唯一無二の神自身 10

神は万物のいのちの源である(4)その3

2.各種の宗教を信仰する人の生死の周期

これまでは、第一の種類の人々、つまり未信者の生死の周期について話してきました。ここからは、第二の種類である各種の宗教を信じる人たちの話をします。「各種の宗教を信仰する人の生死の周期」もまた重要な事項であり、これについて理解することは必要不可欠です。まずは、「信仰する人」の「信仰」が何を指すかについて話をしましょう。それは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の五大宗教です。未信者に加え、これら五大宗教を信仰する人が、世界の人口のうち大きな割合を占めています。これら五大宗教では、その信仰を職業とする人は少ないですが、信者は多数存在します。このような人は死ぬと別の場所に行きます。誰とは「別の場所」に行きますか。それは先ほど話した未信者、つまり信仰をもたない人です。五大宗教の信者は、死ぬと他の場所、未信者とは異なる場所に行くのです。しかし、その過程は依然として同じです。霊界では、こうした人たちについても、死ぬまでのすべての行いに基づいて裁きを下し、次いでその裁きに従って処理します。ですが、これらの人たちが別の場所に送られて処理されるのはなぜですか。そこには重要な理由があります。それは何ですか。ひとつ例を挙げて説明します。しかしその前に、あなたがたは「それはおそらく、彼らが少しは神を信じているからだ。完全な未信者ではないからだ」と考えているかもしれません。ですが、それが理由ではないのです。彼らが他の人たちから離されるのには、とても重要な理由があります。

仏教を例にとってあなたがたに事実を述べます。第一に、仏教徒とは仏教に改宗した人であり、その人は自分の信仰が何かを知っています。仏教徒が剃髪して僧や尼僧となった場合、それは俗世から自分を切り離し、人間界の喧噪をあとにしたことを意味します。こうした仏教徒は毎日読経し、仏陀の名を唱え、精進料理しか食べず、禁欲的な生活を送り、冷たくほのかな行灯の光だけで日々を過ごします。仏教徒はこのようにして一生を送るのです。仏教徒は肉体的人生が終わると、自分の生涯をまとめますが、死後に自分がどこへ行くか、誰と会うか、結末がどのようになるかは知りません。心の奥底で、こうした事柄についてはっきり認識していないのです。仏教徒は盲目的に一種の信仰を続けるだけで一生を過ごし、盲目的な願いと理想を抱いて人間界を去ります。それが仏教徒の肉体的生命の終焉であり、生者の世界を離れるときなのです。その後は霊界の本来の場所に戻ります。この人が生まれ変わって現世に戻り、修行を続けるかどうかは、生前における行いや習慣によって決まります。生涯にわたって過ちを犯さなかった人は、すぐに生まれ変わって現世に戻り、そこで再び僧や尼僧になります。つまり、初回の人生と同じように、この肉体的人生でも修行を行い、その肉体的人生が終わると霊の領域に戻り、そこで検査を受けるのです。そこで問題が無ければ、再び人間界へと戻り、再度仏教に改宗して修行を続けます。仏教徒は三回から七回生まれ変わったあと、肉体的人生が終わるたびに戻っていた霊界へと、もう一度戻るのです。人間界における仏教徒の様々な資格や行動が霊界における天の法令に準じていれば、その時点以降、その仏教徒は霊界に留まります。それ以上人間として生まれ変わることも、地上での悪業について懲罰を受ける恐れもなくなるのです。この仏教徒がこの過程を経ることは二度とありません。むしろ、状況に応じて霊の領域における地位を得ます。それが、仏教徒が言うところの「解脱」です。解脱とはおもに、霊界の役人として成果を挙げ、その後は生まれ変わることも、懲罰を受ける危険もなくなることを意味します。さらにそれは、生まれ変わって人間になることの苦悩がなくなることを意味します。では、仏教徒が動物に生まれ変わる可能性はありますか。(ありません。)それは、霊界である役割を担い続け、生まれ変わることがなくなることを意味します。これが、仏教において解脱に達することの一例です。解脱に達しなかった仏教徒について言えば、霊界に戻るとすぐ担当する役人によって検査と確認が行われ、生前仏教で定められた通り熱心に修行することもなければ、誠実に読経して仏陀の名を唱えることもなかったのが突き止められ、数多くの悪事を行ない、よこしまな振る舞いが数多くあったと判断されます。そして霊界において、その悪事について裁きが下された後、間違いなく懲罰を受けます。これについて例外は一切ありません。そうであれば、このような人が解脱に達するのはいつですか。生涯一度も悪事を犯さなければ、霊界に戻った際、生前に過ちを犯さなかったことが確認されます。そしてその人は生まれ変わり続け、読経をして仏陀の名を唱え、行灯の冷たくほのかな明かりとともに毎日を過ごし、殺生を行わず、肉を食べません。人間界に加わることなく、人間の問題から遠く離れ、他人と一切言い争いません。この過程の中で、仏教徒はいかなる悪事も犯さず、その後は霊界に戻り、あらゆる行動や振る舞いが検証され、人間の領域に再び送られますが、その過程は三回から七回繰り返されます。この間に一度も悪事を犯さなければ、解脱を成し遂げることに何も影響がなく、それが遅れることもありません。これが、すべての人に関する、生死の周期の特徴です。人は「解脱」を成し遂げて霊界である地位を占めることができます。それが人と未信者の違いです。まず、霊界である地位を占めることができる人は、いまだこの世に生きている間、どのように自分を律しますか。こうした人たちは、悪事を一切行わないようにしなければなりません。殺人、放火、強姦、強奪などを行ってはなりません。詐欺、詐取、窃盗、強盗などを行った場合、解脱に達することはできません。言い換えると、何らかの形で悪事に関与すれば、霊界が下す懲罰から逃れることはできないのです。霊界では、解脱を遂げた仏教徒に対する適切な采配が行われます。仏教を信じ、天の父を信じていると思しき人々を監督する役割を与えられるかもしれません。または裁判権を与えられるかもしれません。あるいは、未信者を担当したり、ごくささやかな職務を与えられたりするだけかもしれません。こうした任命は、その魂がもつ様々な本性に従って行われます。これが仏教の例です。

