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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神が人間の結末を決定する方法とその基準

あなたは、自分自身の意見をまとめたり結論を出したりする前に、まず神のあなたに対する姿勢と神の考えを理解し、その後に自分自身の考えが正しいかどうかを判断する必要がある。神は、ある者の結末を決定する際に、時間の単位を用いたり、その者が経験した苦難の量を用いたりしたことは無い。それでは、人間の結末を決める際に神は何を用いるであろうか。時間の単位を用いて、ある者の結末を決めるというのは、人間の概念に最も合うものであろう。また、あなた方が頻繁に見かける者として、ある時には大いに献身的であり、多くの時間を費やし、多くの代償を払い、多くの苦難を経験する者もいる。あなた方の見地では、こうした者は神に救われる可能性のある者である。神が人間の結末を決定する際に用いる基準に関する人間の概念は、まさにこうした人々が示す事柄や生き方である。あなたが何を信じるかを問わず、わたしはこうした例を全て挙げない。要するに、それが神自身の考え方による基準でない限り、それは人間の想像に由来し、またそれは全て人間の考えである。自分自身の考えや想像に、盲目的に固執すると、最終的にどのような結果となるであろうか。自明であるが、その結果は、あなたが神に拒まれること以外に有り得ない。その理由は、あなたが常に自分の能力を神に誇示し、神と競い、神と争うばかりで、神の考え方を真に理解しようとせず、神の趣意や人間に対する姿勢を真に理解しようとしないからである。このような事を続けるということは、神を尊重せず、自分を何よりも尊重するということである。あなたは自分自身を信じ、神を信じていない。神は、そうした人間を望まず、神がそのような人間を救うことも無い。もしあなたがこうした観点を捨てることができ、そうした過去の誤った観点を改めることができたならば、そして神の要求に従って行動できたならば、神を畏れ、悪を避ける道の実行を開始し、神をあらゆる物事の中で最も大いなるものとして崇め、自分自身や神を定義する際に、自分の個人的想像や観点、考えを用いないこと。その代わりに、あらゆる面において神の趣意を探求し、神の人間に対する姿勢を認識し、また理解し、神の基準を用いて神に満足してもらえるならば、それは素晴らしいことである。それは、あなたが神を畏れ悪を避ける道を歩み出したことを意味する。

人間の結末を決定する際に、神は、人間がどのように考えるか、人間の考え方や観点をその基準として用いないとすれば、神はどのような基準を用いるであろうか。神は試練を使って人間の結末を決定する。試練の使用により人間の結末を決定する際の基準は、2つある。第1の基準は人間が経験する試練の数であり、第2の基準はその試練における人間の成果である。これら2つの基準が、人間の結末を決める指標である。ここでは、その2つの基準について詳述する。

まず、あなたが神の試練に直面するとき (注:あなたの観点では、この試練が小規模であり、述べる価値が無いと思われることもある)、神はあなたに対し、それが神の手であること、そしてその状況をあなたのために計画したのが神であることを、明白に認識させる。あなたの背丈が未熟な場合、神はあなたを試すために試練を計画する。これらの試練は、あなたの背丈に応じたもので、あなたが理解可能であり、耐えられるものである。あなたのどの部分が試されるのであろうか。それは、神に対するあなたの姿勢である。この姿勢は極めて重要であるか、というと、当然ながら、重要である。極めて重要である。なぜなら、この人間の姿勢が、神の望む成果であり、神にとって最も重要なものである。さもなければ、神が人間に対する取り組みとして、こうした業を行わないであろう。神は、これらの試練により、神に対するあなたの姿勢、あなたが正しい道を歩んでいるか、あなたが神を畏れ、悪を避けているかを確認することを望んでいる。したがって、その時点においてあなたの真理に関する理解が深いか浅いかを問わず、あなたは神の試練に遭遇し、あなたの真理に関する理解が深まるのに合わせて、神はあなたのために、引き続きそれに応じた試練を計画する。あなたが再び試練に直面した時は、神はあなたの観点や考え、神に対する姿勢が一定期間後に向上しているかを確認することを望む。一部の人々は、「神が常に人間の姿勢を確認したいのは何故だろうか。人間が真理をどのように実行するかを、神は既に見たのではないのか。それでもなお、神が人間の姿勢を確認したいのは何故だろうか。」と言う。これは無思慮な戯言である。神がそのような手順を採るということは、その手順には神の趣意があるということである。神は常に人間を人間の立場から観察し、人間の言動、ひとつひとつの行動や動き、さらには考えや意図などのすべてを見ている。人間の善行や誤り、過ち、反逆や裏切りなど、人間に発生する全ての物事を、人間の結末を決める時の証拠として、神は記録する。神の業が段階的に進められるようにつれ、あなたは一層多くの真理を聞き、肯定的なものや情報、真理の現実を一層多く受け入れる。この手順の過程において、神の人間に対する要求もまた増加する。同時に、神はあなたのために、以前よりも大きな試練を計画する。神の目的は、あなたの神に対する姿勢が、その間に成熟したかどうかを調べることである。無論、この間に神があなたに要求する視点は、あなたの真理に関する現実の理解に準拠するものである。

