第5章 神の働きを認識することについての重要な言葉

146. 神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身なのだから、前の時代を終わらせるのも神自身でなければならない。それは、神がサタンを打ち負かし、世界を征服する証拠である。神自身が人々のもとで働くたび、それは新しい戦いの始まりとなる。新しい働きの始まりがなければ、当然古い働きの終わりもない。そして古い働きの終わりがなければ、サタンとの戦いがまだ終結していないことを証明している。神自身が来て人のあいだで新しい働きを実行して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しい生活、新しい始まりを得ることができる。そうでなければ、人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。それぞれの時代が神によって導かれることで、人間の一部は自由になり、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きとともに前進する。神の勝利とは、神に従うすべての人の勝利である。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からだろうと、サタンの視点からだろうと、それは神に反抗する行ない、あるいは神を裏切る行ないに過ぎず、神に対する従順さの行ないではないのであって、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうだろう。神自身によって始められた時代の中、人が神に服従し、付き従うのでなければ、サタンを完全に納得させることはできない。それが被造物の本分だからである。ゆえに言っておくが、あなたがたに必要なのは付き従って服従することだけで、それ以上のことは求められていない。これが、各自が自分の本分を守り、それぞれの役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神に代わってそうすることを必要としておらず、被造物の働きに神が参加することもない。人は自分自身の本分を尽くするのであり、神の働きに参加することはない。これだけが本当の服従であり、サタンが敗北した証拠である。新しい時代の到来を告げたあと、神自身が自ら人類のあいだで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を尽くし、被造物としての使命を果たすべく、新しい時代へと正式に足を踏み入れるのである。これが、神が働きを行なう原則であって、誰も背くことはできない。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身によってなされる。神の働きを始動させるのは神であり、それを終わらせるのも神である。働きを計画し、経営するのも神であり、それ以上に、働きを結実させるのも神である。聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営の働きに関連することはすべて神自身によって行なわれる。神は六千年にわたる経営計画の支配者で、誰も神の代わりにその働きを行なうことはできず、神の働きを終わらせられる者もいない。なぜなら、すべてをその手に掌握しているのは神だからである。世界を創造した神は、全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより自身の計画をすべて成就させるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より引用

147. すべての人々は地上におけるわたしの働きの目的、つまり、わたしが最終的に何を得ようと望んでいるかと、この働きが完成するまでに、その中でどの程度達成しなければならないかを理解する必要がある。今日までわたしとともに歩みながら、わたしの働きが一体何であるのかを理解していないならば、人々はむだにわたしと歩んできたのではないのか。わたしに従う人々は、わたしの旨を知るべきである。わたしは地上において何千年も働いてきたのであり、今日に至るまでこのように働き続けている。わたしの働きには多くの項目が含まれているものの、その目的は変わらないままである。例えば、わたしが人間に対する裁きと刑罰で満ちていても、わたしの行なうことはやはり人間を救うためであり、また人が完全にされたあと、わたしの福音をよりよく広め、あらゆる異邦人の国においてわたしの働きをさらに展開するためである。ゆえに、多くの人がずっと以前から失望に沈んでいる今日でも、わたしはいまだに働きを続けており、人を裁いて罰するために行なうべき働きを続けているのである。人はわたしの言うことにうんざりしており、わたしの働きに関わりたくないと思っているが、それにもかかわらず、わたしはいまだに自分の務めを果たしている。なぜなら、わたしの働きの目的は変わらないままであり、わたしの本来の計画は打ち破られることがないからである。わたしの裁きが果たす役割は、人間がわたしによりよく従えるようにすることであり、わたしの刑罰が果たす役割は、人間がより効果的に変化できるようにすることである。わたしが行なうことはわたしの経営(救い)のためであるものの、わたしはこれまでに人間に有益でないことを行なったことはない。それは、イスラエルの外にわたしが足場をもてるよう、イスラエルの外のあらゆる民族をイスラエル人と同じくらい従順にし、彼らを真の人間にしたいからである。これがわたしの経営であり、わたしが異邦人の諸国のあいだで成し遂げている働きである。今でさえ、多くの人が依然わたしの経営を理解していない。そのようなことに関心がなく、自分自身の将来と終着点だけを気にかけているからである。わたしが何を言おうと、人々はわたしの行なう働きに無関心なままで、その代わりに将来における自分の終着点だけに集中している。このままであれば、どうしてわたしの働きが拡大できるだろうか。どうしてわたしの福音が世界中に広まるだろうか。わたしの働きが広まるとき、わたしはあなたがたを散り散りにし、ちょうどヤーウェがイスラエルの諸部族の一つひとつを撃ったようにあなたがたを撃つことを、あなたがたは知るべきである。これはすべて、地球のいたるところにわたしの福音が広まり、異邦人の諸国のもとに届き、わたしの名が大人にも子供にも賛美され、わたしの聖なる名があらゆる国々、あらゆる民族の人々の口から褒め称えられるようにするためである。それは、この最後の時代において、わたしの名が異邦人の民族のあいだで賛美され、わたしの業が異邦人たちに見られ、わたしの業ゆえに彼らがわたしを全能者と呼び、わたしの言葉がまもなく実現されるようにするためである。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含むあらゆる異邦人の民族の神であることを、わたしはすべての人々に知らしめる。わたしがすべての被造物の神であることを、わたしはあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日に向けた働きの計画の目的、そして終わりの日に成就される唯一の働きである。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」より引用

