日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 86
神が裁きと刑罰の働きを行うのは、それによって人が神を知り、神を証すためである。人の堕落した性質を神が裁くことがなければ、人が犯すことのできない神の義なる性質を、人が知ることはできず、神に関する古い認識を捨てて新しい認識を得ることもない。神が証すため、そして自身の経営(救い)のため…
地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。神は聖く義である。ちょうどイエスが恵みの時代に罪人たちと暮らしたのと同様に、神は穢れた土地に生まれ、汚れにまみれた人たちと暮らしているが、神の働きは隅々まで全人類の生存のために行われるのではないのか。それは全て、人類が大いなる救いを得られるようにそうなっているのではないのか。二千年前、神は何年間も罪人たちと暮らした。それは贖いのためであった。今日、神は穢れて賤しい人たちの集団と暮らしている。それは救いのためである。神の働きは全てあなたがた人間のためではないのか。もし人間を救うためでなかったとしたら、何ゆえに神は飼葉おけで生まれた後、罪人たちと何年間も暮らし、共に苦しんだのか。そして、人間を救うためでなかったとしたら、なぜ神は再び肉に戻り、悪魔が集まるこの地に生まれ、サタンに深く堕落させられている人たちと暮らすのか。神は忠実ではないのか。神の働きのどの部分が人類のためでないというのか。どの部分があなたがたの運命のためでないのか。神は聖い。これは変わることがない。神は穢れた地に来たが、穢れに汚されることはない。このこと全てが意味するのは、神の人類への愛は極端なほど無私であり、神が耐える苦難と屈辱は極めて大きいということに尽きる。あなたがた全員のため、そしてあなたがたの運命のために、神が受ける辱めがどれほど大きいかをあなたがたは知らないのか。偉人や裕福な権力者の息子を救うのではなく、神は賤しく他者から見下されている人たちを救うことを重視している。このことは全て神の聖さではないのか。このことは全て神の義ではないのか。全人類の生存のために、神は穢れた地に生まれ、あらゆる屈辱を受けることを選ぶ。神はとても現実的であり、虚偽の働きを一切行わない。各段階の働きは、このように実際的に行われるのではないのか。人は皆、神を中傷して神は罪人と共に食卓に着くと言ったり、神を嘲笑して神は穢れた息子たちと暮らすと言ったり、最も賤しい人たちと暮らすと言ったりするが、神はなおも無私無欲に自らを捧げ、依然として人類から拒まれる。神が耐え忍ぶ苦難は、あなたがたの苦難よりも大きくはないのか。神の行なう働きは、あなたがたが払った代価を上回らないのか。
『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)より
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神が裁きと刑罰の働きを行うのは、それによって人が神を知り、神を証すためである。人の堕落した性質を神が裁くことがなければ、人が犯すことのできない神の義なる性質を、人が知ることはできず、神に関する古い認識を捨てて新しい認識を得ることもない。神が証すため、そして自身の経営(救い)のため…
人間の働きのために神は多くの眠れぬ夜を過ごした。神は、遥かな高みから深淵へ、人間が生活する生き地獄まで降りて、人間と共に過ごし、決して人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりせず、自ら働きを行いながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に居られたのだろうか。どう…
現在、あなたがたが理解するようになったことは、歴史上の完全にされなかった他の誰よりも高度である。それが試練についての認識であろうと神への信仰であろうと、どれも神を信じる他の誰のものよりも高度である。あなたがたが理解しているのは、環境の試練を受ける前に知るようになったことであるが…
神によって完全にされることは、神の言葉を食べたり飲んだりすることによって完全に達することに、限定されない。このような経験のあり方は、あまりにも一面的で、幅広く多くのものを包含していない。すなわち、人を非常に狭い範囲に閉じ込めるだけである。このような場合、大いに必要とされる心の成長…