唯一無二の神自身 8

神は万物のいのちの源である(2)その2

神が人類のために用意する日常の食料と飲料

ここまでは、全体的な環境の一部分、すなわち神が世界を創造して以来、人類のために用意した人間の生存に必要な条件について話をしました。五つのことについて話しましたが、この五つが全体的な環境です。次に話すことは、肉にある人間ひとりひとりの生活と密接に関連しています。それは、肉にある人間の生活に一層よく当てはまり、則した必要条件です。それは食料です。神は人間を創り、適切な生活環境に置きました。その後、人間には食料と飲料が必要になりました。人間には、そうした必要があり、それで神は人間のためにそのような用意をしました。したがって、神の働きの歩みのひとつひとつと神の行なうひとつひとつの業は、空虚な言葉ではなく、実際に行われているのです。食料は人間の日常生活において不可欠なものですか。食料は空気よりも重要ですか。それらは等しく重要です。どちらも人間の生存と、人間の生命の継続を守るのに不可欠な条件であり物質です。空気の方が重要ですか。それとも水の方が重要ですか。気温の方が重要ですか。それとも食料の方が重要ですか。これらはすべて重要です。人間はそのいずれも欠くことができないので、選択できません。これは現実的な問題であり、選択できるものではありません。あなたは知りませんが、神は知っています。あなたが食料を見ると、「食べ物なしは無理だ」と感じるでしょう。しかし、あなたが創られた直後にそのような状況の中に置かれたのなら、自分には食べ物が必要だということを知っているでしょうか。あなたは知らないでしょうが、神は知っています。あなたが空腹になり、そしてあなたが食べられるように木に果実があり、地面に穀粒があるのを見てはじめて、食べ物が必要だと気づきます。喉が渇き、泉の水が目に入り、それを飲んではじめて、自分が水を必要としているのだと気づくのです。水は神が人間のために用意したものです。食料については、一日三食摂るか、二食か、あるいはそれ以上かは問題ではなく、要するに、食料は人間の日常生活に不可欠なものである、ということです。食料は人体の正常な生存を維持するために必要なもののひとつです。それでは、食料はおもにどこから来ますか。第一に、土から来ます。土は神により人間のために用意されました。土は、木や草だけでなく、様々な植物の生存に適しています。神は人類のためにあらゆる種類の穀粒とその他様々な食材の種を用意し、種を蒔くのに適した土壌と土地を人類に与え、人類はこれらのもので食料を得ました。どのような種類の食料があるでしょうか。あなたがたは、これについて明確に理解しているはずです。そうですね。第一に、様々な穀粒があります。穀粒には何が含まれていますか。小麦、粟、キビ、米など、殻のついているものです。禾穀類は様々な種類に分けられます。禾穀類には、大麦、小麦、オート麦、蕎麦など、南部から北部まで様々な種類があります。様々な地域での栽培に適した、様々な種類が存在します。また、米にも様々な種類があります。南部には南部特有の様々な種類の米があり、穀粒が長く、粘り気が強すぎず、南部の人々に適しています。南部は気候が比較的温暖なので、インディカ米のような種類の米を食べなければなりません。米は粘り気が強いと食べ難く、食欲を失うので、粘り気は強すぎてはなりません。北部の人々が食べる米は、比較的粘り気が強いです。北部は気候が常に寒冷なので、粘り気の強い米を食べなければなりません。それに加えて、様々な種類の豆があります。豆は地上で栽培します。また、ジャガイモ、サツマイモ、タロイモ、さらに多くの土中で成育するものもあります。ジャガイモは北部で育ちます。北部のジャガイモはとても高品質です。人々が食べる穀物がないとき、ジャガイモが食生活で主食となることがあり、それで人々は一日三食を維持できます。ジャガイモも食料となりえます。サツマイモは品質においてジャガイモほど良くありませんが、一日三食を維持するために主食として使うことができます。穀物が入手できないとき、人々は腹を満たすためにサツマイモを食べることができます。タロイモは、南部の人がよく食べますが、同様の使い方ができ、また主食となりえます。