質問34:宗教界の牧師や長老たちは聖書をよく知っており、しばしば人々のために聖書を解説し、聖書に執着させます。では、聖書を解説し、掲揚することは本当に主に証を立て、主を賛美することなのですか。宗教界の牧師と長老たちは偽善的なパリサイ人だと言われるのはなぜですか。私たちはまだこの問題がよくわからないので、これに答えていただけませんか。

回答

聖書の解説は人々にとって悪いことではないはずですが、聖書の解説と同時に彼らが実際にしているのは神に抵抗する行為です。それはどのような人でしょうか。偽善のパリサイ人ではありませんか。神に抵抗する反キリストではないでしょうか。なぜ牧師と長老による聖書の解説は神に抵抗しているのですか。なぜ神を断罪しているのでしょうか。理解せず、聖書を解説することは神を褒め称え証しすることだといまだに考えている人もいます。当時のユダヤ教の祭司長も律法学者もパリサイ人もみな聖書の学者であり、人々に頻繁に聖書を解説した専門家でした。聖書を解説することが神を褒め称え証しすることなら、主イエスが教え働きに来られたとき、彼らはなぜ逆に主イエスに猛烈に抵抗し、主を断罪し、ついには政府と共謀して主イエスを十字架につけたのでしょうか。現代の宗教界の牧師と長老もみな聖書に精通しており、長年聖書を解説してきました。聖書を解説することが神を褒め称え証しすることになるなら、全能神が真理を表して裁きの働きに来られたとき、彼らはなぜ求めも考察もしないばかりか、猛烈に抵抗し、断罪するのですか。ここでの問題は何ですか。これはすべての信者が反省すべき深刻な問題ではありませんか。しかも、もし宗教指導者が聖書を解説することが、神を褒め称え証しすることと同じであれば、恵みの時代において、主イエスは到来されたとき、なぜ神殿で働かれなかったのでしょうか。なぜ終わりの日の全能神は到来されても宗教の教会で働かれないのですか。それは宗教指導者がまったく神を褒め称えず、証しもせず、みな偽善の傲慢なパリサイ人だからです。みな宗教界を支配して神に反抗する反キリストです。彼らが神の存在を許したり、宗教界に神の証しをする声があることを認めたりなどどうしてできるでしょうか。もし受肉されたキリストが宗教の中に入られて、宗教の教会で働き教えられたなら、確実に逮捕されて為政者に引き渡され、十字架につけられます。もし人々が神を証しするために宗教の教会に行けば、彼らも確実に逮捕され迫害されるでしょう。主イエスが「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである」(マタイによる福音書 10:16)と仰せられたとおりです。まだ私たちはこの事実がはっきりわからないでしょうか。宗教界のパリサイ人が神に抵抗し、断罪している事実にもとづけば、聖書を褒め称えることが神を証しすることになるかどうかは明確にわかるはずです。神を真に褒め称え証しする人が神に抵抗できますか。神を敵視できるでしょうか。さらに、聖書には神の御言葉だけでなく、人間の言葉も多く含まれていることを私たちはみな知っておくべきです。したがって、聖書を褒め称えることと神を褒め称えることは同じではありません。聖書を守ることと主の戒めを守ることは同じではないのです。宗教界のパリサイ人が聖書を解説するとき、聖書にある人間の言葉の解説、聖書の知識と神学的理論の解説、人間の言葉についての説教と証しに専念しますが、神の御言葉と神が聖書で表された真理を広め証しすることには専念しません。これでも神を褒め称え証ししていると言えますか。これは神に抵抗し、神を裏切っていないでしょうか。そのため、聖書を解説することが神を褒め称え証しすることだと考える人はみな霊的な事柄を理解しておらず、問題の本質を見極めることができません。みな混乱しており、宗教指導者を崇拝し、盲目的に信じて追随しています。これは事実ではないでしょうか。

