日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 137
神は、この世に至る時、神性の働きのみを行う。それは、肉となった神への、天の霊の委託である。神がやって来る目的は、どこにでも行って語ることに尽き、さまざまな方法で、さまざまな視点から、自らの言葉を発することになる。神は、自らの目標と働きの原則として、主に人への施しと教えを続ける。神…
大半の人の神に対する信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を切望することも、慕い求めることもできないのである。このような人は黙って神に付き従っているに過ぎない。神を信じる人は多いものの、神を愛する人はほとんどいない。人々は災難を恐れて神を「畏れる」だけか、さもなければ神が高く偉大な存在なので「崇めて」いるかに過ぎない。しかし、彼らの畏れや敬慕には、愛も、心からの切望もない。人々は自身の経験の中で、真理の些細な部分、あるいは取るに足らない奥義を求めている。大半の人は単に従うだけで、漁夫の利を得ようとしている。そのような人は真理を求めず、また神の祝福を受けるべく、心から神に従うこともない。すべての人が送る、神への信仰の生涯は無意味である。そこに価値はなく、自分の個人的な考慮と追求しかない。彼らは神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じている。多くの人は思うがままに振る舞い、好きなことをするばかりで、神の益を考慮せず、自分の行ないが神の旨に適っているかどうかを考えることもない。そのような人は神を愛するどころか、真の信仰をもつことさえできない。神の本質は、単に人間が信じるべきものではない。それ以上に、人間が愛すべきものである。しかし、神を信じる人の多くは、この「秘密」を見いだすことができない。人々はあえて神を愛そうとせず、愛そうと試みることもない。神には愛すべき点が数多くあるのを見出したことがなく、神が人を愛する神であること、人が愛すべき神であるのも見出したことがない。神の愛すべき素晴らしさはその働きに示されている。人は神の働きを経験してはじめて、神の愛すべき素晴らしさを見出す。人は実際の経験の中でしか、神の愛すべき素晴らしさを理解できない。そして実生活においてそれを目の当たりにしなければ、誰一人神の愛すべき素晴らしさを見出せない。神には愛すべき点が数多くあるものの、実際に神と関わらなければ、人はそれを見出せない。つまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神と関わることができず、実際に神と関わることができなければ、その働きを経験することもできない。そのため、神に対する人々の愛は、数多くの偽りや想像によって汚されることになる。天なる神への愛は、地上にいる神への愛ほど現実的なものではない。と言うのも、天なる神に関する人の認識は、その目で見たり自ら経験したりしたことではなく、自分の想像に基づいているからである。神が地上に来ると、人々は神の実際の業と、神の愛すべき素晴らしさを目の当たりにできる。神の実際的かつ普通の性質をすべて見られるのであり、それらはみな、天なる神についての認識より数千倍も現実的なものである。人々が天なる神をどれほど愛そうと、その愛に現実的なところは何ひとつなく、人間の考えで満たされている。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は現実のものである。たとえごくわずかであっても、やはり現実のものなのである。神は実際の働きを通して人々に自分を知らしめ、それによって人々の愛を得る。ペテロもこれに似ている。イエスと共に暮らしていなければ、ペテロがイエスを愛することは不可能だったろう。イエスに対するペテロの忠誠心もまた、イエスとの交わりを通して築かれたものである。人間が自分を愛するようにすべく、神は人の間に来て人と共に生きてきた。そして神が人に見させ、経験させるものはみな、神の現実なのである。
『神の出現と働き』「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」(『言葉』第1巻)より
Ⅰ
神の本質は人がただ信じるためのものではなく、愛するためのものだが、神を信じる多くの者はそれを知らない。神の愛らしさはその働きに現れていて、個人的な経験の中でのみ、それを見つけられる。そして人は神の愛らしさを実体験の中で感じる。現実の中でそれが見えないなら、誰もそれを見つけられない。
人は神を愛そうとせず、神の多くの愛らしさにも、神が人を愛していることも、愛すべき方であることにも気付かない。
神について愛すべきことがたくさんあるが、神との交わりが無ければ、人はそれを見ることができない。神が地に来る時、人は神の実際の業、愛らしさ、現実的で正常な性質を見ることが出来る。全ては天の神の認識よりはるかに現実的なものだ。神について愛すべきことがたくさんある。神について愛すべきことがたくさんある。
Ⅱ
人がどれだけ天の神を愛しても、想いだけで現実ではない。地の神への愛は小さくても現実的、神は業により自身を示し、認識により彼らの愛を得る。神を愛させるために神は来て、その実在性を体験させる。ペテロがイエスと生活しなかったら、イエスを愛せなかっただろう。イエスへの忠心は交わりにより築かれた。
人は神を愛そうとせず、神の多くの愛らしさにも、神が人を愛していることも、愛すべき方であることにも気付かない。
神について愛すべきことがたくさんあるが。神との交わりが無ければ、人はそれを見ることができない。神が地に来る時、人は神の実際の業、愛らしさ、現実的で正常な性質を見ることが出来る。全ては天の神の認識よりはるかに現実的なものだ。神について愛すべきことがたくさんある。神について愛すべきことがたくさんある。
神が肉とならなかったら、誰もその業を経験できず、人の神への愛は想像や偽りで、汚されてしまっただろう。天の神への愛は地の神への愛ほど真実味がない。天の神への愛は、地の神への愛ほど真実味がないから、天の神への認識は経験や見たものでなく想像に基づくものだ。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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神は、この世に至る時、神性の働きのみを行う。それは、肉となった神への、天の霊の委託である。神がやって来る目的は、どこにでも行って語ることに尽き、さまざまな方法で、さまざまな視点から、自らの言葉を発することになる。神は、自らの目標と働きの原則として、主に人への施しと教えを続ける。神…
神の義の性質を知るために経験や想像に依存してはならない 神の裁きと刑罰に直面したら、あなたは神の言葉は汚れていると言いますか。神の怒りの背後にはいわくがあり、神の怒りは汚れていると言いますか。神の性質は必ずしも完全に義ではないと言って、神を中傷しますか。神の行ないの一つひとつに対…
今日、聖書は神であり、神は聖書であると人々は信じている。また、聖書のすべての言葉は神が語った唯一の言葉であって、それらはどれも神によって述べられたと信じている。神を信じる人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだが、みな神から霊感を受けており、聖霊の発言を記録している…
では最初の部分から始めましょう。神は万物を創造したとき、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めました。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在します。これらが様々な種類の地形を構成しています。そうですね。神はそれらの間に境界を定めました。境界の設定という場合、それは…