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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

神に用いられるのに相応しい者になりたいのであれば、神の働きを理解しなければならない。新約聖書と旧約聖書に記されている過去の神の働きを知り、さらに、神が行う今日の働きを知らなければならない。つまり、六千年に渡る三段階の神の働きの全てを知らなくてはならない。もしあなたが福音を宣べ伝えてほしいと頼まれたとしたら、神の働きを知らずに宣べ伝えることは不可能である。人々は聖書のこと、旧約聖書のこと、イエスが当時何をして何を言ったのか、あらゆる質問をしてくるだろう。「あなた方の神は教えてくれなかったのか。もしあなた方の神が聖書に書かれてあることをみなあなた方に説明できないなら、それは神ではない。もし説明できるなら我々も信用しよう」と言うだろう。はじめイエスは、弟子たちに旧約聖書のことを多く語った。彼らが読んだものは全て旧約聖書からのものである。新約聖書はイエスが十字架に張り付けにされてから数十年後に書かれているからだ。あなた方は、福音を宣べ伝えるには、主に聖書の内情を把握し、イスラエルでの神の働き、つまりヤーウェが行った働きを把握しなければならない。そしてイエスの行った働きも理解しなくてはならない。大半の人々にとって重要なのはこのような点であり、彼らにはふたつの段階の理解などない。福音を宣べ伝えるときには、今日の聖霊の働きのことはひとまず脇に置いておくことだ。この段階の働きは彼らの理解を超えている。なぜならあなた方が追い求めているものは最も高尚なもの─神の認識、聖霊の働きに関する認識─であり、このふたつ以上に崇められるものはない。最初に高尚な話をしてしまったならば、彼らには難しすぎてしまう。聖霊によるそのような働きの経験をしたものなどいないからだ。前例もなく人には受け入れ難いものなのだ。彼らの経験は古びた過去のものに過ぎず、いくらか聖霊の働きが含まれるだけである。彼らの経験するものは今日の聖霊の働きでも、今日の神の心でもない。未だに古い慣習に倣い、光も何も、新しいものではない。

イエスの時代には、聖霊は主にイエスを通してその働きをし、ヤーウェに仕えた者たちは祭司の服を着て確固たる忠誠心を持って仕えた。彼らには聖霊の働きもあったが、神のその時の心を感じ取ることはできず、新しい導きがないまま、単に古い慣習に従ってヤーウェに忠誠を尽くしていただけであった。そしてイエスが来て新しい働きをした。宮にいた人達には、新しい導きも新しい働きもなかった。宮で仕える彼らは単に古い慣習に倣うだけであった。宮を出なければ彼らに魂の成長は一切あり得なかった。新しい働きはイエスによってもたらされたが、イエスは、その働きを行うのに宮には入らなかった。イエスは、神の働きの範囲が随分前から変化していたため、その働きを常に宮の外においてのみ行った。イエスは宮の中では働かず、人が宮で神に仕えるときは古いやり方を維持するだけであったから、新しい働きをもたらすことはできなかった。同じ様に、現在の宗教心のある人々は未だ聖書を崇拝している。彼らに福音を宣べ伝えようとすると、その人々はあなた方と聖書についての議論を始めるだろうし、そしてもし彼らが聖書について語るときに、あなた方が言葉に困って何も言い出せないでいれば、彼らは、「あなた方の信仰はばかげている、『神の言葉』である聖書も知らずに、どうして神を信じているなどと言えるのだろうか」と考えるだろう。そうして彼らはあなた方を見下げて、こう言うだろう。「あなた方が信じているのが神なら、なぜその神はあなた方に旧約聖書と新約聖書の一切を話されないのか。あなた方の神は、その栄光をイスラエルから世界の東まで広められたのに、なぜイスラエルで行なわれた働きをご存知ないのか。なぜ神はイエスの働きをご存知ないのか。もしあなた方が知らないのであれば、あなた方が聞いていないことの証明だ。あなた方の神はもう一度受肉したイエスなのに、これらの事をご存知ないのか。イエスはヤーウェの行った働きを知っていたのに、あなた方の神がご存知ないのはなぜか」と。その時が来れば、この人達はみなこのような質問をする。頭がその考えで一杯なのだから、どうして聞かずにおれようか。この流れの中に居る者は、聖書に焦点を当てない。なぜなら、あなた方は、現在の神によって一歩一歩行われてきた働きにしっかりと着いてきているし、その一歩一歩行われてきた働きをその目で見てきて、明確に三つの段階の働きを見てきた。それで聖書は置いてもうそれを研究することは止めなければならなかったからである。だが彼らは、この一歩一歩の働きを知らないから、聖書を研究せずにはいられない。こう聞く人もいるだろう。「受肉した神によってなされる働きと、昔の預言者や使徒のそれとでは、何が違うのか。」ダビデは主と呼ばれていたし、イエスもそう呼ばれていた。二人の働きは違ったが、呼ばれ方は同じだった。「それなのに、なぜふたりの身分は同じではなかったのか」とあなた方は聞くだろうか。