先に述べた五大宗教のうち、キリスト教は比較的特殊です。では、キリスト教を特殊なものにしているのは何ですか。彼らは真の神を信じる人たちです。真の神を信じる人たちがここで挙げられているのはなぜですか。キリスト教は宗教の一種だと言うとき、それが信仰にしか関係していないことは確かです。キリスト教は一種の儀式、一種の宗教に過ぎず、真に神に付き従う信仰とはまったく別のものです。わたしがキリスト教を五大「宗教」のひとつに挙げたのは、それがユダヤ教、仏教、イスラム教と同じ程度まで零落したからです。ここにいる大半の人は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、まして神の実在など信じていません。その代わり、聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて親切にすること、辛苦に耐えること、善行をなすことを人々に諭すだけです。キリスト教はこのような宗教になってしまったのです。つまり、神学理論だけに集中し、人間を経営して救う神の働きとは何ら関係ないのです。それは、神に従いながら、実際には神に認められていない人々の宗教になりました。しかし神には、そのような人たちを扱う原則もあります。未信者に対するのと同じく、クリスチャンを軽々しく取り扱ったり、気の向くままに取り扱ったりすることはありません。神はクリスチャンを、仏教徒と同じように扱います。生きている間に自己鍛錬を行い、十戒を厳しく守り、律法と戒律に従う形で自分の振る舞いを律し、生涯にわたってそれらを遵守することができれば、そのクリスチャンも生死の周期を同じ期間くり返した後、いわゆる「携挙」を真に獲得することができるはずです。この携挙を獲得したあと、クリスチャンは霊界に留まり、そこで何らかの地位を得て役人になります。同様に、地上で悪事を行った場合、つまりあまりに罪深く、数多くの罪を犯した場合、そのクリスチャンは必ずや様々な重さの懲罰や懲らしめを受けることになります。仏教において解脱とは、極楽浄土に入ることを意味します。では、それはキリスト教では何と呼ばれますか。それは「天国に入る」、「携挙」されると呼ばれます。真に携挙された人もまた生死の周期を三回から七回にわたって繰り返し、その後に死ぬと、あたかもそれまで寝ていたかのように霊界へと辿り着きます。そして基準を満たしていれば、そこに留まって何らかの役割を担うことができ、地上の人々とは異なり、単純に生まれ変わることも、慣例にしたがって生まれ変わることもありません。