当時、ユダヤ教のパリサイ人は、聖書の知識と教義の解説、宗教儀式の執り行い、宗教の規則と人間の伝統の遵守にしか専念せず、逆に神の戒めを捨てて神の道から逸れたため、主イエスが来られたとき、彼らは主イエスに猛烈に抵抗し、主を断罪して十字架につけたのです。その結果、神に呪われ、罰せられました。現在の宗教界の牧師と長老は頻繁に人々に聖書を解説し、聖書を証ししますが、神の御言葉を広めて証しすることや、主イエスの御心と人への要求を宣べ伝えることには注意を向けず、主イエスの神性な本質と愛しさを証しすることもほとんどありません。人々を主の御言葉を実践し経験するように導かず、しかもいかに主の戒めを守り神の御心に従うべきかを伝えることにも注意を向けません。聖書にある人間の言葉を解説して賞揚することにしか専念せず、聖書中の人間の言葉を神の御言葉として、実践して守るべき真理として人に扱わせます。彼らが問題を解決するときも、それはほとんど聖書の神の御言葉ではなく、聖書にある人間の言葉にもとづいています。聖書の人間の言葉を用いて、神の御言葉を拒み、御言葉に抵抗するのです。たとえば、天国に入ることの問題について、主イエスは人々に、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)とはっきり仰せられました。しかし牧師と長老は主イエスの御言葉を脇にやり、聖書にある人間の言葉を真理とし、人が天国に入るための基準として扱い、ただ主のために努力して働けば天国に入れると人々に教えます。人間の言葉によって神の御言葉の代わりとし御言葉を拒み、その結果として人々をさまよわせます。これは、宗教界の牧師と長老による神への抵抗の最も陰湿で悪意のある側面です。彼らは聖書を文脈から離して解釈し、聖書にある人間の言葉を用いて全能神に抵抗し、全能神を断罪し、あの手この手で信者を惑わして縛り、支配し、信者が終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れるのを妨げ、しっかり自分たちの支配下に収めます。全能神が仰せられるとおりです。「各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、聖書を背景から切り離し、自分自身の想像によって解釈します。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らが何も説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはりいくらか知識があるにはあるので、何らかの教義を説くことができたり、人を味方に引き入れたり策略を用いたりする方法を知っていします。彼らは人々を自分たちの前に連れてきて騙すためにそれらを利用します。名目上、人々は神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、『私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない』と言う人がいます。彼らの信仰は人間を通さなければならないのです。これは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。」(『キリストの言葉の記録』の「真理の追求だけが神への真の信仰である」より)こうした事実にもとづくならば、宗教界の牧師と長老が聖書を解説することは神を褒め称え証しすることだとどうして言えるでしょうか。彼らは聖書を解説する機会を利用して、聖書を曲解し、内容を文脈から離して神に抵抗してはいませんか。彼らははるか以前から、人が真の道を受け入れて神に立ち戻ることの障害かつつまずきの石となっており、まさに終わりの日の全能神の働きに暴かれた反キリストです。まだ私たちにはこの事実がはっきりわからないでしょうか。

人の観念によれば、聖書を解説することは、神を褒め称え証しすることと同じですが、パリサイ人や宗教指導者による聖書の解説からは、実際にはそうではないことがわかります。宗教界のパリサイ人が褒め称え証ししているのは、神ではなく聖書です。彼らの説教はおもに神の御言葉ではなく聖書の中にある人間の言葉を解説しています。聖書にある神の御言葉を人間の言葉で代替し、御言葉に抵抗し、聖書にある人間の言葉を文脈から外すことで神に抵抗し、神について結論を出します。彼らが聖書を解説する目的は、神を褒め称え証しすることではなく、人を惑わし、支配し、自分たちの卑劣な目的を遂げることです。このように聖書を解説することは、神に抵抗して悪事を働くことになります。そのため、神が働きに来られるとき、彼らは聖書を用いて人々をしっかり押さえつけて、聖書を盲信し、聖書にしがみつくようにさせ、神に抵抗する道に一人残らず連れて行きます。このことは、パリサイ人と宗教指導者による聖書の解説が神に抵抗する手段であることを示しています。彼らは、聖書にある人の言葉を完全に文脈から切り離して神に抵抗して反抗し、自分たちの独立王国をうち立てようとしています。それでは、神を褒め称え証しするには、いかに聖書を解説するべきでしょうか。聖書に記されているのは、神の働きと神の証しです。聖書を解説するということは、聖書にある神の御言葉と真理に従って神を褒め称え、証しすることです。聖書の神の御言葉を広め、証しすることです。神の要求どおりに、神の御言葉にもとづいて神の御旨を伝え、御言葉にある真理を伝えることです。神の働きと神の性質について人に証しし、神の本質と神の愛しさを証しすることです。人々を神の御言葉の実践と経験に導き、そうして人々が神の御言葉の現実に入っていけるようにすることです。万事において主イエスを褒め称え、証しすることです。このように聖書を解説することによってのみ、神を褒め称え証しし、神の心に従い、真に神に仕えているのです。聖書にある人間の言葉は参照と補足にしかならず、神の御言葉とは決して比較になりません。しかし宗教界の牧師と長老は、聖書中の人間の言葉を解説することにしか関心がありません。彼らは聖書中の人間の言葉を神の御言葉、真理として扱い、自分たちの行動とふるまいの指針として、自分たちが問題を処理する方法の基礎として用います。しかし神の御言葉に言及することはほとんどなく、神の御言葉を人間の言葉で代替し、御言葉をないがしろにします。聖書をそのように解説することは、神に証しすることですか。これは、単に人間を褒め称え証しすることではないでしょうか。また、彼らは聖書を解説するとき、神学理論を解説して、聖書に登場する人物や場所や歴史的背景を解説して自己顕示することにしか専念しません。これは単に人を惑わし罠にかけることではありませんか。人に自分たちを崇拝させ、従わせることではないでしょうか。当時、あの偽善のパリサイ人は聖書を解説する機会を利用して聖書を曲解し、人々を惑わして支配し、ついには信者を人間に追随して神に抵抗する道に引き込み、ユダヤ教を神に反抗する独立王国に変えました。終わりの日においても、宗教界の牧師と長老は聖書解説を利用して人々に盲目的に聖書を信じさせて崇拝させ、人々の心の中の神の居場所を聖書の居場所にし、信者に知らず知らずのうちに主の御言葉を裏切って神に抵抗する道を歩ませ、またしても宗教界を神に反抗する独立した王国、神の働きに抵抗する堅固な要塞に変えています。彼らのように聖書を解説することは神に抵抗し、神を冒涜することではありませんか。これこそ、神に敵対して自分たちの独立王国を立てた反キリストのパリサイ人の惑わしではありませんか。どうしてそれが神を褒め称え証ししていると言えるでしょうか。宗教界のパリサイ人による神への抵抗における狡猾さは、聖書を解説する機会を利用して聖書を曲解することで人々を惑わして支配しようとしていることにあります。聖書はもともと神の証しでした。私たちの観念では、聖書をいかに解説しても、常に神の証しをしていることになります。しかし偽善のパリサイ人は私たちのこの観念を利用して、聖書を褒め称え証しすることに全力を尽くしています。聖書を利用して神の代わりとし、神に抵抗し、私たちを惑わそうとします。こうして私たちはみな盲目的に聖書を信じて崇拝するようになり、彼らのような聖書学者を崇拝して彼らに追随し、神を裏切るようになります。これは、サタンが神に抵抗して人々を惑わすための最も陰湿で狡猾な惑わしであり、私たちにとって最も見極めにくく、最も惑わされやすい側面です。