ヨハネが見たものは一つのビジョンであり、聖霊から出たものでもあり、そしてヨハネは聖霊が伝えようとする言葉が話せたのに、なぜヨハネの身分はイエスのそれと違ったのか。イエスによって話された言葉は、完全に神を現すことができ、神の働きを全て現すことができた。ヨハネが見たものは一つのビジョンであって、神の働きを完全に現すことはできなかった。ヨハネ、ペテロ、そしてパウロは、イエスの様に多くを語ったが、彼らがイエスと同じ身分を持たないのはなぜか。彼らの働きが違ったからというのが主な理由である。イエスは神の霊を現し、神の霊が直接働いていたのである。イエスは、新しい時代の働き、それまで誰もしたことのない働きをしたのである。イエスは新しい道を切り開き、ヤーウェを現し、神自身を現したのである。一方で、ペテロやパウロやダビデは、彼らが何と呼ばれていたかに関係なく、被造物としての身分を現しただけか、イエスかヤーウェに遣わされただけであった。それだから、彼らがいかに多くの働きをしようとも、どれほど素晴らしい奇跡を行おうとも、やはり神の被造物にすぎず、神の霊を現すことはできなかったのである。彼らは神の名によって、または神に遣わされて働いたのである。更に、彼らはイエスあるいはヤーウェによって始められた時代の中で働いたのであり、彼らの働きはその時代と切り離されたものではなかった。結局のところ、彼らは単なる被造物にすぎなかった。旧約では多くの預言者が予言を語ったり、預言書を書いたりした。誰一人として自らが神だとは言わなかったが、イエスが現れるやいなや、イエスが言葉を発する以前に、神の霊がイエスを神であると証ししたのである。それはなぜか。あなたは、この時点で既に知っているはずだ。以前に使徒たちや預言者たちが様々な書簡を書き、また多くの予言を残した。それを後になって人が幾つかを選び抜いて聖書に収めたが、紛失した書もあった。彼らによって発っせられた言葉は全て聖霊から出たものだと言う人たちが居るのなら、それらの言葉の内、良いとされているものと悪いとされているものがあるのはなぜか。そして選ばれたものとそうでないものがあるのはなぜか。それらが本当に聖霊によって話された言葉ならば、人が選抜する必要があったのか。なぜイエスによって話された言葉とイエスの行った働きの記録が四つの福音書のそれぞれで異なるのか。これは、福音書を記録した人間によるミスではないのか。「使徒書簡は、パウロおよびほかの新約の作者によって書かれ、彼らの働きは部分的には人の意思から出ているものであり、人の観念も混ぜられているのだから、あなた(神)が今日話す言葉の中に人間の不純さはないのか。それらの中に人間の観念は本当に含まれていないのか」と聞く人もいるだろう。神によるこの段階の働きは、パウロや多くの使徒そして預言者が行った働きとは全く異なっている。身分に違いがあるだけでなく、基本的に実行された働きの内容が違うのである。パウロが打たれて神の前に倒れた後、彼は聖霊に導かれて働き、遣わされる者となった。だからパウロは諸教会に書簡を書き送ったが、その書簡は全てイエスの教えを手本とするものであった。パウロは、主イエスの名によって働くために主に遣わされたが、神自身が来たときは、誰かの名によって働くことはなく、その働きにおいて神の霊のみを現した。神は、直接自身の働きをするために来た。神は人によって完全にされることはなく、人の教えに基づいてその働きがなされることもなかった。この段階の働きの中で神は、自らの経験を語ることによって導くのではなく、自身が持つものに従って直接働きを実行する。例えば、奉仕者の働き、刑罰の時代の働き、死に関する働き、神を愛する働き等々。これらは全てこれまでなされたことがない働きであり、人の経験というよりこの時代の働きである。わたしが発した言葉の中で、どれが人の経験であるのか。それは全て神の霊から直接出たもの、そして神の霊によって発せられたものではなかったか。あなたの力量が乏しいために真理を見極めることができないだけである。わたしが話す実践的ないのちの道は、進むべき道を示すものであり、今まで誰も語ったものはなく、この道を経験した者もなく、この実情を知った者もない。わたしがこれらを話すまでは誰によっても語られなかった。誰もこのような経験を語る者はなく、詳細にそのような話をする者もなく、さらに誰もその様な状況を指摘して、これらのことを明るみに出す者もいなかったのである。わたしが今日導く道は誰によっても導かれたことのないものである。もし人によって導かれたものであったならば、それは新しい道とはいえない。パウロとペテロを例に取ってみよう。イエスによって導かれた道を歩む前は、彼らは自らの経験は持っていなかった。彼らは、イエスに導びかれて初めてイエスの話す言葉や導かれる道を経験したのである。それによって彼らは多くの経験を得て聖書の中の書簡を書いたのである。よって、人の経験は神の働きとは同じではなく、神の働きは人の観念や経験によって説明される認識とは同じではない。何度も繰り返し言ってきたが、現在わたしは新しい道を導き、また新しい働きを行っているが、わたしの働きやわたしが発する言葉はヨハネなどのような預言者のそれとは異なるのである。