神の働きと人の働き(前半)

人の働きのうちどのくらいを聖霊の働きが、どのくらいを人の経験が占めているのか。今でさえ、人はこれらの問題を理解していないと言えるかもしれないが、その理由は人が聖霊の働きの原則を理解していないからである。わたしが「人の働き」と言うとき、聖霊の働きを持つ人の働き、あるいは聖霊に用いられている人の働きのことをもちろん指している。人の意志から生じる働きのことではなく、聖霊の働きの範囲内にある使徒、働き手、あるいは普通の兄弟姉妹の働きのことを指しているのである。ここで言う「人の働き」とは、肉となった神の働きではなく、聖霊が人に行う働きの範囲と原則のことである。この原則は聖霊の働きの原則と範囲であるが、肉となった神の働きの原則と範囲とは異なる。人の働きには人の本質と原則があり、神の働きには神の本質と原則がある。

聖霊の流れにおける働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は霊であり、聖霊あるいは七倍に強化された霊と呼ぶことができる。とにかく、それは神の霊であり、時代によって神の霊は異なる名前で呼ばれてきた。それでもその本質は一つである。したがって、神自身の働きが聖霊の働きである一方、肉となった神の働きは働いている聖霊に他ならない。用いられている人の働きも聖霊の働きである。しかし、神の働きは聖霊の完全な表現であり、絶対に真実である一方、用いられている人の働きには多くの人間的なものが混ざっており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。聖霊の働きはさまざまで、いかなる条件にも制限されない。聖霊の働きは人によって変化し、異なる本質を示すとともに、時代により異なり、国によっても異なる。もちろん、聖霊は多くの異なった方法で多くの原則に従って働くにもかかわらず、働きがどのように、どのような人に行われようと、その本質は常に異なる。異なる人に行われる働きにはすべて原則があり、すべては働きの対象の本質を表すことができる。これは聖霊の働きの範囲がはっきり限定されており、かなり慎重だからである。受肉した肉において行われる働きは、人を対象とする働きと同じではなく、その働きも対象の人の素質に従って変化する。受肉した肉でなされる働きは人には行われず、人間の姿をした肉では、人への働きとは同じではない。簡潔に言えば、どのように行われようとも、異なる対象に対してなされる働きは決して同じではなく、働きの原則も働きの対象であるさまざまな人の状態や本性に応じて異なってくる。聖霊は人の本来からある本質に基づいてさまざまな人に働きかけ、その本質を越える要求はせず、その人に本来備わっている素質を越える働きかけもしない。そこで、聖霊の人への働きによって、人はその働きの対象の本質を知ることができる。人に本来備わっている本質は変化しないし、人に本来備わっている素質は限られている。聖霊は人の素質の限界に応じて人を用いるか、あるいは人に対して働き、人が働きから恩恵を受けられるようにする。用いられる人に聖霊が働きかけるとき、その人の才能も生まれながらの素質も解き放たれ、保留されることはない。その人の生まれながらの素質は働きに役立たせるために引き出される。聖霊は働きにおいて成果を達成するために人の利用できる部分を使って働くと言ってもいいかもしれない。対照的に、受肉した肉において行われる働きは聖霊の働きを直接表し、人間の心や考えが混じり込んでいることはない。また、人の賜物や経験、あるいは生来の条件はそれに到達できない。聖霊の無数の働きはすべて、人に恩恵を与え、啓発することを目指している。しかしながら、完全にされる人もいれば、完全にされるための条件を持っていない人もいる。つまり、後者は完全にされることはなく、救われることなど到底なく、聖霊の働きを持っていたかもしれないが、最終的には取り除かれることになる。すなわち、聖霊の働きは人を啓発することだが、聖霊の働きを持った人すべてが余すところなく完全にされると言うことはできない。なぜなら、多くの人が追求する道は完全にされることを目指す道ではないからである。彼らは聖霊からの一方的な働きを持っているだけで、主観的な人間の協力も正しい人間の追求ももたない。そのため、このような人への聖霊の働きは完全にされる人の役に立つことになる。聖霊の働きは人には直接見えず、直接触れることもできない。それは働きの賜物を持つ人にだけ表現することができる。つまり、聖霊の働きは人が行う表現を通して追随者に与えられるのである。

聖霊の働きはさまざまな種類の人や多くの異なる条件によって達成され、完成される。肉となった神の働きは一つの時代全体の働きを表わすことができ、一つの時代全体に人が入っていくことを表すことができるが、人の入りに関する詳細に作用する働きはやはり、肉となった神ではなく、聖霊に用いられている人が行う必要がある。つまり、神の働き、あるいは神自身の職分は肉となった神の働きであって、神の代わりに人が行うことはできない。聖霊の働きは多くの異なる種類の人を通して完成される。ただ一人の人が全体を達成したり、完全に表したりすることはできない。教会を導く人たちも完全に聖霊の働きを表すことはできない。彼らは指導的働きがいくらかできるだけである。このように、聖霊の働きは三つの部分、すなわち、神自身の働き、用いられている人たちの働き、聖霊の流れの中にいるすべての人に作用する働きに分けることができる。