あなたの背丈が徐々に増加するにつれ、神があなたに要求する基準も高くなる。あなたが未熟な時、神はあなたに極めて低い基準を与え、あなたの背丈がそれより多少大きい場合、神は少し高い基準を与える。しかし、あなたが全ての真理を理解した後、神はどうするであろうか。神はあなたを、さらに大規模な試練に直面させるであろう。これらの試練で神が得たい物事や見たい物事は、あなたの神に関する認識の深化と真の畏れである。この時、神のあなたに対する要求は、あなたの背丈が未熟だった時よりも高く、そして「厳しく」なる。(注:人間はそれを厳しいと捉えるが、神はそれを妥当であるとみなしている。)神が人間に試練を与える時、神が造りたい現実は、どのようなものであろうか。神は、人間に対して自分の心を神に渡すよう、常に求めている。一部の人々は「どのようにして心を渡すのだろうか。私は本分を尽くし、自宅や生活を捨て、神のため費やしている。そうしたことは、自分の心を神に渡す例ではないか。そのほかに、どのようにして自分の心を神に渡すことができるだろうか。そうしたことは、自分の心を神に渡す例に該当しないことがあるだろうか。神の具体的な要求は、どのようなものだろうか」と言う。その要求は至って簡潔である。事実、自分の試練の様々な段階において、様々な程度で、既に自分の心を神に渡した者もいる。しかし、大部分の人々は、神に自分の心を渡したことが無い。神があなたに試練を与える時、神はあなたの心が神と共にあるか、肉と共にあるか、サタンと共にあるかを調べる。神があなたに試練を与える時、神はあなたが神に敵対する立場に立っているかどうか、神に味方する立場に立っているかどうか、あなたの心が神と同じ側にあるかどうかを調べる。あなたが未熟な状態で試練を受ける時、あなたの真理に関する認識は限られているため、あなたの自信は極めて少なく、神の趣意を満足させるために何をする必要があるかを、正確に把握できない。それでもなお、あなたは心から誠実に、神に対して祈り、率先して神に自分の心を渡し、神をあなたの君主とし、最も貴重だと思う物事を神に捧げることが可能である。既に自分の心を神に渡している、とは、このことを指す。あなたが一層多くの説教を聞き、一層多くの真理を理解するようになると、あなたの背丈は次第に成熟してゆく。この時に神があなたに要求する基準は、あなたが未熟だった時の基準とは異なり、神はそれよりも高い基準をあなたに要求する。人間の心が次第に神へと渡された時、その心は次第に神へと近づいて行く。人間が真に神のもとへ近付いた時、人間の心は神を益々畏れる。神は、このような心を求めている。

