日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 128
創造主による統治に従う者のみが真の自由を得ることができる 人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。しかし、人間は決してそれに成功することは無く、あらゆる行動が妨害される…
正常な霊的生活を送るには、日々新たな光を受け取ることができ、神の言葉を真に認識しようと求めなければならない。真理をはっきりと見すえ、すべてにおいて実践の道を見出し、日々神の言葉を読んで新たな問題を発見し、自分の不備に気づかなければならない。それは自分の全存在を揺り動かすほど慕い求める心をもち、遅れをとることを深く恐れて、いつでも神の前に静まることができるようになるためである。そのような慕い求める心を持ち、絶えず入って行こうとしている人は、霊的生活において正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされ、さらなる向上を願い、神による完成を進んで求め、神の言葉をさらに深く認識することを切望し、超自然的なものを求めず、むしろ実際の代価を払い、真に神の心意を思いやり、自分の体験がさらに純粋で実際的になるよう実際に入り、空しい言葉や教義を求めたり超自然的なものを感じようとしたりせず、偉人を崇拝しない人、このような人が正常な霊的生活に入っているのである。彼らがすることはすべて、いのちのさらなる成長を達成し、霊において新鮮で生き生きとするためであり、それゆえ彼らは常に積極的に入って行くことができる。知らず知らずのうちに真理を認識し、現実性に入るのである。正常な霊的生活を送っている人は、日々に霊の解放と自由を見出し、神の言葉を自由に実践して神を満足させることができる。このような人にとって祈りは形式でも手続きでもない。日々彼らは新たな光に歩調を合わせることができる。たとえば、神の前に心を静めるように訓練し、実際に神の前で心を静めることができ、誰にも邪魔されない。このような人の正常な霊的生活を阻止できる人、出来事、ものは何もない。そのような訓練は成果を上げるためであって、人を規則に従わせるのが目的ではない。この実践は、規則に従うためではなく、人のいのちにおける成長を促すために行われるのである。このような実践を単に従うべき規則ととらえるなら、いのちは決して変わらない。他の人たちと同じように実践していて、その人たちがついには聖霊の働きと歩調を合わせて歩むことができるようになっても、あなたは聖霊の流れから除外されるとすれば、自分を欺いていることにはならないのか。こういうことを言う目的は、人が神の前に心を静め、心を神に向けることで、人の中の神の働きが妨げられることなく実を結ぶためである。その時はじめて人は神の心意にかなうことができる。
『神の出現と働き』「正常な霊的生活について」(『言葉』第1巻)より
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創造主による統治に従う者のみが真の自由を得ることができる 人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。しかし、人間は決してそれに成功することは無く、あらゆる行動が妨害される…
神が所有するものと神そのものについてもっと理解したいと望むなら、旧約聖書や律法の時代で立ち止まることはできず、神がその働きのなかで辿った段階にしたがい先へと進む必要があります。ゆえに、神は律法の時代を終えて恵みの時代を始めたのですから、わたしたちもそのあとを追い、恵みと贖いに満ち…
神の働きのこの段階において、人はどのように神に協力すべきか。現在、神は人々を試している。神は言葉を発しておらず、姿を隠し、人々と直接接触していない。外側からは神が何の働きも行なっていないように見えるが、実際には依然として人間の中で働きを行なっている。いのちの成長を追い求めている者…
聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをも…