日々の神の御言葉「神の働き、神の性質、そして神自身 3」抜粋77

主イエスは繰り返し「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

 主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じるとることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

『言葉は肉において現れる』より引用

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