神がある者の心を得ることを望んだ時、神はその者に様々な試練を与える。こうした試練の最中に、神がこの者の心を得ず、神には、その者に何らかの姿勢、すなわち、その者が神を畏れつつ物事に取り組んだり、振る舞ったりすること、あるいは悪を避ける姿勢や決意が見られなかったとする。こうした場合、幾つもの試練の後、神がこの者に示した忍耐は無くなり、神はその者を容赦しなくなる。神はその者に試練を与えなくなり、その者に業を行わなくなる。その結果、この者の結末はどうなるであろうか。その者の結末は無い。この者は悪業を働いたことがないかもしれない。また、この者は妨害や破壊を働いたことがないかもしれない。また、この者は公然と神に反抗したことがないかもしれない。しかし、この者の心は、神に対して隠されている。こうした者は、神に対する明確な姿勢や観点を持ったことがないので、神はその者の心が神に渡されていることや、その者が神を畏れ悪を避けることを望んでいることが、明確に認識出来ない。神は、このような者に対して忍耐を示さなくなり、代償を払わなくなり、憐れみを与えなくなり、その者に業を行わなくなる。この者の神を信仰する生活は、既に終わっている。なぜなら、神がその者に与えた数々の試練で、神は望ましい結果を得なかったからである。このように、聖霊により照らされ、導き示されている事がわたしには確認できなかった者が、多数いる。このような状況が起こり得るのは、なぜだろうか。こうした者は、長年にわたって神を信仰してきており、表面的には極めて活発な場合もある。こうした者は多くの書物を読み、多くの事柄に対処し、多くのメモを書き記し、言葉や教義を大量に習得している。しかし、その者には全く成長が見られず、神に対する観点も、明確な姿勢も見られない。つまり、その者の心が見えない。その者の心は常に包み隠され、封じ込められている。つまり、心は神に対して封じ込められており、神はその者の真の心や、神に対する真の畏れ、さらには、その者がどのように神の道を歩んでいるかを見たことが無い。現在まで、神がそうした者を得られなかったとしたら、神は将来その者を得られるか、というと、決して得ることが出来ない。神は、得られない物事にひたすら努力するか、というと、そのようなことは無い。それでは、そうした者に対する、現在における神の姿勢は、どのようなものだろうか。(神はその者を拒否し、気に留めることが無い。)神はその者を気に留めることが無い。神はそのような者を気に留めず、拒否する。あなた方は、この言葉を迅速かつ正確に記憶した。あなた方は聞いた話を理解したようである。

神に付き従い始めた時に未熟で無知であり、神の趣意を理解しておらず、神を信仰するということが何かを知らず、神を信仰し、神に付き従う方法として、人間が考案した誤った方法を採っている者がいる。こうした者は、試練に遭遇した時、それに気付かず、神による導きと示しに鈍感である。こうした者は、自分の心を神に渡すことや、試練に耐えるということが、どのようなことであるかを知らない。神は、このような者に、限られた時間を与え、その間に、神の試練とは何か、また神の趣意とは何かを理解させる。その後、この者は自分の考え方を示す必要がある。この段階にある者に関しては、神は待つ。観点にためらいがあり不安定で、心を神に渡したいが十分納得していないために渡すことができず、基本的な真理を実行してきたものの、大きな試練に遭遇すると、それを避けて諦めたいと思うような者について、神はどのような姿勢を取るであろうか。神は、こうした者に依然として一抹の期待をかけている。結果は、その者の姿勢と行動により異なる。人間が精力的に進歩を求めていない場合、神はどのように応じるであろうか。神は諦める。なぜなら、神があなた方を諦めるまえに、既にあなた方が自分で諦めているからである。したがって、あなた方は、神が諦めるのを咎めることはできないであろう。それが公平ではなかろうか。(公平である。)