これらが様々な穀物であり、人々の日常の食料と飲料として必要なものです。人間は様々な穀類を用いて麺、蒸しパン、米、ビーフンなどを作ります。神は、こうした様々な種類の穀類を人類に豊富に与えました。なぜこれほど多くの種類が存在するのですか。そこに神の意図を見出すことができます。一方で、これは東西南北で異なる土壌と気候に適合するためです。他方で、これらの穀類に含まれる様々な成分が、人体の様々な成分と一致するのです。人間が自分の身体に必要とされる様々な栄養素や成分を維持することができるのは、こうした様々な穀類を食べることによるのです。北部の食料と南部の食料は異なるものの、両者には相違点よりも共通点の方がずいぶん多くあります。これらの食料は、人体の通常の必要性をすべて満たし、人体の正常な生存を維持することができます。このように、各地において生産される種類がとても豊富な理由は、人体がこれらの食料が供給するものが必要だからです。人体の正常な生存を維持し、通常の人間生活を実現するために、土中から発育した様々な食料により共有されるものを人間は必要とします。つまり、神は人類に対して大いに配慮していたのです。神が人間に与えた様々な食料は無味乾燥ではなく、極めて多種多様です。シリアルを食べたければ、シリアルを食べることができます。麦よりも米が好きな人、麦を好まない人は米を食べることができます。米には穀粒が長い米、短い米など様々な種類があり、それらすべてが人間の味覚を満たします。したがって、もし人がこれらの穀類を食べるのであれば、食べ物に対するえり好みが極端に激しくない限り、人間は栄養不足にならず、老いるまで健康に生きることが保証されています。それが、神が人類に食料を与えた時の当初の考えでした。人体にはこれらが不可欠です。これが現実ではありませんか。人類は、こうした現実の問題を解決できませんが、神は既に準備し、そのことについて十分に検討したのです。随分前に、神は人類のための物事を用意したのです。

神は人類にこれらの他にもさらに与えました。野菜もあります。米を食べるとき、食べるものが米だけでは、栄養が不足するかもしれません。そこで、炒めものの小皿の料理を2種類作ったり、サラダを作って付け合わせにしたりすれば、野菜に含まれるビタミン類や複数の微量元素その他の栄養素は、人体に必要とされる物をきわめて正常に供給することができます。人間が主な食事を取っていないときには、果物を食べることもできます。そうですね。時折、人間が追加の水分やその他の栄養素、異なる味が必要なとき、野菜や果物があります。北部、南部、東部、西部で土壌や気候が異なるので、様々な種類の野菜や果物があります。南部の気候は暑すぎるので、果物や野菜の大部分は清涼効果のある種類で、食べた時に人体の冷気と熱気の均衡を保つことができます。一方、北部では果物や野菜の種類が比較的少ないですが、それでも北部の人々が楽しむのに十分な種類が揃っています。しかし、近年における社会的発展や、いわゆる社会的進化、東西南北の各地方を結ぶ交通機関や通信の改善により、北部の人々もまた南部の果物や特産品、野菜のいくつかを一年中でさえ食べることができます。これにより、人々は食欲や物欲を満たすことができるものの、人体は知らないうちに様々な度合いの危害に晒されています。それは、神が人類のために用意した食料には、南部の人間に適した食料や果実や野菜と、北部の人間に適した食料や果実や野菜があるからです。つまり、南部で生まれた場合、その人には南部産の食料を食べることが極めて適しているのです。神がこれらの食料、野菜や果物を用意したのは、南部には特有の気候があるからです。北部には、北部の人々の身体に必要とされる食料があります。しかし人間は非常に貪欲な食欲があるため、知らぬ間に社会的発展の波に呑まれ、そうした法則を知らぬ間に反してしまうのです。人間は現在の生活が向上したと感じるものの、こうした社会的発展は隠れた危害を一層多くの人体にもたらします。これは神が見たいことでも、神が万物とこれらの食料、果物、野菜を人類に与えたときに当初に意図していたものではありません。これは、神が制定した法則に反する人類が起こしたことです。

