神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか

(その3)

神が人間の結末を決定する方法とその基準

なんらかの意見をまとめたり結論を出したりする前に、まず神のあなたへの態度と神が何を考えているのかを理解するべきです。その後に自分自身の考えが正しいか否かを判断すればよいのです。誰かの結末を決定するのに、神は時間を評価の単位として用いたり、その人がどれほど苦しんだかに基づいて決めたりしたことはありません。それでは、人間の結末を決めるのに、神は何を基準として用いますか。時間に基づいて決めるというのが、人間の観念に最も合うのでしょう。また、ある時点で大いに献身し、多くを費やし、多くの代償を払い、多くの苦難を経験した人をあなたがたはよく目にします。あなたがたから見れば、彼らは神に救われることのできる人です。彼らの示すものや生き方のすべては、人間の観念において神が人間の結末を決定するのに用いる基準そのものです。あなたがたが何を信じようと、わたしはこうした例をひとつひとつ挙げません。要するに、神自身の考え方による基準でないものは、人間の想像に由来し、それはすべて人間の観念です。自分自身の観念や想像に盲目的に固執すると、結果はどうなります。その結果、あなたが神に拒まれることは明白です。その理由は、あなたは常に自分の資格を神に誇示し、神と競い、神と論争するばかりで、神の考え方を真に理解しようとせず、神の心意や人類への態度も真に理解しようとしないからです。このように続けることは、神を尊重せず、自分を何よりも尊重することです。あなたは自分自身を信じ、神を信じていません。神はそのような人間を望まず、そのような人を救うこともありません。もしも、こうした観点を捨てることができ、さらに、過去にもっていた誤った観点を改めることができ、神の要求に従って進むことができたならば、そしてその時点から神を畏れ悪を避ける道を実践し、神を万物の中で最も大いなるものとして崇め、自分自身や神を定義するのに自分の個人的想像や観点、考えを用いることなく、その代わりに、あらゆる面において神の心意を探求し、神の人類への態度に気づき、理解し、神の基準を満たすことで神を満足させられるならば、それは素晴らしいことです。それは、あなたが神を畏れ悪を避ける道を歩み出したことを意味します。

人間の結末を決定するのに、人間の様々な思いや考え、観点を基準として神が用いないとすれば、どのような基準を用いるのですか。神は試練を使って人間の結末を決定します。試練により人間の結末を決定するのに、基準は二つあります。第一の基準は人間が経験する試練の数であり、第二はその試練により人間に現れる成果です。これら二基準が、人間の結末を決める指標です。では、この二基準を詳しく述べましょう。

まず、人が神からの試練に直面するとき(注:あなたから見れば、この試練は小さく、述べる価値もないかもしれません)、神はその人に、神の手がその人に置かれていること、その状況をその人のために手配したのが神であることを、明白に認識させます。あなたの霊的背丈がまだ未熟なら、神はあなたを試すために試練を手配し、その試練はあなたの背丈に応じたもので、あなたが理解でき、耐えられるものです。あなたのどの部分が試されますか。それは、神へのあなたの態度です。この姿勢はとても重要ですか。当然ながら重要です。極めて重要です。この人間の態度が神の望む成果ですから、神に関する限り、最も重要なものです。さもなければ、神がこのような働きのために人間に努力を費やさないでしょう。試練により、神に対するあなたの態度を神は見たいのです。あなたが正しい道を歩んでいるか否か、あなたが神を畏れ悪を避けているか否かを見たいのです。したがって、ある時点に真理をどれほど理解していようと、あなたはそれでも神の試練に直面し、あなたの真理への理解が増えるのに合わせて、神はあなたのために引き続き試練を手配します。あなたが再び試練に直面したとき、神はあなたの観点や考え、神に対する態度が前回から成長したかを見たいのです。「なぜ神は常に人間の態度を見たいのか。人間が真理をどのように実践するかを、神はすでに見たのではないのか。それでもなお、神はなぜ人間の態度を見たいのか」と思う人がいます。これは無思慮な戯言です。神がこのように働くということは、そこには神の心意があるのです。神は常に人間をそばから観察し、人間の言動のひとつひとつ、一挙手一投足を見ています。人間の思いや考えさえもすべて見ています。人間の善行や誤り、過ち、そして反逆や裏切りさえも、人間に起こるあらゆることに注目し、人間の結末を決めるための証拠とします。一歩ずつ、神の働きが高まるにつれ、あなたはさらに多くの真理を聞き、肯定的なものや情報をさらに受け入れ、真理の現実性をさらに得ます。この過程において、神の人間に対する要求もまた増加しますが、それと同時に、神はあなたのためにさらに深刻な試練を手配します。神の目的は、あなたの神への態度がその間に進歩したかどうかを調べることです。もちろん、これが起こるとき、神があなたに要求する観点は、あなたの真理現実の理解に符合します。