わたしは経験を得てからあなた方に話すことはしない―そのようなことは決してない。仮にそうだとしたら、ずっと前にあなた方を遅らせたのではないだろうか。過去に多くの者たちが語った認識も高尚とされているが、その人達の言ったことはみな、いわゆる霊的な人物と言われる人たちの言葉に基づいて語られたにすぎない。そのような言葉は道を導いたわけではなく、語った人の経験や実際に観たものと認識から来ていたのである。それには彼らの観念もあり、また彼らの経験をまとめたものもあった。今日、わたしの働きは、そういう人たちの働きとは全く性質を異にする。わたしは他者によって導かれた経験もなければ、他者から完全にされることを受け入れたこともない。さらに、わたしが語りまた伝えたものはみな他の人のものは異なり、また他の誰かによって語られたことのないものである。今日、あなた方が誰であろうと、あなた方の働きは、わたしが語る言葉に基づいて行われるのである。これらの発言と働きなくして、誰がこのような事(奉仕者や刑罰の時代・・・)を経験し、誰がそのような認識を語ることができようか。あなた方は本当にこの事を見極めることができないのだろうか。働きのどの段階であろうが、ひとたびわたしが言葉を発すれば、あなた方は直ちにわたしの言葉に従って語り始め、またそれらの言葉に従って働くのであり、それは、あなた方が誰も考えたことのない道なのである。ここまで歩んできたあなた方が、これほど単純明快な問題を理解することができないのか。その道は、誰かが考え出した道でも、霊的と言われる人たちの道に基づくものでもない。その道は新しい道であり、イエスが当時語った多くの言葉でさえもう当てはめてみることができない。現在わたしが語るのは、新しい時代を切り開く働きのことであり、その働きは他から完全に独立したものであって、わたしの行う働きとわたしが話す言葉は全て新しいものなのである。これこそ今日の新しい働きではなかろうか。イエスの働きも当時そのようであった。イエスの働きは、神殿の中の人々の働きとは違い、パリサイ人の働きとも異なり、そしてイスラエルの民全体の働きと似たものでもなかった。人々は、イエスの働きを見た後、それが本当に神の行った事かどうか、はっきりと分からなかった。イエスはヤーウェの律法に固執しなかった。イエスが来て人を教えたことは全て新しく、昔の聖人たちや旧約の預言者たちが語ったものとは違っていたので、人々は確信を得ることができなかった。これは人々にとってとても難しい。この新しい段階の働きを受け入れる前に、あなた方のほとんどが歩んできた道は、霊的と言われる人達の歩みを踏襲し、同じくその歩みの基盤を得る道だった。しかし今日わたしが行う働きはそれとは大きく異なる。そのためあなた方は、それが正しいか間違っているかを判断できない。わたしは、あなたがどんな道を歩んで来たか、どんなものを食べたか、誰を「父」と崇めてきたかには興味がない。わたしは既に来ており、人を導くために新しい働きをしたのだから、わたしに従う者はみなわたしの言葉に従って行動しなければならない。あなたの「家系」にどれほどの力があろうとも、わたしに従わなければならない。これまでの習慣に倣って行動してはならず、「育ての父」はその役目を終えるべきで、これからはあなたの神の前に出て、自らの正当な取り分を求めるべきなのである。あなたの全てはわたしの手の内にあり、育ての父に対する盲目的な信仰に身を投じるべきではない。育ての父があなたを完全に支配することはできない。今日の働きは独立したものである。わたしが今日語ることは全て過去のいしずえに基づいてはいない。これは新しい始まりであって、仮にあなたがそれを人によって作られたものだと言うなら、あなたは、救いようのない盲目な人間である。

イザヤ、エゼキエル、モーセ、ダビデ、アブラハム、そしてダニエルは、選ばれし民であるイスラエルの指導者または預言者であった。なぜ彼らは神と呼ばれなかったのか。なぜ聖霊は彼らを証ししなかったのか。聖霊はなぜイエスが働きを始め、語り始めると同時にイエスを証ししたのか。なぜ他の者たちは証とされなかったのか。肉の人間であった彼らはみな「主」と呼ばれた。その呼び名に関係なく、彼らの働きがその存在と本質を表し、その存在と本質が彼らの身分を表していた。彼らの本質は、その呼び名とは関係がない。彼らの本質は、彼らの表現したこと、そしてその生き方に現されるのである。旧約の中では誰かが「主」と呼ばれるのは、いたって普通の事であり、どのような呼び方をしてもよかったが、その人の本質と本来の身分は永遠に変わらないものであった。イエスや預言者の名を語る者、あるいは人を騙す者の中にも神と呼ばれる人が居るのではないか。ではなぜ彼らは神ではないのか。それは、彼らが神の働きをすることができないからだ。彼らは、根本的に人であり、人々を騙す者たちであり、神ではなく、よって神の身分は持ちえない。ダビデも十二部族の中で主と呼ばれていたのではなかったか。イエスも主と呼ばれていたが、なぜイエスだけが受肉した神と呼ばれたのか。