これらすべての宗教において、信者が語り、獲得しようと努めている結末は、仏教で言う解脱の達成と同じです。ただ、その「解脱」を成し遂げる方法は様々です。これらの宗教はすべて似たようなものです。これら宗教の信者のうち、行動において宗教上の教えを遵守できる一部の人に対し、神はそれぞれにふさわしい終着点と目的地を与え、適切に対処します。それはどれも合理的ですが、人々が想像するようなものではありません。違いますか。ここまで、クリスチャンがどうなるかに関する話を聞いて、あなたがたはどう感じますか。彼らの苦境は不公平なものだと思いますか。彼らに同情しますか。(多少同情します。)これについてできることはありません。クリスチャンは自分を責めるしかないのです。わたしがそのように言うのはなぜですか。神の働きは真実であり、神は生きて実在し、神の働きは全人類、すべての個人を対象にしています。ならば、クリスチャンがそれを受け入れないのはなぜですか。気が狂ったように神に反抗し、神を迫害するのはなぜですか。クリスチャンは、このような結末を得られるだけでも幸運だと思うべきなのに、あなたがたがクリスチャンを哀れむのはどうしてですか。クリスチャンがこのような処遇を受けることは、大いなる寛大さを示しています。神に反抗する度合いに基づけば、クリスチャンは滅ぼされるべきです。しかし神はそのようにせず、キリスト教を普通の宗教と同じように扱うだけです。では、その他の宗教についても詳細に踏み込む必要がありますか。これらすべての宗教の理念は、人間がさらに多くの苦難を背負い、悪事をなさず、よいことを話し、善行を行い、他人の悪口を言わず、他人を裁かず、論争を避け、善意による行為をなし、善人となることです。大半の宗教の教えはこのようなものです。ゆえに、これらの人たち、つまり様々な宗教や教派の信者が、宗教上の教えを厳しく守れるなら、地上にいる間は大きな過ちや罪を犯すことがありません。そして三回から七回生まれ変わったあと、宗教上の教えを厳しく守れるこれらの人たちは、概して霊界に留まり、そこで地位を得ます。このような人は数多くいますか。(いません。)その答えの根拠は何ですか。善行を重ね、宗教上の規則や掟を遵守するのは容易なことではありません。仏教では人間が肉を食べることは禁じられていますが、あなたにそれができますか。一日中灰色の法衣をまとい、寺で読経し、仏陀の名を唱えなければならないとしたら、あなたにそれができますか。容易ではないでしょう。キリスト教には十戒や戒律や律法がありますが、それらは容易に遵守できるものですか。容易ではありません。他人の悪口を言わないこと、というのを例にとりましょう。人々はこの決まりをまったく守れていません。自制できずに他人の悪口を言うのです。そして悪口を言ったあと、それを取り消すことはできませんが、そこで人間はどうしますか。夜になると自分の罪を告白します。他人の悪口を言ったあとも心中に憎しみを抱き、その人をさらに傷つけようと企むことすらあります。要するに、こうした死んだ教義のなかで生活している人々にとって、罪を犯したり悪事を行ったりすることを避けるのは容易でないのです。ゆえにどの宗教でも、実際に成果を挙げられる人は一握りしかいないのです。極めて多くの人がこれらの宗教に従っているのだから、霊の領域に留まって何らかの役割を果たせる人はかなりの数になるだろうと、あなたは思うでしょう。しかし、実際にそうできる人は多くありません。人の生死の周期は概してこのようなものです。こうした人々の相違点は成果を挙げられるということであり、それが未信者との違いです。