あなたの霊的背丈が徐々に伸びるにつれ、神があなたに要求する基準も高くなります。あなたが未熟なうちは、神はあなたにとても低い基準を満たすように設定し、背丈が少し伸びると、神は基準を少し高くします。では、あなたがあらゆる真理を理解したとき、神はどうするでしょうか。神はあなたをさらに大きな試練に直面させます。これらの試練で神があなたから得たいもの、あなたにおいて見たいものは、あなたの神についての認識が深化していることと、神への真の畏れです。このとき、神のあなたに対する要求は、背丈が未熟だった頃よりも高く、「厳しく」なります(注:人間はそれを厳しいと捉えますが、神はそれを妥当とみなします)。人間を試しているとき、神はどのような現実を造りたいのですか。神は人間が心を神に捧げることを常に求めています。「どのようにして心を捧げるのか。わたしは本分を尽くした。家も生活も捨て、神のため費やしている。これはどれも心を神に与えたことの具体例ではないか。ほかに、どのようにして心を神に捧げられるのか。そうしたことは実は心を神に捧げることではなかったというのか。神の具体的な要求とは何なのか」と言う人がいます。その要求はいたって簡潔です。事実、試練の様々な段階において、程度は違えど、すでに神に心を捧げた人がいます。しかし、大部分の人は決して神に心を捧げません。神があなたを試すとき、神はあなたの心が神と共にあるか、肉と共にあるか、サタンと共にあるかを見ています。神があなたに試練を与えるとき、神はあなたが神に敵対しているか否か、神と融和しているか否か、あなたの心が神と同じ側にあるか否かを見ています。あなたが未熟で試練を受けるとき、あなたは自信がなく、神の心意を満足させるために何をするべきであるかが正確に把握できません。あなたの真理の認識が不十分だからです。それでもなお、心から誠実に神に祈り、率先して神に心を渡し、神をあなたの主とし、最も貴重だと思うものをすべて神に捧げることができれば、あなたはすでに心を神に捧げています。あなたが一層多くの説教を聞き、真理をさらに理解するようになるにつれて、あなたの霊的背丈は次第に伸びます。このとき、神の要求する基準は、あなたが未熟だったときとは異なり、神はそれよりも高い基準をあなたに要求します。人間の心が神に次第に捧げられるにつれて、その心は次第に神へと近づいていきます。人間が真に神のもとへ近づくにつれて、人間の心はさらに神を畏れます。神が欲しいのは、このような心です。