加えて、神が人類に与えたものは豊富であり、各地域に独自の特産物がありました。たとえば、(一般的にナツメという名称で知られる)ナツメが豊富な場所もあれば、クルミや落花生やその他の様々な種類のナッツ類が豊富な地域もあります。こうした物質的な物はみな、人体が必要とする栄養素を供給します。しかし、神は季節や時期に従って人類に物を供給し、かつ適切な時期に適切な分量を与えます。人類は物理的な快楽を求め、貪欲であるため、神が人類を創った時からの人類の成長の正常な法則に反しやすくなっています。サクランボを例にとりましょう。サクランボは六月頃に熟します。通常の状況においては、サクランボは八月までには出回らなくなります。サクランボは二ヶ月間だけ新鮮ですが、科学的手法により、人間は現在それを十二ヵ月、翌年のサクランボの旬の時期まで延長することができます。これは、サクランボは年間を通してあるということです。この現象は正常ですか。(いいえ。)それでは、サクランボを食べるのに最適な季節はいつですか。それは、六月から八月までの期間です。この期間以外は、サクランボをどれほど新鮮に保ったとしても、サクランボの味は同じではなく、人間の身体が必要とするものではありません。一旦期限日が過ぎた後は、どのような化学薬品を使用しても、自然に栽培されたときと同じにすることはできません。加えて、化学薬品が人間に与える危害は、誰が何を試みても解消したり変化させたりすることはできません。では、現在の市場経済は人間に何をもたらしますか。人々の生活は向上しているように思われ、あらゆる方向の交通の便は極めて良くなり、人々はあらゆる種類の果物を一年中どの季節でも食べることができます。北部の人々がバナナや南部の食品や特産品や果物を頻繁に食べることができます。しかし、これは神が人類に与えたい生活ではありません。このような市場経済は人間の生活にいくらかの恩恵をもたらしますが、害もまたもたらします。市場の豊かさのために、多くの人が何でも食べますが、考えずに食べるのです。これは、自然な法則に反していて、人間の健康にとって有害です。ですから市場経済は人間に真の幸福をもたらすことはできません。理解していますね。御覧なさい。ブドウは市場で一年の四季を通して売られていませんか。実際には、ブドウが新鮮であるのは、収穫後の極めて短い期間のみです。もしブドウを翌年の六月まで取っておいたなら、それは依然としてブドウと呼ぶことができますか。それを生ゴミと呼ぶことはできますか。そのブドウは、ブドウ本来の成分をもはやもっていないだけでなく、化学薬品の含有量が増えています。一年経過すると、ブドウは新鮮でないのみならず、栄養素も既になくなっています。ブドウを食べるとき、「本当に嬉しい。三十年前、この季節にブドウが食べられただろうか。食べたくても食べられなかっただろう。現代はなんと素晴らしい生活だろう」と人は感じます。これは本当に幸福ですか。興味があれば、化学薬品で保存されたブドウを調べてその成分構成がどうなっていて、それが人間に有益であるかどうかを確認すればよろしい。律法の時代には、イスラエルの人々がエジプトから出た後に路上にあった時、神は彼らにうずらとマナを与えました。神は彼らにそれらを保存することを許しましたか。一部の人は先見の明がなく、翌日に何も残っていないことを心配したので、その後のために多少残しました。すると、何が起こりましたか。翌日までには、腐ってしまいました。神は、イスラエルの人々に、予備として残しておくことを許しませんでした。なぜなら、神は既に用意をしていたからであり、それによりイスラエルの人々は飢えないことが保証されていたからです。人類にはその確信も、神への真の信仰もないのです。人間は常に将来のために少しだけ残し、神が人類のために用意したものの背後にある配慮と思いを見ることが決してできないのです。人間にはどうしてもそれを感じることができず、常に神を疑い、「神の業は信頼できない。神がそれを人類に与えるのか、いつ与えるのか誰が知っているのだ。本当に空腹なのに神が与えなかったとしたら、わたしは飢えるのではないか。栄養が不足するのではないか」と常に考えています。人間の確信がいかに小さいかを御覧なさい。