エレミヤもまた「人の子」として知られていたのではなかったか。イエスも「人の子」として知られていたのではなかったか。なぜイエスは神の身代わりとして十字架につけられたのか。それは、イエスの本質が違っていたからではないのか。イエスの行った働きが他とは違うものだったからではないのか。呼び名は関係あるのだろうか。イエスも人の子と呼ばれたが、イエスは最初に受肉した神であり、権力を得るために、そして贖いの働きを達成するために来たのである。これは、イエスとイエス以外の「人の子」と呼ばれた人たちの身分と本質が異なることを証明している。聖霊に用いられた人の言葉は全て聖霊から出た言葉であるとあえて言う者が今日いるだろうか。そんなことをあえて言う人はいるだろうか。もしあなたがそのように言うのであれば聞きたい。「なぜエズラの預言書が排除され、昔の聖人や予言者たちが書いた書物も同じようにされたのか」と。それらの全てが聖霊から出たものであるなら、どうしてそのような気まぐれなことをするのか。あなたに聖霊の働きを選ぶ資格があるのか。イスラエルから出た他の書も多く排除された。このような過去の書が全て聖霊から出たものであると信じるなら、そのような書が一部排除されたのはなぜか。聖霊から出たものであれば全て保管されて、諸教会の兄弟姉妹が読めるよう送られるべきである。それを人間の意思によって選抜したり処分したりしてはならない。そのようなことは間違っている。パウロとヨハネの経験には個人的に見たことが含まれると言われるのは、彼らの経験と認識がサタンから出たものということではなく、彼らが直接経験したり見たりしたものから得たものがあったということである。彼らの認識は当時の経験から生まれたものであり、それが全て聖霊から出ていると誰が言えるだろうか。仮に四つの福音書が全て聖霊から出たものとするなら、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネがそれぞれイエスの働きに関して異なる記述をしているのはなぜか。異なる記述があることを信じないというのなら、聖書の中の、ペテロがイエスを三度否定する箇所を読んでみなさい。四つの書すべてが違うと同時に、それぞれ特徴を持っている。無知な人の多くは言う。「受肉した神もまた人だったのなら、そのお方の語った言葉は全て聖霊から出たものだったのか。もしパウロとヨハネの言葉が人の意思と混じっていたのなら、受肉した神の言葉は本当に人の意思が混ざっていないのだろうか」と。そんなことを言う人は盲目であり無知なのだ。四つの福音書をよく読んでほしい。イエスがした事、そしてイエスが語った事に関して何が書かれているのかを読んで欲しい。それぞれの記録が単純に違っていて、異なる視点が含まれている。これらの福音書の作者が書いたものが全て聖霊から出た言葉ならば、全て同じ内容で一致するはずだ。どうして矛盾があるのか。そんなことも見抜けないというなら人はあまりに愚かではないだろうか。もしあなたが神に対して証しとなることを求められたならば、どのような証しをすることができるだろうか。そのような認識で神を証しできるだろうか。もし人が「ヨハネとルカによる記録に人の意思も含まれているというなら、あなた方の神の発せられる言葉にも人の意思が混ざってはいないのか」と尋ねたら、あなたは明確な答えを出せるのか。ルカとマタイは、イエスの言葉を聴きそしてイエスの働きを見た後、自らの認識を、イエスの行った事実を詳しく述べていく回想という形で語っていたのである。あなたは、彼らの認識が完全に聖霊によって明らかにされたものと言えるか。聖書以外にも、彼らより認識のある霊的な人が大勢存在したのだから、なぜそういう人たちの言葉は後世の人によって取り上げられなかったのか。彼らも聖霊に用いられた人ではなかったのか。今日の働きにおいて、わたしはイエスの働きの土台に立ってわたしが見たものを話しているのでもなく、イエスの働きの背景に立ってわたしの認識を伝えているのでもないと知って欲しい。イエスは当時どんな働きをしたのか。そしてわたしは今日どんな働きをしているか。わたしがすること話すことには前例が存在しない。わたしが今日歩む道は誰も歩んだことのない道であり、過去の時代世代を通して誰も歩んだことのない道なのである。今日、この道が開かれたわけだが、これが霊の働きでないことなどあろうか。過去の指導者たちは、たとえそれが聖霊の働きであっても、他の人達の作った基礎の上に自らの働きを行ってきたのである。しかし、イエスの段階の働きがそうであったように、神自身の働きはそのようなものとは違う。神は新しい道を切り開いた。イエスはこの世に来、天国の福音を語り、人は悔い改めて罪を告白すべきだと説いた。イエスがその働きを終えた後、ペテロやパウロそして他の人間がイエスの働きを引き継ぐことを始めたのである。彼らは、イエスが十字架にかけられ天に召された後、十字架による救いを広めるために霊によって遣わされたのである。パウロの語った言葉は称賛されたが、それらもイエスによって築かれた土台に立っており、その土台とは忍耐、愛、試練に耐えること、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、その他の守るべき規則などである。これらすべてがイエスの言葉に基づいていたのである。彼らに新しい道を切り開くことはできなかった。神に用いられた人に過ぎなかったからである。

