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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

人間の運命は、神に対する人間の姿勢で決定される

神は、生きている神であり、人間が様々な状況に対して様々な方法で対応するように、そうした行動に対する神の姿勢も異なる。なぜなら、神は操り人形でも、空気のような存在でもないからである。神の姿勢について知ることは、人間にとって追究の意義があることである。人間は、神の姿勢を知ることにより、神の性質を知り、神の心を少しずつ理解できることを知る必要がある。神の心を少しずつ理解する時、神を畏れ、悪を避けることは、実行するのが困難だとは感じなくなるであろう。さらに、あなたが神を理解した時、神に関して結論を出すことは、それにも増して困難である。神に関する結論を出すことを止めた時、あなたが神を侵害する可能性が低下し、無意識のうちに神はあなたを導いて神に関する認識を与え、よってあなたは、心から神を畏れるようになるであろう。あなたは、自分が習得した教義や文書、理論などで神を定義するのを止めるであろう。そのかわりに、万事において神の趣意を常に求めることにより、あなたは無意識のうちに神の心を求める人間となる。

神の業は、人間が目で見ることも触れることも出来ないものであるが、神に関しては、各人のあらゆる行動と、神に対する姿勢は、神にとって認識できるだけでなく、見ることが出来るものである。このことは、全ての人が認識し、明確に理解する必要のある事柄である。あなたは、常々自分に対して「神は、私がここで何をしているか知っているだろうか。神は、私が今何を考えているか分かるだろうか。知っているのだろうか、それとも知らないのだろうか。」などと問いかけるであろう。あなたがこのような観点で、神に付き従い、神を信仰しつつ、神の業や存在を疑っているのであれば、遅かれ早かれ神の怒りに触れる日が訪れるであろう。なぜなら、あなたは既に危険な崖の縁をよろめき歩いているからである。これまでに、長年にわたり神を信仰し続けてきたものの、真理の現実を未だに得ておらず、神の心を理解していない人々を大勢見てきた。こうした者のいのちの背丈は、極めて浅薄な教義に従うだけで、全く進歩していない。これは、そうした者が、神の言葉を自らのいのちとして捉えず、神の存在を直視して神の存在を認めたことが無いからである。あなたは、神がこうした者を見て、喜びに満たされると思うであろうか。こうした人々に神の心が安らぐであろうか。その場合、人間の運命は、人間が神を信仰する方法により決まる。問題となるのが、あなた方がどう神を求めるかであれ、どう神を扱うかであれ、最も重要なのは、あなた方の姿勢である。神を、あなた方の頭の後ろにある空気のようなものとして軽視しないこと。あなた方が信仰する神を、常に生きている神、実在する神と考えること。神は手持ち無沙汰で第三の天にいることは無く、神は常に人間それぞれの心や、それぞれ何をしているか、些細な発言や行動、神に対してどのような態度であるか、どのような姿勢であるかを、くまなく見ている。あなたが進んで自らを神に捧げるか如何を問わず、あなたのあらゆる態度、心の奥深くにある考えや思いのすべてが、神の前にあり、神に見られている。あなたに関する神の意見や姿勢は、あなたの態度、行動、神に対する姿勢に従って、継続的に変化している。