誰かの心を手に入れたいとき、神はその人に無数の試練を経験させます。試練の最中に、神がこの人の心を手に入れず、その人が何らかの態度があることを確認できない、すなわち、その人が神への畏れを示すように実践し、ふるまうのを見ることがなく、またその人に悪を避ける態度や決意を見なかったならば、幾つもの試練の後、神のこの人への忍耐はなくなり、その人をこれ以上容赦しなくなります。神はその人をこれ以上試すことはなくなり、その人に働きを行ないません。では、それはこの人の結末について何を意味しますか。その人には結末がないことを意味します。この人は悪業を働いたことがないかもしれません。破壊的なことをしたり何かを妨害したりしたことがないかもしれません。公然と神に反抗したこともないかもしれません。しかし、この人の心は神から隠されたままです。神に対して明確な態度や観点を持ったことがなく、その人の心が神に捧げられたことや、その人が神を畏れ悪を避けようとしていることが神に明確に見えません。神はこのような人への忍耐を失くし、その人のために代償を払わなくなり、その人に余計に憐れみをかけることがなくなり、その人に働かなくなります。このような人の神への信仰生活はすでに終わっています。なぜなら、神がその人に与えた数々の試練から神は望み通りの結果を得なかったからです。このように、聖霊に啓かれ、照らされていることがわたしには確認できなかった人が多数います。どうすればそれが確認できるのですか。このような人は長年にわたって神を信仰してきており、表面的には活発であったかもしれません。多くの書物を読み、多くの事柄に対処し、十冊以上のノートに書き込み、大量の字句や教義を習得してきたかもしれません。しかし、その人にはまったく成長が見られず、神への観点も態度も不明瞭なままです。つまり、心が見えないのです。心は常に包み隠され、封じ込められています。神に対して閉じられているのです。そのため、神はその人の真の心を見たことがなく、その人における神への真の畏れ、さらには、その人がどのように神の道を歩むかも見たことがありません。神がそうした人を今までに得られなかったとしたら、将来に得られますか。得られません。神は得られないものを得ようとひたすら努力しますか。しません。それでは、そうした人に神は現在どのような態度を取っていますか。(神様はその人を拒絶し、無視なさいます。)神はその人を無視します。神はそのような人を気に留めず、拒絶します。あなたがたはこの言葉を迅速かつ正確に記憶しました。聞いたことを理解したようです。

神に付き従い始めたときに未熟で無知であり、神の心意を理解しておらず、神を信仰するということが何かを知らない人がいます。このような人は、神を信仰し神に付き従う方法として、人間が考案した誤った方法を採ります。試練に遭遇しても、それに気付かず、神による導きと啓きに鈍感なままです。自分の心を神に捧げることや、試練にしっかり耐えるということが何を意味するのかを知りません。神はこのような人に限られた時間を与え、そのあいだに、神の試練とは何か、また神の意図は何かを理解させます。その後、その人は自分の考え方を表明しなければなりません。この段階にある人を、神は待っているのです。では、何らかの観点をもちながらいまだにためらい、神に心を捧げたいが十分納得していないためにそうすることができず、基本的な真理を実践してきたものの、大きな試練に遭遇すると、隠れて諦めようとする人について、神の態度はどのようなものですか。神は、このような人に依然として一抹の期待をかけていて、結果はその人の態度と行動に左右されます。もし人が精力的に進歩していなければ、神はどうしますか。神はその人のことを諦めます。なぜなら、神があなたを諦める前に、すでにあなたが自分のことを諦めているからです。したがって、神がこうすることを咎めることはできません。これは公平ではありませんか。(公平です。)