穀物や果物、野菜、様々な種類のナッツ類は、すべて植物性の食料です。それらは植物性の食料ですが、人体の必要性を十分に満たすだけの栄養素が含まれています。しかし、神は「これだけ人類に与えれば十分だ。人類はこれだけ食べていればよい」とは言いませんでした。神はそこで止めず、その代わり人類のために一層美味しい食料を用意しました。それは何ですか。それは、あなたがたのほとんどが見て食べることのできる様々な肉や魚です。神が人間のために用意したとても多くの種類の肉や魚があります。魚はすべて水中で生きています。魚肉は、食感が地上で育つ肉とは異なり、また人類に様々な栄養素を供給できます。魚の特性もまた人体の冷気と熱気を調整できるので、魚は人類にとって極めて有益です。しかし、美味しいものは、食べ過ぎてはなりません。それは次の言葉通りです。すなわち、神は人類に適切な時に適切な分量を与えるので、人間は季節と時期に従って正常かつ適切にそれらのものを享受することができます。家禽には何が含まれますか。ニワトリ、ウズラ、ハトなどです。アヒルやガチョウを食べる人々も多いです。神はこれらありとあらゆる肉を与えましたが、律法の時代、神は自身の選民に対してある種の要求を行ない、食事に関する特定の制限を課しました。現在、この制限は個人の好みと解釈にもとづいています。こうした様々な種類の肉により、人体に様々な栄養素が供給され、それはタンパク質や鉄を補給し、血液を豊かにし、筋肉や骨を強化し、エネルギーを増加します。要するに、人間が用いる肉の調理方法や食べ方を問わず、肉は一方で味覚と食欲を向上させ、他方で腹を満たすことができます。肉は人体に必要な日常的栄養素を供給できるということが最も重要な点です。それが、神が人類に食料を用意した時に神がもっていた気遣いです。植物性の食品と肉があります。これは豊富で潤沢なことではないでしょうか。しかし、人間は、神が人類のための食料を用意した時の神の本来の意図が何であったかを理解する必要があります。それは、こうした物質的食料を人間に貪欲に楽しませるためでしたか。人間が物質的満足に耽溺すると、どうなるでしょうか。栄養過剰になるのではありませんか。栄養過剰は、人体に様々な疾病を引き起こすのではありませんか。(はい。)これが、神が適切な時期に適切な分量を分割し、様々な時期と季節において、様々な食料を人間が享受できるようにした理由です。たとえば、酷暑の夏を過ごした後、人間の身体には、大量の熱気、病気の原因となる乾気や湿気が蓄積されます。秋が来ると、多くの種類の果実が熟れ、人間が果物を食べると、その湿気は解消されます。同時に、牛や羊は逞しく成長するので、人間はその肉を栄養補給として食べるべきなのです。様々な肉を食べた後、人体はエネルギーと熱気を得て、それが冬の寒さに耐えるのに役立つので、冬を無事に乗り越えることができます。人類のために、いつ何を用意するか、いつ何を生長させるか、結実させるか、熟れさせるか、これらのことは、すべて神によりとても慎重に管理され支配されています。これが「神はいかに人間の日常生活に必要な食料を用意するか」に関する題目です。あらゆる種類の食料のほか、神は人類に水源を与えています。人間は、食事の後に水を飲まなければなりません。果物を食べるだけで十分ですか。人間は果物を食べるだけでは耐えられず、なおまた、果物がない季節もあります。それでは、人間の水問題は、どうすれば解決できますか。湖沼、河川、泉など、地上や地中に多数の水源を用意した神によってです。これらの水源からは、汚染や人間による処理や損害がない場合、飲むことができます。つまり、人間の物理的身体の生活のための食料源に関しては、神は極めて正確で、精密で、適切な用意を行ったので、人間の生活は豊富で潤沢であり、何も不足していないのです。これは、人々が感じ見ることができることです。