148. 数千年にわたる神の計画のうち、二つの働きが肉において行われた。一つは磔刑の働きであり、これゆえに神は栄光を受ける。もう一つは終わりの日における征服と完成の働きであり、これゆえに神は栄光を受ける。これが神の経営である。従って、神の働きや、あなたがたに託された神の任務が簡単なものだと思ってはならない。あなたがたはみな、神が溢れんばかりにもたらす永遠の栄光の重みを受け継ぐ人なのであり、このことは神によって特別に定められたのである。二つの部分から成る神の栄光のうち、一つはあなたがたにおいて現れる。神の栄光の一部分がことごとく、あなたがたに授けられるのだが、それがあなたがたへの遺産となろう。そのことは、神があなたがたを称揚しているのであり、はるか昔に神が予定した計画でもある。赤い大きな竜が住む地で神がなした働きの偉大さからすれば、この働きがもしも別の場所に移されていたら、とうの昔に大きな実を結び、人にたやすく受け入れられたことだろう。さらには、神を信じる西欧の聖職者にも実に易々と受け入れられたはずだ。イエスによる働きの段階が前例としてあるからである。これが、神が現段階の栄光の働きを別の場所では成し遂げられない理由である。人々に支持され、国家に認められる立場では、それを確立させることができない。これがまさに、この地で現段階の働きを確立させることの重要な意義である。あなたがたのうち、法律で守られている人は一人もいない。むしろ法律により処罰されている。さらに問題なのは、人々があなたがたのことを理解しないことである。親戚であれ、親であれ、友人であれ、同僚であれ、誰一人あなたがたのことを理解しない。神に「捨てられ」たら、あなたがたは地上で生き続けることができない。たとえそうでも、人々は神から離れていることに耐えられない。それが、神が人々を征服することの意義であり、神の栄光なのである。今日あなたがたが受け継いだものは、各時代の使徒や預言者が受け継いだものを超えており、モーセやペテロが受け継いだものよりも大きい。一日二日で祝福を得ることはできない。祝福は、多大な犠牲を通じて獲得されなければならない。つまりあなたがたは、精錬を経た愛、大きな信仰、そして神があなたがたに獲得することを求めている、数多くの真理を自分のものにしなければならない。さらには、怯えることも逃げることもなく、正義に真正面から向き合い、神に対して不変かつ衰えることのない愛をもたなければならない。あなたがたは不屈の意志をもたなければならず、自分のいのちの性質に変化が生じなければならず、堕落は癒されなければならず、神の指揮をことごとく、不平を言わずに受け入れなければならない。また、死に際しても従順でなければならない。これが、あなたがたが達成すべき神の働きの最終目標であり、神がこの人々の集団に求めることである。神は、あなたがたに与えるからには、必ずや見返りを求め、適切な要求をあなたがたにする。ゆえに、神の働きにはすべて理由があるのであって、そのことは、神がかくも厳密かつ過酷な働きを繰り返し行う理由を示している。それゆえ、あなたがたは神への信仰で満ちていなければならない。つまり、あなたがたが神の遺産を受け継ぐにふさわしくなれるよう、神の働きはことごとくあなたがたのために行われるのである。それは神自身の栄光のためではなく、あなたがたの救いのため、そして不浄の地でひどく苦しんできたこの人々の集団を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。そこでわたしは、洞察力も理知もないあまたの無知な人に忠告する。神を試すな。神に二度と抵抗するな。神は、人には耐えられない苦しみをすでに耐え忍んできた。人に代わって、はるか以前にもっとひどい屈辱を耐え忍んだ。あなたがたに手放せないものなど他にあろうか。神の旨以上に大事なものがあろうか。神の愛以上に高いものがあろうか。この不浄の地で神が働きを成し遂げることだけでも、十分困難である。その上、もし人が分かっていながら意図的に過ちを犯したら、神の働きは延長せざるを得ない。要するに、延長など誰のためにもならず、誰の利益にもならないのである。神は時間に縛られない。神の働きと栄光が最優先である。ゆえに神は、どんなに時間がかかろうとも、自身の働きのためにあらゆる代価を支払う。これが神の性質である。神は自身の働きを全うするまで休まない。神が二つ目の栄光を獲得して初めて、神の働きは終わる。全宇宙において神の二つ目の栄光が完成しなければ、神の日は決して到来せず、神の手は自身の選民から決して離れず、神の栄光はイスラエルの上に降りず、神の計画は完結しない。あなたがたは、神の旨を見ることができなければならず、また神の働きが天地と万物の創造ほど簡単なものではないことを知らなければならない。それというのも、今日における働きとは、感覚が麻痺しきっている堕落した人間を変えることであり、創造されながらサタンによって加工されてしまった人たちを清めることだからである。それはアダムとエバの創造でもなければ、まして光やあらゆる動植物の創造でもない。神は、サタンに堕落させられたものを清めたあと、それらを新たに自分のものとする。それらは神に属するものとなり、神の栄光となる。これは人が想像するようなことではなく、天地とそこにある万物の創造、あるいはサタンを奈落の底に突き落とす呪いの働きほど簡単なことでもない。むしろ、それは人を変える働きであり、否定的で神に属さないものを、肯定的で神に属するものへと変えるのである。これが、現段階における神の働きの背後にある真実である。あなたがたはこのことを理解し、物事を過度に単純化することを避けなければならない。神の働きは普通の働きとは違う。その素晴らしさと知恵は人の知性を超えている。現段階の働きにおいて、神が万物を創造することはないものの、万物を破壊することもない。代わりに、自身が創造した万物を変え、サタンに汚された万物を清める。神はこのようにして偉大な事業へと乗り出すのであり、それが神の働きの全体的な意義である。

