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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神の姿勢を理解し、神に関する誤解を全て解消すること

あなた方が現在信仰している神について、その神がどのような存在であるかを考えたことがあるであろうか。神が邪悪な者が邪悪な事をしているのを見た場合、神はそれを嫌悪するであろうか。(嫌悪される。)無知な人々の過ちを神が見た時、神の姿勢はどのようなものであろうか。(悲しみである。) 人々が捧げ物を盗むのを神が見た時、神の姿勢はどのようなものであろうか。(その人々を嫌悪される。)それは至って明白であろう。神への信仰において不注意であり、真理を全く追究していない者を神が見た場合、神の姿勢はどのようなものであろうか。あなた方は、これについて明確に理解していないであろう。不注意な姿勢は罪では無く、また神の怒りを買うものでもない。人間は、不注意が重大過失では無いものと考えている。それでは、神の姿勢はどのようなものだと思うであろうか。(神はそれに応じることを望まない。) 神はそれに応じることを望まない、というのは、どのような姿勢であろうか。神はそうした人々を見下し、さげすむということである。神はそうした人々を冷遇する。神は、こうした人々を放置し、こうした人々に対して導き示すこと、照らすこと、懲らしめること、訓練することなど、一切の業を行わない。この種の人々は、神の業の対象から除外されている。神の性質を怒らせ、神の行政命令に反する者に対し、神はどのような姿勢をとるであろうか。その姿勢は、極度の嫌悪である。神は、神の性質を侵害する者に対し、極度に怒る。「怒り」は単なる感情ないし気持ちであるので、明白な姿勢となって現れない。しかし、この感情ないし気持ちにより、その者の結末が決定される。その結末は神を極度の嫌悪で満たす。こうした極度の嫌悪の結果はどのようなものとなるであろうか。それは、神はその者を見捨て、暫くその者に応じなくなるという結果となる。神は、懲罰の期間にその者が懲らしめを受けるのを待つ。それは何を暗示するであろうか。その者には、依然として結末があるであろうか。神には、そのような者に結末をを与えるつもりが無い。したがって、現在、神がそうした者に応じないのは、普通のことではなかろうか。(その通りである。)このような者は、その場合にどのような準備をする必要があるであろうか。こうした者は、自分の態度と、邪悪な行いに起因する望ましくない結果を受ける準備をする必要がある。それが、こうした人々に対する神の姿勢である。そうしたわけで、わたしはそのような者にはっきりと言っておくが、妄想を捨て、楽観視しないようにすること。神は、人間に対して無限に寛容ではなく、また人間の侵害や犯行を無限に堪え忍ぶことは無い。一部の人々は「自分もそうした人々を知っている。そうした人々は、祈りを捧げる時、ことさらに神に感激し、大いに涙を流す。通常、そうした人々は極めて機嫌が良く、そうした人々には神の存在や導きが与えられていると思われる」と言う。そのような戯言を言わないように。大いに涙を流しているのは、必ずしも神に感激することでも、神が存在することでも無く、ましてや神の導きでは無い。神に対して人間が怒りを買った場合、それでも神は人間を導くであろうか。要するに、ある者を神が排除し、見捨てることに決定した場合、その者には既に結末が無い。その者が祈りを捧げている時にどれほど自己満足しているか、その者の心にある神にどれほど確信があるかは、無関係であり、既に重要ではなくなっている。重要な事は、神にはそのような確信は無用で、神が既にその者を拒否したということである。その後に、その者をどのように取り扱うかも、重要では無い。重要な事は、この者が神の怒りを買った時、その者の結末は既に決定されている、ということである。神がそうした者を救わないと決定した場合、そうした者は置き去りにされ、罰せられる。それが神の姿勢である。