あたかも神があなたを溺愛しなければならず、神があなたから離れることが出来ず、神のあなたに対する姿勢が永遠に変わらないかのように、神の手の中にいる乳児のような立場に自らを置く者に勧告するが、そのような空想は捨てること。神は、人間ひとりひとりの扱いにおいて、義である。神は、人間の征服と救いの業に、熱心に取り組んでいる。それが神による経営である。神は人間ひとりひとりを、愛玩動物のようにではなく、真剣に取り扱う。神の人間に対する愛は過保護や甘やかしではなく、人間に対する神の慈悲と寛容は、大目にみることでも無頓着でもない。むしろ、神の人間に対する愛は、大切にし、憐れみ、いのちを敬うことである。神の哀れみと寛容は、神の人間に対する期待を伝えるものであり、人類の存続に必要なものである。神は生きており、実在する。神の人間に対する姿勢には原則があり、一切独善的ではなく、また変化しうるものである。人類に対する神の心は、時間や状況、各人の姿勢に従って、徐々に変化している。したがって、あなたは、このことについて明確に理解し、また神の本質は変化し得ず、神の性質は様々な時期に様々な状況で表出することを理解すべきである。あなたはこれが深刻な問題であると考えず、自分自身の考え方を用いて、神がどのように業を行うべきかを想像するかも知れない。しかし、あなたの観点とは全く正反対の物事が真実である場合もあり、自分自身の考え方で神を試みて神を測ることにより、あなたは既に神の怒りを買っている。これは、神はあなたが考えるように物事を対処するのではなく、またこの問題に対する神の対処方法も、あなたが言うような方法では無いからである。ゆえに、身の回りの物事全てに対し、注意深く慎重に接し、全てのことにおいて、神を畏れ、悪を避けるという原則に従って神の道を歩むことを学ぶよう、あなたに伝えておく。あなたは、神の心と神の姿勢に関する諸問題を確実に理解する必要があるので、あなたに伝えることのできる目が開かれた人々を見つけて熱心に求めるように。自分が信じる神を、操り人形のようなものと捉えたり、任意に判断して勝手に結論を出したり、神に相応しい敬いの念をもって神を扱わないようなことの無いように。神の救いの過程や神があなたの結末を決定する時、神があなたに与えるのが、哀れみであるか、寛容であるか、裁きであるか、刑罰であるかを問わず、あなたに対する神の姿勢は一定ではない。その姿勢は、あなたの神に対する姿勢や、あなたの神に関する理解により異なる。あなたの一時的な認識や解釈で神を永久的に定義しないこと。死んだ神でなく、生きている神を信仰すること。それを覚えておくように。ここでは、あなた方の現在の状態と背丈に応じて、あなた方が知るべき真理をいくつか話したが、あなた方の情熱を奪わないよう、わたしはこれ以上の事を求めることは控える。そうしなければ、あなた方の心は過度に荒涼として、神に対して過度に落胆するおそれがあるからだ。あなた方が落ち込まずに、あなた方の心にある神への愛と、神を敬う姿勢を用いて今後の道を歩んでほしい。神への信仰をどのように扱うかに関する問題で混乱しないこと。その問題を、最も重要な問題のひとつとして扱うこと。その問題を自分の心に留め、実行に移し、実生活と関連させること。口先だけの美辞麗句として用いないこと。なぜなら、これは生死にかかわる問題であり、あなた方の運命を決める問題だからである。この問題を子どもの遊びのような、冗談として扱わないこと。本日の話をした内容から得た、あなた方の知識的な収穫は何であろうか。本日の話について、何か質問したいことはあるだろうか。