さらに神は、万物の中でも、人体の怪我や病気を癒やすことを目的とした植物や動物、そして様々な草を創りました。たとえば、火や熱湯でたまたま火傷したらどうすべきですか。水で洗い流すだけでいいですか。布切れで巻くだけでいいですか。そのようなことをすれば膿が溜まって化膿するかもしれません。たとえば、発熱したり、風邪をひいたり、肉体労働で負傷したり、悪いものを食べて胃の病気になったり、生活習慣や情緒的問題のせいで、脈管病や精神疾患、内臓疾患などの病気になった場合、これらすべてを癒すための植物があります。血行を促進して血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、正常な皮膚の回復を促進する植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などがあります。要するに、これらすべては日常生活で使用できるのです。これらは人間にとって役に立ち、必要な場合に備えて人体のために神が用意しました。人間が偶然発見できるようにされた植物もあれば、神がそうするよう選んだ人によって発見された植物もあり、神が指揮した特定の現象の結果として発見された植物もあります。発見の後、人類はそれらを伝えて多くの人々が知るようになるのです。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意味があります。すなわち、これらはすべて神に由来し、神が人類のための生活環境を創った時に用意し、植え付けられたものです。これらはすべて極めて必要性が高いです。神の配慮は人間の配慮よりもよく考えつくされていますか。神が行ったことのすべてを見る時、神の実際的な側面を感じることができますか。神は密かに働いたのです。この世界に人間がまだ現れていない時、神がこの人類と接する前に、神は既にこれらすべてを創っていました。神が行ったことは、すべて人類と、人類の生存のためであり、また人類の存在のために配慮されたものであるので、人類は、神が人類のために用意したこのような豊富で潤沢な物質世界で、食料や衣料について心配することなく、何かに不足することなく、幸せに生活することができるのです。人類はそうした環境の中で繁殖し、生存し続けています。

神が行うことで、その大小を問わず、価値や意義がないものがありますか。神のすることにはすべて価値と意義があります。このことについて、人々が頻繁に口にする疑問から話しましょう。ニワトリと卵はどちらが先に現れたか、と多くの人はいつも尋ねます。(ニワトリです。)これにはどう答えますか。ニワトリが先です。これは確実です。なぜニワトリが先ですか。なぜ卵が先であるはずがないのですか。ニワトリは卵から生まれるのではないのですか。卵からニワトリが生まれ、ニワトリは卵を孵化させます。卵を二十一日間抱いた後に、ニワトリが生まれます。そのニワトリは卵を産み、その卵から再びニワトリが生まれます。それでは、ニワトリと卵のどちらが先に現れたのですか。あなたがたは自信をもって「ニワトリ」と答えましたが、なせですか。(聖書には、神様が鳥と獣を創られたと書いてあるからです。)それは聖書に基づいています。神の業に関する実際の認識があなたがたにあるかどうかを見るために、あなたがた自身の認識について話しなさい。自分の答えに確信していますか、確信していませんか。(神様はニワトリをお創りになり、ニワトリに繁殖する能力をお与えになりました。それは卵を孵化させる能力と、いのちを継続させる能力です。)その解釈はだいたい正しいです。ニワトリが先に現れ、次に卵が現れた。それは確かです。これはそれほど遠大な奥義ではありませんが、この世の人々は、極めて深いものと捉えて、論法に哲学を用います。結局、彼らはいまだに結論に達していません。神がニワトリを創ったことを、人々は知らないようです。人間はこの根本的な原則を知らず、また卵とニワトリのどちらが先に現れたのかもはっきり分からないのです。何が先に現れるべきかを知らないので、いつも答えを見出すことができません。ニワトリが先だったことは、極めて普通です。もし卵がニワトリよりも先であったとしたら、それは異常です。絶対にニワトリが先に現れました。これは非常に単純なことです。博識である必要はありません。神はそれらすべてを創ったのです。神の当初の意図は、それを人間が享受することでした。一旦ニワトリが現れると、当然のこととして卵がそれに続きます。これが容易な解答ではありませんか。もし卵が先に創れたなら、卵を孵化させるニワトリが必要ではありませんか。