『言葉は肉において現れる』の「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」より引用

149. ヤーウェの働きは世界の創造であり、始まりだった。この段階の働きは働きの終わりであり、終結である。最初に、神の働きはイスラエルの選民のあいだで実行され、最も聖なる地における新しい時代の夜明けだった。最後の段階の働きは、世界を裁き、時代を終わらせるために最も汚れた国で実行される。最初の段階において、神の働きは最も明るい地で行なわれたが、最後の段階は最も暗い地で実行され、この暗闇は一掃され、光がもたらされ、すべての人が征服される。この最も汚れた、最も暗い場所にいる人々が征服され、すべての人が神の存在と誰が真の神であるかを認め、あらゆる人がすっかり確信したとき、この事実は征服の働きを全宇宙で行なうのに用いられるだろう。この段階の働きは象徴的である。ひとたびこの時代の働きが終わると、六千年にわたる経営の働きは完全に終わりを迎える。ひとたび最も暗いこの場所にいる人々が征服されると、他のあらゆる場所でもそうなることは言うまでもない。そのように、中国における征服の働きだけが、象徴としての意味をもつ。中国は闇のすべての勢力を具現化しており、中国の人々は肉なる者、サタンの者、そして血肉による者を表わしている。赤い大きな竜によって最も堕落させられ、神に最も反抗し、人間性が最も卑しく汚れているのは中国人である。だから彼らは堕落した全人類の典型なのである。これは、他の国々にはまったく問題がないということではない。人間の観念はどれも同じである。他国の人々は優れた素質をもっているかもしれないが、神を知らなければ、彼らは神に逆らっているはずである。なぜユダヤ人も神に逆らい、神を拒んだのか。なぜパリサイ人も神に逆らったのか。なぜユダはイエスを裏切ったのか。当時、弟子の多くはイエスのことを知らなかった。なぜ人々は、イエスが十字架にかけられ、そして復活した後でさえもイエスを信じなかったのか。人間の不服従はどれも同じではないのか。中国の人々は単にひとつの例にされたというだけである。征服されたとき、彼らは模範、見本となり、他の人々の参考として役立つだろう。あなたがたはわたしの経営計画の付属物であると、わたしが常に言ってきたのはなぜか。堕落、汚れ、不義、敵対、そして反抗が最も完全に現われ、あらゆる形で示されているのは、中国の人々においてである。中国人は素質に乏しい一方、中国人の生活と考え方は遅れており、習慣、社会環境、そして生まれ育った家族など、すべてが劣っており、最も遅れている。地位もまた低い。この場所での働きは象徴的で、この試験的な働きがすべて実行された後、神の次の働きはもっと順調に進むだろう。もしこの段階の働きが完了し得るなら、次の働きもそうなるのは言うまでもない。この段階の働きが達成されたなら、大いなる成功がおさめられ、全宇宙におよぶ征服の働きは完全に終わりを迎えるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より引用

150. 今モアブの子孫に働きを行なうことは、最も暗い所へ落ちた者を救うことである。モアブの子孫は呪われたが、神は彼らから栄光を得ることをいとわなかった。なぜならモアブの子孫は皆、当初は心に神のいない者だったからである。心に神のいない者を神に従い神を愛する者にすることだけが真の征服であり、そのような働きの成果が最も価値があり、最も説得力がある。それだけが栄光を得ることであり、それが終わりの日に神が獲得したい栄光である。地位が低いものの、その人たちが今そのような偉大な救いを得られることは、まさに神に高く揚げられることである。この働きは極めて意義深く、神は裁きを通してこの人たちを獲得する。神の意図は彼らを罰することではなく、救うことである。もしも終わりの日に、神が依然としてイスラエルで征服の働きを行なっていたならば、それは無価値である。たとえその働きに成果があったとしても、少しの価値も大きな意義もなく、神は全ての栄光を得られないであろう。神は、あなたがた最も暗い所に落ち、最も遅れている人たちに働きを行なっているのである。この人たちは神が存在することを認めず、神が存在することを未だに知らずにいる。このような被造物は、神のことを忘れてしまうほどサタンに堕落させられている。彼らはサタンに盲目にされ、天に神が存在することを全く知らない。あなたがたは皆、心の中で偶像とサタンを崇拝している。あなたがたは最も賤しく、最も遅れた人間ではないのか。あなたがたは最も賤しい肉であり、個人的な自由などなく、また苦難している。また、あなたがたはこの社会において最低の地位にあり、信仰の自由さえない。ここにあなたがたに働きを行なう意義がある。

『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの意義」より引用

151. 神は人々のこの集団を、宇宙全体におよぶ神の働きの唯一の焦点に据えた。神はあなたがたのために、心血を残らず注いだのである。神は宇宙全体の霊の働きをことごとく取り戻し、あなたがたに与えてきた。だからわたしは、あなたがたは幸運な人たちだと言うのである。そのうえ、神はイスラエルから、すなわち自身の選民からあなたがたへと自らの栄光を移し、この集団を通じて自身の計画の目的が完全に現れるようにする。ゆえに、あなたがたが神の遺産を受け取る者である。それ以上に、あなたがたは神の栄光の相続人である。あなたがたはみな、この言葉を覚えているだろう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」。あなたがたはみな、この言葉を以前耳にはしたが、その本当の意味は誰も理解していなかった。今日、あなたがたはこの言葉の真の意義を深く認識している。この言葉は、神によって終わりの日に実現され、また、赤い大きな竜がとぐろを巻く地で、その竜から熾烈な迫害を受けている人たちにおいて成就する。赤い大きな竜は神を迫害し、神の敵であるから、この地において、神を信じる者は辱めと迫害を受け、またその結果として、神の言葉があなたがた、つまりこの人々の集団において成就する。神の働きは、神に敵対する地で始まるので、その働きはことごとく熾烈な妨害にあい、神の言葉の多くが成就するまで時間がかかる。したがって、人々は神の言葉の結果として精錬されるのだが、それはまた苦難の一部でもある。赤い大きな竜の地で、神が自身の働きを成し遂げるのは非常に困難である。しかし、神はこの困難を通じて働きの一段階を行い、自身の知恵と不思議な業を明らかにし、これを機にこの人々の集団を完全にする。また、人々の苦しみ、人々の素質、そしてこの不浄の地にいる人々のあらゆるサタン的性質を通じて、神は清めと征服の働きを行うが、それは、このことを通じて栄光を勝ち取るため、自身の業を証しする人々を得るためである。これが、この集団のために神が払ったあらゆる犠牲の全体的な意義である。つまり、神は自身に盾突く者を通じて征服の働きを行い、またそれを通じてのみ、神の偉大な力が明らかになるということである。言い換えれば、不浄な地に住む者だけが神の栄光を受け継ぐに値するということであり、そうしてこそ神の偉大な力が浮き彫りになる。ゆえにわたしは、神の栄光は不浄の地から、また不浄の地に住む人々から獲得される、と言うのである。それが神の旨である。イエスによる働きの段階も同じだった。イエスは自分を迫害するパリサイ人の中でこそ栄光を受けることができた。パリサイ人による迫害とユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されることも、中傷されることもなく、ましてや十字架にかけられることもなかっただろう。それゆえ栄光を得ることもなかったはずだ。神が各時代に働くところ、神が肉において働くところは、神が栄光を得るところ、神が得ようとする人たちを得るところである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

