日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 102
最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉…
今日の道はたやすく歩めるものではない。通るのが非常に難しい道だと言えるし、時代を通じてきわめて稀なものだった。しかし、人がその肉のみによって十分に滅ぼされうるなどとは誰が考えただろう。今日の働きは確かに、春の雨のごとく尊く、人への神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、人が神の現在の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していなければ、その尊さや価値の高さについてどうして語ることができようか。肉は人間自身には属していないので、その終着点が実際にどこにあるのか、誰もはっきりと見ることはできない。それでも創造主が被造物である人類を元の地位へと戻し、創造時の元の姿を回復させるということをよく知っておく必要がある。神は自らが人に吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して、すべてを創造主に返すのである。神は人類をすっかり造り変えて新たにし、人ではなく神の所有物である嗣業のすべてを人から取り戻して、二度とそれを人類に引き渡さない。それらはどれ一つとして、もともと人類に属していたものではないからだ。神はそのすべてを取り戻すが、それは不当な強奪ではなく、むしろ天と地を元の状態に戻し、さらに人を造り変え新たにするために行うのだ。これは人にとって理にかなった終着点だが、おそらく人々が想像するような、刑罰の後に肉が再び取り戻されるということではない。神が求めるものは滅んだ後の肉の残骸ではなく、当初神に属していた、人の元来の要素である。それゆえ神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶したりはしない。人の肉はその人の私有財産ではないからだ。それはむしろ、人類を経営する神に付属するものである。どうして神が、自らの「楽しみ」のために人の肉を絶滅させたりできようか。あなたはもう1銭の価値もない自分の肉をすべて真に放棄したのか。もし終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(このたった30%が、今日の聖霊の働きと、終わりの日における神の言葉の働きを理解することを意味する)、あなたは自分の肉、すなわち長年にわたって堕落した肉に、今日のように「仕え」、「孝行」し続けはしないだろう。人類は今やかつてないほど発展しており、今後はもう歴史の車輪のように前進し続けることはないということを、はっきりと理解すべきだ。あなたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、神が今日まで継続させてきた歴史の車輪を逆回転させる力が、どうしてあなたにあるというのか。沈黙したような終わりの日の時計の針を再び動かし、時を刻ませることがどうしてできるというのか。そんなことで、深い霧に覆われたような世界をどうして再び変えられるというのか。あなたの肉は山や川を蘇らせることができるのか。わずかな機能しか持たないあなたの肉が、あなたが憧れてきたような人間の世界を本当に回復できるのか。あなたは本当に、自分の子孫が「人間」になれるよう教育できるのか。これでわかっただろうか。あなたの肉がいったい何に属しているのか。人を救い、完全にし、造り変えようという神の元来の意図は、あなたに美しい故郷を与えたり、人の肉に安息をもたらしたりすることではなく、神の栄光と神の証しのため、将来における人のよりよい楽しみのためであり、そしてすぐに安らぎを得られるようにするためだった。ただしそれはあなたの肉のためではない。人は神の経営の元手であり、人の肉は単なる付属物にすぎないからだ。(人は霊と体の両方を持つものだが、肉はただ腐敗する物体にすぎない。それは肉が経営計画に用いられる一つの道具であることを意味している。)神が人を完全にし、完成させ、獲得することは、肉に対して剣と強打の他は何ももたらさず、さらに終わりのない苦しみ、大火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらすのだということを知らねばならない。これが人類を経営する働きの内幕であり真実である。しかし、これらはすべて人の肉に向けられたものであり、敵意の鉾先はすべて容赦なく人の肉に向けられている(人には罪がないからである)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。それは神の働きが人類だけのためではなく、計画全体のためでもあり、さらに神が人類を創造した時の元来の旨を実現するためでもあるからだ。そのため、人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練を伴い、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は極めて少ないか皆無である。ましてや神と素晴らしい時を過ごす幸せな瞬間を、肉において楽しめることなどない。肉は汚れており、それゆえ人の肉が見たり味わったりするものは神の刑罰以外の何ものでもなく、人にとっては好ましくないものであり、それはまるで正常な理知を欠いているかのようである。なぜなら神は、人に好まれず、人の背きを許さず、敵を忌み嫌う自らの義なる性質を表わすからである。神は必要なあらゆる手段を用いて自身の性質全体を公然と明らかにし、それによって六千年にわたるサタンとの戦いの働き、すなわち全人類の救いの働きと古きサタンの打倒とを終わらせるのだ。
『神の出現と働き』「人類の経営の目的」(『言葉』第1巻)より
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迷える羊の喩え マタイによる福音書18:12-14 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためより…
神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救済の働きの全段階で、人間をそ…
ヨナ書3章 時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町に…