3.神に付き従う人の生死の周期

次に、神に付き従う人の生死の周期について話をしましょう。これはあなたがたに関係することなのでよく聞いてください。まず、神に付き従う人がどのように分類されるかを考えましょう。(神の選民と効力者に分類できます。)神に付き従う人は、神の選民と効力者の二つに分けられます。まずは、少数しかいない神の選民について話します。「神の選民」とは誰を指しますか。神が万物を創造して人類が存在するようになったあと、神は自身に付き従う人々の集団を選びましたが、その人たちは単に「神の選民」と呼ばれます。神がその人たちを選ぶにあたっては、特別な範囲と意義があります。その範囲は、神が重要な働きを行うときに来なければならない、選ばれた少数の人に限られていたという点で特別です。その意義は何ですか。その人たちは神に選ばれた集団なので、その意義は大きいものです。つまり、神はその人たちを完全な存在にして完成させることを望み、その経営の働きが終わると、これらの人を自分のものにするのです。この意義は偉大なものではないですか。したがって、これらの選民は神にとって極めて重要な存在です。なぜなら、神はこれらの人たちを自身のものにしようと考えているからです。一方の効力者についてですが、その前に神の予定の話をしばらく中断し、まずは効力者の由来について話をします。「効力者」は文字通り奉仕を行う人です。奉仕を行う人は一時的な存在です。長期的に、あるいは恒常的に奉仕するのではなく、一時的に雇われたり、起用されたりする人たちなのです。効力者の由来ですが、彼らの大半は未信者から選ばれた人たちです。その人たちが神の働きの中で効力者の任務を担うよう命じられたとき、効力者は地上に現われます。前世において動物だったり、未信者だったりすることもあります。これが効力者の由来です。

それでは、神の選民についてさらに話しましょう。神の選民は死んだ際、未信者や様々な宗教の信者とはまったく異なる場所に行きます。そこは、神の選民が天使と神の使いに付き添われ、神自身が管理している場所です。この場所において、神の選民は自分の目で神を見ることはできませんが、霊界における他のどの場所とも異なっています。それは違う場所に位置しており、神の選民が死後に行く場所なのです。神の選民は死んだときもまた、神の使いによる厳格な調査の対象になります。それでは、何が調査されるでしょうか。神の使いは、これらの人たちが神への信仰において生涯歩んできた道を調べます。つまり、その間神に反抗したり神を呪ったりしたかどうか、重い罪や悪事を犯したことがあるかどうかを調べるのです。この調査により、ある特定の人がそこに留まるのを許されるのか、それとも立ち去らなければならないかが決まります。ここで「去る」とは何を意味しますか。また、「留まる」とは何を意味しますか。「去る」とは、自分の行動に基づき、神の選民の一員として留まるかどうかを意味します。また「留まる」ことを許されるとは、終わりの日、神によって完全にされる人々の中に留まることができる、という意味です。留まる人について、神は特別な采配を行います。つまり働きの各期間において、神はそうした人々を送り、使徒として行動させたり、教会を復興させる、あるいは教会に奉仕する働きをさせたりするのです。しかし、こうした働きを行える人は、何世代にもわたって生まれ変わる未信者ほど頻繁に生まれ変わりません。むしろ、神の働きの必要性と段階に従って地上へと戻るのであって、頻繁に生まれ変わることはないのです。では、選民が生まれ変わる時期には規則がありますか。神の選民は数年ごとに生まれ変わりますか。そうした頻度で現われますか。現われません。それは神の働き、働きの段階、神の必要性に基づいており、決まった規則はありません。唯一の規則は、神が終わりの日に働きの最終段階を行う際、これら選民が全員現れ、その到来が彼らにとって最後の生まれ変わりになる、ということです。それはなぜですか。これは、神による働きの最終段階で実現されるべき結果に基づいています。働きの最終段階において、神はこれらの選民を残らず完全にします。それは何を意味しますか。この最終段階においてこれらの人たちが完全にされるのであれば、それまでのように生まれ変わることはありません。人間として存在する過程、そして生まれ変わる過程が完全に終わるのです。このことは留まる人に関連しています。それでは、留まることができない人はどこに行きますか。留まることを許されていない人には、その人にふさわしい終着点があります。まずは自分の悪事、犯した過ち、そして罪の結果として、彼らも懲罰を受けます。彼らが懲罰を受けたあと、神はその状況に従い、彼らを未信者のもとに送るよう采配するか、様々な人たちの間に行くよう采配するかします。言い換えると、彼らには二つの結果があり得るわけです。その一つは、懲罰を受けて生まれ変わったあと、おそらくある宗教の信者として生きるというものであり、もう一つは未信者になるというものです。未信者になった場合、彼らはすべての機会を失います。しかし、たとえばキリスト教などの信者となった場合は、依然として神の選民に戻る機会があります。このことには極めて複雑な関係が存在しています。簡潔に言うと、神の選民が神に背くことをした場合、その人は他の全員と同様に懲罰されます。以前に話し合ったパウロを例にとりましょう。パウロは懲罰を受けた人の一例です。わたしが言っていることの意味を理解していますか。神の選民の範囲は一定ですか。(ほぼ一定です。)ほぼ一定ですが、わずかに一定でない部分があります。それはなぜですか。ここでは最も分かりやすい理由として、悪事を行うことを挙げました。悪事を行った人を神は望まず、その人を様々な人種や人々の中に放り込みます。すると、その人には望みがなくなり、戻るのが難しくなります。そのすべてが、神の選民の生死の周期と関連しているのです。