『言葉は肉において現れる』の「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」より引用

152. 六千年にわたって行われてきた働きは、その全体が時代とともに徐々に変化してきた。この働きに見られる変化は、世界全体の情勢と、人類の全体的な発展の傾向に基づいて起こったものであり、経営の働きはただそれらに従って徐々に移り変わってきたのである。創世の当初からすべてが計画されていたわけではなかった。世界の創造の前やその直後、ヤーウェはまだ働きの最初の段階である律法の時代、第2の段階である恵みの時代、第3の段階である征服の時代を計画していなかった。第3の段階である征服の時代には、神が最初にモアブの子孫の一部に対して働きを行い、それを通して宇宙全体を征服することになる。神は世界の創造の後、そうした言葉を一切語らず、モアブの後にもそれを語ることはなかった。実際、ロトの前にはそれらを一切語らなかったのだ。神の働きはすべて自然発生的に行われる。六千年にわたる神の経営の働きは、まさにこのようにして進められてきたのであり、世界の創造の前に神が「人類の発展の概略図」のような形で計画を書き出すことは一切なかった。神はその働きにおいて、神の存在そのものを直接的に表現するのであり、知恵を絞って計画を練り上げるのではない。もちろん数多くの預言者たちが無数の預言を語ってきたが、それでも神の働きが常に綿密な計画に基づいているとは言えない。そうした預言は、当時の神の働きに従って行われたのだ。神の働きはすべて、最も現実的な働きである。神はそれぞれの時代の進展に従って自身の働きを遂行し、物事の変化をその働きの基盤とする。神にとって働きを行うことは、薬を用いて病気を治療することに似ている。神は自身の働きを行う際、観察をし、その観察に従って働きを続行する。神は自らの働きのどの段階においても、その豊かな英知と能力を表現できる。神はどの時代においても、その時代の働きに合わせて自らの豊富な知恵と権威を露わにし、その時代に神によって連れ戻された者すべてが、神の性質の全体を目にできるようにする。神はそれぞれの時代に実行されるべき働きに基づいて人々の必要を満たし、自身のなすべき働きを実行する。神は人々がサタンに堕落させられた程度に応じて、人々の必要を満たす。……人間の間での神の働きは一つとして、世界の創造時には準備されていなかった。むしろ神は状況の推移によって、人間に対する働きを一つ一つ、より現実的かつ実際的に行えるようになったのだ。たとえばヤーウェ神は、女を誘惑するために蛇を創造したわけではなかった。それは神の特別な計画でも、意図的に定めたことでもなく、思いがけない出来事だったと言える。ヤーウェがアダムとエバをエデンの園から追放し、二度と人を創造しないと誓ったのは、まさにそのためである。しかしこの根拠によってこそ、人は神の知恵を見出すことができる。それはわたしが以前、「わたしはサタンの策略に基づいてわたしの知恵を発揮する」と言った通りだ。人間の堕落がどれだけ進んでも、蛇がいかに人間を誘惑しても、ヤーウェは依然として神の知恵を備えている。それゆえ、神は世界の創造以来ずっと新しい働きに携わっており、その働きの各段階はこれまで一度も繰り返されたことはない。サタンは継続的に策略を実行しており、人間はサタンに堕落させられ続けていて、ヤーウェ神は休むことなくその賢明な働きを遂行している。神は一度も失敗したことがなく、世界の創造以来一度も働きをやめたこともない。人間がサタンによって堕落させられた後、神は人間の堕落の根源であるその敵を打ち負かすため、人々の間で働き続けてきた。その激しい戦いは創世のときから行われており、世界の終わりまで続くだろう。こうしたすべての働きを行う中で、ヤーウェ神はサタンに堕落させられた人間が自らの素晴らしい救いを得られるようにしてくれただけでなく、自らの知恵、全能性、そして権威も目のあたりにさせてくれた。そして最終的には、自らの義なる性質も明らかにし、邪悪な者を罰して正しい者に報いることになる。神は今日までサタンと戦ってきて、一度も負かされたことはない。それは神が知恵に満ちており、サタンの策略に基づいてその知恵を発揮しているからだ。それゆえ神は天のあらゆるものを自らの権威に従わせるだけでなく、地上のすべてのものを自身の足台の下に置き、そしてなによりも人間を侵害し悩ませる邪悪な者に神の刑罰を受けさせる。こうしたすべての働きの結果は、神の知恵によってもたらされる。神は人間が存在する前に自らの知恵を露わにしたことは一度もない。それは天にも地にも全宇宙のどこにも神に敵がおらず、自然界の何物をも侵害する闇の力は存在しなかったからである。大天使が神を裏切った後、神は地上に人間を創造し、そして人間のために、何千年にも及ぶ大天使サタンとの戦いを正式に開始したのだ。その戦いは段階が進むごとにますます過熱しており、神の全能性と知恵はそうした段階の一つ一つに示される。そのとき初めて、天地のすべてのものが神の知恵、全能性、そして特に神の実在を目撃したことになる。神は今日に至るまでこの同じ現実的な方法で自らの働きを実行し続けており、さらに自らの働きを実行する中で、自身の知恵と全能性を露わにしている。神はあなたがたに働きの各段階の背後にある真実を見せ、神の全能性を具体的にどう説明すればよいかを理解させ、さらに神の実在の決定的な説明を目のあたりにさせてくれるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」より引用