当時のイエスは、その発言も働きも教理には固執しなかった。そして旧約の律法に従って働くこともしなかった。それは、恵みの時代に行われるべき働きに従っていたのである。イエスは、自分の働きをするために自ら働き、自らの計画に沿って働き、自らの任務を遂行した。旧約聖書の律法に従っては働かなかった。イエスの働きで旧約の律法に基づいたものはひとつもなかった。また、イエスは預言者の言葉を実現させるためにこの世に来て働いたのでもなかった。神の働きのどの段階も、特に昔の預言者の予言を成就させるためのものではなく、教理に従うため、あるいはわざわざ預言者の言葉を実現させるために来たのでもなかった。だが彼の行ったことが古い預言者の言葉を混乱させることはなく、自身の過去の働きの妨げとなることもなかった。神の働きの際だった点は、いかなる教理にも縛られずに、自身がすべき働きをしたことである。彼は預言者でも先見者でもなく、行動の人であり、自身のすべき働きをするために実際にこの世に来、自身の新しい時代を切り開き、新しい働きを実行するために来たのである。もちろん、イエスがその働きのために来たとき、多くの旧約の古い預言者の言葉を成就させてもいる。今日の働きも旧約の古い預言者の予言を実現させている。ただ単にわたしはその古くなった暦を取り上げることがないというだけのことだ。わたしには他にすべきことがあり、語るべきこともある。そしてそれらのすべきことと語るべきことは聖書の句を説明するより遥かに重要な事である。というのは、そのようなことはあなた方にはさほど意味も価値もなく、あなた方の助けにならず、あなた方に変化をもたらすこともないからだ。わたしは聖書に書かれたことを成就するために新しい働きをするのではない。もし神が聖書の中の古い預言者の言葉を成就するためだけに、この地上に来たのなら、受肉した神と古い預言者たちのどちらが偉大なのだろう。結局のところ、預言者たちが神を支配しているのか、それとも神が預言者たちを支配しているのか。あなたは、これらの言葉をどのように説明するつもりか。

終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神の現れによる新時代の到来 神は人のいのちの源である 神の裁きと刑罰に神の出現を見る キリストに味方しない者は確実に神の敵だ キリストと融和する道を探せ キリストは、真理を以て裁きの働きを行う 神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる あなたは誰に忠実か 三つの忠告 神の性質を理解することの並ならぬ重要性 信者はどんな見解を持つべきか 堕落した人間は神を体現することができない 宗教奉仕を取り締まるべきである 神を信じているなら神に従うべきだ 悪人は罰せられなければならない 現実をどのように知るか 神の心にかなう奉仕とは 今日の神の働きを知るということ 神の働きは人間が想像するほど簡単か 肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い 神の信仰は宗教的儀式でなく現実に焦点を合わせるべきである 今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる 神の国の時代は言葉の時代(前半) 神の国の時代は言葉の時代(後半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (前半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (後半) 「千年神の国は訪れた」についての短い話 神を知る者だけが、神の証人となることができる ペテロはどのようにイエスを知るようになったか 神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる あなたは生かされたか 性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである 二度の受肉が受肉の意義を完成させる ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート1) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート2) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート3) 本物の人とは何を意味するか あなたは信仰について何を知っているか 肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない 