運であると感じるであろう。あなたはこの恩恵を受け入れたくないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

説教と交わりの参考箇所

終わりの日に、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨して語られ、神の家から始まる裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その御座の前に戻る者たちを完成させます。そして彼らを勝利者の一団とされます。それから、神は大災害をもたらし、終わりの日の神の裁きを受け入れない者たちを精練し、罰するのです。その後、神は雲に乗りすべての人の前に姿を現します。これで、黙示録1章7節の予言は完全に果たされます。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)主が雲に乗り来られる時、彼を刺した者も、彼が見えるのでしょうか?彼を刺した者たちとは一体誰なのでしょうか?このように主イエスを磔にした人たちだという意見もあります。本当にそうでしょうか?その人たちはずっと前に神に呪われ、なきものにされたはずです。現実には、彼らは終わりの日に受肉された神が働かれているときに、神の声を聴かず、全能神を非難した者たちなのです。彼らは自分たちが非難した全能神が待ち望んだ救い主イエスであることを知るのです。胸をたたき泣いて、歯ぎしりをしても、その結果は懲罰しかありません。黙示録には、そのような人々の結末が書かれていないので、我々は知る由もなく、神のみぞ知るのです。今までのところをよく理解してください。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会を持ち、神の玉座の前で子羊の宴に参加し、神により勝利者として完成されます。これによって、黙示録14章4節の予言は果たされます。「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」(ヨハネの黙示録14:4)しかし、主は雲に乗ってくると思い込み、終わりの日の神の働きを探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。特に全能神に激しく抵抗する者は、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆神を再度磔にしました。彼らは大災害に遭遇し懲罰を受けるでしょう。

今日、神の御言葉は広められ、証しされており、あなたたちは、あらゆる国の国民、あらゆる地域の人々の中で、終わりの日の全能神の働きを最初に受け入れる人々の群です。あなたたちは誰よりも祝福されています。……まず、あなたが終わりの日の全能神の働きを受け入れたのは、主イエスが再臨され、主が人の子として受肉して真理を表し、終わりの日の裁きの働きをなさっているのを見たからです。ですから、あなたが受け入れたのは、あなたが携挙されたこと、神の御前に携挙されたことを意味します。主とお会いするために空中に引き上げられたのです。この「空中」とはどういう意味でしょうか。インターネット上で福音を広めて人々を獲得し、インターネット上で話すことが「空中にいる」ということではありませんか。「空中」とはどこにありますか。「空中」は比喩であり、私たちは天にいるのか、地上にいるのかという問題を表しています。正確に言えば、私たちは地上にいますが、神のかたわらでの生活を享受し、御座から流れるいのちの川の水である神の御言葉を飲み食いしているので、第三の天にいるかのように生きています。その実際の意義においては、私たちはどこにいますか。天ですか。それとも地上にいますか。それは言い切れません。ですから「空中に」という語を用いて説明します。今日、あなたたちは小羊との祝宴のため、すなわち神と宴をともにするため、神の御座の前に携挙されたのです。第二に、あなたたちは終わりの日に神によって完全にされる機会を得ました。あなたたちがもしキリストの御座の前で裁きと刑罰によって清められ完全にされるならば、神の承認を得る資格があります。何と膨大な祝福でしょう。これまでの時代の聖徒たちが切望しながらも、そのほとんどが得られなかったものを私たちは得たのです。私たちは最も幸運ではありませんか。第三に、私たちは神の刑罰と裁き、刈り込みと取り扱い、懲らしめと鍛えを受けています。心の中では少し苦しみ、最初は恥ずかしいと思うかもしれませんが、最後には何かを得ます。すなわち、清められ、真理を理解し、神を知るという成果を得るのです。懲らしめられるときは、自分の尊厳と顔を脇にやり、ひざまずいて苦々しく泣き、罪を告白し、悔い改めますが、そのような精錬の期間を経た後、私たちは本当の人間らしく生きるようになります。私たちはますます理知を持ち、良心が目覚め、霊が明るくなり、神を見ます。この行程を完全に確信するようになり、私たちの道はますます明るくなり、ついには完全にされる行程に身を置き、勝利者となるのです。勝利者となるとはどういうことでしょうか。それは大災害の苦しみを経験しないことを意味します。大災害が来るときは、「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない」のです(詩篇91:7)。これは大きな祝福ではありませんか。不信者や宗教者たちは災害に陥り、私たち自身も災害の真っ只中にいるように見えるかもしれませんが、神が私たちと共におられるので、災害は私たちには降りかかりません。あなたたちがもし本当に真理を得たならば、死を味わうことはない、と言っておきます。これらの言葉は真実です。終わりの日の神の約束、最大の祝福が私たちの上に成就するのです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』第百三十巻より

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