153. わたしの計画において、サタンは一歩ごとにかかとに噛み付いてきたのであり、わたしの知恵の引き立て役としてわたしの本来の計画を邪魔をする方法と手段をつねに探っている。しかし、わたしがサタンの欺きに満ちた策略に屈するものだろうか。天と地のすべてはわたしに仕えている。サタンの欺きに満ちた策略も同様ではないのか。これはまことにわたしの知恵の交わるところ、これはまことにわたしの業の驚くべきところであり、これはまことにわたしの全経営(救いの)計画が実行される原則である。神の国を建設する時代においても、わたしはサタンの欺きに満ちた策略を避けず、なすべき働きを続ける。宇宙と万物の中で、わたしはサタンの行いをわたしの引き立て役に選んだ。これはわたしの知恵ではないのか。これはまさに、わたしの働きの驚くべきところではないのか。神の国の時代に入る際には、天と地のあらゆる物事が大きな変化を遂げ、祝い、喜ぶ。あなたがたも同じなのではないのか。誰が蜂蜜のように甘い思いを心に抱かないだろうか。誰が心に喜びがあふれないだろうか。誰が喜び踊らないだろうか。誰が賛美の言葉を語らないだろうか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第八章」より引用

154. 赤い大きな竜の国家で、わたしは人々に理解し難い働きの段階を実行し、彼らを風の中で揺らす。その後、多くの者が風に吹かれて静かに漂い去る。これこそまさに、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それはわたしが切に願っていることであり、またわたしの計画でもある。というのも、わたしが働いている間に多くの悪い者たちが忍び込んだからだ。しかしわたしは彼らを追い払うことを急いではいない。適切な時が来たら、彼らを追い散らすつもりだ。そうして初めてわたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がわたしからいちじくの実やゆりの香りを受け取れるようになる。サタンがとどまる塵の地には、砂があるだけで純金は残っていない。こうした状況なので、わたしは働きのこのような段階を実行するのだ。わたしが自分のものとするのは砂ではなく、精錬された純金であることを知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残れるだろうか。わたしの楽園に狐が寄生することなど許せるだろうか。わたしは考えられるすべての方法で、こうしたものを追い払う。わたしの旨が露わになるまでは、誰一人わたしがしようとしていることに気づかない。わたしはこの機会を利用して悪い者たちを追い払い、彼らはわたしから去らざるを得なくなる。わたしは悪い者たちをこのように扱うが、彼らがわたしに仕える日はまだあるだろう。人々は神の恵みを望む心が強すぎるので、わたしは向きを変えて、栄光に満ちた顔を異邦人たちに示し、人々がみな自分の世界に住んで自らを裁けるようにする。そして同時に、わたしは言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、とうの昔にわたしの働きが広まっていることだろう。それからわたしは人間にわたしの旨を表し、人間に対する働きの第二の部分に着手する。すべての人間をわたしにしっかりと付き従わせて働きに協力させ、能力の限りを尽くしてこの必要な働きをわたしとともに遂行させるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より引用

155. 神が同じ働きを維持することはなく、神の働きはたえず変化し、いつも新しい。わたしがあなたがたに毎日新しい言葉を語り、新しい働きを行なっているのとまったく同様である。これはわたしの行う仕事であり、「新しい」と「驚くべき」という言葉の中にその鍵が存在する。「神は不変であり、神はいつになっても神である」という言葉は実に真実である。神の本質は変化しない、神はいつでも神であり、決してサタンにはなりえないが、だからといってそれが神の働きが神の本質と同様に一定不変であることの証明にはならない。あなたは、神は不変だと断言するが、では、神はいつも新しく、けっして古くならないことをどのように説明できるのか。神の働きは広がり続け、たえず変化し、神の心はたえず明らかにされ、人に知らされる。神の働きを経験するにつれて、人の性質は絶え間なく変化し、その認識も絶え間なく変化する。では、この変化はどこから生じているのか。変わり続ける神の働きからではないのか。人の性質が変われるのなら、なぜわたしの働きやわたしの言葉も変化し続けるのを人は許すことができないのか。わたしは人の制約に従わなければならないのか。あなたはただ詭弁に訴えているだけなのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」より引用