本日の話の主題は、多少新しい内容であり、あなた方の観点や、通常あなた方が追求し、留意する物事から離れたものであるが、暫く聞いているうちに、本日話した内容が全て皆一様に理解できるようになるであろう。これらの事項は、以前あなた方が考えたことの無かった新しい事項であるが、あなた方の負担とならないことを望んでいる。本日の話は、あなた方を怖がらせるためのものでも、あなた方を取り扱いしようとするものでも無く、事実の真相をあなた方が理解するのを支援することが目的である。結局、神と人間の間には距離がある。人間は神を信じているものの、人間は神を理解したことは無く、神の姿勢を知ったことは無い。神の姿勢に関する懸念をどう払しょくするかを熱心に解決しようとしたことはない。むしろ、人間は盲目的に信仰し、盲目的に生き続け、神に関する認識と理解について不注意であった。したがって、あなた方のそうした問題を解消し、あなた方が信仰する神が、どのような神であるか、何を考えているか、様々な人々を取り扱う際に、どのような姿勢であるか、あなた方は神の要求を完全に満たした状態からどれくらい離れているか、あなた方の行動と神が要求する基準の間に、どの程度差があるかを理解できるように支援する必要があると感じた。それをあなた方が知ることの目的は、それを用いてあなた方が歩んでいる道がどのような収穫に繋がっているか、その道であなたが得られなかった事柄、あなた方が関与していない領域には、どのようなものがあるかを計測し、理解する基準を、あなた方の心の中に与えることである。あなた方が互いに話し合う時、通常は一般的な事項について話をするが、その範囲は狭く、内容は浅薄である。神の趣意と、あなた方が話し合う事柄の間、あるいはあなた方の会話と、神の要求の範囲や基準の間には、隔たりがある。そのような状態が長期的に進行すると、あなた方は神の道から益々外れて行く。あなた方は既存の神の言葉を取り上げて、それを崇拝対象や儀式、規則に変える。それが全てである。事実、神はあなた方の心に全く存在せず、神はあなた方の心を得たことが無い。神を知る事は極めて困難だ、という者がいるが、それは事実である。神を知る事は確かに困難である。人々が自分の本分を尽くして外でやるべき事をやり遂げるように命じられるなら、勤勉であるようにと命じられるなら、人々は、神への信仰は至って容易であると考える。なぜなら、それらは全て人間の能力の範囲内だからである。しかし、神の趣意や人間に対する神の姿勢の話になると、誰にとっても問題は遙かに困難になる。そうした問題には、真理に関する人間の理解と、現実に入ることが関与するからである。ある程度困難なのは当然のことである。しかし、最初の扉を通過して中に入った後は、次第に容易になってゆく。

神を畏れることは、神を神として扱うことから始まる

ある者から質問があった。その質問は、現在人間は、ヨブよりも神に関する認識が多いにもかかわらず、人間が神を畏れられないのは何故か、ということである。この問題については、先般少しだけ触れたであろう。事実、この問題の本質、すなわちヨブは当時、神を知らなかったが、ヨブは神を神として取り扱い、神を天と地にある万物の主とみなした件についても以前に話をした。ヨブは神を敵とはみなさなかった。むしろ、ヨブは神を万物の創造主として崇めた。現在、人間が神をこれほどまでに拒否するのは、何故だろうか。現在の人間が、神を畏れられないのは、何故だろうか。その理由のひとつとして、現在の人間がサタンにより深く腐敗させられていることがある。そうした人々にはサタンのような本質が深く浸透しており、そうした人々は神の敵となる。したがって、そうした人々は神を信仰し、認めているものの、神を拒み、自らを神の敵としてしまうことがある。それは人間の本質により判断される。もうひとつの理由は、そうした人々が神を信じている一方で、神を神として取り扱わないことである。そうした人々は、神を人間に反対する存在と考え、敵と見なし、神と和解することが出来ない。それほど単純なことである。この問題については、前回話をしたであろう。考えて欲しいのだが、そのことが理由であろうか。あなたには神に関して多少の知識があるが、その知識とは一体何であろうか。それは皆が話題にしていることではないだろうか。それは神があなたに伝えた事ではないだろうか。あなたは、理論上、教義上の側面しか知らないが、神の実際の側面を体験したことがあるだろうか。あなたには、主体的な知識があるだろうか。あなたには、実践的な知識と経験があるだろうか。神が伝えなかったとしたら、その知識を得られたであろうか。あなたの理論上の知識は、本当の知識ではない。つまり、あなたにどれほど知識があるか、あなたがその知識をどのようにして得たかを問わず、神に関する真の知識を得る以前において、神はあなたの敵であり、あなたが神を神として取り扱うまで、神はあなたに敵対する立場に置かれている。なぜなら、あなたはサタンの化身だからである。

