神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか

(その4)

神の態度を理解し、神に関する誤解をすべて取り除け

あなたがたが現在信仰している神は、どのような神ですか。このことを考えたことがありますか。神が邪悪な人が邪悪なことをしているのを見ると、神はそれを嫌悪しますか。(はい。嫌悪されます。)無知な人が過ちを犯すのを見たときの神の態度はどのようなものですか。(悲しみです。)人が神への捧げ物を盗むのを見たときの神の態度はどうですか。(その人を嫌悪されます。)これはみな、とても明白です。そうですね。神への信仰において混乱していて、真理をまったく追求していない人を見たときの神の態度はどうですか。これについては明確ではないのではありませんか。態度としての「混乱」は罪ではなく、また神の怒りを買うものでもありません。人間はそれが重大な過失ではないと考えています。それでは、この場合の神の態度はどのようなものですか。(神様はそのような人の存在を認めるのを不本意とされます。)「存在を認めるのを不本意とする」とは、どのような態度ですか。それは、神はそうした人を見下し、さげすむということです。神はそうした人を冷遇します。神のやり方は、こうした人を放置し、その人には働きを行なわないことです。それには啓き照らす働き、懲らしめ、鍛錬の働きも含まれています。この種の人は、神の働きからすっかり除外されています。神の性質の怒りに触れ、神の行政命令を破る人に対し、神はどのような姿勢を取りますか。極度の嫌悪です。神の性質の怒りに触れたことを悔い改めない人に、神は極度に怒ります。「怒り」は単なる感情や気分でしかないので、明白な態度に符合しません。しかし、この感情、この気分はその人にある結末をもたらします。それは神を極度の嫌悪で満たします。この極度の嫌悪の結末とは何ですか。それは、神はそのような人を脇に置いて、しばらくは応じなくなるということです。神は秋の収穫期の後にそのような人の処分をするのを待つのです。これは何を暗示しますか。その人にはまだ結末がありますか。神は、そのような人に結末を与えようとしたことはありません。したがって、現在、神がそのような人に応じないのは完全に普通のことではありませんか。(はい。普通のことです。)このような人は何をする準備をしているべきですか。自分のふるまいと邪悪な行ないの好ましくない成り行きを受ける準備をしなければなりません。それが、こうした人への神の応対です。そうしたわけで、わたしはそのような人にはっきりと言います。妄想にこれ以上しがみつかず、希望的観測をこれ以上続けてはなりません。神は人間に無限に寛容ではなく、また人間の過ちや不服従を永遠に堪え忍ぶことはありません。「そのような人を二、三人見た。彼らは祈るとき、ことさらに神に感激し、大いに涙を流す。彼らは通常とても幸せで、神がそばにいて導かれているように見える」と言う人がいます。このような戯言を言ってはなりません。大いに涙を流すのは、必ずしも神に感激することでも、神の臨在や、ましてや神の導きを受けることでもありません。もし人が神を怒らせれば、それでも神は人を導きますか。要するに、神が誰かを排除し、見捨てると決定すれば、その人にはすでに結末がありません。その人が祈るときにどれほど好ましい感情があろうと、心にどれほど神への信仰があろうと、それはもはや無関係です。重要なのは、神にはそのような信仰は無用だということです。神はすでにその人を拒絶しています。その人を将来どのように取り扱うかも、重要ではありません。重要なのは、この人が神の怒りを買ったその瞬間に、その人の結末が決定された、ということです。神がこの人を救わないと決定すれば、その人は置き去りにされ、罰せられます。これが神の態度です。