156. 来臨した主イエスは、神が律法の時代を離れて新たな働きを始めたこと、またその新たな働きが安息日の遵守を求めないことを、実際の行動によって人々に伝えました。神が安息日の拘束から抜け出たのは、神の新たな働きの前触れに過ぎず、実際の偉大な働きはいまだ行なわれていなかったのです。主イエスは働きを始めた際、律法の時代の「束縛」をすでに捨て去っており、その時代の規制や原則を打破していました。イエスには、律法に関連する部分がまったく見られませんでした。律法を完全に捨て去り、もはやそれを守らず、また律法の遵守を人に要求することもなかったのです。ゆえにここで、主イエスが安息日に麦畑を歩いていたこと、およびその日に休まなかったことがわかります。主イエスは外に働きに出て休まなかったのです。主イエスによるこの行動は人々の観念に衝撃をもたらし、イエスがもはや律法の下で暮らしていないこと、およびイエスが安息日の束縛を離れ、新たな姿で、新たな働き方を携えて人類の前に現われたことを人々に伝えました。またイエスによるこの行動は、彼が新たな働きを携えてきたことを人々に示しました。それはつまり、律法の支配と安息日を離れることから始まる働きです。新たな働きを行なう際、神はもはや過去に固執せず、律法の時代の規則を気にかけることもありませんでした。また過去の時代の働きに影響されることもなく、他の各曜日と同じく安息日であっても働きを行ない、かくして弟子たちは空腹となったとき、麦の穂を摘んで食べることができました。これはどれも、神の目にはごく普通のことでした。神にとって、自身が行なおうとしている新たな働きや、言おうとしている新たな言葉の大部分について、それらが新たに始まるのは許されることなのです。神は何か新しいことを始めるとき、以前の働きに触れることも、それを続けることもありません。神の働きには原則があるので、神が新たな働きを始めようとしたら、それは自身の働きの新たな段階に人類を連れ出すとき、自身の働きがより高次の段階に入るときなのです。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動し続けたり、それらに固執し続けたりした場合、神はそれを記憶することも讃えることもしません。なぜなら、神はすでに新たな働きをもたらし、働きの新たな段階へと入ったからです。神は新たな働きを始めるとき、人々が神の性質や神が所有するものと神そのものの様々な側面を見て取れるよう、まったく新しい姿で、まったく新しい角度から、まったく新しい方法でもって、人類の前に現われます。これが神による新たな働きの目的の一つです。神は以前の物事にしがみつくことも、踏みならされた道を歩くこともありません。また働きを行なって言葉を語るときも、人間が想像するように何かを禁じたりはしません。神においてはすべてが自由であり、解放されており、禁止も束縛もありません。神が人類にもたらすのは自由と解放なのです。神は生きている神であり、本当に実在する神です。操り人形でも粘土の像でもなく、人間が崇め奉る偶像とはまったく違います。神は生きており、活気に満ち、神の言葉と働きが人類にもたらすのは、ひとえにいのちと光、自由と解放です。なぜなら、神には真理といのちと道があり、働きの中でいかなる物事にも制約されないからです。人々が何を言おうと、あるいは神の新たな働きをどのように見たり評価したりしようと、神は何のためらいもなく働きを行ないます。自身の働きや言葉に対する人間の観念と批判、さらには自身の働きに対する強い反感や反抗を、神が懸念することはないのです。人間の理知、あるいは人間の想像、知識、倫理によって、神の働きの評価や定義をしたり、それを貶め、混乱させ、妨害することができる者は、あらゆる被造物の中に一人もいません。神の働きや業の中に禁じられていることは一切なく、人や出来事や物事に制約されることも、敵対する勢力に妨害されることもありません。神の新たな働きに関する限り、神は永遠に勝利する王であり、いかなる敵対勢力も、あるいは人類による異端や詭弁も、すべて神の足台の下で踏みにじられます。神の働きのうち、どの新たな段階が現在なされているかを問わず、神の大いなる働きが完了するまで、それは必ずや人類の間で発展、拡大し、全宇宙において妨害されることなく実行されます。これが神の全能と知恵、そして権威と力なのです。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より引用

157. 終わりの日の受肉した神の語る言葉は、人間の本性の実質、人間の行動、および人間が今日入るべきことに沿って語られる。神の言葉は現実的かつ普通のものである。神は明日のことは話さない。また、昨日を振り返ることもない。今日入って行き、実践し、理解するべきことについてだけ話す。この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約聖書はメシアの到来を預言し、この預言の結果はイエスの出現であった。これはすでに起きたことであり、別のメシアがまた来るというのは間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは間違いである。すべての時代には一つの名前があり、名前はそれぞれ各時代の特徴を含んでいる。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならない。しかし今回神はまったくそのようではない。もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない。なぜ今日、神の働きはイエスの働きと異なっているのか。なぜ今日の神はしるしや奇跡を示さず、悪霊を追い払わず、病人を癒やしもしないのか。もしイエスの働きが律法の時代に行われた働きと同じであれば、イエスは恵みの時代の神を表すことができただろうか。磔刑の働きを完了できたろうか。もし律法の時代のようにイエスが神殿に入り、安息日を守ったなら、誰からも迫害を受けず、みなに受け入れられたであろう。それならば、磔刑に処せられたであろうか。贖いの働きを完了できたであろうか。終わりの日の受肉した神がイエスのようにしるしや不思議を見せたなら、何の意味があるのか。終わりの日に神が働きの別の部分、つまり経営(救いの)計画の部分を表す働きをしてはじめて、人間は神についてより深い認識を得ることができるのであり、そうしてはじめて神の経営計画は完了するのである。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

158. どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

159. 創世から現在に至るまで、神の霊はこの偉大な働きを推進してきたのであり、またそれ以上に、異なる時代、異なる国々において、異なる働きを行なってきたのである。各時代の人々は、それぞれ異なる神の性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然と明らかにされる。それは神であり、慈悲と慈愛に満ちている。神は人の罪の捧げものであり、人の羊飼いであるが、同時に人の裁き、刑罰、そしてのろいでもある。神は二千年にわたって地上における人間の生活を導くことができ、堕落した人類を罪から贖うこともできた。そして今日、すべての人が神に完全に服従するよう、神は自分のことを知らない人類を征服し、彼らを自身の支配下に置くこともできる。最後に、神は全宇宙の人々の中にある不浄なもの、不義なものをすべて焼き払い、自分が慈悲と慈愛に満ちた神、英知と不思議の神、および聖い神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。人類の中の悪人にとって、神は燃えさかる炎、裁き、懲罰である。また完全にされるべき人々にとって、神は苦難、精錬、試練であり、同時に慰め、支え、言葉の施し、取り扱い、そして刈り込みである。また淘汰される人々にとって、神は懲罰であり、報いである。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より引用