実践的質問は人々に様々な困惑をきたす

前述した種類のほか、別の種類の者として、最も悲惨な結末を迎える者がいる。こうした者について話をするのは、わたしにとって最も気が進まないことである。こうした者が悲惨なのは、その者が神の罰を受けているからでも、神のその者に対する要求が過酷だからでも、悲惨な結末を迎えるからでもない。むしろ、その者が悲惨なのは、その結末が、その者の自業自得であり、いわゆる墓穴を掘っているからである。これはどのような種類の者であろうか。この者は正しい道を歩まず、かつその結末は事前に明示されている。神はそうした人々を、嫌悪の対象として最も相応しい者とみなす。よく言われるように、こうした者は最も悲惨である。こうした者は、神に付き従い始めた時は極めて熱心であり、多くの代償を払い、神の業の見通しについて好ましい意見を持っており、自分の将来について想像に満ちあふれ、ことさらに神について確信し、神は人間を全き存在とする、人間を栄光の道へと導くことが出来ると信じている。しかし、何故か、こうした者は、神の業の最中に、逃げ出してしまう。その者が逃げ出すとは、どのような意味であろうか。それは、その者が別れの挨拶もせずに消え失せてしまうということである。その者は無言で立ち去る。こうした者は、自分が神を信仰していると主張するが、神の信仰の道が定着していることは決して無い。したがって、こうした者は、何年信仰しても、神から立ち去ることがある。事業を始めるために去る者もいれば、自分の人生を送るために去る者や、富を得るために去る者、結婚して子をもうけるために去る者もいる。こうした去った者の中には、良心の呵責で戻りたいと思う者と、上手くいかずに世界を何年も流浪する者がいる。こうした流浪者は多くの苦難を経験し、この世界に存在することが耐えがたい苦痛であり、神から離れることは不可能であると考えている。こうした流浪者は神の家に戻って安らぎと平和、喜びを得ることを願い、災いを避けるためまたは救われて美しい終着点を得るために、神を信仰し続けたいと願う。なぜなら、そうした人々は、神の愛が無制限であり、神の恵みは尽きること無く、使い果たすことが出来ないものだと考えているからである。そうした人々は、誰が何をしたとしても、神はその誰かを赦し、その者の過去に対して寛容であるはずだと考えている。そうした人々は、戻って本分を尽くしたいと言う。自分の所持品の一部を教会に寄付し、そうすることで教会に戻れることを願う者もいる。こうした人々に対する神の姿勢は、どのようなものであろうか。神は、こうした人々の結末をどのようにして決めるであろうか。自由に発言して欲しい。(神はこうした者が戻ることを認めると考えていたが、今の話を聞いて、戻ることを許さないかも知れないと思う。)その理由は何であろうか。(こうした者は、死の結末を避けるために神の前に来る。こうした者は心からの誠意で戻ったのでは無い。むしろ、こうした者は神の業が間もなく終わることを知り、祝福を与えられるという妄想を抱いて神の前に来た。)それは、こうした者が神を誠実に信仰していないので、神は戻ることを許さない、ということであろうか。そうであろうか。(その通りである。)(私は、こうした者が日和見主義者であり、神を誠実に信仰していないと考えている。)こうした者は神を信仰するために来たのではなく、日和見主義者である。素晴らしい発言である。日和見主義者は誰もが嫌う種類の者である。日和見主義者は周囲に流され、見返りが無ければ何もしようとしない。当然こうした者は見下すべき者である。その他の者は、意見があるだろうか。(神はそうした者が戻るのを認めないであろう。なぜなら、神の業は終わろうとしており、人々の結末が決定されるのは、今だからである。そうした者は、そのような状況になった今、戻りたいと思っている。戻りたい理由は、真理を追究したいと心から思っているからでは無く、そうした者が災いが降るのを見たから、あるいは外的要因に影響されたからである。こうした者に真理を本当に求める心があったとしたら、途中で逃げ出したりはしなかったはずである。)その他の意見はあるだろうか。(戻ることを許されないであろう。神はそうした者に何度も機会を与えたが、その者の神に対する姿勢は、常に神を無視することであった。その者の意図が何であるかを問わず、そうした者が本当に悔い改めたとしても、神はそうした者が戻るのを許さないであろう。なぜなら、神は既にそうした者に多くの機会を与えたにもかかわらず、その者は既に自分自身の姿勢を示すものとして、神を去りたいと思った。したがって、その者が今になって戻ってきても、神は戻ることを許さないであろう。)(私も、神はそうした者を受け入れないと思う。なぜなら、人間が真の道を理解し、それほどの長期間にわたって神の業を経験してなお、サタンを信奉する世界に戻ったならば、それは神に対する大いなる裏切りである。神の本質は憐れみや愛であるものの、そうした憐れみや愛の対象となる者がどのような者であるかによる。その者が安らぎと望みをかけられる何かを求めて神の前に来たのであれば、その者は神を誠実に信仰する者ではなく、その者に対する神の憐れみは、それに相応するものとなる。)神の本質は憐れみであるが、それでは何故、こうした者にもう少し憐れみを与えないのであろうか。少し憐れみが与えられれば、その者には機会が与えられるのではないだろうか。以前は、神はあらゆる者を救うことを望み、誰ひとりとして滅びることを望まない、と言われていた。百匹の羊のうち、1匹が迷い出た場合、神は99匹のひつじを残し、その迷い出ている羊を捜しに出かける。現在、こうした者について、真の神への信仰のため、神はそうした者を受け入れ、もう一度機会を与えるべきであろうか。これは難しい問題ではなく、極めて平易であり、簡明である。あなた方が神を真に理解し、神に関する真の認識があるならば、それほど多くの説明も、推量も不要であろう。あなた方の答えの考え方は正しいが、答えと神の姿勢には依然として差がある。