愛は神の本質の一部であり、また神は全ての人間に憐れみを与えるが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまう。神に愛があることは、人間が自由に神に反することが可能であり、神には感情も反応も無い、ということではない。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則が無い、ということではない。神は生きており、現実に存在する。神は想像上の操り人形などでは無い。神は存在するので、人間は神の心の言葉を注意して聞き、神の姿勢に注意し、神の感情を理解する必要がある。人間は、人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したり、神に人間の流儀で人間の取り扱いかたを考えさせたりしてはならない。そのようなことをするというのは、あなた方は神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の威厳を挑発しているに等しい。したがって、あなた方がこの問題の重要性を理解した後は、あなた方全員が自分の行動に注意し、用心することを勧める。自分の言葉に注意し、用心すること。あなた方が神をどのように取り扱うかについて、注意し、用心すればするほど良い。神の姿勢が分からない場合、不注意に発言したり、行動したり、レッテルを貼ったりしないこと。更に、みだりに結論を出さず、待つことと求めることが必要である。それもまた、神を畏れ、悪を避けることの現れである。あなたが、まずその点を実現し、そうした姿勢を取ることが出来れば、神はあなたの愚かさや無知さ、不合理さを咎めることは無いであろう。むしろ、神の怒りを買う事に対するあなたの畏れ、神の趣意に対するあなたの敬い、喜んで神に服従しようとするあなたの気持ちのおかげで、神はあなたに留意し、あなたを導き示し、あるいはあなたの未熟さと無知さに寛容になるであろう。それに対し、あなた方の神に対する姿勢が不適切である場合、すなわち勝手に神を裁いたり、神の意味を推測したり定義したりした場合、神はあなた方に有罪判決を下し、鍛錬、そして懲罰さえも与え、あるいは声明を与えるであろう。おそらく、この咎めには、あなたの結末が含まれているであろう。したがって、ここにいるあなた方全員に対して、この点をもう一度強調するが、神に由来する物事全てについて、注意し、用心するよう伝える。不注意な行動や言動は避けること。あなたは、発言する前に、この行動は神の怒りを買うであろうか、これは、神を畏れているであろうか、と考える必要がある。たとえ単純な事柄であっても、こうした疑問を検討し、考慮する必要がある。あなたが、全てのことにおいて常に、特に自分が知らない事柄に関し、あらゆる点でこうした原則に従って真に行動できるのであれば、神は常にあなたを導き、あなたに進むべき道を伝えるであろう。人間が何を表現しているかを問わず、神はそれらを全て明確にそのまま理解し、表現されたものを正確かつ適切に評価するであろう。最期の試練を経験した後、神はあなたの行動を検討し、それらを完全に概括し、あなたの結末を決定する。この結果は、あらゆる者にとって何の疑いもなく納得できるものであろう。わたしが述べたいのは、あなた方のあらゆる行動や考えが、あなた方の運命を決める、ということである。