ある実際的な質問が人に様々な困惑をきたす

最も悲惨な結末を迎える別の種類の人がいます。こういう人について話をするのは、わたしは一番気が進みません。この種の人が悲惨なのは、神の罰を受けているからでも、神のその人への要求が過酷で、それゆえ悲惨な結末を迎えるからでもありません。むしろ、悲惨なのは、自業自得だからです、いわゆる、自分の墓穴を掘っているのです。これはどのような種類の人ですか。このような人は正しい道を歩まず、その結末は事前に明示されています。神にとっては、彼らは嫌悪の最大の対象です。人間としては、彼らは最も悲惨です。彼らが神に付き従い始めたときは、極めて熱心で、多くの代償を払い、神の働きの見通しについて好ましい意見を持ち、自分の将来については想像に満ちあふれています。また、ことさらに神について確信し、神は人間を完全にして、栄光の終着点を人間にもたらすことができると信じています。しかし、どういう訳か、彼らは神の働きの最中に逃げ出してしまうのです。ここでの「逃げ出す」とはどういう意味ですか。それは、その人が別れの挨拶もせず、音もたてずに消え失せてしまうことです。一言も言わずに立ち去るのです。彼らは自分が神を信仰しているとは言いますが、信仰の道に根を張ることはありません。したがって、何年間信仰してきたとしても、神から離れていくことができてしまいます。事業を始めるために去る人もいれば、自分の人生を送るために去る人や、富を得るために去る人、結婚して子をもうけるために去る人もいます……。こうした去った人の中には、後に良心の呵責にさいなまれて戻りたいと思う人や、上手くいかずに世の中を何年も流浪する人がいます。流浪者は多くの苦難を経験し、この世に存在することは耐えがたい苦痛であり、神から離れられないと考えます。流浪者は神の家に戻って安らぎと平和、喜びを得たいと、災いを避けるため、または救いと美しい終着点を得るために、神を信仰し続けたいと願います。なぜなら、彼らは神の愛が無制限であり、神の恵みは尽きることがないものだと考えているからです。誰かが何をしようとも、神はその人を赦し、その過去について寛容であるはずだと考えています。彼らは、戻って本分を尽くしたいと何度も言います。そうすることで神の家に戻れれば、と願って、自分の所持品の一部を教会に渡す人もいます。彼らに神はどのような態度を取りますか。神は彼らの結末をどのように決めるべきですか。自由に発言しなさい。(神様はそのような人でも受け入れられると考えていましたが、今の話を聞いて、神様はそうはなさらないかもしれないと思います。)その理由は何ですか。(そのような人は、死が結末にならないように神様の前に行きます。心からの誠意で信じるようになるのではありません。神様の働きが間もなく終わることを知っているので、神様の前に出て祝福を受けられるという妄想を抱いています。)彼らは神を誠実に信仰していないので、神は彼らを受け入れることができない、と言っているのですか。(はい。)(わたしの理解では、そういうのはただの日和見主義者であり、真に神様を信じていません。)彼らは神を信仰するために来たのではなく、日和見主義者である。よい発言です。このような日和見主義者は誰もが嫌う種類の人間です。日和見主義者は風が吹くならどの方向にでも行く船であり、見返りがなければ何もしようとしません。当然、見下すべき者です。他の兄弟姉妹も意見がありますか。(神様はそうした人をお受け入れにはなりません。なぜなら、神様の働きは終わろうとしており、人の結末が決定されるのは今だからです。こういう時こそ、そういう人は戻ってきたいのです。実際に真理を追求したいからではなく、災いが降るのを見たから、あるいは外的要因に影響されたからです。彼らに真理を追い求めるつもりが本当にあったら、神様の働きの途中で逃げ出したりしなかったはずです。)他に意見はありますか。(彼らは受け入れられません。神様は実際に彼らに機会を与えられましたが、彼らは神様に不注意な態度を取り続けました。彼らの意図が何であれ、また本当に悔い改めたとしても、神様はやはり彼らが戻るのをお許しになりません。なぜなら、神様は彼らに多くの機会を与えられたにもかかわらず、彼らはすでに自分の態度を表明しているからです。つまり、神様のもとを去りたかったのです。したがって、彼らが今になって戻ってきても、神様はお受け入れになりません。)(わたしも神様はそうした人をお受け入れにならないと思います。なぜなら、人が真の道を見、長期間にわたって神様の働きを経験してなお、俗世界とサタンの懐に戻れるならば、それは神様に対する大いなる裏切りです。神様の本質は憐れみと愛であるものの、そのような本質がどのような人に向けられているかによります。安らぎと望みをかけられる何かを求めて神様の前に来た人であれば、神を誠実に信仰しておらず、その人への神様の憐れみも、それに相応するものとなります。)神の本質が憐れみであるのなら、なぜ神はそのような人に少し憐れみを与えないのですか。少し憐れみが与えられれば、その人は機会を得ることになりませんか。以前は、神はあらゆる人を救うことを望み、誰ひとりとして永遠に滅ぶことを望まない、と言われていました。百匹の羊のうち、一匹が迷えば、神は九十九匹の羊を残し、迷った羊を捜しに出かける、と。現在、こうした人について、その真の信仰のために、神はその人を受け入れ、もう一度機会を与えるべきですか。これは実は難しい問題ではなく、極めて簡単です。あなたがたが神を真に理解し、神に関する真の認識があるならば、大した説明も、推量も不要です。あなたがたの答えは正しい軌道にありますが、やはり神の姿勢には達していません。