全能神の御言葉を二節見てみましょう。「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より)「最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、『不屈の英雄』と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの『神聖で犯すべからざる』本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で『王』となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より)明らかに、宗教界の牧師と長老は頻繁に聖書を解説しますが、真理を理解してもいなければ、神を知りもしないのです。彼らこそ偽善のパリサイ人です。人々を惑わして支配し、縛って害する偽りの羊飼い、偽りの働き人です。彼らはキリストを否定してキリストを断罪するように人々を導き、神に抵抗して神に敵対するまでにして、みなをサタンの共謀者、操り人形に変えます。これは明白な事実ではありませんか。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

主を誠に証し讃えることは、聖書を解釈することとは違う。神の言葉や働きに忠実でいることが重要なのです。真理を愛するのであれば、聖霊の啓示に加え、神の経験と認識を得ることができます。この認識は、神の言葉を実践し体験することから生まれ、誠に神を知るということ。これらの経験と証を伝えることが、神を讃え神に証するということです。神を讃え証する人が言う真の神への認識とは、自分の考えや想像、道理や神の言葉をそのまま解釈することではない。神を讃え証する人は、聖書の中の神の言葉を伝え、人々が神の御心と性質を理解し、誠に神を知ることができるよう。神の御心や要求などを伝えることに、心を配っているのです。これこそが神をあがめ従うための方法です。このような解釈と伝え方で神を讃え、証することができるのです。しかし、牧師や長老たちは、聖書や神の言葉の本質を伝えていますか?神の心を伝えていますか?神の性質を証言できていますか?神を知り従えるよう他者を導いていますか?よくわかりましたね。宗教界の牧師や長老たちは、真理を忌み嫌い、神に反抗している。神の言葉や働きさえ無視しているのです。神の御心や要求を理解しようとせず、ましてや神の性質すら理解していません。そのために、神への認識を伝えることはなく、主イエスの神性の本質について証することもできません。彼らは単に、聖書の知識と神学的な理論や登場人物の話を適当にかいつまんで解釈し、人々の尊敬を得ようとしているだけなのです。

