唯一無二の神自身 5

(その2)

神の本質の聖さに関しては、前回わたしたちはそれについて少し交流し、それは神の聖さについて人が認識するための啓示となりましたが、十分ではありません。それは人が完全に神の聖さを知るための十分な助けとなることはできませんし、神の聖さが唯一無二であることを人が理解するための十分な助けとなることもできません。さらに、神において完全に具現化されている聖さの真の意味の側面を、人に十分理解させることもできません。したがって、わたしたちはこの主題での交流を続けることが必要です。前回の交流では題目を三つ話し合いましたから、今は四番目の題目を話し合うべきです。聖書を読んで始めます。

サタンの誘惑

マタイによる福音書第四章1-4節 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

これが悪魔が主イエスを初めて試みようとした言葉です。悪魔の言ったことの内容は何ですか。(「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。)悪魔はこれら極めて単純な言葉を言いましたが、この言葉の実質的内容に問題はありますか。(あります。)何が問題ですか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言いましたが、心の中では悪魔は主イエスが神の子であることを知っていましたか。キリストであることを知っていましたか。(はい。)それでは、なぜ悪魔は「もし……であるなら」と言ったのですか。(神様を試そうとしたのです。)もちろん、悪魔は神を試そうとしていたのですが、しかし、そうする悪魔の目的は何でしたか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言いました。心の中では、悪魔は主イエス・キリストが神の子であることを知っていました。このことは悪魔の心の中ではとても明確でした。しかし、それにもかかわらず、悪魔は主イエスに服従、あるいは主イエスを礼拝しましたか。(いいえ。)悪魔は何がしたかったのですか。悪魔がこれを行い、この言葉を言いたかったのは、主イエスを怒らせ、主イエスが餌に喰いついて来るようにおびき寄せ、主イエスを騙して悪魔の考える通りのことをさせ、その釣針にかかるようにさせるためでした。これが意図されたことではありませんでしたか。サタンは心の中では、明らかにそれが主イエス・キリストであることを知っていましたが、それなのにこう言ったのです。これがサタンの本性ではありませんか。サタンの本性は何ですか。(ずるくて、邪悪で、神様への畏敬の念がありません。)神への畏敬の念がありません。悪魔がしていた否定的なことは何ですか。神を攻撃したかったのではありませんか。神を攻撃するのにこの方法を用いたかったのです。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と言いました。これはサタンの邪悪な意図ではありませんか。(そうです。)悪魔は本当は何をしようとしていたのですか。悪魔の目的は明らかです。この方法を用いて主イエス・キリストの地位と身分を反証しようとしたのです。悪魔は、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。もししないなら、あなたは神の子ではなく、あなたはこの働きを行なうな」と言いました。これがここで意図されたことではありませんか。悪魔はこの方法で神を攻撃したかったのです。神の働きを取り壊し、つぶしたかったのです。これはサタンの悪意です。サタンの憎悪はその本性の自然な表れです。サタンは主イエス・キリストは神の子であり、神の受肉そのものであると知っていたのに、このようなことをせずにはいられず、神の後ろをつけ、神を攻撃し続け、神の働きを妨げ破壊しようと骨を折ったのです。

