日々の神の御言葉「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」抜粋84

今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な鍛錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。従って、今日の救いの方法は過去のものとは違う。今日、義の裁きを通してあなたがたに救いはもたらされ、これは種類に応じてあなたがたを分類するためのよい道具である。さらに、無情な刑罰はあなたがたに最高の救いとして機能する。このような刑罰と裁きに直面して、あなたがたは何と言うのか。あなたがたはいつも、初めから終わりまで救いを享受してきたのではなかったのか。あなたがたは受肉の神を見たし、神の全能と知恵も悟った。そのうえ、あなたがたは繰り返し鞭打たれ、訓練も経験した。しかし、あなたがたは最高の恵みも受けたのではないのか。あなたがたの祝福は他の誰のものより大きくないのか。あなたがたの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも遥かに豊富である。考えてもみなさい。もしわたしが来た意図があなたがたを救うことではなく、罪に定め、罰することであったなら、あなたがたはこのように長く生き続けていただろうか。肉と血から成る罪深い存在であるあなたがたは今日まで生き残れていただろうか。もしわたしの目的がただあなたがたを罰するためであったなら、なぜわたしは肉となり、そのような大きな事業に着手していたのか。ただの人間にすぎないあなたがたを罰するには、わずか一言発するだけで済んだのではないのか。わたしはあなたがたをわざわざ罪に定めた後でもなお滅ぼす必要があるのだろうか。あなたがたはわたしのこの言葉をまだ信じないのか。わたしには愛と憐れみだけで人を救うことができるだろうか。それともわたしは人を救うために十字架しか使えないのだろうか。わたしの義なる性質は人を完全に従順にさせるのをさらに促進しないだろうか。それは人を完全に救うことがさらにできるのではないのか。

『言葉は肉において現れる』より引用

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

日々の神の御言葉「神の働きと人の働き」抜粋181

神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表す…

日々の神の御言葉「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」抜粋286

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根拠を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから未だに彼らはメシアが来るのを待ち続けている。いのちの道に…

日々の神の御言葉「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」抜粋530

現在、神に用いられることを追求する者も居るが、そうした者は、征服された後に直接用いられることは無い。現在において語られている言葉については、神が人間を用いる時、あなたがそうした言葉を達成することが出来なければ、あなたは完全にされていない。つまり、人間が神に排除されるか、用いられる…

日々の神の御言葉「実践に集中する者だけが完全にされることができる」抜粋550

昨今では、人間の追求が逸脱している。神を愛し、神を満足させることだけを追求し、神を認識しておらず、自らの内部における聖霊の啓きと照らしをおろそかにしている。そうした者は神についての真の認識という基礎を備えていない。そのような状態であるので、彼らは経験が進行してゆくにつれて、熱意を…