日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 461
今日、多くの人は、他の人々と協調していくにあたり学ぶべき教訓は何であるかということに注意を払っていない。わたしはあなたがたの多くが、他の人々と協調していく上で何の教訓も学ぶことができず、大半の人は自分の意見に固執していることに気づいた。教会で働くとき、あなたは自分の意見を言い…
わたしはずっとあなたがたの間にいて、いくつかの春と秋をあなたがたと付き合いながら過ごしてきた。わたしは久しくあなたがたのもとで暮らし、共に生きてきた。あなたがたの卑劣な振る舞いのどのくらいが、わたしの目の前をすり抜けただろうか。あなたがたの心からの言葉は常にわたしの耳に響いている。わたしの祭壇の上に、あなたがたは何百万もの望みを並べた。多すぎで数えられないくらいである。にもかかわらず、あなたがたの献身、費やしたものといえば皆無である。あなたがたはひとしずくの誠意すらわたしの祭壇に捧げていない。わたしへの信仰の実りはどこにあるのか。あなたがたは無限の恵みをわたしから受け、果てしなく続く天の奥義を見た。わたしは天の炎さえもあなたがたに見せたが、あなたがたを焼き尽くす心をもったことはない。それなのに、あなたがたは代わりにどれほどわたしに与えたというのか。どれほどのものを進んでわたしにくれるのか。わたしが与えた食物を手に、振り返ってそれをわたしに捧げる。しかも、それは自分が汗水たらして得たもので、自分がもつすべてのものを捧げているのだと言わんばかりである。あなたからわたしへの「寄付」はどれもわたしの祭壇から盗まれたものだと、あなたはどうして知らないのか。さらに、今そのようなものをわたしに捧げて、わたしを騙しているのではないか。今日わたしが享受するものは、すべてわたしの祭壇に捧げられたものであり、あなたが苦労した見返りとして手に入れ、わたしに差し出したものではないのだと、どうしてわからないのか。あなたがたは実際に厚かましくもわたしをこのように騙しているのだから、どうしてわたしがあなたがたを許せようか。こうしたことにわたしがさらに耐え続けられると、どうしてあなたがたは思えるのか。わたしはあなたがたにすべてを与えた。わたしはあなたがたにすべてを開放し、必要を満たし、あなたがたの目を開いた。にもかかわらず、あなたがたは自分の良心を無視してわたしをこのように騙す。わたしは無欲になってあなたがたにすべてを与えた。たとえあなたがたが苦しんでも、わたしが天からもたらしたすべてのものを得られるようにするためである。それなのに、あなたがたには献身が一切なく、ほんの少し寄付したとしても、後になってわたしと「精算」しようとする。あなたが捧げたものなど無に等しいのではないのか。自分は砂粒ひとつだけを差し出しておいて、わたしに一トンの金を要求してきた。あなたは理不尽そのものではないか。わたしはあなたがたの間で働きを行なう。わたしの受けるべき一割はその形跡すら絶対になく、追加の犠牲などもちろんない。さらには、信心深い者たちの捧げた一割は悪い者が取り上げている。あなたがたはみなわたしから離れているのではないか。みなわたしに敵対しているのではないか。みなわたしの祭壇を破壊しているのではないか。そのような者たちがわたしの目に宝と映ることなどあり得ようか。彼らはわたしの嫌う豚や犬ではないのか。あなたがたの邪悪な行ないを宝物と呼ぶことなどどうしてできようか。わたしの働きは実際のところ誰のために行なわれるのか。もしかして、その目的はただあなたがた全員を打ち倒し、わたしの権威を現わすことなのか。あなたがたの生命はすべて、わたしの発する一言にかかっているのではないか。わたしが言葉を用いてあなたがたを指導するだけで、言葉を事実に変えてあなたがたをできるだけ早く打ち倒さなかったのはなぜなのか。わたしの言葉と働きは、人類を打ちのめすためだけのものなのか。わたしは罪なき者を無差別に殺す神なのか。まさに今、あなたがたのうち何人が全身全霊でわたしの前に来て、人生の正しい道を求めているのか。わたしの前にいるのはあなたがたの身体だけである。心は野放しのままで、わたしから遥か遠くにある。わたしの働きが実際にどのようなものかを知らないので、あなたがたの多くはわたしから離れて遠くにいたがり、その代わり刑罰も裁きもない楽園で生きることを望む。これが人の心の願いではないのか。わたしは決してあなたに強制しているのではない。どのような道を進むかはあなた自身の選択である。今日の道には裁きと呪いが伴う。だがあなたがた全員が知るべきなのは、裁きであれ刑罰であれ、わたしがあなたがたに授けたものはどれもわたしが提供し得る最上の贈り物であり、あなたがたが今すぐ必要としているものだということである。
『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)より
人の間で働いてきたが、十分の一も捧げられない。敬虔な者が捧げた1割は、悪い者に奪われる。皆、わたしから四散して、わたしを敵視していないか。どうしてあなた方の悪い行いを大事なものと見なせよう?わたしは無私に全てを与えたから、あなた方はたとえ苦しんでも、わたしが天から与える全てを得るが、あなた方は少しも捧げず、たとえ捧げても精算を求める。あなたが捧げたのは砂一粒、なのに大量の黄金を求める。ほとんど貢献していないのに、あなたは理不尽ではないか?
わたしの働きは実際誰のためか。わたしの権威を現すために、ただあなた方を打ち倒すためか。わたしの一言であなた方は生きられる。わたしはなぜ、言葉で教えるだけで、言葉を事実にして、人を殺さないのか。言葉と働きはただ人を倒すためか。潔白な人をむやみに殺すのか。今、何人が正しい道を求め、全存在をもってわたしの前に来るか。わたしの前でも心は遠く彷徨う、あなた方はわたしの業を知らないので、わたしから離れたがり、裁きなしの天国を求める。これは人が心から願うことではないか。わたしはもちろん強いてはいない、あなた方は自分で選んだ道を行く。今日の道には呪いと裁きがあるが、わたしがあなた方に授けるものは、裁きも刑罰も、危急の必要を満たし最良だと知れ。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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