さて、サタンが言った「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という台詞を分析しましょう。石をパンにする、これは何かを意味していますか。もし食べ物があるのなら、なぜそれを食べないのですか。なぜ石を食べ物に変える必要があるのですか。ここに意味はありますか。(ありません。)このとき主イエスは断食をしていましたが、食べ物をもっていたはずです。食べ物をもっていましたか。(はい。)それでは、ここにサタンがこの台詞を言ったことの馬鹿らしさがあります。サタンは幾つかのことをします。サタンの狡猾で悪意に満ちた本性が、サタンが神の働きを破壊するのが見えます。とても憎悪に満ちていて、苛立たせます。けれど、他方ではサタンの言動の背後に幼稚で愚かな本性も見えませんか。(見えます。)これはサタンの本性が露呈しているのです。サタンはこのような本性をもち、このようなことをします。この台詞はきょうの人々には馬鹿げていて笑えてきます。けれど、このような言葉は確かにサタンが言いそうなものです。サタンは無知だと言うことができますか。愚かですか。サタンの邪悪はそこらじゅうにあり、絶えず暴露されています。そして主イエスはどのように返答しますか。(『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』。)これらの言葉には力がありますか。(あります。)なぜ力があると言うのですか。(それが真理だからです。)そうです。これらの言葉は真理です。さて、人はパンだけで生きるものですか。主イエスは四十日四十夜断食しました。飢え死にしましたか。(いいえ。)飢え死にしませんでした。そこでサタンは主イエスに近づいて、「石を食べ物に変えれば、食べるものがあるではないか。それなら断食して、ひもじい思いをしなくてよいのではないか」のようなことを言って、主イエスに石を食べ物に変えるように促しました。けれど主イエスは、「人はパンだけで生きるものではなく」と言いました。これは、人間は肉体に生きてはいるが、人間にいのちを与えるもの、人間の肉体を生かし、呼吸させるものは食べ物ではなく、神の口から出るすべての言葉である、という意味です。一方で、人間はこの言葉を真理ととらえます。この言葉は人間に信仰を与え、人間は神に頼ることができ、神は真理であると感じさせます。他方で、この言葉には実際的な面がありますか。(あります。)なぜですか。それは、主イエスは四十日四十夜断食し、それでも立ち、いまだに生きているからです。これは実例ではありませんか。主イエスは四十日四十夜のあいだ何も一切の食べ物を食べていません。それでもまだ生きています。これはこの聖句の裏にある強力な証拠です。この台詞は単純です。けれど、主イエスに関する限り、この台詞は誰かに教えられ主イエスの心から出たものですか。それとも、サタンが言ったことのためだけに主イエスが考えついたのでしょうか。考えてみなさい。別の言い方をするならば、神は真理であり、神はいのちですが、神の真理といのちは後に追加されたものですか。それは経験から生まれたものでしたか。(いいえ。)いいえ。それは神に元来備わっているものであり、それは真理といのちは神の本質であるという意味です。神に何が起ころうと、神が表すものは真理です。この真理、この台詞は、その内容の長短に関わらず、人間を生かし、人間にいのちを与えることができます。この台詞は、人間がその中に真理を見出し、人生の道について明らかにし、神への信仰をもつことを可能にします。言い換えるなら、神がこの台詞を用いたことの源泉は肯定的です。それではこの肯定的なことは聖なるものだと言うことができますか。(はい。)サタンの台詞はサタンの本性から来ます。サタンはその邪悪な本性、悪意にみちた本性をあちこちで常に明らかにします。さて、サタンはこのような明示を自然に行いますか。(はい。)誰かが促すのですか。誰かが助けるのですか。誰かが強要するのですか。(いいえ。)それはすべて自発的な暴露です。これがサタンの邪悪な本性です。神が何を、またどのように行なおうと、サタンは神のすぐ後に付いて来ます。サタンのこのような言動の本質と真の特徴が、サタンの本質、邪悪な本質、悪意に満ちた本質です。さて、読み続けると、サタンは他に何を言いますか。続けて先を読みましょう。

マタイによる福音書第四章5-7節 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。)

まず初めにサタンのこの台詞について話し合いましょう。サタンは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と言い、そして「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と聖書から引用しました。皆さんはサタンの言葉を聞いて、どう感じますか。とても幼稚ではありませんか。この言葉は幼稚で、馬鹿げていて、吐き気を催させます。なぜわたしはこう言うのですか。サタンはいつも何か愚かなことをしようとしていて、自分をとても頭が良いと思っています。またサタンはよく聖書を、神の言葉そのものさえ引用して、そのような言葉を神に反して用い、神を攻撃し試そうとします。これをするサタンの目的は、神の働きの計画を破壊することです。それはそうとして、サタンの言ったことで何か気づきますか。(そこには邪悪な意図があります。)サタンは常に試みる者です。サタンは直截な話し方をせず、誘惑や欺き、そそのかしを使って遠まわしな話し方をします。サタンは人間も神も同じように試します。神も人間も無知で愚かではっきりと物事をあるがままに区別できないと思っているのです。サタンは神と人間は同様にサタンの本質を見通さず、神も人間もサタンの騙しや腹黒い意図を見抜けないと思っています。これがサタンが愚かなところではないでしょうか。さらに、サタンは堂々と聖書を引用します。こうすることで、自らに信頼性が備わり、誰かが欠陥を見つけることも、騙されるのを避けることもできないと思っているのです。これがサタンが馬鹿げて幼稚なところではないでしょうか。(そうです。)これはちょうど誰かが福音を開いて神への証しを立てるときのようです。非信者はサタンが言ったことと同じようなことを言いませんか。皆さんは誰かが同じようなことを言うのを聞いたことがありませんか。(あります。)そのようなことを聞くと、どう感じますか。吐き気を催しますか。(はい。)吐き気を催すとき、皆さんは不快で憎悪も感じますか。(はい。)そのような感じを覚えるとき、サタンと、サタンが人間の中に入り込ませる堕落した性質が邪悪であることを認識することができますか。皆さんの心の中で、ともかく次のような気づきがありますか。「神は決してこのように話すことはない。サタンの言葉は攻撃と誘惑をもたらし、その言葉は馬鹿げていて、おかしく幼稚で、吐き気を催させる。けれど、神の言葉と行動においては、神は決してこのような方法を用いて話したり働きを行なうことはなく、神はこれまでにそんなことをしたことはない」。もちろん、この状況においては、人々は感情はわずかしかもたず、神の聖さには気づいていません。違いますか。皆さんの現在の霊的背丈をもってすると、皆さんは「神が言うことはすべて真理だ。それはわたしたちに有益で、受け入れなければならない」と感じているだけです。これを受け入れることができるか否かに関わらず、例外なく皆さんは神の言葉は真理で、神は真理だと言いますが、真理は聖さそのものであることと神は聖なるものであることを皆さんは知らないのです。