直接ニワトリを創るほうが、はるかに容易な解答です。このようにして、ニワトリは卵を産み、その中のひよこをかえせると同時に、人間がニワトリを飼って食べることもできます。何と便利ではありませんか。神がものごとを行なう方法は簡明で、煩わしくありません。卵はどこから来ますか。ニワトリからです。ニワトリなしには卵はありません。神が創ったのは、生き物でした。こうした単純な問題にはまり込み、挙げ句の果てに数々の邪論さえ生み出す人類は、愚かで滑稽です。なんと子供っぽいことでしょう。卵とニワトリの関係は明白です。ニワトリが先に現れた。これが最も正確な説明であり、理解の仕方であり、回答です。これが正しいのです。

たった今わたしたちは何について話ましたか。最初に、人間の生活環境やその環境のために神が何を行い、用意し、取り扱ったことについて話し、また、神が人類のために用意したあらゆるものの関係、そして万物が人類に危害を加えるのを防ぐために、神がこれらの関係をどのように取り扱ったかについても話しました。また神は、万物がもたらす様々な要素が人類の環境に与える悪影響を解決し、万物がそれぞれの機能を最大化することを実現し、好ましい環境とあらゆる有益な要素を人間に与え、よって人類がそうした環境に順応して、繁殖と生命の周期を正常に繰り返すことができるようにしました。次は、人体が必要とする食料、すなわち日常の食料と飲料でした。これもまた人類の生存の必要条件です。つまり、人体は、呼吸するだけ、日光や風だけ、あるいは適切な気温だけでも生きられないということです。人間はまた腹を満たす必要もあるのです。人間の腹を満たす食料や飲料もまた、すべて神が人類のために用意したものであり、それが人類の食料源です。こうした豊富で潤沢な産物、すなわち人類の食料や飲料の源を見たとき、神は人類とすべての被造物の供給源であると言うことができますか。創造の際、神が草木だけ、あるいはその他多数の生き物だけを創り、それらの様々な生き物や植物が、どれも牛や羊が食べるためのものだったり、あるいはシマウマや鹿やその他の様々な動物のためだったりして、たとえばライオンはシマウマや鹿などを食べ、虎は羊や豚などを食べるものの、人間の食料として適したものがひとつもなかったとしたら、それでうまく行っていたでしょうか。うまく行かないでしょう。人類は生存を続けられなかったでしょう。もし人間が木の葉だけを食べたとしたら、どうでしょうか。それでうまく行くでしょうか。人間は羊のために用意された草を食べられるでしょうか。少し試すだけなら害はないでしょうが、そのようなものを長期間にわたって食べ続けたとしたら、人間の胃はそれに耐えられず、長くは生きていられないでしょう。動物は食べることができても、人間が食べるには有毒なものさえあります。毒があり、人間は食べられなくても、動物は影響を受けることなく食べられるものもあります。言い換えると、神は人間を創ったので、人体の原則や構造、人間に必要なものを最も良く知っているのです。人体の構成、成分、必要なもの、人体の内臓がどのように機能し、吸収し、排出し、代謝するかを神は完全に把握しています。人間はこのことについてそれほど把握しておらず、やみくもに食べたり補給したりすることがあります。補給しすぎて、結果として不均衡を引き起こします。もし神が人間のために用意したものを普通に食べ享受していれば、何も問題は起こりません。たとえ時に気分がすぐれず、鬱血があったとしても、それは問題ではありません。ただ特定の植物を食べなくてはならないだけで、それで鬱血は解消されます。神はこうしたことをすべて用意したのです。それで、神の目から見ると、人類はその他のどの生き物よりも遙かに優れています。神は、ありとあらゆる植物の生息環境を用意し、ありとあらゆる動物の棲息環境と食料を用意しましたが、人類の生活環境に対する必要条件は最も厳格で、軽視が許されません。そうでなければ、人類は発展と生殖、正常な生活を継続できないでしょう。神は心の中でこれを一番良く知っています。このことを行った時、神はそれを他の何よりも重要視しました。