愛は神の本質の一部であり、また神はあらゆる人間に憐れみをかけますが、神の本質が威厳でもあることを人間は軽視し、忘れてしまいました。神に愛があることは、人が神に触犯しても神になんらかの感情や反応を起こさせることがない、ということではありません。神に憐れみがあることは、神による人間の取り扱いに原則がない、ということではありません。神は生きており、現実に存在します。神は想像上の操り人形でも、他の物体でもありません。神が存在するのですから、人間は神の心の声を常に注意して聞き、神の態度に注意し、神の感情を理解しなければなりません。人間自身の想像により神を定義したり、人間が神に関して思うことや望むことを神に強制したりして、神が人間の想像に基づく人間的な流儀で人間を取り扱うようにさせてはいけません。そのようなことをするのは、神の怒りを買い、神の怒りを試し、神の尊厳を挑発しているのです。したがって、あなたがたがこの問題の深刻さをひとたび理解したなら、一人ひとりが自分の行動に注意し、用心することを強く勧めます。自分の発言にも注意し、用心しなさい。神をどのように扱うかについて、注意し、用心すればするほど良いのです。神の態度がどういうものかがわからないときは、不注意に発言したり、行動したりせず、また軽々しくレッテルを貼ってはなりません。さらに重要なこととして、みだりに結論を出さずに、待ち、求めなくてはなりません。これらもまた、神を畏れ悪を避けることを表しています。そして何よりも、これを成し遂げ、こうした姿勢を取ることができれば、神はあなたの愚かさ、無知、このようにする理由を理解していないことを咎めることはありません。むしろ、あなたの神の怒りを買うことを恐れる態度、神の心意への敬意、喜んで神に服従しようとする意志ゆえに、神はあなたに留意し、あなたを導き、啓き、あなたの未熟さと無知に寛容になります。それに対し、あなたの神に対する態度に畏れがなく、すなわち好き勝手に神を裁いたり、神の考えを推測したり定義したりした場合、神はあなたを断罪し、鍛錬し、懲罰さえも与えます。あるいはあなたに解説するかもしれません。おそらく、そこには、あなたの結末が含まれています。したがって、今一度強調したいのです。あなたがたは一人ひとりが神に由来することすべてについて、注意し、用心しなさい。不注意な言動をしてはいけません。発言する前に、止まって考えなさい。この行動は神の怒りを買うだろうか、これをすると、神を畏れていることになるだろうか、と考えなさい。たとえ単純な事柄でも、このように自問し、時間をかけて考慮しなさい。あらゆることのあらゆる面において常にこのような原則に沿って本当に実践し、特に何か理解していないときにこのような態度を取れば、神は常にあなたを導き、進むべき道を示します。人間がどのように見せかけようと、神はそれらを明確にそのまま見通し、表現されたものを正確かつ適切に評価します。あなたが最後の試練を経験した後、神はあなたのふるまいのすべてを完全に検討、概括し、あなたの結末を決定します。この結果は、あらゆる人にとって何の疑いもなく納得できるものになります。わたしが述べたいのは、あなたがたのあらゆる行動、あらゆる所作、あらゆる考えが、あなたがたの運命を決める、ということです。