さて、主イエスのサタンの言葉への返答は何でしたか。(イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。)主イエスがいったこの台詞には真理がありますか。(はい。)そこには真理があります。表面的には、それは人が従うべき命令のようで、とても単純な台詞ですが、人間もサタンもこれをしょっちゅう犯してきました。それで、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言いました。なぜならば、これはサタンがよく行なった、あらゆる努力をして行なったことであり、恥知らずにも行なったとさえ言うことができることだからです。神を畏れず心に神への畏敬の念をもたないのはサタンの根源的な本性です。ですから、サタンが神のそばにいて神を見ることができたときでさえ、神を試さずにはいられなかったのです。それで、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言ったのです。これは神がサタンにしょっちゅう言ってきた台詞です。この台詞を今日でも使うことは適切ではありませんか。(適切です。)なぜですか。(わたしたちもよく神様を試すからです。)人はよく神を試しますが、なぜ人はよくそうするのですか。人が堕落したサタン的性質で満たされているからですか。(はい。)では先にサタンが言ったことは人がよく言うことですか。(はい。)どのような状況ですか。人はこのようなことを時間や場所に無関係に言ってきたと言うことができます。これは、人の性質はサタンの堕落した性質とまったく同じだということを証明しています。主イエスは単純な台詞、真理を表し、人が必要とする台詞を言いました。けれど、この状況において、主イエスはサタンと議論していたのですか。主イエスがサタンに言ったことに、何か対立的ものがありましたか。(いいえ。)主イエスは心の中でサタンの誘惑をどのようにみなしましたか。主イエスは吐き気を催し胸が悪くなるように感じましたか。(はい。)主イエスは吐き気を催し胸が悪くなるように感じましたが、サタンと議論はしませんでしたし、ましてや大いなる原則について話したりはしませんでした。そうではないですか。(その通りです。)それはなぜですか。(主イエスはサタンを認めたくなかったのです。)なぜ主イエスはサタンを認めたくなかったのですか。(サタンはいつも同じで、変わることがないからです。)サタンは筋が通っていないと言うことができますか。(はい、できます。)サタンには神は真理だということが認識できますか。サタンは神が真理であるということを決して認識しませんし、神が真理であるということも決して認めません。これはサタンの本性です。さらに、サタンの本性で胸が悪くなるようなことが他にあります。それは何ですか。主イエスを試そうとした際、サタンはもし神を試して成功しなかったとしても、とくかくやってみようと考えました。罰せられるとしても、とにかくするのです。そうすることで何ら良いことを得られないとしても、サタンはそれを行なって、最後まで執念深く神に立ち向かいます。これはどういう本性ですか。邪悪ではありませんか。(そうです。)神と言うと激昂する人は、神を見たことがありますか。神と言うと怒る人は、神を知っていますか。そんな人は神が誰か知りませんし、神を信じませんし、神はそんな人に語りかけたことはありません。神はそんな人に構ったことはありません。それなのに、なぜ怒るのでしょうか。そんな人は邪悪だと言うことができますか。それは邪悪な本性の人でしょうか。世の中でどのような流行が起きていようと、それが娯楽や食べ物、有名人、社交界の名士に関することであろうと、一切そのようなものに気をもむことがないのに、「神」という一言で取り乱します。これは邪悪な本性の一例ではないでしょうか。これは、人間の邪悪な本性の満足ゆく証拠となります。さて、皆さんに関しては、真理と言うと、あるいは神の人類に対する試練が話題になったり、あるいは神の人間への裁きの言葉と言うと、うんざりし、胸が悪くなるように感じ、そのことは聞きたくないと思う時がありますか。皆さんの心が、どうしてこれが真理なんだ、皆が神は真理だと言っていなかったか、これは真理ではない、これは明らかに神の人間への警告の言葉に過ぎない、と思うかもしれません。心の中で嫌悪を感じる人さえいるかもしれません。「これは毎日話題になる。神の我々への試練は、神の裁きと同様に、いつも言及される。これは全部いつ終わるのか。我々はいつ良い終着点に到達するのか」と思うのです。この不当な怒りがどこから来るのかは知られていません。これはどのような本性ですか。(邪悪な本性です。)これはサタンの邪悪な本性に促されています。サタンの邪悪な本性と人間の堕落した性質に対する神に関しては、神は決して人と議論したり言い争ったりせず、人が無知ゆえに行動したときも、騒ぎ立てません。神が物事に関して人と同様の見解を抱くのを皆さんが見ることはありませんし、さらに、神が人間の視点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理するのを皆さんが見ることもありません。その代わりに、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発したすべての言葉と、神が行なったすべての行為は真理に関係しているのです。この真理とそれらの言葉は、根拠のない空想ではなく、それどころか神の本質と神のいのちゆえに神により表されます。これらの言葉と神が行なったすべてのことの本質は真理なので、神の本質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらします。それにより、人は前向きな物事と、その前向きな物事の現実性を見ることができ、正しい道を歩くことができます。これらの物事は神の本質ゆえに決定され、これらは神の聖なる本質ゆえに決定されます。皆さんはこれを見ました。そうですね。続けて聖書を読みます。