人間の結末を決定するのは誰か

重要度が最も高い部類に入る事柄がもう一つある。それは、あなた方の神に対する姿勢である。この姿勢は極めて重要である。この姿勢により、あなた方が最終的に滅びへ向かうか、神があなた方のために計画した美しい終着点へ向かうかが決定される。神の国の時代においては、20年以上にわたり、既に神は業を行っている。その20年間において、おそらくあなた方は、自分の実績について、心中に疑問があるであろう。しかし、神の心の中では、あなた方各人について、実際に正確な記録を取っている。各人が神に付き従い、神の説教を聞き始めた時から始まり、更に真理を理解するようになり、自らの本分を果たす時まで、神はそうした各人の示した事柄全てを記録している。ある者が自分の本分を尽くした時、あるいは様々な難しい状況や試練に遭遇した時、その者の姿勢は、どのようなものであろうか。この者は、どう行動するであろうか。この者は、心の中で、神に対して、どう感じるであろうか。神は、そうしたすべてを考慮し、記録している。あなた方の立場から見ると、これらの問題は難解かも知れない。しかし、神の立場から見ると、それは全て明瞭であり、いいかげんな部分は少しも無い。これは、各人の結末や運命、将来の見通しが関係する問題である。さらに、この問題は、神が自らの献身的努力の全てが注がれる問題である。従って、神は少しも怠ることは無く、ほんの僅かな不注意も許さない。神はこの人類の調書を記録し、神に従う人間の最初の時から終わりの時に至る調書を記録している。この期間におけるあなた方の神に対する姿勢により、あなた方の運命が決定される。これは真実ではなかろうか。現在まで、あなた方は神が義であると信じているであろうか。神の業は適切であろうか。あなた方は、依然として別の姿の神を頭の中で考えているであろうか。(考えていない。) それならば、人間の結末を定めるのは、神であろうか、それとも人間自身であろうか。(神が定められるものである。) 誰が結末を定めるであろうか。(神である。) あなた方は、そのことを確信しているであろうか。香港の教会の兄弟姉妹の意見を聞こう。それを定めるのは誰であろうか。(それは人間自身が定める。)それは人間自身が定めるというのか。それは、人間の結末が神と無関係だということではなかろうか。韓国の教会の方々の意見を聞こう。(人間の結末は、人間の行動全てと、歩んで来た道に基づいて神が定められる。) それは非常に客観的な答えである。ここで、あなた方全員に伝えなければならないことがある。それは、神の救いの業の過程において、神は人間に対して基準を設定する。この基準とは、人間が神の言葉に従い、神の道を歩むことである。人間の結末を計る基準は、この基準である。この神の基準に従って実行した場合、良い結末が得られ、そうでない場合は、良い結末は得られない。それでは、この結末を定めるのは誰であるとあなた方は言うだろうか。それは神が単独で定めるのではなく、神と人間が共に定めるものである。それは正しいだろうか。(その通りである。) それは何故であろうか。それは、人間の救済に着手し、美しい終着点を計画することを希望しているのは、神であり、人間は神の業の対象であり、その結末と終着点は神が人間のために計画するものだからである。神の業の対象が存在しなかったならば、神は業を行う必要が無かった。神が業を行わなかったとしたら、人間には救いの機会が無い。救いの対象は人間であり、人間はその過程で受動的立場にあるが、神による救いの業が成功するか如何を決定するのは、この人間の立場の姿勢である。神があなたに与える、神の導きが無ければ、あなたは神の基準を知る事が出来ず、したがってあなたは目標が無くなってしまう。あなたにこの基準と目的があり、しかしあなたが協力せず、実践せず、代償を払わなかった場合、依然としてその結末を得られないであろう。これが、この結末が神と不可分であり、人間とも不可分であると言う理由である。これで、あなた方は人間の結末は誰が決めるかを理解したであろう。

