日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 413
あなたがたはまだ神の信者としての道のりのごくわずかしか歩んでおらず、未だに正しい道のりに入っていない。そのため、まだ神の基準を満たすにはほど遠い。現在のあなたがたの霊的背丈は神の要求を満たすには不十分である。あなたがたの素質と堕落した本性のせいで、あなたがたは常に神の働きを不…
全能神――神の国の王――が証しされて以来、神の経営(救い)の領域は全宇宙にあまねく広がっている。神の出現は中国において証しされただけでなく、すべての国とすべての土地で全能神の名が証しされている。人々はみなこの聖なる名を呼び、あらゆる手段で神との交わりを持とうとし、全能神の旨を把握し、一致して教会で仕えている。これが聖霊の驚くべき働き方なのである。
さまざまな国の言語はみな異なっているが、霊はただ一つである。この霊は全宇宙の教会を一つに結びつけており、神と一体で、わずかな相違もない。これは疑いの余地のない事実である。聖霊は今や彼らに呼びかけており、その声は彼らを呼び覚ましている。それは神の憐れみの声である。皆が全能神の聖なる名を呼んでいるのだ。そして彼らは、讃美を捧げ歌っている。聖霊の働きには何の狂いもあり得ない。これらの人々はどんな苦労も惜しまず、正しい道に沿って前進し、退くことはない。奇跡は次々と起こっている。これは人々にとって想像し難いことであり、推測するのも不可能なのだ。
全能神は宇宙のいのちの王である。神は栄光の玉座に就いて世界を裁き、すべての上に君臨し、すべての国々を支配する。すべての人は跪いて神に祈り、神に近づき、神と交わる。どれほど長く神を信じていようと、地位がどれだけ高かろうと、どれほど年功があろうと、心の中で神に逆らう人は裁かれなければならず、神の前にひれ伏して痛々しい懇願の声を出さねばならない。それはまさしく自身の行動の結果を刈り取ることなのだ。その嘆きの声は火と硫黄の池で苦しめられるときの声であり、神の鉄の杖によって懲らしめられるときの叫びである。それこそがキリストの玉座の前の裁きなのだ。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八章」(『言葉』第1巻)より
全能神、神の国の王が証しされて、その経営計画の範囲が全宇宙に広がった。中国だけでなく、各国で神の出現が証しされた。彼らは聖なる名を呼んで、神の意志をつかみ、教会で共に仕え、何としても神と交わろうとする。聖霊は不思議な働き方をする。全能神、神の国の王が証しされてきた。まことに全能神の名があらゆる国と地で証しされてきた。
国によって言葉は違うが、ただ一つの霊は全ての教会を結び、神と一つである。それは疑いのない事実だ。聖霊の呼ぶ声が彼らを起こす。神の憐れみはその声だ。彼らはみな全能神の聖なる名を呼び、賛美して歌う。聖霊の働きは道を逸れない。みな正しい道を歩み。全く退かない。不思議なことが重なる。人は想像もできず計り知れないことだ。全能神、神の国の王が証しされてきた。まことに全能神の名が、あらゆる国と地で証しされてきた。全能神は宇宙の生命の王だ!栄光の座に座り、全世界を裁き、全ての国を支配し治める。全ての民は膝を折り、神に祈り、近づく。どれだけ長く神を信じてきたか。地位や、年の功に関わらず、心の中で神を拒むなら、必ず神に裁かれる。あなたは苦し気に神に乞うだろう。これは実に自業自得だ。この嘆きは火と硫黄の池からの苦悶の声だ。それは神に鉄の杖で懲らしめられる時の叫び。これこそキリストの御座の前の裁きだ。全能神、神の国の王が証しされてきた。まことに全能神の名があらゆる国と地で証しされてきた。まことに全能神の名があらゆる国と地で証しされてきた。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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あなたがたはまだ神の信者としての道のりのごくわずかしか歩んでおらず、未だに正しい道のりに入っていない。そのため、まだ神の基準を満たすにはほど遠い。現在のあなたがたの霊的背丈は神の要求を満たすには不十分である。あなたがたの素質と堕落した本性のせいで、あなたがたは常に神の働きを不…
昨今では、人間の追求が逸脱している。神を愛し、神を満足させることだけを追求し、神を認識しておらず、自らの内部における聖霊の啓きと照らしをおろそかにしている。そうした者は神についての真の認識という基礎を備えていない。そのような状態であるので、彼らは経験が進行してゆくにつれて、熱意を…
神との間に正常な関係を築きたければ、自分の心を神に向けなければならない。それを土台として、他の人たちとも正常な関係をもてるようになる。神との正常な関係がなければ、他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようと、どれほど努力しようと、どれほどの労力を費やそうと、それはやはり…
この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間…