あなた方のなかに、神はそうした者が戻るのを許さないと確信している、と答えた者がいた。その他の者は、それほど確信が無く、神は許すかもしれず、また許さないかも知れないと考えている。この姿勢は、比較的穏健である。また、神がそうした者が戻るのを許すことを願う、という観点の者もいた。この姿勢は曖昧である。確信のある姿勢の者は、神が現在まで行ってきた業は完了しており、神はそうした流浪者に対して寛容である必要がなく、こうした流浪者は戻ることを許されない、と考えている。穏健な者は、この問題はその流浪者の状況にしたがって対処すべきであると考えている。すなわち、その流浪者の心が神から切り離すことが出来ないものであり、その流浪者が神を真に信仰し、真理を求めるものであるならば、神はその流浪者の過去や、従前の弱さ、過ちを覚えていないはずで、神はその流浪者を赦し、もう一度機会を与え、神の家に戻し、神の救いを与えるはずだと考えている。しかし、この流浪者が再び逃げ去った場合、神はこの者を求めなくなり、それはこの流浪者に対する不正であるとは考えられない、と考えている。それ以外に、神がその流浪者が戻るのを許すことを願う人々もいる。この人々は、神がその流浪者が戻るのを許すかどうかを明確に知らない。神がその流浪者が戻るのを許すべきであると考えているが、神がその流浪者が戻るのを許さなかった場合、この意見の人々は、神の観点に準拠していない部分が多少あると考えられる。こうした人々が、神がそうした流浪者が戻るのを許すべきで無いと考えていて、神が、人間への神の愛は無限であり、その者にもう一度機会を与えたいと述べたとしたら、それは人間の無知さが白日の下に晒された例ではなかろうか。いずれにせよ、あなた方には、それぞれ自分の意見がある。そうした観点は自分自身の意見の認識であり、真理や神の趣意に関する自分の理解の深さが反映されたものである。これが的確な言い方であろう。この件について、あなた方が自分の意見を持っているというのは、素晴らしい事である。しかし、あなた方の意見が正しいかどうかについては、疑問が残る。あなた方は、多少不安ではなかろうか。「それでは何が正しいのだろうか。明確に分からないし、神が正確にはどうお考えかを知らない。神は私に何も述べられていない。どうすれば、神が考えられている物事を知ることが出来るだろうか。人間に対する神の姿勢は、愛である。今までの神の姿勢によれば、神はこの流浪者が戻るのを許されるに違いない。しかし、現在の神の姿勢については、明確に知らない。神はその者が戻るのを許されるかもしれないし、許されないかもしれない、としか言えない。」これは不条理ではないか。あなた方は、この問題に極めて困惑している。この問題について、適切な意見が無いのであれば、あなた方の教会でこのような流浪者に対処する場合、あなた方はどうするであろうか。この問題に適切に対処しなければ、恐らく神の怒りを買うだろう。これは危険な問題ではないだろうか。