次のテーマは効力者の生死の周期に関するものです。効力者の由来については先ほど話しました。つまり、こうした効力者は以前の生涯で未信者や動物になってから、生まれ変わったのです。働きの最終段階が始まると、神は未信者の中からこうした人の一団を選びますが、この集団は特別な存在です。神がこれらの人たちを選ぶのは、彼らを神の働きに奉仕させるのが目的です。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでもありませんが、わたしたちはその対象となる人に目を向けるべきです。神の効力者の存在には特別な意義があります。効力者は神に選ばれた人たちなので、その役割を果たせる人は他にいません。では、これら効力者の役割は何ですか。それは神の選民に奉仕することです。大半の場合、効力者の役割は神の働きに奉仕し、それと協調し、神が選民を完全なものにするのを助けることです。効力者が働いているか、何らかの側面の働きを行っているか、ある種の任務を遂行しているかを問わず、神がこれら効力者に対して要求しているのは何ですか。神は効力者に多くのことを求めていますか。(いいえ、神は効力者が忠実であることしかお求めになりません。)効力者もまた忠実でなければなりません。あなたの由来や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは神に忠実でなくてはならず、また神があなたに託した使命、あなたが担当する仕事、そしてあなたが尽くす本分に対しても、忠実でなければなりません。忠実で神を満足させられる効力者について、その結末はどのようなものになりますか。こうした効力者は留まることができます。留まる効力者であることは祝福ですか。留まるとは何を意味しますか。その祝福の意義はどのようなものですか。効力者の地位は神の選民の地位と異なるように思われます。しかし実際には、効力者がその生涯において享受するものは、神の選民が享受するものと同じではないのですか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じです。それは否定できませんね。神の発する言葉、神の恵み、神の施し、そして神の祝福を享受しない人がいるでしょうか。誰もがそうした豊かさを享受します。効力者の身分は奉仕する人ですが、神にとっては自ら造った万物のひとつに過ぎず、単にその人の役割が効力者であるというだけです。効力者と神の選民はいずれも神の創造物ですが、両者の間に何らかの違いはありますか。事実上、違いはありません。名目上は違いがあり、その本質、そしてその人が果たす役割において違いがあるのですが、神はこの人々の集団を不公平に扱いません。それでは、これらの人々が効力者に定められているのはなぜですか。それについて、あなたがたは理解しなければいけません。効力者は未信者から生じます。効力者は未信者から生じると話したとたん、効力者はよくない背景をもっていることが明らかになります。彼らはみな無神論者であり、過去においてもそうでした。彼らは神を信じず、神、真理、そして肯定的なすべての物事に敵意を抱いていました。神を信じることも、神の存在を信じることもなかったのです。それならば、効力者は神の言葉を理解できますか。大まかに言えば、理解できないと言って構いません。動物が人間の言葉を理解できないように、効力者は神が何を言っているのか、何を求めているのか、なぜそのような要求をするのかが理解できないのです。これらのことは効力者にとって理解不能であり、依然として啓かれていないままです。そのため、これらの人たちはこれまで語ってきたいのちをもっていません。いのちなくして、人は真理を理解できますか。真理を備えていますか。神の言葉に関する経験や認識がありますか。(ありません。)これが効力者の由来です。しかし、神はこうした人々を効力者とするので、神の効力者に対する要求にはやはり基準があります。神は効力者を無下にすることも、いい加減に扱うこともありません。効力者は神の言葉を理解できず、いのちがないにもかかわらず、神は依然として効力者を親切に扱い、また効力者に対する神の要求には基準があります。その基準は先ほど話したとおりです。つまり、神に忠実であること、神の言葉に従うことです。奉仕を行うにあたっては、必要とされる場所で奉仕しなくてはならず、最後まで奉仕しなければなりません。あなたが忠実な効力者になって最後の最後まで奉仕することができ、また神から託された使命を完全に果たせるなら、あなたは価値のある人生を送ります。価値ある人生を送れるなら、あなたは留まることができます。それに加えてもう少し努力し、懸命に試み、神を知ろうとする取り組みを強化し、神を知ることについて多少は語ることができ、神の証しをすることが可能で、さらには神の旨について何かしら理解し、神の働きに協力でき、神の旨を多少なりとも心に留めることができるなら、効力者であるあなたは運命の変化を経験するでしょう。では、その運命の変化とは何ですか。単に留まれるだけではなくなるのです。あなたの行動、そして個人的な熱意と追求に応じ、神はあなたを選民の一人にします。これがあなたの運命の変化です。効力者にとって、この変化による最大の利益は何ですか。それは、神の選民になれるということです。神の選民になることは、未信者のように動物として生まれ変わることがもはやなくなることを意味します。これはよいことではありませんか。これはまたよき知らせでもあります。それは、効力者が形作られることを意味するのです。奉仕するよう神によって定められた効力者が、永遠にそうし続けるということはありません。必ずしもそうではないのです。神はその人の行いに適した形で、彼らを扱い、彼らに対処します。