160. 今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけでなく、全宇宙に向き合い、天空全体を揺り動かす。わたしの裁きが下されない場所が一つでもあるだろうか。わたしの降らせる災難が存在しない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、ありとあらゆる「災いの種」を蒔いた。これは、わたしが働く方法の一つであり、人間を救う業であるのは間違いなく、わたしが人間に差し伸べるものは依然として一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見られるようにするとともに、そうして長きにわたって見られなかった神、いまや現実である神を崇められるようにしたい。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より引用

161. わたしは神の国を支配し、さらに、全宇宙を支配している。わたしは神の国の王であるとともに、全宇宙の主でもある。今から後、わたしは選民でない人々をすべて集め、異邦人の間で働きを始める。そして、わたしの行政を全宇宙に告げ、わたしの働きの次の段階を開始できるようにする。わたしは異邦人の間にわたしの働きを広めるために刑罰を与える。つまり、異邦人である者たちには力を用いるということだ。当然、この働きは、選民たちの間でのわたしの働きと同時に進められる。わたしの民が支配し、地上で力を振るう時はまた、地上のすべての人が征服される日であり、そして、さらに、わたしが憩うときでもある。そして、その時初めて、わたしは征服した人々みなの前に姿を現す。わたしは聖なる国では姿を現し、汚れの地では姿を隠す。征服されわたしに従順となった者はみな、その目でわたしを見ることができ、その耳でわたしの声を聞くことができる。これが終わりの日に生まれた者の恵み、これがわたしの定めた恵みであり、これはどの人間にも変えることができないのだ。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十九章」より引用

162. 民がみな完全にされ、地上のすべての国がキリストの国となるとき、それは七つの雷鳴が轟くときである。現在はその段階へと大きく前進するときであり、その日に向かってすでに進撃している。これが神の計画であり、近い将来実現する。しかし、神は自身が語ったすべてのことをすでに達成している。したがって、地上の国々が砂上の楼閣に過ぎず、大波が押し寄せれば揺れ動くのは明らかである。終わりの日は迫っており、赤い大きな竜は神の言葉の下に倒れる。神の計画が成功裏に遂行されることを確実にすべく、天使たちが地上に降り、神を満足させるために最善を尽くしてきた。そして肉となった神自身が出陣し、敵に戦いを挑んできた。受肉した神がどこに現われようと、敵はその場で滅ぼされる。真っ先に滅ぼされるのは中国で、神の手によって破壊される。神は中国を一切容赦しない。赤い大きな竜が次第に崩壊していることは、人々が絶えず成熟していることによって証明されている。これは誰にとっても一目瞭然である。人々の成熟は敵が消滅することの兆候であり、「競争する」という言葉の意味を少しばかり説明している。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十章」より引用

163. 秦の国が地上で実現するとき――つまり、神の国が実現するとき――地上ではもう戦争は起こらないだろう。二度と再び飢饉も疫病も地震も起こらず、人々は武器の生産をやめ、すべての人は平和と安定の中に暮らし、人同士はに普通に関わり合い、国同士も普通に関わり合うだろう。だが、現在の状態はこれとは比べものにならない。天の下のすべては混乱しており、各国でクーデターが徐々に起こり始めている。神が声を発するにつれて、人々は徐々に変わっていき、国内では、各国がゆっくりとばらばらになりつつある。バビロンの揺るぎない基礎は砂上の城のように揺れ始め、神の心が変わるにつれて、気づかないうちに激しい変化が世界に生じる。そしてあらゆる種類の兆候が常に現れ、人々に世界の終りの日が来たことを示す。これが神の計画であり、これらは神が働く一連の段階であり、各国は確実にばらばらにされ、古いソドムは再度滅ぼされるだろう。そこで神は次のように言う。「世界は崩壊しつつある。バビロンはまひしている。」神以外には誰も完全にこれを理解することはできない。結局、人々の認識には限界がある。たとえば、国内事情担当の大臣たちは、現在の状況は不安定で混乱していることを知っていても、それに取り組むことはできない。彼らはただ流れに乗って、堂々と顔を上げることができる日が来ることを望み、太陽が再び東から昇り、国中を照らし、この惨めな事態を好転させる日が来ることを切望することしかできない。しかし彼らは、二度目に太陽が昇るときとは、その日の出はかつての秩序の回復を意味するのではなく、完全な変化による復活を指すのだということを知らない。それが全世界に関する神の計画である。神は新しい世界をもたらすが、とりわけ、まず人間を新しくする。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第二十二章と第二十三章」より引用