神自身の働きは時代全体を導くことである。用いられている人たちの働きは、神が働きを行った後に送り出されたり、任務を受けたりすることによって神の追随者全員を導くことであり、彼らは神の働きに協力する人である。流れの中にいる人たちに作用する聖霊の働きは、その働きをすべて維持すること、すなわち、経営全体と証しを維持し、それと同時に完全にされることのできる人たちを完全にすることである。これら三部分が一緒になって聖霊の完全な働きとなるが、神自身の働きがなければ、経営の働きはすべて停滞してしまうであろう。神自身の働きは全人類の働きを含み、時代全体の働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きにおけるあらゆる動態と傾向を表す一方で、使徒の働きは神自身の働きの後に来てそれに続き、時代を導くことも一つの時代全体における聖霊の働きの傾向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、それは経営の働きとは何の関係もない。神自身の働きは、経営の働き内の事業である。人の働きは用いられている人たちの本分でしかなく、経営の働きとは何の関係もない。正体と働きの表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で実質的な違いがある。さらに、異なる正体をもつ対象への聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

人の働きは人の経験と人間性を意味する。人が提供するものと人が行う働きは人を表す。人の見識、論法、論理、豊かな想像力はすべて人の働きに含まれる。人の経験は特に人の働きを意味することがあり、ある人の経験はその働きの構成要素になる。人の働きはその人の経験を表すことがある。人が消極的な経験をすると、その人の交わりにおける言語のほとんどは消極的要素で構成される。その人の経験がしばらくのあいだ積極的で、とりわけ積極的な側面に道を獲得していれば、その人の交わりは極めて励みになり、他の人たちはその人から積極的な施しを得られる。働き手がしばらくのあいだ消極的になれば、その人の分かち合いはいつも消極的要素を含む。このような交わりは重苦しいもので、他の人たちはその人の話の後は無意識のうちに気が滅入ってしまう。追随者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が内面はどのような人であれ、それがその人の表現するものであり、聖霊の働きは人の状態とともに変化することが多い。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合いは神の言葉とは違うのである。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きに基づいたその人の見識や経験を表す。人の責任は、神の働きや談話の後で、そのうちの何を実践し何に入っていくべきかを見つけ、それを追随者に伝えることである。したがって、人の働きは人の入りと実践を表している。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えもいくらか混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようとも、肉となった神において働こうとも、働き手は必ず自分が何であるかを表わすことになる。働くのは聖霊であるが、働きは人の本質を基盤としている。なぜなら聖霊は基盤なしには働かないからである。言い換えれば、働きが無から生じることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じて行われる。このようにしてのみ、人の性質は変化することができ、人の古い観念や思考も変えることができる。人が表すものは人が見、経験し、想像できるものであり、それが教義あるいは観念であっても、人の思考により到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像あるいは構想の範囲を越えることはできない。神が表すものはすべて神自身そのものであり、これは人には達成できない。つまり、人の考えの及ばないものである。神は全人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人が表現することは人の経験であり、神が表現することは神の存在そのものである。それは神に固有の性質であり、人には届かないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した人の見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。人の表現の基盤は人に本来備わっている性質や素質である。そのため、それも人の存在と呼ばれるのである。人は自分が経験するものや見るものを分かち合うことができる。経験したことも、見たこともないもの、あるいは思考が到達できないもの、自分の心の中にないものについて話せる人は誰もいない。人が表すものが経験に由来していなければ、それは想像あるいは教義である。簡単に言うと、その言葉には現実性がない。社会の物事と接触がなかったなら、社会の複雑な関係について明確に話すことはできないであろう。