わたしが話をしている問題について、わたしは何故、あなた方の意見を聞きたいのだろうか。わたしは、あなた方の観点を試し、あなた方の神に関する認識がどれほどかを試し、神の趣意や神の姿勢に関する、あなた方の理解がどれほどかを試したいと考えているからである。その答えは何であろうか。その答えは、あなた方の観点にある。あなた方の中には、極めて保守的な者や、想像で推測している者がいる。「推測」とは、何であろうか。推測とは、神がどう考えるかに関して全く知らないので、神がこう考えているであろう、ああ考えているだろうといった事に関する根拠の無いことを思いつくことである。あなた方は、自分の推測が正しいか、誤りかを実際には知らないので、曖昧な意見を述べる。この事実から、何が分かるであろうか。神に付き従う時、人間は、神の趣意を配慮したり、神の考えや神の人間に対する姿勢に留意したりすることが、ほぼ無い。あなた方は神の考えを理解していないので、神の趣意や性質に関する質問をされると、混乱し、確信するのが極めて困難になり、推測したり予想したりする。その姿勢は何を意味するであろうか。その姿勢は、神を信仰する者の大部分は、神を空気のような不明瞭なものとみなしているという事実を証明するものである。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、毎回あなた方が問題に遭遇する時、あなた方は神の趣意を知らないからである。あなた方がそれを知らないのは何故だろうか。あなた方がそれを知らないのは、現在に限らない。あなた方は、最初から最後まで、こうした問題に対する神の姿勢を知らない。あなたは、神の姿勢が見えず、分からない時、それについて考えたことがあるであろうか。それを模索したことがあるであろうか。それを伝えたことがあるであろうか。そのようなことは無い。これにより、あなたが信仰する神と、真の神とは、無関係であるという事実が裏付けられる。あなた方は神を信じているが、自分や、自分の主導者の意志、神の言葉の表面的かつ教義的な意味のみを考え、神の心を真剣に知ろうとしたり、求めたりすることは全く無い。これが現状ではないだろうか。この問題の本質は酷いものである。わたしは、長年にわたり、神を信仰する大勢の人々と出会って来た。こうした信仰はどのような形態であろうか。神が空気のような存在であるかのように、神を信仰する人々がいる。こうした人々は、神の存在に関する疑問に答えられない。なぜなら、こうした人々は神の存在や不在を感じる事も意識することも出来ず、ましてや神を明確に理解することなど出来ないからである。こうした人々は、無意識のうちに、神は存在しないと考えている。その一方で、神が人間であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、自分達に出来ないことが神にも出来ず、神は自分達と同様に考えているに違いない、と考えている。こうした者による神の定義は「目に見えず、触れることの出来ない人間」である。そのほかにも、神が操り人形であるかのように、神を信仰する人々もいる。こうした人々は、神には感情が無く、神は彫像であると考えている。問題が発生した場合、神はどのような姿勢も取らず、観点も意見もなく、人間の思うままである。人間は、単に自分達の好き勝手に信仰しているだけである。こうした者が神を偉大な存在とした場合、神は偉大であり、小さな存在とした場合、神は小さいものとなる。人間が罪を犯して神の慈しみや寛容、愛が必要な時、神は慈しみを与えなくてはならない。こうした人々は、自分の心で神を考え出し、その神に自分達の要求や、願望を全て満たさせる。時や場所、そうした人々が何をしているかを問わず、そうした人々は、神の扱いや神への信仰に、そうした妄想を適用する。自分が神の性質を侵害しても、神は自分達を救うことが出来ると考えている者さえいる。これは、そうした人々が、神の愛は無限であり、神の性質が義であり、人間がどれほど神の怒りを買ったとしても、神はそれを一切覚えていることが無い。人間の過失や侵害、不従順は、その者の性質の一時的な現れであるので、神は人々に対して機会を与え、寛容かつ辛抱強い。神は、そうした人々を今まで同様、愛するであろう。したがって、依然として救いの希望は大いにあると考えていることが原因である。事実、ある者が神をどのように信仰しているかを問わず、その者が真理を求めていない限り、神はその者に否定的な姿勢を取る。それは、あなたが神を信仰している時に、神の言葉が記された本を大切にし、毎日読んで研究しているものの、真の神を無視し、空気や普通の人間、あるいは操り人形のように扱っているからである。わたしがこう説明するのは何故であろうか。なぜなら、わたしの知るところによると、あなた方が問題に遭遇しているか、難しい状況に遭遇しているかを問わず、あなた方の無意識の領域にあり、あなた方の内部で形成された物事には、神の言葉や真理の追究と関連する物事が一切無いからである。あなた方が理解しているのは、自分が考えている物事や自分の観点のみであり、そうした自分の考えや観点を神に対して強制しているのである。そうした物事が神の観点とされ、遵守すべき基準とされている。このような状態を続行すると、時間と共に、あなた方は神から徐々に遠ざかって行く。

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