たった今、あなたがたのなかに、神はそうした人を受け入れるはずがないという確信を表明した人がいました。その他の人はそれほど確信がなく、神は受け入れるかもしれないし、受け入れないかもしれないと考えています。この態度は比較的中庸です。また、神が彼らを受け入れることを願う、という観点の人もいました。この姿勢は曖昧です。自分の考えに確信のある人は、神は現在まで長く働いてきて、その働きは完了したので、神はそうした人に対して寛容である必要がなくなったので、彼らは戻ることを許されない、と考えています。中庸な考えの人は、一人ひとりの状況にしたがって対処すべきであると考えています。彼らの心が神から離すことができず、彼らがいまだ神を真に信仰し、真理を追い求めているならば、神は彼らの過去の弱さ、過ちを忘れ、彼らを赦し、もう一度機会を与え、神の家に戻り、神の救いを受けることを許可するはずだと考えています。しかし、彼らが後に再び逃げ去るならば、神は彼らをもはや欲せず、彼らを捨てても、それは不正とはみなせない、と考えています。それ以外に、神が彼らを受け入れることを願う人たちもいます。この人たちは、神が実際にどうするのかはよく知りません。もしこの人たちが神は彼らを受け入れるべきであると考え、神が実際にそうしなければ、この意見は神の観点に完全に準拠していないことになります。また、この人たちが神が彼らを受け入れるべきでないと考えるのに、神が人間への神の愛は無限であり、彼らにもう一度機会を与えてもよいと言ったとしたら、それは人間の無知が白日の下に晒されたことになりませんか。いずれにせよ、あなたがたには、それぞれ自分の意見があります。そうした意見はあなたがたの思想内にある認識であり、真理や神の心意をあなたがたがどれほど深く理解しているかの反映でもあります。このように言うのが正しいです。違いますか。この件についてあなたがたが意見を持っているのは、素晴らしいことです。しかし、あなたがたの意見が正しいか否かという疑問が残ります。あなたがたはみな、多少心配しています。違いますか。「それでは何が正しいのか。よくわからないし、神が何を考えているのか正確にはわからない。神はわたしに何も言ってくれない。どうすれば神が何を考えているのか知ることができるのか。人間に対する神の態度は愛だ。今までの神の態度によれば、神はこのような人を受け入れるに違いない。しかし、現在の神の態度についてはよくわからない。神はその人を受け入れるかもしれないし、受け入れないかもしれない、としか言えない」。これは笑えます。違いますか。あなたがたは、この問題のせいで本当に困惑しています。この問題について適切な意見がなければ、教会がこのような人と実際に直面したら、どうするのですか。この状況を適切に対処しなければ、神の怒りを買うかもしれません。これは危険なことではないですか。