家族がないのに、他の人たちが家族問題について話していたら、その話の大半を理解できないであろう。だから、人が話すことや行う働きは、その人の内面存在を表すのである。誰かがその人が刑罰や裁きをどのように理解しているかを話しているのに、あなたにその経験がないならば、あなたはその人の認識を厚かましくも否定しないであろうし、ましてや100%それについて確信することもない。それは、その人が交わることはあなたが一度も経験したことのないもの、あなたが知らないもので、あなたの思考では想像できないものだからである。その人の認識からあなたが得られることは、将来において刑罰や裁きを経験するための道だけである。しかし、この道は教義的な理解になりえるだけで、あなた自身の認識に取って代わることはできないし、ましてや経験に取って代わることは到底できない。その人の言うことをまったく正しいとあなたは思うが、自分で経験すれば、多くの点でそれが実行不可能であるとわかるかもしれない。耳にすることの一部は完全に実行不可能だと感じるかもしれない。話を聞いた時点では、それについて観念を抱き、受け入れはするが、しぶしぶ受け入れるだけであるが、自分が経験してみると、観念の源となった認識があなたの実践方法になり、実践すればするほど、聞いた言葉の本当の価値と意味をあなたは理解するようになる。自分で経験をした後は、経験したことから得ているはずの認識について話すことができる。さらに、認識が現実的で実際的な人と、認識が教義に基づいていて価値がない人を区別できるようにもなる。そこで、表明する認識が真理と一致するかどうかは、その実際的経験があるかどうかに大いに左右される。経験に真理があるならば、その認識は実際的で価値がある。経験を通して識別力や洞察をも得ることができ、認識を深め、いかに行動するべきかということに関して知恵と常識を増すことができる。真理を所有していない人が表す認識は、どれほど高尚であろうと、教義である。この種の人は肉体の問題に関して言えば非常に賢明かもしれないが、霊的問題になると区別することができない。そのような人は霊的な事柄の経験がまったくないからである。その人は霊的問題においては啓かれておらず、霊的な事柄を理解していない。どのような認識を表していようと、それがあなたの存在そのものである限り、それはあなたの個人的経験であり、本当の認識である。教義しか話さない人、つまり真理も現実も所有していない人が話すことも、その人の存在そのものと呼ぶことができる。なぜならその人の教義は深い熟考を通してのみたどりついたもので、深い思考の結果だからである。とは言え、それはただの教義であり、想像以外のなにものでもない。様々な人の経験は、その人の内部にあるものを表している。霊的経験のない人は誰も真理の認識について話すことはできず、さまざまな種類の霊的な事柄についての正しい認識についても話すことはできない。人が表すものは、その人の内なるものであり、それは確かである。霊的な事柄や真理の認識を得たいと願うなら、本当の経験を持たなければならない。人間の生活における常識について明確に話すことができなければ、霊的な事柄について話すことなどどうしてできようか。教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人には実際の経験がなくてはならない。また、霊的な事柄を正しく理解し、真理の正しい認識と経験もなくてはならない。そのような人だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うことができるだけで、導くことはできず、ましてや人にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の役割は走りまわったり、戦ったりすることではなく、いのちの世話をする働きをし、性質の変化において他の人たちを導くことだからである。この役割を果たす人は重い責任を背負う任務を与えられていて、これは誰もが背負えるわけではない。この種の働きはいのちを持つ人、すなわち真理の経験を持つ人のみが請け負うことができる。ただ何かを諦めることのできる人、走りまわれる人、自分自身を喜んで費やすことができる人ならばできるということはない。真理の経験のない人、刈り込まれたり裁きを受けたりしたことのない人はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人は現実性がないが、現実をはっきり見ることができないのは、彼ら自身にこのような本質がないからである。つまり、この種の人は指導的な働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を得ないままであれば、排除の対象になる。あなたが表す見識は、あなたが人生で経験してきた困難、どのようなことで刑罰を受けたか、どのような問題で裁きを受けたかの証拠になりえる。これは試練にもあてはまる。人がどこを精錬されるか、どこが弱いかが、人が経験をする場所、道を得る場所である。たとえば、結婚で挫折に苦しむ人は、「神に感謝。神を称えよ。わたしは神の心の願望を満足させ、わたしの人生の全てを捧げ、結婚をすっかり神の手に委ねなければならない。わたしは喜んで全人生を神に差し出します」のようによく言う。人の中にあるすべてのものは、交わりを通してその人そのものを表すことができる。