マタイによる福音書第四章8-11節 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

サタン悪魔は前の二つのたくらみに失敗し、また別のたくらみを試します。主イエスにこの世のすべての国々とその栄華を見せ、悪魔を拝むように要求しました。皆さんはこの状況から、悪魔の真の特徴について何を見ますか。サタン悪魔はとてつもなく恥知らずではありませんか。(そうです。)どれほど恥知らずになれるのでしょうか。万物は神により創造されたのに、サタンはそれを逆さまにして、神に見せ「これらの国々の富と栄華を見なさい。わたしを拝むなら、これらを皆あなたにあげましょう」と言うのです。これは役割の逆転ではありませんか。サタンは恥知らずではありませんか。神は万物を創造しましたが、それは神の楽しみのためでしたか。神は人類に万物を与えましたが、サタンはそれをすべて奪いたくて、後で「わたしを拝め。わたしを拝めば、これをみなあなたに与える」と言いました。これはサタンの醜い顔です。とてつもなく恥知らずではありませんか。サタンは「恥」という単語の意味さえ知りません。これは邪悪のもう一つの例です。サタンは恥が何であるかさえ知りません。サタンは明らかに、神が万物を創造し、それを管理し支配していることを知っています。万物は神に属し、人間に属するのではなく、ましてやサタンに属するのでもありません。それなのにサタン悪魔はずうずうしくも自分が神に万物を与えようと言ったのです。サタンは再び愚かで恥知らずなことをしているのではありませんか。今や神はサタンをさらに憎悪しています。そうですね。しかし、サタンが何を行なおうとしようが、主イエスは騙されましたか。(いいえ。)主イエスは何と言いましたか。(「主なるあなたの神を拝せ」です。)この台詞には実際的な意味がありますか。(はい。)どのような実際的な意味ですか。サタンの言葉にはサタンの邪悪と恥知らずさが見えます。では、もし人間がサタンを拝んだら、結末はどうなるでしょうか。人は国々の富と栄華を受け取るでしょうか。(いいえ。)人は何を受け取りますか。人類もサタンと同じくらい恥知らずで笑いの的になるでしょうか。(はい。)人はサタンと変わりなくなるでしょう。ですから、主イエスは一人ひとりにとって重要なこの台詞を言ったのです。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」とは、主以外に、神以外に誰かを拝むならば、もしサタン悪魔を拝むならば、サタンと同じ汚れの中でもがくことになると述べています。そうなると、サタンの恥知らずさと邪悪を共有することになり、サタン同様に神を試し、神を攻撃します。そうなると人の終末はどうなるでしょうか。神に嫌悪され、神に打ち倒され、神に破壊されるのではありませんか。サタンが主イエスを成功することなく何度も試した後、サタンは再度試しましたか。サタンは再度試さず、去りました。これは何を証明しますか。これはサタンの邪悪な本性、その悪意、愚かさ、馬鹿らしさは神の前において語るに値しないことを証明します。主イエスはサタンを三つの文章だけで打ち負かしました。その後、サタンは尻尾を巻いて逃げ去り、恥ずかしさのあまり二度と顔を見せることもできず、主イエスを再び試すことはありませんでした。主イエスがサタンのこの誘惑を打ち負かしたので、主イエスは今やするべき働きを容易に継続することができ、目の前にある課業に取り組むことができました。この状況において主イエスが言い行なったことすべてに、もしそれが現在適用されたなら、すべての人にとって実際的な意味がありますか。(はい。)どのような実際的な意味ですか。サタンを打ち負かすのは簡単にできることですか。人はサタンの邪悪な本性について明確な認識をもつべきですか。人はサタンの誘惑について正確な理解をするべきですか。(はい。)もし生活においてサタンの誘惑を経験し、サタンの邪悪な本性を見通すことができるならば、サタンを打ち負かすことができるでしょうか。もしサタンの愚かさ、馬鹿らしさを知っているならば、それでもサタン側につき、神を攻撃しますか。(いいえ。しません。)もしサタンの悪意と恥知らずさが、いかにあなたを通して明らかにされているかを理解し、もしこれらのことを明確に認識し知っているならば、それでもこのように神を攻撃し試しますか。(いいえ、しません。)何をしますか。(サタンに対抗し、サタンを捨て去ります。)それは簡単にできることですか。(いいえ。)これは簡単ではなく、実行するには、人は頻繁に祈り、頻繁に神の前に来て、常に自省しなければなりません。神の鍛錬と裁き、刑罰に自己をゆだねなければなりません。このようにしてのみ、人はサタンの惑わしと支配を自己から徐々に取り除けるのです。