人間の結末を決定するのは誰か

話し合うべき最重要の問題がもう一つあります。それは、あなたがたの神への態度です。この態度は極めて重要です。これにより、あなたがたが最終的に滅びへ向かうか、神があなたがたのために用意した美しい終着点へ向かうかが決定します。神の国の時代において、神はすでに二十年以上にわたり働き、この二十年間において、おそらくあなたがたは自分がどのようにやってきたかについて、心の奥で少し不確かに感じているはずです。一方、神は心の中で、あなたがた各人について現実的で真実に満ちた記録を取ってきました。各人が神に付き従い、神の説教を聞き始めてから、徐々に少しずつ真理を理解するようになり、自らの本分を果たすようになるまで、神は各人のあらゆるふるまいを記録してきました。自分の本分を尽くしているとき、あるいは様々な状況や試練に直面しているとき、人の態度はどのようなものですか。どう行動しますか。心の中で、神に対してどう感じますか。……神は、そうしたことすべてを記録しています。あなたがたの立場から見ると、これらの問題は混乱を生じるかもしれません。しかし、神の立場からは、すべて明瞭であり、いいかげんな部分は少しもありません。これは、各人の結末や運命、将来の見通しが関係する問題であり、さらに、これは神が骨の折れる努力のすべてを注ぐ問題です。したがって、神は少しも怠ることはなく、ほんの僅かな不注意も許しません。神はこの人類の調書を記録し、人間の神に従う全過程を最初から終わりまで記録しています。この期間における神への態度により、あなたの運命が決定されています。そうではありませんか。現在、あなたがたは神が義であると信じていますか。神の業は適切ですか。あなたがたは今でも神について頭の中で想像していますか。(していません。)それでは、人間の結末は神が決めるものだと言いますか。それとも人間が自分自身で決めるのですか。(神様がお決めになります。)誰が決めますか。(神様です。)あなたがたは確信していないのですか。香港の兄弟姉妹、発言しなさい。誰が決めますか。(人間自身が決めます。)人間が自分自身で決めるのですか。それでは、人間の結末は神と無関係ということになりませんか。韓国の兄弟姉妹、発言しなさい。(人間の結末は、人間の行動や所作のすべて、人間のいる道に基づいて神様がお決めになります。)それは非常に客観的な答えです。ここで、あなたがた全員に伝えなければならない事実が一つあります。神の救いの働きの過程において、神は人間に基準を設定しました。それは、人間は神の言葉に従い、神の道を歩まなければならないというものです。人間の結末を計るにはこの基準が使われます。この神の基準に従って実践すると、良い結末が得られ、そうしないと、良い結末は得られません。それでは、この結末を決めるのは誰ですか。神が単独で決めるのではなく、神と人間が共に決めます。これで正しいですか。(はい。)それはなぜですか。それは、人類の救済の働きにかかわり、美しい終着点を人類のために用意したいと積極的に希望しているのは神であり、人間は神の働きの対象であり、その結末、終着点は神が人間のために用意するものだからです。神が働く対象が存在しなかったならば、神はこの働きを行う必要がありません。神がこの働きを行わなかったならば、人間には救いを得る機会がありません。救われるのは人間です。救われるのはその過程における受動的役割ですが、この役割を果たす人の態度が、神が人類を救う働きにおいて成功するか否かを決定します。神があなたに与える導きがなければ、あなたは神の基準を知ることがなく、目標を持つこともありません。あなたにこの基準と目的があるのに、協力せず、実践せず、代償を払わないならば、やはり結末を得られません。これが、人の結末が神と不可分であり、人とも不可分であるとわたしが言う理由です。これで、あなたがたは人間の結末は誰が決めるかを知っています。