人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある

神を知ることに関する事項を伝えている時、気付いたことはあるだろうか。現在における神の姿勢に変化があったことに気付いたであろうか。神の人間に対する姿勢は変化しないものであろうか。神は常にそのように寛容で、神の愛と憐れみの全てを無制限に人間に与えるであろうか。この問題には、神の本質も関与する。以前にも話をした、放蕩息子と呼ばれる話の質問をもう一度検討する。この質問に対するあなた方の回答はそれほど明確では無かった。つまり、あなた方は、神の趣意を十分に理解していないということである。神が人類を愛されていることを知った後、人間は、神を愛の象徴として定義する。人間の行動、態度、人間が神をどう扱うか、人間がどれほど不従順であるかを問わず、神には愛があり、神の愛は無限であり、計り知れないので、そうした事は問題にならない。神には愛があるので、人間に対して忍耐できる。神には愛があるので、人々に対してそして人々の未熟さに対して憐み深くあることができ、人間の無知さそして不従順に対して憐み深くあることができる。本当にそれが実状であろうか。一部の人々にとって、神の寛容さを1回ないし複数回経験した時、人間は神に関する独自の認識のなかで、それを重要視し、神は永遠に寛容であり、憐れみ深くあると考え、人生を通して、その寛容さが、神が人間を取り扱う基準であるとみなす。神の寛容さをひとたび経験した時、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件であり、全く原則は無い、と恒久的に定義する人々もいる。こうした考えは正しいであろうか。神の本質や神の性質に関する事項を議論する時、あなた方は毎回混乱しているようである。あなた方がそのような状態であるのを見ると、少し腹が立つ。あなた方は、今までに神の本質に関して多の真理を聞き、神の性質に関しても、数多くの事項について話を聞いてきた。しかし、あなた方の心の中では、こうした諸問題や、それらの側面に関する真理は、理論と文書に基づく記憶でしかない。あなた方のうち、神の性質が何であるかを実生活で体験したり、神の性質が何かを理解したり出来るものはいない。したがって、あなた方は全員、その信仰において思考が混乱し、盲目に信仰した結果、神に対して不適切な姿勢を取るようになり、神を払いのけるようになった。あなた方の神に対するこうした姿勢は、どのような結果を招くであろうか。その結果、あなた方は神に関することを常に結論付けることになる。あなた方は、多少の認識知識を得ると、それに大いに満足し、神の全てを得たような気分になる。その後は、神がそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにしてしまう。神が何か新しい業を行った時は、それが神であることを決して認めない。やがて、神が「わたしはもはや人間を愛していない。今後人間には憐れみを与えない。今後は人間に寛容さや忍耐をもって接しない。わたしは人間に対する極度の嫌悪感と反感に満たされている」と言った時、人間はそうした発言に心の底から対抗する。一部の人々は「あなたはもはや私の神ではなく、私が付き従いたい神ではない。あなたがそのような発言をするのであれば、あなたは私の神の資格を失い、私はあなたに付き従う必要はない。あなたが憐れみや愛、寛容さをくださらないのであれば、私はもはやあなたに付き従わない。あなたが私に対して常に制限無く寛容であり、忍耐深くあり、また、あなたが愛であること、寛容であること、そして忍耐深くあることを私に示された場合のみ、私はあなたに付き従うことが可能であり、あなたに最期まで付き従う確信を持つことができる。あなたの寛容さと憐れみを与えられているので、私の不従順や侵害は無制限に赦され、無制限に見逃され、私はいつでも、どこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたの怒りを買うことができる。あなたは、私の結末を決めたり、自分自身の考えを持ってはならない。」とさえ言うであろう。あなた方は、このような疑問についてそこまで主観的かつ意識的に考えないかも知れないが、神を自分の罪を赦すための道具や、美しい終着点を得るための存在とみなす時、あなたはいつのまにか、生きる神を、あなたに対抗する存在、あなたの敵としてしまっている。わたしはそう理解している。あなたは、引き続き「私は神を信じる」「私は真理を求めている」「私は自分の性質を変えたい」「私は闇の影響から解放されたい」「私は神に満足してほしい」「私は神に服従したい」「私は神に忠実であり、自分の本分をしっかり尽くしたい」などと言うかも知れない。しかし、あなたの言うことがどれほど好感の持てるものであったとしても、あなたがどれほど理論に通じていたとしても、その理論がどれほど印象深いものであったとしても、どれほど高潔であったとしても、実際には、自分が身に付けた規則、教義、理論を使い、神に関する結論を導き出して、何の違和感も無く神を自分に反対する存在としてしまっている。あなたは文書や教義を身に付けていたとしても、本当に真理の現実に入っていないので、神に近付き、知り、理解することは極めて困難である。これは極めて哀れである。

わたしは、ビデオで、ある場面を見たことがある。その場面では、数名の姉妹が『言葉が肉において現れる』の書籍を高く掲げていた。これらの姉妹は、この書籍を自分達の中央に、自分達の頭よりも高く掲げていた。これは単なる映像であるが、その映像により、わたしの中で喚起された事は、映像では無い。むしろ、その映像でわたしが考えたことは、人々が心の中で高く掲げているのは、神の言葉ではなく、神の言葉が記された書籍である、ということである。それは極めて憂鬱なことである。そのような実践のしかたは、神を高く掲げることでは無い。それは、あなた方が神を理解していないので、極めて明瞭な、些細な疑問に対して、自分自身で答えを考え出さなければならないことが原因である。わたしがあなた方に対し、何かを真剣に質問する時、あなた方は自分の予想や自分自身の想像で答え、疑念のある口調で、わたしに質問を返す者もいる。これにより、あなた方が信じる神が真の神ではないと、わたしは一層はっきりと確信する。神の言葉を長年にわたり読んで来たあなた方は、神の言葉や業、そして更に多くの教義を用いて、再び神に関する結論を出す。さらに、あなた方は神を理解しようとしたことはなく、神の趣意を理解しようとしたこともなく、神の人間に対する姿勢や、神がどのように考えるか、神が悲しむのは何故か、神が怒るのはなぜか、神が人間を拒否するのは何故かなどの疑問を理解しようとしたことが無い。また、それ以上に多くの者が、神は人類の行動を観察しているのみであり、神は人間に対していかなる姿勢を取ることも無く、神が神自身の考えを持つことも無く、したがって神は常に沈黙していると考えている。それとは別に、一層深刻な行動を取る部類の人々もいる。この部類の人々は、神は黙って従っているので何も発言しないと信じている。神は待っているために何も発言しない、神はこれといった姿勢がなく、神の姿勢は既に書物で説明されていて、人間に対して完全に示されていて、何度も繰り返し人間に伝えられる必要はないので、神は発言しないと信じている。神は黙しているものの、依然として神には姿勢があり、観点があり、人間に対して要求する基準を持っている。人間は神を理解し、神を求めようとしないものの、神の姿勢は極めて明瞭である。かつて熱狂的に神に付き従っていたが、ある時点で神を捨て去った者がいたとする。その者が、今神の許へ戻りたいと思った場合、驚いたことに、あなた方は神がどのような見方をするか、どのような姿勢を取るかを知らない。これは痛ましいことではなかろうか。実際には、これは極めて表面的な事である。あなた方が神の心を真に理解したならば、そうした者に対する神の姿勢を知り、あなた方が曖昧な回答をすることは無いであろう。あなた方はそれを知らないので、わたしがあなた方に知らせたい。