とは言え、最後まで奉仕できない効力者もいます。奉仕の途中で諦め、神を捨てる人もいれば、複数の悪事を犯す人もいるのです。さらには、神の働きに甚大な害と損失を与える人、神を呪う効力者さえいます。そうした取り返しのつかない結果は、何を指し示しますか。こうした邪悪な行いは、奉仕の中断に結びつきます。奉仕における行いがあまりに悪く、度が過ぎたので、あなたの奉仕が基準以下であることを知った神は、あなたから奉仕する資格を剥奪し、これ以上あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の眼前、神の家から排除します。あなたは奉仕したくないのですか。絶えず悪事を犯したがっているのではないですか。一貫して不忠ではないのですか。そうであれば、簡単な解決策があります。あなたから奉仕する資格を剥奪するのです。神にとって、効力者から奉仕する資格を剥奪することは、その効力者が終わりを宣告されたことを意味します。こうした効力者はもはや神に奉仕する資格をもたず、神はその人の奉仕を必要としなくなり、その人がいかに美辞麗句を並べても無駄なのです。物事がここまで達すると、状況を元通りにするのは不可能です。そうした効力者は後戻りできないのです。では、神はこうした効力者をどのように取り扱いますか。単に奉仕をやめさせるだけですか。そのようなことはありません。単に留まらせないようにするだけですか。あるいは、そうした人たちを一箇所に集め、改心するのを待ちますか。それも違います。実のところ、相手が効力者になると、神はそこまで愛情深くありません。ある人が神に奉仕する際にそうした態度をとる場合、神はその態度の結果として、その人から奉仕する資格を剥奪し、再び未信者の中に放り込みます。それでは、未信者の中に放り込まれた効力者の運命は、どのようなものですか。その運命は未信者のそれと同じであり、動物として生まれ変わり、霊界で未信者と同じ懲罰を受けます。さらに、神はその人の懲罰に対し、個人的な関心を示しません。なぜなら、そのような人はもはや神の働きと何の関係もないからです。それは、その人にとって神を信仰する生活の終焉となるだけでなく、その人自身の運命の終焉であり、その人の運命の宣告でもあります。ゆえに、効力者の奉仕がよくなければ、その人は自分自身でその結果を背負わなければならないのです。効力者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その人は未信者の中に放り込まれます。そうなれば、その人は家畜と同じように、あるいは知性や理性のない人々と同じように扱われます。このように説明すれば、あなたがたにも理解できますね。