164. 今日の発言はすべて将来の事柄を預言していると言える。それらの発言は、神が自身の働きの次なる段階を整えているということである。神は教会の人々の中での働きをほぼ完了し、その後は怒りとともにすべての人の前に現われるだろう。「わたしは地上の人々にわたしの行ないを認めさせ、わたしの業は『裁きの座』の前で証明され、それはわたしに従う地上のすべての人のあいだで認められる」と神が言うとおりである。あなたがたはこれらの言葉に何かを見出しただろうか。ここにあるのは神による働きの次なる部分の要約である。第一に、神は政治的権力をふるうすべての番犬を心から納得させ、歴史の舞台から自発的に身を退かせるとともに、地位を巡って争ったり、企みや陰謀に関わったりすることが二度とないようにする。この働きは神を通じて、地上でさまざまな災害を起こすことで実行されなければならない。しかし神が現われるということは決してない。そのとき、赤い大きな竜の国は依然として汚れた地であり、それゆえ神は現われず、刑罰を通じて出現するに過ぎない。それが神の義なる性質であり、そこから逃れることは誰にもできない。その間、赤い大きな竜の国に住むすべての人は惨禍を経験するだろう。当然そこには地上における神の国(教会)も含まれる。これがまさに事実の現われる時であり、よってすべての人が経験し、誰も逃れることはできない。これは神によって予定されたことである。「今こそ大いなる計画を実行する時である」と神が言うのは、まさにこの段階の働きのためである。なぜなら、未来において地上に教会はなく、災いの到来のため、人々は目の前にあるもののことしか考えられずに他の一切を無視し、また災いのただ中で神を享受することは難しいからである。そのため、人々は機会を逃さないよう、この素晴らしい時に心を尽くして神を愛することを求められる。この事実が過ぎ去るころになれば、神は赤い大きな竜を完全に打ち負かしており、かくして民による神の証しの働きは終了している。その後、神は次なる段階の働きを開始し、赤い大きな竜の国を荒廃させ、最終的には世界中の人々を逆さまにして十字架にかけ、それから全人類を絶滅させるだろう。これが神の働きの将来の段階である。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第四十二章」より引用

165. いつか全宇宙が神に戻るとき、全宇宙における神の働きの中心は神の発する言葉に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の発する言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。これらすべてが神の業なのである。覚えておきなさい。神がどこかよそで新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真の道を求めなければならない。宗教界全体が深刻な飢餓に苦しみ、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。その時神の業は明らかにされ、神は栄光を受けるだろう。宇宙の至るところにいるすべての人々が、この目立つ訳でもない「人」を礼拝するだろう。これは神の栄光の日ではないだろうか。いつか、老牧師たちは生ける水の泉から、水を求めて電報を送ることだろう。彼らは年老いているが、彼らが軽蔑しているこの人に礼拝をしにやってくるだろう。彼らは口々に認め、心の中で信頼するだろう。これはしるしと不思議ではないだろうか。神の国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよい知らせを受ける者は皆神によって祝福され、これらの国々とこれらの民は神によって祝福され、顧みられるだろう。将来の方向性は次のようになる。神の口から言葉を得る者は、地上で歩むべき道を知っており、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人には、一歩進むことさえ難しく、彼らは真の道を求めることを余儀なくされるだろう。「真理とともに世界中を歩む。真理なくしては、どこへも至ることができない」とはこのことを言うのである。事実はこうである。神は道(つまり神の言葉全て)で全宇宙を支配し、人を治め征服する。人は常に、神による働きの方法が大きく転換することを望んでいる。率直に表現すれば、神が人を支配するのは言葉を通してであり、あなたは望むと望まざるとを問わず、神の言うことをしなければならない。これは客観的な事実であり、すべてのものはこれに従わなければならず、避けることのできない、全ての者に知られた事実である。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より引用

166. 神の言葉は無数の家に広がり、すべてのものに知られるようになり、このようにしてのみ、神の仕事は全宇宙に広まる。つまり、神の仕事を全宇宙に広げるには、神の言葉が広められなければならない。神の栄光の日に、神の言葉はその力と権威を示すだろう。大昔から今日まで神が語ってきたすべての言葉が成就し、現実となるだろう。このようにして、栄光は地上で神のものとなる。つまり、神の言葉が地上で全てを支配するようになる。悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福され、すべては神の口から語られる言葉によって確立され成就される。また、いかなるしるしや不思議も神は示さない。すべてが言葉によって成就され、言葉は事実を生み出すだろう。老若男女問わず、地上にいるすべての人は神の言葉を称え、神の言葉の下にすべての人々は服従する。神の言葉は肉に現れ、鮮明かつ生きているようなそれらの言葉を、人々が地上で見られるようにする。これが、言葉が肉になるということである。神は主に、「言葉が肉になる」という事実を成し遂げるために地上に来た。つまり神は、言葉が肉から発せられるよう来たのである(神が直接天から語った旧約のモーセの時代とは異なる)。その後、千年神の国時代にはそれぞれの言葉が成就し、人々の目に見える事実になり、少しの誤りもなく、おのおのの目で見ることになるだろう。これが、神の受肉の最高の意味である。つまり霊の働きは、肉体を通し、言葉を通して達成される。これは「言葉が肉になる」および「言葉の肉における出現」の真の意味である。神だけが霊の意志を語ることができ、肉における神のみが霊に代わって語ることができる。神の言葉は受肉した神の中に明らかにされ、他のすべての人はそれらによって導かれる。誰もそこから外れることはなく、みなこの範囲内にいる。これらの言葉からのみ、人々は知ることができる。このようにして獲得しない者たちが、自分は天から発せられた言葉を得られると思っているのであれば、それは白昼夢を見ているのである。これが、受肉した神に示された権威であり、全ての人を信服させるのである。最も優れた専門家や牧師でさえ、これらの言葉を話すことはできない。彼らはこれらに従わねばならず、誰も新しく始めることはできない。神は言葉によって全宇宙を征服する。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事を為していないように見えるかもしれないが、神が言葉を発するだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、神の言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げるだろう。地上への言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである。実際、わたしが説明する必要はない。地上に千年神の国が到来したということは、地上に神の言葉が到来したということである。天から新しいエルサレムが降るのは神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間の全ての行動や内なる考えの全てに伴うことである。これはまた、神が成し遂げる事実であり、千年神の国の素晴らしい光景である。これは神によって定められた計画である。言葉は千年の間地上に現れ、それらは神のすべての業を明らかにし、地上での神のすべての仕事を完了させ、それにより人類のこの段階は終わりを迎える。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より引用

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