日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 65

マタイによる福音書 12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

マタイによる福音書 12:6-8 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。

まずは「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた」という聖句を検討しましょう。

わたしがこの聖句を選んだのはなぜですか。この聖句と神の性質との間にはどのようなつながりがありますか。この聖句で最初にわかるのは、安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子たちを率いて麦畑を歩いたということです。さらに「けしからぬ」こととして、弟子たちは「穂を摘んで食べはじめた」のです。律法の時代、ヤーウェ神の律法には、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりしてはならないと明記されていました。安息日にしてはならないことが沢山あったのです。主イエスによるこの行動は、長らく律法の下で暮らしてきた人にとっては不可解であり、非難を招きさえしました。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかは検討せず、まずは主イエスがすべての曜日の中でなぜ安息日にこうした行動をとったのか、またその行動により、律法の下で暮らしていた人々に何を伝えたかったかを検討します。それがこの聖句と、わたしがこれからお話しする神の性質とのつながりなのです。

来臨した主イエスは、神が律法の時代を離れて新たな働きを始めたこと、またその新たな働きが安息日の遵守を求めないことを、実際の行動によって人々に伝えました。神が安息日の拘束から抜け出たのは、神の新たな働きの前触れに過ぎず、実際の偉大な働きはいまだ行なわれていなかったのです。主イエスは働きを始めた際、律法の時代の「束縛」をすでに捨て去っており、その時代の規制や原則を打破していました。イエスには、律法に関連する部分がまったく見られませんでした。律法を完全に捨て去り、もはやそれを守らず、また律法の遵守を人に要求することもなかったのです。ゆえにここで、主イエスが安息日に麦畑を歩いていたこと、およびその日に休まなかったことがわかります。主イエスは外に働きに出て休まなかったのです。主イエスによるこの行動は人々の観念に衝撃をもたらし、イエスがもはや律法の下で暮らしていないこと、およびイエスが安息日の束縛を離れ、新たな姿で、新たな働き方を携えて人類の前に現われたことを人々に伝えました。またイエスによるこの行動は、彼が新たな働きを携えてきたことを人々に示しました。それはつまり、律法の支配と安息日を離れることから始まる働きです。新たな働きを行なう際、神はもはや過去に固執せず、律法の時代の規則を気にかけることもありませんでした。また過去の時代の働きに影響されることもなく、他の各曜日と同じく安息日であっても働きを行ない、かくして弟子たちは空腹となったとき、麦の穂を摘んで食べることができました。これはどれも、神の目にはごく普通のことでした。神にとって、自身が行なおうとしている新たな働きや、言おうとしている新たな言葉の大部分について、それらが新たに始まるのは許されることなのです。神は何か新しいことを始めるとき、以前の働きに触れることも、それを続けることもありません。神の働きには原則があるので、神が新たな働きを始めようとしたら、それは自身の働きの新たな段階に人類を連れ出すとき、自身の働きがより高次の段階に入るときなのです。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動し続けたり、それらに固執し続けたりした場合、神はそれを記憶することも讃えることもしません。なぜなら、神はすでに新たな働きをもたらし、働きの新たな段階へと入ったからです。神は新たな働きを始めるとき、人々が神の性質や神が所有するものと神そのものの様々な側面を見て取れるよう、まったく新しい姿で、まったく新しい角度から、まったく新しい方法でもって、人類の前に現われます。これが神による新たな働きの目的の一つです。神は以前の物事にしがみつくことも、踏みならされた道を歩くこともありません。また働きを行なって言葉を語るときも、人間が想像するように何かを禁じたりはしません。神においてはすべてが自由であり、解放されており、禁止も束縛もありません。神が人類にもたらすのは自由と解放なのです。神は生きている神であり、本当に実在する神です。操り人形でも粘土の像でもなく、人間が崇め奉る偶像とはまったく違います。神は生きており、活気に満ち、神の言葉と働きが人類にもたらすのは、ひとえにいのちと光、自由と解放です。なぜなら、神には真理といのちと道があり、働きの中でいかなる物事にも制約されないからです。人々が何を言おうと、あるいは神の新たな働きをどのように見たり評価したりしようと、神は何のためらいもなく働きを行ないます。自身の働きや言葉に対する人間の観念と批判、さらには自身の働きに対する強い反感や反抗を、神が懸念することはないのです。人間の理知、あるいは人間の想像、知識、倫理によって、神の働きの評価や定義をしたり、それを貶め、混乱させ、妨害することができる者は、あらゆる被造物の中に一人もいません。神の働きや業の中に禁じられていることは一切なく、人や出来事や物事に制約されることも、敵対する勢力に妨害されることもありません。神の新たな働きに関する限り、神は永遠に勝利する王であり、いかなる敵対勢力も、あるいは人類による異端や詭弁も、すべて神の足台の下で踏みにじられます。神の働きのうち、どの新たな段階が現在なされているかを問わず、神の大いなる働きが完了するまで、それは必ずや人類の間で発展、拡大し、全宇宙において妨害されることなく実行されます。これが神の全能と知恵、そして権威と力なのです。そのため、主イエスは安息日に公然と外出して働くことができました。なぜなら主の心には、人間に由来する規則も、知識も、教義もなかったからです。イエスにあったのは神の新たな働きと道でした。その働きは、人間を自由にして解放し、人間が光の中に存在して生きられるようにする道でした。一方、偶像や偽の神を崇拝する人は、サタンに束縛され、ありとあらゆる規則や禁忌に制約されながら毎日を生きています。今日はあることが禁止され、明日はまた別の何かが禁止されるという具合に、彼らの生活に自由はないのです。彼らは足かせをはめられた囚人のようなもので、語るべき喜びをもたずに生きています。「禁止」とは何を表わしていますか。それは、制約、束縛、そして邪悪を表わしています。偶像を崇拝するや否や、その人は偽の神、悪霊を崇めていることになります。そうした行ないがなされると、そこには禁止が伴います。あれやこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日は料理できない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある、といった具合です。それは何と呼ばれますか。それを「禁止」というのです。それは人間の束縛、サタンと悪霊の足かせであり、人々を操ってその心身を拘束しているのです。これらの禁止事項は神に存在しますか。神の聖さについて語るとき、まずは神に禁止事項がないことを考えなければなりません。神の言葉と働きには原則があっても、禁止事項はありません。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 3」(『言葉』第2巻)より

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