以上が、神の選民と効力者の生死の周期を神が取り扱う方法です。それを聞いて、あなたがたはどう感じますか。わたしが以前にこの事項を話したことはありますか。神の選民と効力者という主題を語ったことはありますか。実はあるのですが、あなたがたは覚えていません。神は、神の選民と効力者に対して義です。あらゆる点で神は義なのです。違いますか。そのことに疑問の余地はありますか。中には、「神が選民に対してこれほど寛容なのはなぜか。また神が効力者に対し、少ししか寛容でないのはなぜか」と言う人がいるのではないでしょうか。効力者の肩を持ちたい人はいますか。「神は効力者にもっと時間を与え、もう少し寛容であることができないのか」と疑問の声をあげるのは正しいことですか。(正しくありません。)どうして正しくないのですか。(効力者にされただけでも、わたしたちに厚意が示されたからです。)効力者は奉仕することを許されただけでも、厚意を示されたのです。「効力者」という呼び名も、効力者が行う働きもなかったとしたら、それらの人々はどこにいるでしょうか。未信者の中にいて、家畜とともに生き、そして死ぬでしょう。神の前、神の家に来ることが許されている効力者は、今日何と大きな恵みを享受しているのでしょう。これは並外れて大きな恵みです。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会が一切なかったはずです。少なくとも、あなたが仏教徒であって、解脱を成し遂げたとしても、せいぜい霊界の使い走りとなる程度です。神に会うことも、神の声や言葉を聞くこともなく、神の愛と祝福を感じることもなければ、神と対面することもまずできないでしょう。仏教徒には単純な任務しかありません。仏教徒はとうてい神を知ることができず、無闇に服従するだけですが、効力者は働きのこの段階においてとても多くのものを得ます。まず、効力者は神と対面し、神の声と言葉を聞き、神が人々に授ける恵みと祝福を体験することができます。さらに、効力者は神から施される言葉や真理を享受することができます。効力者は実に多くのものを得るのです。したがって、あなたが効力者として正しく力を尽くすことさえできなければ、神はあなたを効力者として留めることができますか。神はあなたを留めておけません。神はあなたに多くを求めないのに、あなたは神が求めていることを何一つ正しく行わず、自分の本分を遵守したこともありません。ゆえに、神は疑問の余地なくあなたを留めておくことができないのです。これが神の義なる性質です。神があなたを甘やかすことはありませんが、あなたを差別することもありません。神はこれらの原則に従って行動します。神はすべての人と被造物をこのような形で扱うのです。

