日々の神の御言葉: 人類の堕落を暴く | 抜粋 357
神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、理解不可能なものではない。神の働きはすべて、神の経営に関係しており、人間の救いの働きに関係しており、人間の生命、生活、終着点に関わっているのだから。神が人間の間で、そして人間に対してする働きは、まことに実際的で、意義深いものだと言える。それ…
神はその働きを人間の創造の時からずっと行ってきている。最初、その業はとてもシンプルだった。だがシンプルであったにしても、神の本質や性質はその業に内包されている。今になって、神の仕事が高まり、神は自分に付き従う者に対して膨大な量の具体的な働きを行い、大量の言葉を語った。しかし始めのときから今まで、神の本当の姿というものは人間から隠されてきたのである。神は二度、受肉したが、聖書の記述から現代まで、神の真の姿を見たという人はいるだろうか。あなたがたの理解する範囲で、神の真の姿を見たことがある人がいるだろうか。いない。神の本当の姿を見たことがある人はいないということは、だれも真の神自身を見たことがないということだ。この点では誰もが同意するだろう。そこからいえるのは、神の真の姿あるいは神の霊というものは、神が創造したアダムとエバや、神が受け入れた義人ヨブも含めたすべての人に隠されたものであるということである。彼らですら、神の真の姿を見てはいない。しかしなぜ神は意識的に神の姿を隠しているのだろうか。ある人たちは「神は人々を怖がらせたくないのだ」と言う。またある人たちは「神がその真の姿を隠しているのは、人間は小さすぎて、神は大きすぎるからだ。人間には神を見ることは許されていない。見ることがあれば、人は死んでしまう」と言う。「神は御業を行うのに忙しすぎて、人々の前に現れる時間がないのかもしれない」と言う人たちもいる。あなたがたがどのように信じようが、わたしはここにひとつの結論を提示する。その結論とは何か。それは、神は人々にその姿を見てもらいたいとは思っていない、ということである。人が神を見ることができないのは、見ることができないように神が故意にしているからである。別の言い方をすれば、人が神の真の姿を見ることができないのは、神の意図によるところなのである。これではっきりしたと思う。神がその本当の姿を誰にも見せたことがないとしても、あなたがたは神の本当の姿が存在すると思うか。(存在する。)もちろん神の本当の姿は存在する。神の本当の姿が存在するということに関しては議論の余地はない。では神の本当の姿がどれだけ大きなものか、あるいはどのような姿なのか、ということは人間が調査すべき問題か。否。そうではない。もし神の本当の姿に関することがわたしたちの探究するテーマではないとすれば、わたしたちが学ぶべき話題は何なのだろうか。(神の性質)。(神の業)。では正式なテーマとして交流する前に、今話したことをもう一度おさらいしよう。神はなぜ本当の姿を人に現したことがないのか。なぜ神はあえて自身の姿を人間から隠しているのか。その理由はただひとつ。即ち、創造された人類は何千年ものあいだ、神の働きを経験してきたが、誰一人として神の働き、神の性質、神の本質を知った者はいない。そのような人間は神の眼中で神に敵対する存在であり、自分に敵対する者たちに神は姿を現すことはない。これが、神がその姿を人間に現さず、また意図的に人間に対し姿を隠している唯一の理由である。ここまで話してきたことで、神の性質を知ることの重要性がはっきりしただろうか。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 1」(『言葉』第2巻)より
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神は人類を創造したが、神が人間世界に来ると、人々は神に抵抗しようとし、あたかも神が世界を放浪する孤児か、国を持たない俗世の人間のように、自分たちの領土から追い払おうとする。誰も神に愛着を覚えず、誰も真に神を愛さず、誰も神の到来を歓迎したことがない。それどころか、神の到来を見ると、…
神は、自身の業により刑罰と裁きが要求されているため、そしてそれ以上に、刑罰と裁きが人間に必要であるため、刑罰と裁きを行う。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、その後に初めて神への愛を実現する事が出来る。現在、あなたがたは完全に確信しているが、些細な挫折があると、あなたがたは問題に…
万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地でまさに私たちを導いている。私たちはどの瞬間にも神に近づき、静かに神の前に出て、一瞬の時も逃すことなく、いつでも教訓を学ばねばならない。私たちの周りの環境から、人々、出来事、事物までを含むすべての…