それどころか、大抵はパウロのような聖書に出てくる人の言葉を解釈し、「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものという」パウロの言葉をうけ、聖書はすべて神の言葉と思っています。宗教界では、使徒の言葉を神の言葉として実践するよう信者に教えるようになってしまったのです。彼らは説教や伝道や証言を行う時、これまで以上に使徒の言葉を引用しますが、神と主イエスの言葉の引用は少なくなる一方です。結果的に、聖書にある神と主イエスの言葉はすべて置き換えられ、無効にされています。パウロや他の使徒の影響がどんどん大きくなり、人々の心の中の主イエスの存在は小さくなってしまい。パウロとその他の者の言葉で人の心はいっぱいになっています。主イエスんの名を信じる人々は、実のところ、パウロの言葉のような聖書の中の人間の言葉によって、信仰の道を進んでいます。このままでは、神の道を正しく歩めません。このような行いは神の御心に従えない。主イエスは天の国について言われました。「天にいますわが父の御旨を行う者だけが入る」(マタイによる福音書7:21)しかしながら、牧師や長老はパウロの言葉で天国について語っています。これは主イエスに対しての裏切りであり、その結果信者のほとんどはどう神の心に従えばいいのかわからず、またどのような人が天の国に入れるかもわかりません。人々は次のパウロの言葉を教訓としています。「わたしは戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテへの第二の手紙4:7-8)牧師や長老は、パウロのように主のために働き、苦しみに耐えれば、天の国に入れると、神の言葉を排して、人の言葉で教えることで、人々を惑わしているのです。このような聖書の解釈で、神を証していると言えますか?彼らは神に真っ向から対立しています。これは非常に深刻な問題です!これによってどういうことになるか。もうご存知ですよね?長年信じてきたのに、多くの人が主を知らないのです。彼らはなぜ主の言葉を体験していないのでしょうか?主を信じている人は、真理と命をどのように得られるでしょうか?これは牧師や長老たちが人物の言葉を解釈し証し続けて、これらの言葉を守るよう人々を促してきたからでしょう。

終わりの日の全能神は、宗教界の牧師や長老たちが反キリストであると暴くでしょう。もし、そうでなかったら、彼らの聖書の解釈が人々を操るための手段とはわからず…彼らが神の敵として国を築こうとしているとも気づきません。その昔、パリサイ人は聖書を讃え証しました。聖書の中に神を押し込めたのです。真理や神の足跡を追うことはありませんでした。主イエスが旧約聖書の遵守を拒否したとして十字架に磔にしました。深刻な罪を犯したのです!終わりの日、牧師や長老たちはまさにパリサイ人のようです。彼らは聖書を讃え証し、聖書によって神を定義し、「神の言葉や御業は聖書以外には存在しない」「聖書を信じるということは神を信じるということである」などと誤った考えを広めています。聖書を信じ崇拝するように人々を迷わせ、聖書が神であるかのようにふるまい、神を聖書で置き換えてしまっています。牧師や長老たちはこの手の込んだ秘密のやり方で、神から人々を奪い、聖書へと導いているのです。その結果、かつて神を信じた人たちも、今となっては聖書のみを信じています。彼らにとっては聖書が主であり、神になってしまい。その盲目的な信条と崇拝は牧師や長老などを崇拝する原因となっています。牧師や長老は聖書を宗教界を操り、彼らの野心を遂げるための道具として使い、人々を騙し、陥れ操るために讃えて、都合よく解釈をしているのです。彼らは人々が人を崇拝し従い、神の敵となるように導いています。彼らは聖書を崇拝し守ることが神の存在を得るという誤った考えを広め、終わりの日の神の働きを学ばず、救われる最後のチャンスを逃しています。これこそ、サタンの陰険で狡猾な計画です。まさに、宗教界における牧師や長老は本物のパリサイ人か詐欺師です。彼らは偽の羊飼いであり、反キリストなのです。宗教界は神に反抗するパリサイ人と反キリストの悪魔に操られ、神が働きを行える場所ではない。神を敵と見なすサタンの陣営、大いなる都市バビロンになってしまったのです。神の怒りの下にこの宗教的バビロンは崩壊します。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

前へ: 質問33:主イエスが働きを行うために出現なさったとき、ユダヤ教のパリサイ人は激しくイエスに反抗し、イエスを断罪し、十字架に釘付けにしました。今や、終わりの日の全能神がその働きを行うために出現なさり、宗教界の牧師と長老たちはまた激しく神に反抗し、神を断罪し、再び神を十字架に釘付けにしようとしています。なぜユダヤ教のパリサイ人や宗教界の牧師や長老たちはそれほどに真理を憎み、このようにキリストに対立するのですか。彼らの本性と本質は何なのでしょうか。

次へ: 質問35:宗教界のほとんどの人々は、牧師と長老たちは主によって選ばれ任命されたのであり、彼らはみな教会内で主に奉仕していて、私たちがそのような牧師と長老たちに従い彼らに言われるとおりにするならば、実際に主に従い主に言われるとおりにしていることになると信じています。人に従い人に言われるとおりにするということの正確な意味、神に従い神に言われるとおりにするということの正確な意味については、ほとんどの人が真理のこの側面を理解していません。これについて私たちに話してください。

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