人間には経験に基づいて神を定義する傾向がある

神を知ることについて話しているとき、何かに気づきましたか。現在における神の態度が変化したことに気づきましたか。神の人間への態度は変化しないものですか。神は常にそのように耐え、神の愛と憐れみのすべてを無制限に人間に与えますか。この問題もまた神の本質に関係しています。先ほど話した、いわゆる放蕩息子の質問をもう一度検討しましょう。質問をした後のあなたがたの回答はあまり明確ではありませんでした。つまり、あなたがたは神の意図についてあまりしっかりと理解していないということです。神が人類を愛していると知ると、人間は神を愛の象徴として定義します。人間の行動、ふるまい、神の扱いがどうであろうと、人間がどれほど不従順であろうと、神には愛があり、神の愛は無限で計り知れないので、そうしたことは問題にならないと人間は考えます。神には愛があるので、人間に対して寛容でいられ、神には愛があるので、人に対して、人の未熟さに、無知に、不従順に対して憐れみ深くあることができる、と考えます。本当にその通りですか。一部の人々は、神の寛容を一回あるいは二、三回経験すると、神に関する独自の認識においてその経験を重要視し、神は永遠に忍耐強く憐れみ深いと考え、その寛容が神が人間を取り扱う基準であると生涯を通して考えます。また、神の寛容をひとたび経験すると、神は寛容であり、その寛容さは無限で無条件でありしかも無原則であると恒久的に定義する人もいます。こうした考えは正しいですか。神の本質や神の性質に関する事項を話し合うと、あなたがたは毎回当惑しているようです。そのような様子を見ると、わたしはとても不安になります。あなたがたは神の本質について多くの真理を聞き、神の性質に関しても多くの話を聞いてきました。しかし、あなたがたの思考では、こうした諸問題や、それらの側面に関する真理は、理論と文字に基づく記憶でしかありません。あなたがたのうち、神の性質をそのまま日常生活で体験したり、見たりできる人は誰もいません。あなたがたはみな、信仰において思考が混乱し、盲目に信仰しており、神を畏れぬ態度を取り、神を払いのけるまでになりました。神へのこのような態度は、どのような結果につながりますか。神について常に結論付けるようになります。ひとたび多少の知識を得ると、神のすべてを得たかのように満足した気分になります。その後は、神はそのような存在であると決めつけ、神が自由に動けないようにします。さらに、神が何か新しいことをするたびに、それが神であることを決して認めません。やがて、神が「わたしはもはや人類を愛していない。今後人間にはこれ以上憐れみをかけない。人間にはこれ以上寛容も忍耐もない。わたしは人間に対する極度の嫌悪と反感に満たされている」と言うと、このような言葉は人間の心の奥に葛藤を生じさせます。このように言う人さえいます。「あなたはもはやわたしの神ではなく、わたしが付き従いたい神ではない。そのようなことを言うのであれば、わたしの神でいる資格はなく、わたしはあなたに付き従う必要はない。憐れみや愛、寛容をくれないのなら、あなたに付き従うのをやめる。わたしに対して制限なく寛容で、いつも忍耐深く、あなたが愛であり、寛容であり、忍耐であることをわたしに見せてくれるなら、わたしはあなたに付き従うことができ、その場合のみ、あなたに最後まで付き従う自信がある。あなたの寛容と憐れみを与えられているので、わたしの不従順や過ちは無制限に赦され、見逃され、わたしはいつでもどこでも罪を犯し、いつでもどこでも罪を告白して赦され、いつでもどこでもあなたを怒らせることができる。あなたはわたしについて意見をもったり結論に達したりしてはならない」。このような問題について、そこまで主観的かつ意識的に考える人は一人もいないかもしれませんが、神を罪を赦してもらうための道具や、美しい終着点を得るための対象物とみなすたびに、あなたはいつのまにか生きる神をあなたに対抗する敵にしてしまっているのです。これがわたしに見えることです。あなたは引き続き、「わたしは神を信じる」「わたしは真理を追い求める」「性質を変えたい」「闇の影響から解放されたい」「神を満足させたい」「神に服従したい」「神に忠実であり、本分をしっかり尽くしたい」などと言うかもしれません。しかし、あなたの言葉がどれほど甘美に聞こえたとしても、あなたがどれほど理論に通じていたとしても、その理論がどれほど堂々として威厳があったとしても、実際には、自分が身に付けた規則、教義、理論を使って神に関する結論を導き出す方法をすでに身につけ、それにより自然に神を自分に反対させてしまっている人が多くいるのです。字句や教義を身に付けていたとしても、そのような人は本当に真理の現実性に入っていないので、神に近付き、神を知り、認識することが極めて困難なのです。これはあまりに哀れです。

わたしはビデオで、ある場面を見ました。数名の姉妹が『言葉は肉において現れる』の書籍を高く掲げています。書籍を自分たちの中央に、頭よりも高く掲げています。これは単なる映像でしたが、その映像がわたしの中に喚起したのは、映像ではなく、わたしが考えたことは、人が心の中で高く掲げているのは神の言葉ではなく、神の言葉が記された書籍だということです。それは極めて悲しいことです。そのような行為は、神を高く掲げることと全然違います。あなたがたが神を理解していないあまり、極めて明瞭な些細な質問にさえも、自分の観念で答えるからです。わたしがあなたがたに何かを質問し、わたしは真剣なのに、あなたがたは自分の予想や想像で答え、疑念のある口調で質問に質問で答える人さえいます。これにより、あなたがたが信じる神が真の神ではないことが一層はっきりとします。神の言葉を長年にわたり読んできて、あなたがたは神の言葉、神の働き、そしてさらに多くの教義を用いて、再び神に関する結論を導き出します。さらに、あなたがたは神を理解しようとしたことはありません。神の心意を理解しようとしたことも、神の人間への態度や、神がどのように考えるか、なぜ神は悲しいのか、なぜ神は怒るのか、なぜ神は人間を拒絶するのかなどの疑問を理解しようとしたことはありません。また、もっと多くの人は、神は人類のさまざまな行動を観察していて、それらについていかなる態度も意見もないので、神は常に沈黙していると信じています。それとは別の種類の人は、神は音もたてず黙認しているので何も発言しないと信じています。それは、神は待っているから、あるいは態度がないからだと考えています。こういう人は、神の態度はすでに書物で完全に説明され、全体にわたって人類に示されているので、何度も繰り返し人間に伝えられる必要はないと信じているのです。神は黙しているものの、依然として神には態度があり、観点があり、人間が満たすことを要求する基準を持っています。人間は神を理解し、神を求めようとしないものの、神の態度は極めて明瞭です。かつて熱狂的に神に付き従っていたのに、ある時点で神を捨てて去って行った人を考えてみなさい。今その人が戻りたいと仮定すると、驚いたことに、あなたがたには神がどのような見方をするのか、どのような態度を取るのかがわかりません。これは極めて悲しいことではありませんか。実際には、これは極めて表面的なことです。あなたがたが神の心を真に理解していれば、そのような人への神の態度がわかり、曖昧な回答をすることはありません。あなたがたは知らないので、わたしがあなたがたに教えてあげます。