福音を広める働きは、人を救う働きでもある 律法の時代における働き 贖いの時代における働きについての真実 あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (前半) あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (後半) 呼び名と身分について(前半) 自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか 神とその働きを知る者だけが神の心にかなう 受肉した神の職分と人間の本分の違い( 前半) 受肉した神の職分と人間の本分の違い ( 後半) 神はすべての被造物の主である 神の働きと人の働き(前半) 神の働きと人の働き (後半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(前半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(後半) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート1) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート2) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている(パート3) 神の宿る肉の本質 (前半) 神の宿る肉の本質 (後半) 神の業と人間の実践(前半) 神の業と人間の実践(後半) キリストの本質は父なる神の心に従うことである 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (前半) 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (後半) 神と人は共に安息に入る(パート1) 神と人は共に安息に入る(パート2) 祈りの実践について 新時代の戒め 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋 (パート1) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート3) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート4) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋( パート1) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋 パート2 「征服の働きの内なる真実」についての神の言葉四節からの抜粋(パート1) 「征服の働きの内なる真実」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート4) 四番目の言葉 五番目の言葉 七番目の言葉 八番目の言葉 九番目の言葉 十番目の言葉 十二番目の言葉 十五番目の言葉 十八番目の言葉 十九番目の言葉 二十番目の言葉 二十一番目の言葉 二十二番目の言葉 二十六番目の言葉 二十九番目の言葉 将来の使命にどのように取り組むべきか 神について何を理解しているのか 神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目 あなたは本当に神を信じているのか すべてが神の言葉によって達成される(後半) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋( パート1) 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋( パート3) すべてが神の言葉によって達成される(前半) 三位一体は存在するのか(前半) 三位一体は存在するのか(後半) 六番目の言葉 十三番目の言葉 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 (パート2) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋 (パート2) 呼び名と身分について(後半) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート3) 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 パート1 救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た 神と人は共に安息に入る(パート3) あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである

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