日々の神の御言葉: 聖書にまつわる奥義 | 抜粋 274
聖書を理解して解釈できることは、真の道を見つけるのと同じことだと多くの人が信じている。しかし、物事は本当にそれほど単純だろうか。聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働…
人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの「協力」が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を「試す」ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試す時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と非難したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。
神がある人を完全に自身のものとする過程を理解すると、神がヨブをサタンに渡したことの目的と意味も理解するようになる。ヨブの苦しみが理解できずに悩むことがなくなり、新たな意味を見出すのである。自分達も同じ誘惑に遭わなければならないのだろうかと心配することはなくなり、神からの試みを拒絶しなくなるのである。ヨブの信仰、従順、サタンに勝利したことの証しは、人々にとって大きな助けとなり、励ましとなる。ヨブを通して、自分自身の救いの望みを見出し、信仰と神への畏れによってサタンを打ち負かし勝利することが可能であることを見出すからである。神の主権と采配に従い、全てを失っても神には背かない決意と信仰があるならば、サタンを辱めてサタンに打ち勝つことができると知るのである。また、たとえ命を失っても、証しに固く立つ決意と忍耐力だけがあれば、サタンを怯えさせて退散させることができるのも知るのである。ヨブの証しは後の世代への警告である。つまり、後の世代がもし、サタンを打ち負かすことができなければ、サタンの非難と妨害から逃れることはできず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すこともできないという警告である。ヨブの証しは後の世代に啓きを与えた。それにより、人々は、完全で正しくさえあれば、神を畏れ悪を避けることができることを教えている。つまり、神を畏れ悪を避けるならば、力強く生き生きとした神への証しを持つことができる。そして力強く生き生きとした神への証しを持つことができれば、サタンに支配されることはなく、神の導きと守りの中に生きることができる、そうして初めて真に救われるのだということを教えているのである。救いを求める者はだれでも、ヨブの人格とヨブの人生における追い求め方を見習うべきである。ヨブがその人生全てをどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったか、神を畏れ悪を避ける道を追求する者たち全てにとって、それは大切な宝である。
もしわたしが今ヨブを愛すべき人間だと言ったなら、あなたはその意味を理解することはできず、わたしの言葉の背後にある感情も理解できないかもしれない。だがもしヨブと全く同じ試練かそれに似た試練をあなたが経験し、逆境に直面し、神があなたのためだけに用意した試練を通り、その試練のただ中にあってあなたのすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、サタンに勝利して神の証しとなることがあれば、その時にはわたしの言う意味がよく分かるはずである。あなたはヨブよりもはるかに劣っており、ヨブが愛すべき人物で、見習うべき人物だと感じるだろう。その時になれば、ヨブが語ったこの言葉が今の時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要であり、ヨブの成したことが今日の人間にとってどれほど達成が困難であるかが分かるだろう。ヨブと同じことを達成することの難しさを感じることが出来たならば、神がどれほど心配するか、そしてそのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、人間のために神がしたこと、費やしたものの尊さを理解するだろう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正しい理解と評価が得られたであろうか。あなたにはヨブは真に完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると映るだろうか。ほとんどの人が、もちろんそのように映っていると言うことを信じている。ヨブの行動やヨブが示したことは、人間にとってもサタンにとっても否定できない事柄だからである。ヨブがサタンに勝利したことをそのような事柄は力強く証明しているのである。ヨブによるこの証しは、神に受け入れられた最初の証しである。それ故、ヨブがサタンの誘惑に勝利して神に証しを立てた時、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められた。天地創造の時からこのヨブの時代までを通じて、神が慰めを真に感じ、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、このヨブによる経験が初めてである。この時神は、自身に対して真の証しを立てるものを初めて見ると同時に、獲得したのである。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 2」(『言葉』第2巻)より
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