神の働きの最中に逃げ出す人に対する神の態度

いたる所で見受けられる、ある種の人がいます。神の道について確信した後、様々な理由から黙って挨拶もせずに立ち去り、心が望むように行動します。立ち去る理由については、今は話をしません。まず、このような人への神の態度について話します。それは極めて明瞭です。神の観点からすると、立ち去った瞬間に、その人の信仰の全期間は終わります。それを終わらせたのは、その人ではなく神です。立ち去ったということは、その人がすでに神を拒否し、それ以上神を求めず、もはや神の救いを受け入れないということを意味します。その人が神を求めていないのであれば、神が依然としてその人を求めることができますか。さらに、そうした態度、観点があり、神から去ると決めたときに、この人はすでに神の性質を侵害しています。たとえ怒りを爆発させて神に悪態をつくこともなく、また下劣で行き過ぎたふるまいをすることもなく、「外で十分楽しんで満足したと思う日が来たら、あるいは何らかの理由で再び神が必要になったら、戻って来よう。あるいは、神に呼ばれたら戻って来よう」などと考えていても、「外で傷付いて、外界が暗過ぎて邪悪過ぎて、流れについて行きたくないと思ったら、神のもとへ戻ろう」などと言っていても同じです。正確にいつ戻るかを頭で計算し、戻ってこられるように扉を開いたままにしてきたとしても、どのように考え、計画したとしても、それが希望的憶測に過ぎないことにその人は気付かないのです。この人の最大の過ちは、自分の去りたいという願望を神がどう感じるかがわかっていないことです。神のもとを去ろうと決めたその瞬間に、神は完全にその人を捨てます。そのときには神は心の中ですでにその人の結末を決めています。それはどのような結末ですか。それは、その人がネズミの一匹となり、他のネズミと共に滅びるということです。そして、人はよくこのような状況を見ます。それは、神を見捨てても罰を受けない状況です。神は神自身の原則に従って対処します。目に見えるものもありますが、神の心の中で結論付けられるだけのものもあり、人間にはその結果は見えません。人間に見える部分が必ずしも物事の真の側面であるとは限らず、反対側、つまりあなたには見えない側面にこそ、神の本当の心からの思いと結論であるのです。

神の働きの最中に逃げ出す人は、真の道を捨てる人である

それでは、なぜ神はそのような人にそこまで深刻な罰を与えることができるのですか。なぜ神はその人に対してそこまで激怒しているのですか。まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたしたちの誰もが知っています。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではありません。神は人間にあごで使われる中身のない空気でもありません。神の存在を本当に信じているならば、あなたは神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知らなくてはなりません。この怒りを引き起こすものは言葉かもしれないし、思いやあるいは下劣なふるまい、あるいは穏やかなふるまい、人間の目と倫理から見て容認できるようなふるまいかもしれず、あるいは学説や理論かもしれません。しかし、ひとたび神を怒らせると、あなたの機会は失われ、終わりの時が訪れます。これは恐ろしいことです。神を怒らせることが許されないということを理解していないのであれば、あなたは神を畏れず、常に神を怒らせているかもしれません。どのように神を畏れるべきかがわからなければ、神を畏れることはできず、どのように神の道、つまり神を畏れ悪を避ける道筋に足を踏み入れるかもわかりません。ひとたび神を怒らせてはならないことに気づき意識したなら、神を畏れ悪を避けるとは何かがわかります。