サタンが言ったこれらのことから、サタンの本質を作り上げているものを要約することができます。まず第一に、サタンの本質は邪悪であると一般的に言うことができ、それは神の聖さと対照的です。なぜわたしはサタンの本質は邪悪であると言うのでしょうか。これを理解するには、サタンが人にすることのなりゆきを観察しなければなりません。サタンは人間を堕落させ支配し、人間はサタンの堕落した性質の下で行動し、サタンに堕落させられた世界に住み、堕落した人々のあいだで生活します。大衆は知らないうちにサタンにとりつかれ同化させられます。したがって、人間はサタンの本性である堕落した性質をもっています。サタンの言動のすべてに、その傲慢を見ましたか。その騙しと悪意を見ましたか。サタンの傲慢はおもにどのように示されますか。サタンはいつも神の地位を占めたがりますか。サタンはいつも神の働きと神の地位を破壊し、それを自分のものとしたがり、それにより人がサタンに従い、サタンを支持し拝めるようにしたいのです。これがサタンの傲慢な本性です。サタンが人を堕落させるとき、サタンは人が何をするべきか直接言いますか。サタンが神を試みるとき、サタンは出てきて「わたしは神を試し、神を攻撃している」と言いますか。絶対に言いません。サタンはどのような方法を用いますか。サタンはそそのかし、誘惑し、攻撃し、罠を仕掛け、聖書の引用さえします。サタンはその悪に満ちた動機を達成するために様々な方法で話し、行動します。サタンがこれを行なった後、人間に表れるものに何を見ることができますか。人は傲慢ではありませんか。何千年ものあいだサタンの堕落に苦しんだので、人間は傲慢で、欺瞞と悪意に満ちて、筋が通らなくなりました。これはすべて、サタンの本性のせいで起こりました。サタンの本性は邪悪なため、サタンは人間にこの邪悪な本性を与え、人間にこの邪悪で堕落した性質をもたらしました。したがって、人間は堕落したサタン的性質の下に生き、サタンのように人間も神を崇拝せず、心に神への畏敬の念をもたない程度にまで、神に逆らい、神を攻撃し、神を試すのです。

『言葉は肉において現れる』より引用

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