霊界では、様々な生物が誤ったことをしたり、自分の仕事を正しく行わなかったりした場合、神はそれに対応する天の法令と命令でもってそれらを取り扱います。これは絶対的なことです。したがって、神の数千年にわたる経営の働きの期間においては、過ちを犯した担当官の一部は一掃され、一部は今日に至るまで拘留されて懲罰を受けています。これは、霊界にいるあらゆるものが直面しなければならないことです。何か間違ったことをしたり悪事を犯したりした場合、その人は罰せられますが、それは神の選民や効力者に対する神の姿勢と同じです。ゆえに、霊界か物質世界かを問わず、神が業を行う原則は変わりません。あなたが神の業を見られるかどうかにかかわらず、その原則が変わることはないのです。あらゆるものに対する神の姿勢、および万物に対する神の処遇には、一貫して同じ原則があります。これは不変です。未信者のうち比較的真面目に生活している人に対し、神は親切であり、また各宗教の信者のうち、行いが正しく悪事を犯さない人の機会を神は守り、神が経営しているすべての物事において役割を担うこと、そしてなすべきことをなすことを許しています。同様に、神に付き従う人、そして神の選民についても、神は自身の原則に従い、誰一人として差別しません。神は心から神に従えるすべての人に対して親切であり、またそのような人を愛します。未信者、様々な宗教の信者、そして神の選民など、様々な種類の人々について、神が授ける物事は異なるということなのです。未信者を例にとりましょう。未信者は神を信じておらず、神はこうした者を獣と見なしていますが、彼らの一人ひとりに食べるべき食糧、自分の居場所、そして通常の生死の周期があります。悪事を行う人は罰せられ、善い行いをする人は祝福されて神に親切にされます。そうではありませんか。信仰のある人について言えば、生まれ変わるたびに宗教上の教えを厳しく守れるなら、それら生まれ変わりのあと、最終的に神から宣言が与えられます。同様に、今日のあなたがたについても、神の選民であろうと効力者であろうと、神は自ら定めた規則と行政命令にしたがい、あなたがたをそれと同調させるとともに、あなたがたの結末を決めます。様々な種類の人のうち、各種の宗教の信者、つまり様々な宗教に属する人たちに対し、神は生きるべき空間を与えてきましたか。ユダヤ教徒はどこにいますか。神が彼らの信仰に介入したことはありますか。ありませんね。では、キリスト教はどうですか。神はこちらにも介入したことがありません。これらの人々がそれぞれの手続きに従うことを神は許し、彼らに語りかけたことも、何らかの啓きを与えたこともなく、さらには何一つ明らかにしたこともありません。それが正しいと思うなら、そのように信じなさい。カトリック教徒はマリアを信仰し、マリアを通してイエスに知らせが伝えられたと信じています。それがカトリック教徒の信仰の形です。神が彼らの信仰を正したことはありますか。神は彼らの自由にさせ、彼らに注意を払わず、一定の生活空間を与えています。イスラム教徒や仏教徒に対しても、神は同じではないですか。ここでも神はそれぞれの信仰に口出しせず、彼らのために境界を設け、各々の生活空間をもつことを許しています。すべてが整然としているのです。では、これらのことから何がわかりますか。神には権威があるが、それを濫用することはない、ということがわかります。神は完全なる秩序の中で万物を采配し、秩序正しくそれを実行しますが、そこには神の知恵と全能があるのです。

本日は新たに特別な事項、すなわち霊界に関する事柄について触れてきましたが、それは神による霊界の管理と支配の一側面をあらわしています。これらのことを理解していないと、あなたがたはこのように言うかもしれません。「それに関する事柄はどれも奥義であり、わたしたちのいのちへの入りとは関係ない。こうしたことは、人が実際どのように生活するかとは切り離されており、理解する必要もなければ聞こうとも思わない。こうしたことは神を知ることと絶対に関係ない」。さて、こうした考え方に問題があると思いますか。これは正しいですか。(正しくありません。)こうした考え方は正しくないうえ、深刻な問題をはらんでいます。と言うのも、神がいかに万物を支配するかを理解したければ、単に自分の目に見える物事と、自分の考え方で把握できる物事を理解するだけでは不可能だからです。自分の目に見えないながらも、目に見えるこの世界と不可分の関連性がある別の世界についても、あなたはいくらか理解する必要があるのです。このことは神の統治と、「神は万物のいのちの源である」という本日の事項にも関連しており、それに関する内容です。この内容がなければ、神が万物のいのちの源であることに関する人々の認識には、誤りや不足があるはずです。したがって、本日話した事柄は、前回までの各事項を締めくくるとともに、「神は万物のいのちの源である」の内容をも締めくくるものであると言えるでしょう。これを理解したうえで、あなたがたはいま、この内容を通じて神を知ることができますか。それより重要なのは、本日、わたしがあなたがたに、効力者に関する極めて重要な情報を伝えたことです。あなたがたがこうした事項に喜んで耳を傾け、真剣に考慮していることはわたしも知っています。では、わたしが本日話したことに満足していますか。(満足しています。)中にはあまり強い印象を残さなかった事柄もあるでしょうが、効力者について語ったことは、あなたがた全員の魂に触れるものなので、ひときわ強く印象に残ったはずです。

『言葉は肉において現れる』より引用

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