神の業の最中に逃げ出す者に対する神の姿勢

こうした者はいたる所で見受けられる。こうした者は、神の道について確信した後、諸事情により黙って挨拶もせずに立ち去り、自分の心が望むように行動する。この者が立ち去る理由については、今は話をしない。まず、こうした者に対する神の姿勢について話をする。それは極めて明瞭である。神の観点から見ると、この者が立ち去った時点で、その者の信仰は終わる。それを終わらせたのは、その者ではなく神である。この者が立ち去ったということは、その者が既に神を拒否し、神を求めていないことを意味する。それは、既にその者が神の救いを受け入れないということを意味する。その者が神を求めていないのであれば、神は依然としてその者を求めることができるであろうか。さらに、この者にそうした姿勢と観点があり、神から去ることを決心している場合、この者は既に神の性質を侵害している。たとえ、そうした者が神に対して怒りを爆発させることも神を罵ることも無く、下劣な行動や過度の行動を取ることも無く、またその者が、「外で十分楽しんで満足するか、神が何らかの理由で再び必要になったら、戻って来よう」、あるいは、「神に呼ばれたら、戻って来よう」などと考えていても、この者は既に神の性質を侵害している。あるいは、こうした者は、「外で傷付いて、外界の闇が暗過ぎて邪悪過ぎて、世の中に流されたくないと思ったら、神のもとへ戻ろう」などと言う。この者は、いつになったら戻るかを自分の心で計算し、戻る可能性を残しているものの、自分でどのように考え、計画したとしても、それが希望的憶測に過ぎないことに気付かない。こうした者の最大の過ちは、自分が立ち去りたいと考えた時、神がどう感じるかが不明瞭なことである。その者が神のもとから立ち去ろうと決めた時から、神は完全にその者を見捨て、心の中でその者の結末を既に決めている。それはどのような結末であろうか。それは、その者がハムスターのような存在のひとつに過ぎず、ハムスターと共に滅びるということである。そして、こうした状況は頻繁に見受けられる。ある者が神を見捨てても、その者は罰を受けない。神は、神自身の原則に従って対処する。人間に見える物事もあるが、神の心の中だけで結論付けられるので、人間にはその結果が見えない。人間に見える物事が必ずしもその物事の真の側面であるとは限らず、人間には見えない側面こそが、神の心の本当の考えと結論である。

神の業の最中に立ち去る者は、真の道を捨てる者である

それでは、神がそうした者に深刻な罰を与えるのは何故だろうか。神がそうした者に対して激怒しているのは、何故だろうか。まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたし達全員が知っている。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではない。 神は人間の言いなりになる空気のような存在でもない。あなたが神の存在を本当に信じているならば、神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知る必要がある。この怒りを引き起こすものは、言葉かもしれないし、考えやあるいは下劣な行動かもしれない。あるいは穏やかな行動、人間の目と倫理から見て容認できる行動、教義、理論などに起因する場合がある。しかし、あなたがひとたび神の怒りに触れると、あなたの機会は失われ、あなたは終わりの時を迎える。それは極めて悲惨なことである。神に反することが許されないということを理解していなければ、あなた方は神を畏れず、常に神に反している可能性がある。どのようにして神を畏れるかを知らなければ、神を畏れることは出来ず、どのように神の道を歩み、神を畏れ、悪を避ければよいか分からない。それを知った後は、神に反してはならないことを意識し、神を畏れ、悪を避けるとは何かを知ることが出来るであろう。