あなたが人生の中で見て享受できる平凡なもの、あるいは自分が生まれたときからもっていて、見て享受している何かの重要性を、おそらくあなたは感じ取れないかもしれませんが、神ははるか昔に、あるいは密かに、あなたのために用意していたのです。人類にとって好ましくなく、人体に危害を加え得る否定的な要素を、神はすべて最大限に除去し、解消しました。これは何を明らかにしますか。神が今回人類を創った時の神の人類への姿勢が明らかになりますか。その姿勢はどのようなものでしたか。神は、厳格かつ真剣な姿勢であり、神以外のいかなる要素や条件、勢力の妨害を一切容赦しませんでした。このことから、今回神が人類を創ったときと、今回の人類の経営における神の姿勢が分かります。神の姿勢とは何ですか。人類が享受する生活環境や生存環境、日常の食料や飲料、必需品を通して、人類を創造して以来神が有してきた人類に対する責任の態度と、さらに今回人間を救うことへの神の決意が分かります。こうした物事から、神の真実性が分かりますか。神の驚異性が分かりますか。神の無限の遠大性が分かりますか。神の全能性が分かりますか。神はその全能かつ知恵深い仕方で、全人類に与え、また万物にも与える。このことに関して、わたしがこれだけ話した後、神が万物のいのちの源であるとあなたがたは言うことができますか。(はい。)それは確実です。疑いがありますか。(いいえ。)神による万物への施しは、神が万物のいのちの源であることを示すのに十分です。なぜなら、神は万物が存在し、生き、繁殖し、継続することを可能にしてきた施しの源であり、神自身以外の源はないからです。それが環境に関する最も基本的な必要性であれ、日常生活に必要なものであれ、あるいは神が人々の霊に施す真理にとって必要なものであれ、神は万物に必要なものと人類に必要なものすべてを施します。あらゆる視点から見て、人類にとっての神の身分と地位に関しては、万物のいのちの源は神自身のみです。これは正しいですか。(はい。)つまり、神は人間が目で見て感じることのできるこの物質世界の支配者であり、主であり、供給者です。人類にとって、これは神の身分ではありませんか。これは完全に正しいです。したがって、空を飛ぶ鳥が見えれば、神は空を飛べるものを創ったことを理解しなければなりません。しかし、水中を泳ぐものも存在し、それらもまた様々な仕方で生存しています。土中で生きる草木は春に芽吹き、秋に結実して落葉し、冬には完全に落葉して冬を過ごします。これが、それらの生存の仕方です。神は万物を創り、万物はそれぞれ異なる形態と方法により生き、様々な方法を用いてその生命の力と形態を示します。その方法が何であれ、それはすべて神の支配下にあります。神が様々な形態の生命体と生き物を支配する目的は何ですか。それは人類の生存のためですか。(はい。)神は人類の生存のために、生命の法則のすべてを支配します。これは、神にとって人類の生存がいかに重要であるかを示しています。

人間が正常に生存し、繁殖することは、神にとって最も重要です。したがって、神は常に人類と万物に与えます。神はあらゆるものを様々な方法で与え、万物の生存維持の状況下において、人類の正常な存在を維持するために、神は人間が前進を続けられるようにします。これらが、今日わたしたちが話し合っている二つの側面です。その二側面とは何ですか。(巨視的観点からは、神様は人類のために生活環境をお創りになりました。これが最初の側面です。また、神様は人間が必要とし、目で見て触れることのできる物質的なものを用意なさいました。)それら二側面を通して、わたしたちは本日の主題を話し合いました。主題は何ですか。(神様は万物のいのちの源である、です。)今では、わたしがそのような主題の下になぜこうした内容を伝えたのかについて、あなたがたはある程度の認識を得ているはずです。これまで、その主題と無関係の話がありましたか。ありませんでした。そうですね。これらの事柄を聞いて、おそらくある程度の認識を得てこれらの言葉が重要であると感じている人もあなたがたのうちにいるでしょうが、他の人たちは文字通りに受け取った知識を少し得ただけで、それらの言葉はどうでもよいと感じているかも知れません。あなたがたがこれを今どのように理解しているかに関わらず、あなたがたの経験の過程において、やがてあなたがたの認識がある点に達する時、つまり、神の業と神自身に関する認識がある特定の点に達し、あなたがたは自分自身の実践的な言葉を用いて神の業の深い真の証しをするでしょう。

