日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 262
人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねた任務を全うするために心と体を捧げるのは私たちすべての責任であり、義務である。何故なら、私たちの全存在は神から来たものであり、神の支配のおかげで存在しているからである。私たちの心と体が神の委ねた任務のためでも、人類の正義の目…
正常な霊的生活を送るには、日々新たな光を受け取ることができ、神の言葉を真に認識しようと求めなければならない。真理をはっきりと見すえ、すべてにおいて実践の道を見出し、日々神の言葉を読んで新たな問題を発見し、自分の不備に気づかなければならない。それは自分の全存在を揺り動かすほど慕い求める心をもち、遅れをとることを深く恐れて、いつでも神の前に静まることができるようになるためである。そのような慕い求める心を持ち、絶えず入って行こうとしている人は、霊的生活において正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされ、さらなる向上を願い、神による完成を進んで求め、神の言葉をさらに深く認識することを切望し、超自然的なものを求めず、むしろ実際の代価を払い、真に神の心意を思いやり、自分の体験がさらに純粋で実際的になるよう実際に入り、空しい言葉や教義を求めたり超自然的なものを感じようとしたりせず、偉人を崇拝しない人、このような人が正常な霊的生活に入っているのである。彼らがすることはすべて、いのちのさらなる成長を達成し、霊において新鮮で生き生きとするためであり、それゆえ彼らは常に積極的に入って行くことができる。知らず知らずのうちに真理を認識し、現実性に入るのである。正常な霊的生活を送っている人は、日々に霊の解放と自由を見出し、神の言葉を自由に実践して神を満足させることができる。このような人にとって祈りは形式でも手続きでもない。日々彼らは新たな光に歩調を合わせることができる。たとえば、神の前に心を静めるように訓練し、実際に神の前で心を静めることができ、誰にも邪魔されない。このような人の正常な霊的生活を阻止できる人、出来事、ものは何もない。そのような訓練は成果を上げるためであって、人を規則に従わせるのが目的ではない。この実践は、規則に従うためではなく、人のいのちにおける成長を促すために行われるのである。このような実践を単に従うべき規則ととらえるなら、いのちは決して変わらない。他の人たちと同じように実践していて、その人たちがついには聖霊の働きと歩調を合わせて歩むことができるようになっても、あなたは聖霊の流れから除外されるとすれば、自分を欺いていることにはならないのか。こういうことを言う目的は、人が神の前に心を静め、心を神に向けることで、人の中の神の働きが妨げられることなく実を結ぶためである。その時はじめて人は神の心意にかなうことができる。
『神の出現と働き』「正常な霊的生活について」(『言葉』第1巻)より
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人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねた任務を全うするために心と体を捧げるのは私たちすべての責任であり、義務である。何故なら、私たちの全存在は神から来たものであり、神の支配のおかげで存在しているからである。私たちの心と体が神の委ねた任務のためでも、人類の正義の目…
日々生じる大小様々なことがあなたの決意を揺るがしたり、心を占めたり、本分を尽くして前進するのを妨げたりしますが、それらは注意深く取り扱う必要があり、丹念に検証して真理を求めなければなりません。それらはどれも人の経験の範囲内で起こることなのです。否定的なことが降りかかると自分の本分…
誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わ…
自分の中で神がいのちになるやいなや、人々は神から離れることができなくなる。これこそが神の業ではないのか。これ以上の証しはない。神はある段階まで働いた。神は人々に、奉仕せよ、刑罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々はひるんでおらず、彼らが神に征服されたことは明らかである。真理を持…