あなたがキリストと共にあるのであれば、あなたはキリストに毎日3回の食事を振る舞い、おそらくお茶も振る舞い、生活に必要な物事を手配し、外見上キリストを神として扱うだろう。何か起きると、人間の観点は、常に神の観点と相反するものになる。人間は神の観点を理解できず、受け入れられない。人間は表面上では神と折り合いが付くかも知れないが、それは神と一致することを意味するものではない。何かが起こるとすぐに、人間の不服従の真実が現れ、人間と神の間にある敵対心が確認される。この敵対心は神が人間に敵対しているのでも、神が人間に敵対することを望んでいるのでも、神が人間を敵対する立場に置き、敵対するものとして扱っているのでもない。むしろ、それは人間の主体的意志と無意識の精神に潜む、神に敵対する本性の問題である。人間は神に由来するもの全てを研究対象とみなすので、神に由来する物事や神が関与する物事に対する人間の反応は、何よりも推測し、疑念を抱き、すぐに神と矛盾し神に反する姿勢を取ることである。その後、人間はそうした受動的な精神状態となり、神と対立し、神と争い、そうした神は人間が従うに値するかどうか疑念を抱くことさえある。人間の理性は、今後はそのようにあるべきでは無いと言うものの、人間はそうすることを選び、何も躊躇せずに、最期まで一貫してそのまま続行する。たとえば、神に関する噂や悪口を人間が聞いた時の最初の反応は、どのようなものであろうか。最初の反応は、その噂の真偽を知らないし、実在するかどうかも分からないので、様子を見よう、というようなものであろう。その後、人間は、それを確かめることは出来ないが、それは存在するのだろうか、その噂は本当だろうか、と考える。この者は、そのような思いを表に出さないが、その者の心には既に疑念が生じ、神を否定し始めている。こうした姿勢や観点の本質は、何であろうか。それは裏切りではなかろうか。人間がそうした問題に遭遇する以前は、その者の観点を知ることは出来ず、その者は神と敵対しておらず、神を敵とみなしていないように思われる。しかし、その者が、その問題に直面するとすぐに、人間はサタンの味方をして、神と敵対する。このことにより示されている事は、何であろうか。それは、人間と神が敵対していることを示している。それは、神が人間を敵として扱っているのではなく、人間の本質自体が神に敵対するものだからである。どれ位の期間神に付き従っているか、どの程度の代償を支払うか、どの程度神を称えるか、どう神を拒否せずにいるか、それだけでなく自らに対して神を愛すよう促しているかを問わず、人間は決して神を神として扱うことができない。それは人間の本質により決定されることではなかろうか。あなたが神を神として扱い、神が神であることを心から信じている場合、あなたは依然として神に対して疑念を抱くであろうか。自分の心の中の神に対して疑問があり得るであろうか、というと、それは有り得ない。この世の傾向は極めて邪悪であり、人類も極めて邪悪である。こうした人間に関して、あなたが何も認識していないのは、何故だろうか。あなた自身、極めて邪悪である。あなたにはその認識が無いのは、何故だろうか。しかし、一部の噂や悪口には、神に関する極めて大きな概念を生み出し、極めて大量の考えを生み出すものもあり、それにより、あなたの背丈がどれほど未熟であるかが示されている。何匹かの蚊や煩わしい蝿の「羽音」だけで、あなたを欺くには十分であろうか。これはどのような種類の者であろうか。神がこのような者をどう思っているかを知っているだろうか。実際には、こうした者を神が取り扱う姿勢は、極めて明瞭である。こうした者に対する神の処遇は、単に冷遇されるだけである。神の姿勢は、そうした者に留意せず、そうした無知な人々を本気で相手にしないことである。それは何故であろうか。それは、神の心では、そうした意を決して最期まで神に反抗し、神と親和する方法を求める計画が一切無い人間を得る計画は、一切無いからである。わたしが述べた事により傷付く者が少なからずいるであろう。あなた方は、わたしの言葉で常に傷付くことを望むであろうか。あなた方がそう望むか如何を問わず、わたしの述べた事は全て真理である。わたしが常にあなた方を傷つけ、あなた方の傷を露わにするようであれば、それはあなた方の心の中にある高尚な神の姿に影響を与えるのではなかろうか。(そのようなことは無い。) わたしもそのような事が無いと思う。なぜなら、単にあなた方の心には、神が存在しないからである。あなた方の心の中にいる高尚な神、あなた方が守ろうとする神は、神ではない。それは、人間の想像の産物であり、その神は存在しない。したがって、この問題の答えをわたしが述べた方が、格段に良い。それが真実の全てではないだろうか。真の神は、人間の想像物ではない。あなた方全員がこの事実を認めることが出来ることを願っている。そうすることは、あなた方の神に関する認識に役立つ。