神を畏れ、悪を避ける道を歩むことは、必ずしもどの程度真理を知り、どれほどの試練を経験し、どの程度鍛錬してきたか、ということではない。むしろ、それは、神に関して、あなたの心の真髄は何か、あなたの神に対する姿勢がどのようなものかによる。人間の本質と主体的姿勢が極めて重要な鍵である。神を捨て去った者に関し、そうした者の神に対する卑劣な姿勢と真理を軽視する心により、神の性質が侵害される。こうした者が神に赦されることは決して無いであろう。既にこうした者は神の存在を知り、神は既に来たという知らせを受け、神の新たな業を経験してさえいる。こうした者が立ち去ることは、迷いに起因する事例でも、その事に関する理解が不明瞭であった事例でもない。まして、そうした者は、強制的に立ち去らされたものでは決して無い。むしろ、それはそうした者が意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだものである。そうした者が立ち去ったのは、道を見失ったものでも、捨て去られたものでもない。したがって、神の目から見ると、そうした者は群れから迷い出た羊と同様の事例では無く、ましてや道を見失った放蕩息子と同様の事例でも無い。こうした者は罰を受けずに立ち去った者であり、そうした条件や状況により、神の性質が侵害され、その侵害に鑑みて、神はその者に絶望的な結末を与える。こうした結末は恐ろしいものではないだろうか。したがって、ある者が神を知らない場合、その者は神を侵害する恐れがある。それは決して些細なことでは無い。ある者が、神の姿勢を真剣に受け止めず、またその者は迷える子羊であり、神はその者が改心するのを待ち、その者が戻るのを心待ちにしていると考えているとしたら、その者は罰の日からそれほど離れていない。神はその者が戻るのを拒むだけではない。それは、その者が神の性質を侵害した2度目の事例であり、さらに酷い問題である。その者の不適切な姿勢により、神の行政命令が既に犯されている。神はその者が戻るのを許すであろうか。こうした問題に関する神の原則は、その者が既に真の道を確信しつつ、意識的かつ明瞭な精神状態で神を拒否し、神から離れた場合、神はその者の救いの道を遮断し、神の国の門は、それ以降その者に対して閉ざされる。その者が再び現れて門戸を叩いても、神はその者のために扉を二度と開かないであろう。その者は、永遠に閉め出される。あなた方のうちには、聖書のモーセに関する聖句を読んだことがある者がいるであろう。神がモーセに油を注いた後、250人の指導者たちは、モーセの行動などを理由として、それに不服であった。こうした指導者たちが従うことを拒んだのは、誰であろうか。それはモーセではない。この指導者たちは、神の計画に従うのを拒み、それに関する神の業に従うのを拒んだ。その指導者たちは「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、ヤーウェがそのうちにおられるのに、…」と言った。人間から見て、この言葉は極めて深刻であろうか。この言葉は全く深刻でない。少なくとも、この言葉の文字通りの意味は、深刻ではない。法的な意味では、これらの者は何ら違法ではない。なぜなら、これらの者の言葉は、表面的には敵対的な表現や語句は無く、ましてや冒涜的意義も無いからである。発言内容には、一般的な文しか含まれていない。それでは、こうした語句が神の怒りに触れる理由は何であろうか。なぜなら、これらの者は、人間でなく神に対して語っているからである。これらの者が示した姿勢と性質は、まさしく神の性質、特に侵害してはならない神の性質を侵害するものである。これらの者の結末は、皆知っている。神を捨てた人々に関し、その人々の観点はどのようなものであろうか。その人々の姿勢はどのようなものであろうか。さらに、その人々の観点と姿勢の結果として、神がその人々をそのように扱う結果になったのは何故であろうか。それは、その人々が、それが神であることを明確に認識しつつ、神を裏切ることを選んだからである。その人々が救いの機会を完全に剥奪されたのは、そのためである。それは聖句にある通りである。すなわち、「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」この問題について、明確に理解したであろうか。

言葉は肉において現れる(続編)朗読

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