話す速さ、大声で話すか、静かに話すかなど、このようなことは経験に関係なく、その人の持つものやその人そのものを表すことはできない。その人の性格の良し悪し、あるいは本性の良し悪しを表すだけで、その人に経験があるかどうかと同一視することはできない。話すとき自分自身を表現する能力、または話す技量や速度は練習の問題であって、経験と置き換えることはできない。個人的経験について話すとき、あなたは自分が重要と思うことや自分の内なるすべてについて話す。わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではない。それはまた、人が触れることができるものでもなく、わたしそのものである。わたしが話すことはわたしが経験したものであることだけは認めるが、それが聖霊の直接的表現であることを認識しない人がいる。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。六千年にわたり経営の働きをしてきたのはわたしである。人類創造の初めから今に至るまで、わたしはあらゆることを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性といえば、わたしははっきり見たし、長いあいだ観察した。それについて明確に語れないわけがあろうか。人の本質を明確に見てきたので、わたしには人を罰したり裁いたりする資格がある。人はすべてわたしから来たのに、サタンに堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行なってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉が行うことではないが、霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、それを表し行うべき働きを行う資格がわたしにはある。人が言うことは自分が経験してきたこと、見てきたもの、人の精神が到達できるもの、人の感覚で探知できるものである。これが人が語ることができるものである。神の受肉した肉が語る言葉は霊の直接的表現であり、それらは霊によってなされた働きを表す。肉はそれを経験しても見てもいないが、それでも神はその存在を表す。その肉の本質は霊であり、神は霊の働きを示すからである。肉では到達できなくても、それは霊によってすでに行われた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人に神の存在を知らしめ、人に神の性質、ならびに神がした働きが見えるようにする。人の働きによって、人は自分が何に入っていき、何を理解するべきかをさらに明確にすることができる。それには、真理を理解し経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道と新しい時代を開き、普通の人間には知られていないことを人々に明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは全人類を導くことである。

聖霊の働きはすべて、人に恩恵を与えるためになされる。すべて人を啓発することである。人に恩恵をもたらさない働きはない。真理が深かろうと浅かろうと、また、真理を受け入れる人の素質がどうであろうと、聖霊が何をしようと、それは人に有益である。しかし、聖霊の働きは直接行うことはできず、聖霊と協力する人を通して表現されなければならない。このようにしてのみ、聖霊の働きの成果が得られる。もちろん、聖霊が直接働きを行うのであれば、そこに混ぜ物は一切入っていない。しかし、聖霊が人を通して働きを行なうと、非常に汚れてしまい、聖霊本来の働きではなくなる。そのため、真理はさまざまな程度に変化する。追随者は聖霊の本来の意図ではなく、聖霊の働きと人の経験および認識の結合したものを受け取る。追随者が受け取るもののうち、聖霊の働きである部分は正しい。一方、彼らが受け取る人の経験と認識は、働き手により異なる。聖霊に啓かれ導かれる働き手は、この啓きと導きに基づいて経験をする。この経験において、人の精神と経験、さらには人間性の本質が結合し、その後、人は持つべき認識と見識を獲得する。このように、人は真理を経験した後に実践する。人により経験は異なり、経験する事柄も同じではないので、この実践方法はいつも同じとは限らない。こうして、聖霊に同じように啓かれても、認識や実践が異なる結果になるのは、啓きを受ける人が異なるからである。実践中にあまり間違いを犯さない人もいれば、大きな間違いを犯す人もいるし、なかには間違いしか犯さない人もいる。これは人の理解力の差であり、またその人に本来備わっている素質も異なるからである。ある言葉を聞いて、ある意味に理解する人もいれば、真理を聞いて別の意味に理解する人もいる。少し逸れる人もいれば、真理の本当の意味をまったく理解しない人もいる。したがって、人が他の人たちをどのように導くかは、その人の理解によって決まる。これがまさしく本当であるのは、人の働きはその存在を表すからである。真理を正しく理解している人に導かれた人たちは、やはり真理を正しく理解する。理解に誤りがある人もいるが、それはごくわずかであり、すべての人が誤った理解をするわけではない。真理の理解に誤りがあれば、その人に従う人たちにも疑いなく誤りがあり、このような人たちはあらゆる意味において誤っている。