日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 232
わたしは義であり、誠実であり、人の心の奥底を探る神である。わたしは誰が正しく誰が不正かをただちに暴く。恐れることはない、すべてはわたしの時に従って行われる。わたしを心から求めているのは誰か、そしてそうでないのは誰かを、一人一人教えよう。あなたがたがわたしの前に来るときは、ただ注意…
パウロによる働きは人々に公然と示されてきたが、彼の神への愛は、実際どれほど純粋で、また彼の心の中でどれほど深く根付いていたのだろうか――それは人が見て確認できるものではない。人は、パウロが行った働きのみを見ることができ、その働きから彼が確かに聖霊に使われたのだということを知る。そのため人はパウロがペテロよりも優れていたと考え、またパウロが諸教会に施す働きをしていたために、彼の働きの方が優れていたと考えるのである。一方ペテロは、個人の経験のみに集中し、彼の時折の働きの際にわずかな人を獲得しただけであった。さほど知られていない書簡を2~3書いただけであったが、彼の心の奥深くの神への愛がどれほどすばらしかったかを知っていると言えるだろうか。パウロは、明けても暮れても神のために働いた。しなければならない仕事がある限り、パウロは実行した。彼は、そのようにして栄冠を手に入れ、神に満足してもらえると考えたのだ。しかしパウロは、働きを通して自分が変われる道は追求しなかった。一方で、ペテロは、生活の中で神の望むことを叶えられなかったときは、それが何であろうが彼を不安にさせた。ペテロは、神の望みを叶えられない時には悔い、神の心を満たすために適切な方法を探そうと努力した。彼は、その生活のどんなにささいなことにおいても、神の望みを叶えるよう自分に要求した。自分の古い性質のことには特に厳しく、そしてより深い真理の探究を進めることに対してはさらに厳しく自分に要求した。一方で、パウロは表面上の名声や地位を追い求めた。彼は、人前で披露して自慢するために追い求め、自らのいのちの成長をより深く追い求めることはしなかった。彼が重視したのは、教義であり現実的なことではなかった。人によっては、パウロは神のために非常に良く働いたのに、なぜ神に認められないのかと言うかもしれない。ペテロが神のために働いたのはほんのわずかであり、諸教会に対して大きく貢献したわけでもないのに、なぜ彼は完全にされたのであろうか。ペテロは、神が要求する程度まで十分神を愛した。このような人のみが、証しとなる人なのである。ではパウロはどうなのか。パウロがどの程度まで神を愛したかをあなたは知っているだろうか。またパウロが働いた理由はなんだったのか。同時にペテロの働いた理由はなんだったのか。ペテロには、さほどの働きはなかったが、あなたはペテロの心の奥深くにあったものを知っているだろうか。パウロの働きは、諸教会に必要なことを提供しそして彼らを支えることであった。ペテロが経験したものは、彼のいのちの性質の変化であり、彼はその中で神への愛を経験したのである。これであなたは彼らの本質がどう異なるかを理解したのだから、最終的にどちらが真に神を信じていたのか、そしてどちらが実は神を真に信じていなかったかが解るはずだ。一人は神を真に愛し、もう一人は神を本当には愛していなかった。一人は自らの性質の変化を経験し、もう一人は経験しなかった。一人は人々から崇拝され素晴らしい印象を残し、もう一人は謙虚に仕え、人からは容易に認められなかった。一人は聖さを追い求め、もう一人はそうではなく、不純ではなかったが純粋な愛も持ち合わせてはいなかった。一人は本当の人間性を持ち合わせていたが、もう一人はそうではなかった。一人は被造物の理知を持っていたが、もう一人はそうではなかった。これらがパウロとペテロの本質の違いである。ペテロが歩んだ道は成功の道であり、それは同時に人の正常の人間性と被造物の本分を回復する道でもある。よってペテロは成功する全ての人の代表である。一方でパウロが歩んだ道は失敗の道であり、表面上は服従し労力を費やしているが本当に神を愛してはいない人の代表である。彼は真理を持たない全ての人を代表しているのである。ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物としての資質があるということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛することができないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは、真理を持たず、神に従わず、神に反抗しているがために、被造物の本分を尽くすこともなく、神に非難されるのである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践することあるいは自分自身を知ることを怠けている。あなたは、創造主を理解できず、また知ることもせず、創造主に対して愛することも従うこともしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのである。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)より
生活で神の要望を満たせないものがあれば、それはペテロを不安にした。もしそれが神を満足させなければ彼は悔やみ、努力し神の心を満たそうとした。生活のどんなに小さなことでも、ペテロは神の要望を満たそうと自らに求め、自分の古い性質を容赦することなく、更に深く真理に入ることを求めた。更に深く真理に入ることを求めた。それが刑罰・裁き・患難であれ、あなたは死に至るまでの従順を達成できる。これこそ神の創造物が成し遂げるべきこと、これこそが神への愛の清さ。
ペテロは神の要求に適うほど神を愛した。そんな人だけが証しを持てる。信仰の中ペテロは常に神を満足させようと、神から出るものには全て従い、不平を言わずに、刑罰と裁き 精錬・生活の欠乏と患難を受け入れた。彼の神への愛を揺るがすものは何もない。これこそが神への究極の愛ではないか?神の創造物としての本分ではないか?それが刑罰・裁き・患難であれ、あなたは死に至るまでの従順を達成できる。これこそ神の創造物が成し遂げるべきこと、これこそが神への愛の清さ。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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わたしは義であり、誠実であり、人の心の奥底を探る神である。わたしは誰が正しく誰が不正かをただちに暴く。恐れることはない、すべてはわたしの時に従って行われる。わたしを心から求めているのは誰か、そしてそうでないのは誰かを、一人一人教えよう。あなたがたがわたしの前に来るときは、ただ注意…
真理について明瞭に交わる目的は、人が真理を実践して性質を変えられるようにすることであり、単に真理を理解させるためではありません。真理を理解していながらそれを実践しないのであれば、真理に関する交わりやあなたの理解には何の意味もないでしょう。真理を理解しながらそれを実践しないのであれ…
創世記 19:1-11 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、わ…
天使たちがわたしを讃えて音楽を奏でるとき、人に対するわたしの同情がかき立てられずにはいられない。わたしの心は即座に悲しみで満たされ、わたしからこのつらい感情を取り除くことはできない。人から引き離され、その後再会する喜びと悲しみの中で、わたしたちは感情を交わすことができない。上にあ…