わたしがたった今話したことについて、わたしがあなたがたの意見を聞きたかったのはなぜですか。わたしはあなたがたの観点を試し、あなたがたの神についての認識がどれほどのもので、神の心意や態度をどれほど理解しているかを試したかったのです。その答えは何と出たでしょうか。答えは、あなたがたの観点そのものです。あなたがたの中には、とても保守的な人も、想像で推測している人もいます。「推測」とは、何ですか。それは、神がどう考えるかを識別することができないので、神が何を考えているかについて根拠のないことを思いつくことです。自分の推測が正しいか誤りかを実際には知らないので、曖昧な意見を述べるのです。この事実から、何がわかりますか。神に付き従うとき、人間はめったに神の心意や、神の思いや神の人間に対する態度に留意しないということです。人間は神の思いを理解していないので、神の意図や性質について質問をされると、混乱します。深い不信に陥り、推測したり予想したりするのです。これはどういう姿勢ですか。それは、神を信仰する大部分の人は、神を中身のない空気のようなもの、ある瞬間には存在しているが、次の瞬間には存在していないようなものとみなしているという事実を証明しています。なぜわたしはこのように表現するのですか。それは、問題に遭遇するたびに、あなたがたは神の心意を知らないからです。なぜ神の心意を知らないのです。現在知らないだけでなく、最初から最後まで、この問題に対する神の態度を知りません。神の姿勢が見えず、わからないのですが、それについてしっかり考えたことがあるのですか。知ろうとしたことがあるのですか。それについて話し合ったことがあるのですか。ありません。これにより、あなたが信仰する神と、現実の神とは無関係であるという事実が裏付けられます。神への信仰において、あなたは自分や自分の指導者の意図しか考えず、神の言葉の表面的かつ教義的な意味しか考えず、神の心を真剣に知ろうとしたり、求めたりすることはありません。これが現状ではありませんか。この問題の本質はかなり酷いです。長年にわたり、わたしは神を信じる大勢の人と会ってきました。彼らはその信仰ゆえに、頭の中で神をどのように変えてしまいましたか。神を中身のない空気のような存在として信仰する人がいます。彼らは、神の存在に関する疑問に答えられません。なぜなら、神の存在も不在も感じることも意識することもできず、ましてやはっきりと見ることも理解することもできないからです。意識下では、神は存在しないと考えているのです。一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人もいます。彼らは、自分たちにできないことは神にもできず、神は自分たちと同様に考えているに違いない、と信じています。彼らによる神の定義は「目に見えず、触れることのできない人」です。操り人形であるかのように神を信仰する人もいます。彼らは、神には感情がなく、神は粘土の彫像であり、問題に直面しても、神にはどのような態度も、観点も思想もなく、人間の思うままであると信じています。人間は単に自分の好き勝手に信仰しているだけです。人が神を偉大にすれば、神は偉大であり、小さくすれば、神は小さくなります。人間が罪を犯して神の憐れみや寛容、愛が必要なとき、神は慈しみを与えなくてはなりません。人は自分の頭の中に「神」を作り、その神に自分の要求や願望をすべて満たさせます。時や場所、人が何をしているかを問わず、自分の妄想を、神の扱いや神への信仰にあてはめます。自分で神の性質を侵害しておきながらも、神は自分を救うことができるとそれでも信じている人さえいます。その人が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていないと思い込んでいるからです。人間の欠点や過ち、不従順は、人の性質の一時的な表面化で、神は人に機会を与え、寛容で辛抱強いと信じているのです。神は今まで同様、人を愛すると信じています。したがって、救いへの希望は大いにもっています。事実、人が神をどのように信じようと、真理を追い求めていない限り、神はその人に否定的態度を取ります。それは、神への信仰において、神の言葉が記された本を手に取り、それを宝とみなし、毎日読んで勉強しても、真の神を無視しているからです。神をただの空気や普通の人間とみなし、人によっては操り人形のようにみなしているからです。なぜわたしはこのように表現するのですか。それは、わたしの見る限り、あなたがたが問題に遭遇しようと、難しい状況に直面しようと、あなたの意識下にあり、内部に形成されるものは、神の言葉や真理の追求と一切関係がないからです。あなたが知っているのは、自分が何を考えているか、自分の観点は何かであり、自分の考えや観点を神に強制しているのです。人の考えでは、それが神の観点となり、そうした観点を自分が絶対に守る基準とするのです。このまま行くと、時間と共に、あなたは神からどんどん遠ざかって行きます。

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