追随者がどの程度真理を理解するかは、おもに働き手によって決まる。もちろん、神からの真理は正しく、間違いはなく、それは絶対的に確かである。しかし、働き手は完全に正しいわけではなく、完全に信頼できるとは言えない。働き手が非常に実際的な真理の実践方法を持っていれば、追随者も実践方法を持つ。働き手が真理の実践方法を持たず、教義しか持ち合わせていなければ、追随者には現実性がまったくないことになる。追随者の素質と本性は生まれながらに決まっていて、働き手との関連性はない。しかし、追随者がどの程度真理を理解し、神を知るかは働き手次第である(これは一部の人だけに当てはまる)。働き手がどのような人であるかによって、その人の導く追随者がどのよう人であるかも決まる。働き手が表すことはその人自身の存在であり、余すところなく表す。働き手が追随者に出す要求は、その人自身が達成したいこと、達成できることである。追随者にはまったく達成できないことが多々あるにもかかわらず、そして達成できないことが入りへの障害になるにもかかわらず、働き手のほとんどが自分がすることに基づいて追随者に要求を出す。

刈り込み、取り扱い、裁き、そして刑罰を経験した人の働きには逸脱がずっと少なく、その働きの表現はずっと正確である。働きにおいて自分のありのままの特質に依存している人はかなり重大な間違いを犯す。まだ完全にされていない人の働きには、その人自身のありのままの特質が過剰に表され、それが聖霊の働きへの大きな障害となる。素質がいかに優れていようと、人が神に託された働きを行なえるようになるには、刈り込みと取り扱いと裁きを経験しなければならない。そのような裁きを受けていない人の働きは、どれほど立派に行われても、真理の原則と一致することはできず、常にその人自身がもつ本来の自然さの産物であり、また人間的な善良さである。刈り込み、取り扱い、そして裁きを受けた人の働きは、刈り込みや取り扱いや裁きを受けたことのない人の働きよりもはるかに正確である。裁きを受けなかった人は、人間の肉と考えしか表現せず、それには人間的知力と生まれながらの才能がかなり混ざっている。これは人が神の働きを正確に表現したものではない。このような人に従う人たちは、その人の生まれながらの素質ゆえにその人のところに来る。その人は人間の見識や経験を過剰に表し、しかもそれは神の本来の意図とはほとんど切り離され、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、むしろ人間の前に連れてきてしまう。そのため、裁きや刑罰を受けていない人には神に託された働きを実行する資格がないのである。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。完全にされていない人の働きには本来の性格が多すぎる。あまりにも多くの人間の意志が混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものである。取り扱いを経験した後のいのちでも、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追求している人々を支えることができるであろうか。人の本来のいのちはその人の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に的確に要求するものとはほど遠い。人がまだ完全にされておらず、その堕落した性質が刈り込まれても取り扱われてもいなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがある。人が表すものは人の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っている。そのうえ、その人がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的やすべての人が入っていくべき真理などはないと感じている。人への要求の大半は、その能力を超える。これは止まり木に追い立てられるアヒルを思わせる。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや観念は人体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を生まれながらに持っておらず、真理を直接理解する本能もない。それに人の堕落した性質を合わせれば、この種の自然のままの人が働くと、妨害を生じさせないであろうか。しかし、完全にされた人は、人が理解するべき真理を経験しており、人の堕落した性質を知っている。そのため、その人の働きにおける漠然として非現実的な事柄は次第に減少し、人間的なものによる汚れは少なくなり、その人の働きと奉仕は神が求める基準に近づいていく。こうして、その人の働きは真理現実に入っており、また現実的になっている。特に人の思考にある考えは聖霊の働きを妨害する。人には豊かな想像力と合理的論理があり、また物事を取り扱ってきた長い経験がある。人間のこのような側面が刈り込みと修正を受けなければ、それはすべて働きの障害である。したがって、人の働き、特にまだ完全にされていない人の働きは、正確さについては最高規準に到達することはできないのである。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事