現在におけるあなたがたの認識はいまだに極めて単純で、文字通りに受け取っているだけであるとわたしは思います。しかし、わたしがこれら二側面をあなたがたに話すのを聞いた後では、あなたがたは少なくとも神が人類に与えるためにどのような方法を用いるかや、神が人類に何を与えるかを認識することができますか。あなたがたには基本的な概念と理解がありますか。(はい。)しかし、わたしが伝えたこれら二側面は、聖書と関連していますか。(いいえ。)神の国の時代における神の裁きと刑罰に関連していますか。(いいえ。)それでは、なぜわたしはこの二側面について話をしたのでしょうか。それは、神を知るためには人間はこれらの側面を理解しなければならないからですか。(はい。)これらを知り、理解することはとても必要です。神に関するすべてを理解するために、聖書に、神の人間への裁きと刑罰だけに限っていてはいけません。わたしがこう言うことの背後にある目的は何ですか。それは、神は、ただ神の選民だけの神ではないことを人々に知らせることです。現在あなたは神に付き従っており、神はあなたの神ですが、神に付き従う人々以外の人々にとって、神は彼らの神でもありますか。神は、神に付き従う人々以外の、あらゆる人々の神ですか。神は万物の神ですか。(はい。)それでは、神は神に付き従う人々だけに対して働きや業を行いますか。(いいえ。)神の働きと業の範囲は何ですか。最も狭いレベルでは、神の働きと業の範囲には人類全体と万物が含まれます。最も広いレベルでは、宇宙全体が含まれます。したがって、神は全人類のあいだで働きと業を行うと言うことができます。人々に神自身に関するすべてを知らせるには、これで十分です。神を知りたい、神を真に知りたいのであれば、ただ神の働きの三段階に限っていてはいけません。神が以前に行なった働きの話だけに限っていてはいけません。そのようにして神を知ろうとするのならば、神を一定の制限内に留めていることになります。神をあまりに無意味にみなしています。そうした結果は、あなたにどのような影響を及ぼすでしょうか。あなたは神の驚異性や崇高性、神の力や全能性、そして神の権威の範囲を決して知ることはないでしょう。そのような認識は、神が万物の支配者であるという真理をあなたが受け入れる能力、そして神の真の身分と地位に関するあなたの認識に影響を及ぼすでしょう。すなわち、もし神に関するあなたの認識の範囲が限られているならば、あなたが受け取ることのできるものも限られています。範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、このためである。それが神の働きの、神の経営の、神の支配の、あるいは神に支配され管理されている万物の範囲であるかに関わらず、あなたはそれらすべてを知り、その中にある神の業を知るべきです。そのような理解方法により、あなたは神が万物を支配し、管理し、万物にあらゆるものを供給しているということを知らないうちに感じるでしょう。それと同時に、あなたは自分が万物の一部であり、万物の一員であることを実感するでしょう。神は万物を供給するので、あなたも神の支配と供給を受け入れます。これは誰も否定することのできない事実です。万物はそれぞれの法則にさらされていて、その法則は神の支配下にあり、また万物にはそれぞれの生存のための規則があり、それもまた神の支配のもとにあります。その一方で、人類の運命や人類に必要なものもまた神の支配や神による供給と密接に関連しています。このため、神の統治と支配下において、人類と万物は相互に関連し、相互に依存し、織り交ぜられているのです。これが、神による万物創造の目的と価値です。いま、あなたがたはこれがわかりましたね。(はい。)そうであれば、今日の交わりはここで終わりましょう。さようなら。(神様に感謝。)

2014年2月2日

『言葉は肉において現れる』より引用

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