神を畏れ、悪を避ける道を歩むことは、必ずしも真理をどれほど知り、試練を幾つ経験し、どれほど鍛錬してきたか、ということではありません。むしろそれは、あなたが心の中で神に対してどのような態度を抱いているか、あなたがどのような本質を表しているかに左右されます。人間の本質と主観的態度は、極めて重要です。神を捨て去った人に関しては、その神への卑劣な態度と真理を忌み嫌う心はすでに神の性質を侵害しています。そのため、神に関する限り、そのような人が神に赦されることはありません。この人は神の存在を知り、神がすでに来たという知らせを受け、神の新たな働きを経験さえしています。その人が立ち去ったのは、迷いや混乱のせいでも、ましてや、追い出されたせいでもありません。むしろ、意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだのです。立ち去ったのは、道を見失ったからでも、捨てられたからでもありません。したがって、神の目から見ると、その人は群れから迷い出た羊ではなく、ましてや道を見失った放蕩息子でもありません。それは好き勝手にふるまって何らはばからず立ち去った人であり、そうした状態や状況は神の性質を侵害し、それゆえ神はその人に絶望的な結末を与えるのです。このような結末は恐ろしくありませんか。したがって、神を知らない人は神を侵害する恐れがあります。これは決して些細なことではありません。神の姿勢を真剣に受け止めないのに、自分は神の迷える子羊なので神は自分が戻ってくるのを心待ちにしていてくれて、自分の改心を待っていると考えているとしたら、その人が罰を受ける日はそれほど遠くありません。神はその人をただ拒むだけではありません。その人が神の性質を挑発するのは二度目であることからも、さらに酷い問題です。その人の不敬な態度は、すでに神の行政命令を犯しています。神はその人を受け入れますか。神の心では、このような問題に関する原則では、誰かが真の道とは何かについてすでに確信しながらも、意識的かつ明瞭な精神状態で神を拒否し、神のもとから離れることができるなら、神はその人の救いの道を遮断し、神の国の門はそれ以降その人に対して閉ざされます。その人が再び現れて門戸を叩いても、神は扉を開けず、その人は永遠に閉め出されます。あなたがたのうちには、聖書にあるモーセの物語を読んだことがある人がいるでしょう。神がモーセに油を注いだ後、二百五十人の指導者は、モーセの行動などを理由として、モーセに不服従を示しました。指導者たちが従うことを拒んだのは誰ですか。モーセではありません。指導者たちは神の計画に従うのを拒み、それに関する神の働きに従うのを拒んだのです。指導者たちは言いました。「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、ヤーウェがそのうちにおられるのに……」。人間から見て、この言葉は深刻ですか。深刻ではありません。少なくとも、言葉の文字通りの意味は深刻ではありません。法的にも、違法ではありません。表面的には敵対的な表現や語句はなく、ましてや冒涜的な含意もないからです。一般的な言葉でしかありません。それでは、なぜこの言葉が神の怒りにこれほど触れるのですか。なぜなら、この言葉は人間でなく神に向けられているからです。ここに表された態度と性質は、まさしく神の性質の怒りに触れるものであり、また侵害してはならない神の性質を侵害するものだからです。わたしたちはみな、指導者たちの結末が最後はどうであったかを知っています。神を捨てた人の観点はどのようなものですか。態度はどのようなものですか。その観点や態度のせいで、神がその人をそのように扱う結果になるのはなぜですか。それは、神が神であることを明らかに知っていながら、その人は神を裏切ることを選ぶからです。だから、救いの機会を完全に剥奪されたのです。それは聖書にある通りです。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」。この問題について、あなたがたは今では明確に理解しましたか。

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