日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 494
神への本物の愛は、心の奥底から生じる。それは神に関する認識に基づいてのみ存在する愛である。ある者の心が完全に神に向かえば、その者は神への愛を持つことになるが、その愛は必ずしも純粋ではなく、また完全でもない。なぜなら、その人の心が完全に神に向かうことと、その人が神を真に理解し神へ…
神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。こうした交わりの後、人間の神に対する信仰は、何も記されていない白紙の状態、あるいは甘い言葉だけの約束、盲目な追求や偶像化の形態では無くなる。またこうした交わりのみにより、人間のいのちが成熟に向かって日々成長し、人間の性質が次第に変えられ、神への信仰が段階的に漠然とした不確実なものから真に従い、神の心を思い、真に畏敬するものへと変化する。また人間は神を求める上で消極的立場から積極的立場へ、受け身の立場から能動的立場へと移行する。こうした交わりのみにより、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。大部分の者が神と真に交わることが無いので、大部分の者にとって神に関する認識は理論的段階、文字の教理の段階に留まる。つまり、大部分の者は、神を信じてきた年月の長さを問わず、神を知ることに関する限り、初歩的段階から進歩せず、伝統的色合いと封建的迷信を伴う伝統的な形で敬意を表するに留まる。こうした者の神に関する認識が初歩段階に留まっているということは、神に関する認識が事実上不在であるということに等しい。人間による神の身分と地位の肯定とは別に、人間の神に対する信仰は未だに漠然とした不確実な状態にある。こうした状況において、人間は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得ようか。
神の存在をどれほど確信していようと、その確信は神に関する認識や神に対する畏敬の念に代わるものとはなり得ない。どれほど多く神の祝福と恵みを享受してきたとしても、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。どれほど喜んで神のために全てを捧げて費やしていようと、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神の言葉に精通し、暗記していて反対から読み上げることさえ出来るかもしれないが、そうであったとしても、それが神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神に付き従う意向がいかに強かったとしても、神との真の交わりや神の言葉を真に経験することが無かったとしたら、神に関する認識は皆無であるか、終わりのない幻想に過ぎない。たとえどこかで神とすれ違ったとしても、神と直接対面したとしても、神に関する認識は皆無であり、神への畏敬は実質の無い標語や理想に過ぎない。
『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)より
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