神に認められない人々

神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ反応することも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。「信者以外の者が神の言葉を読めるだろうか。その者が自分の本分を尽くせるだろうか。その者は『私は神のために生きる』と述べられるだろうか」と質問する者がいる。多くの場合、人間が見るのは、人々の表面的な物事であり、その本質ではない。しかし、神は表面的な物事を見ず、内面的な本質のみを見る。したがって神には、こうした人々に対してそのような姿勢であり、そのように定義されている。こうした人々が「神はなぜこのようなことをするのだろうか。神はなぜあのようなことをするのだろうか。それは私には理解できない、これは私が理解不可能なことだ、それは人間の考えと一致しない、あなたは私に説明する必要がある」など言うことについて、わたしの答えはこうだ。「わたしがこうした事柄について話す必要があるだろうか。この問題はあなたに関係があるだろうか。あなたは、自分が何者だと考えているだろうか。あなたはどこから来たであろうか。あなたは神に助言する資格があるだろうか。あなたは、神を信じているであろうか。神は、あなたの信仰を認めているだろうか。あなたの信仰は、神と無関係であるが、神の業は、あなたにどのような関係があるというのか。あなたは、自分が神の心の何処に位置するかを知らないが、それでもあなたは神と対話する資格があるだろうか。」

勧告

こうした話を聞いて、あなた方は不快であろうか。こうした話を聞きたくない、あるいは受け入れたくないと思うかも知れないが、これらは全て事実である。この段階の業は神が行うものであるので、あなた方が神の趣意や神の姿勢に無関心であり、神の本質と性質を理解しなかったとしたら、結局失うのはあなた方である。わたしの話を、聞くに堪えない、といって責めたり、わたしの話のせいで情熱が冷めた、といって責めたりしないように。わたしは真理を述べているのであり、あなた方を落胆させるつもりは無い。わたしがあなた方に何を求め、あなた方がそれを行うようにどう要求されているかを問わず、わたしはあなた方が正しい道を歩むこと、神の道に従い、そこから外れないことを願っている。神の言葉と神の道に従って進まなかった場合、あなた方が神に反抗し、正しい道から外れてしまっていることは、疑念の余地が無い。したがって、わたしがあなた方のために明確にし、あなた方にはっきりと明瞭に、一抹の疑念も無く信じさせなければならない事柄があると感じている。そうすることで、神の姿勢、神の趣意、神が人間を完全にする方法、神がどのようにして人間の結末を決定するかをはっきりと理解できるようになるためだ。あなた方がこの道に踏み出すことが出来ない日が来た時、わたしには一切の責任が無い。なぜなら、本日の話を、極めて明瞭にあなた方に伝えたからである。あなた方が自分の結末をどのように扱うかについては、完全にあなた方次第である。神は、様々な人々の結末に関し、様々な姿勢をとる。神には、人間を評価する独自の方法と必要条件の基準がある。神が人間を評価する基準は、万人に対して公平なものであることは確実である。そうしたわけで、一部の人々の恐れは不要である。これで安心しただろうか。本日の話はこれで終わりである。ごきげんよう。

言葉は肉において現れる(続編)朗読

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