神の働き、神の性質、そして神自身 1

(その4)

3.神と人間との契約のしるしとして虹を作る

(創世記 9:11-13)「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

次に、神がどのように人間との契約のしるしとして虹を作ったかをこの聖書の箇所から見ていこう。

ほとんどの人々は虹が何であるか知っているし、また虹に関係するストーリーをいくつか聞いたことがある。聖書の虹についてのストーリーは、ある人々は信じているし、別の人々は伝説として捉えている。また、全く信じていない人々もいる。いずれにしても、虹に関係して起こった全てのことは、神が一度したことであり、神の経営計画の過程の中で起こったことである。これらのことは聖書に正確に記述されている。これらの記述は、当時神はどのような気持ちだったのか、あるいはこれらの神が言った言葉の背後にある意図は何だったのかといったことをわたしたちに教えることはない。それ以上に、神がこれらのことを言ったとき神が何を感じていたかをわかることのできる者などいない。しかしながら、このこと全体における神の心境は、文の行間に現れている。まるで神の当時の考えが、ひとつひとつの言葉と言い回しを通してページから飛び出てくるように、である。

人々は神の考えを心に留めるべきであり、最優先に知ろうとすべきである。神の考えは人間の神に対する理解に密接に関係しているものであり、人間の神への理解は、人間がいのちに入ることと切り離せないものだからである。ではこれらのことが起こったとき、神は何を考えていたのだろうか。

はじめに神は人間を創造した。神の目にあって人間は非常によく、神と親密だった。しかし神に反抗した後、彼らは洪水によって滅ぼされた。そんな人間が、このように一瞬で消えてしまうことは神を悲しませただろうか。もちろん悲しませた。では神の痛みの表現は何だったか。聖書の記述には何とあるか。次のように書いてある。「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。このシンプルな文章が神の思いを表現している。この世界の滅びは神の心を非常に痛めた。人間の言葉で言えば、神はとても悲しかったのである。わたしたちは以下のことを想像できる。かつて命で満ちていた地球は洪水によって滅ぼされた後、どのような姿だっただろうか。かつては人で満ちていた地球は今、どのようになったのだろうか。人の住居もなく、生物もなく、地は水で満ち、水面はひどく汚れている。そんな光景は、神が世界を創造したときの神の本来の考えだっただろうか。もちろん違う。神の本来の考えは地の至るところに命を見ること、自分が創造した人間が自分を礼拝しているのを見ることだった。ノアだけが神を礼拝するのではなく、あるいはノアだけが神の召しに答え、与えた任務を全うできる者であるのではない。しかし人間が一掃された時、神が見たのはもともと神が意図していたことではなく、むしろそれとは完全に逆のものだった。これで神の心が痛まないことがあろうか。神が自身の性質を現し、自身の感情を表しているとき、神はある決断をした。神はどのような決断をしたか。人間との誓い、神が洪水によって二度と人類を滅ぼさないという約束として、雲の中に虹(注:わたしたちが見る虹)をかけたのだ。それは同時に、神が一度世界を洪水によって滅ぼしたことを伝え、なぜ神がそのようなことをしたのかを人間に永遠に思い出させるためでもあった。

この時世界を滅ぼすということは、神が望んだことだったか。それは決して神が望んだことではなかった。わたしたちは世界の滅びの後の地上の痛ましい光景をわずかに想像することはできるかもしれないが、当時それが神の目にどのようなものであったかということに関しては、わたしたちの想像ははるか及ばない。それが当時の人々であっても今日の人々であっても、神がその光景、すなわち洪水での滅びの後の世界を見た時の神の感情を想像あるいは理解できる者は誰もいないと言える。人間の不従順故に神はこのことをしなければならなかったのであるが、この洪水による世界の滅びによって引き起こされた神の心の痛みは、人間には計り知れないものである。それゆえ神は人間と契約を結んだ。つまり神が一度このようなことをしたことを思い起こすよう人々に伝えるため、そして神が二度とこのような方法で世界を滅ぼすようなことはしないと彼らに誓うためである。この契約に、わたしたちは神の心を見る。神の心は人間を滅ぼしたときに非常に痛んだことをわたしたちは見る。人間的な言い方をすれば、神は人間を滅ぼして人間が地上から消えるのを見た時、神の心は涙を流し血を流したのである。これが最適な表現ではないだろうか。これらの言葉は人間の感情を表すために人間により用いられるものであるが、人間の言葉は不十分すぎるため、それらを用いて神の感情を説明するのはわたしからするとそれほど悪くなく、また行き過ぎでもない。少なくともそれは、神の当時の心境がどのようなものであったかについて非常に生気溢れる、非常に適切な理解をあなたがたに与えるものだ。あなたがたは今もう一度虹を見るときに何を思うだろうか。少なくとも、神が洪水で世界を滅ぼした時にどれほど悲しんだかをあなたがたは思い出すだろう。神は世界を憎み人間を忌み嫌いはしたが、神が自らの手で創造した人間を滅ぼした時、どれほど神の心が痛み、滅ぼすことを惜しみ、気は重く、耐え難く感じていたかをあなたがたは思い出すだろう。ノアの8人家族だけが神の唯一の慰めだった。神が骨身を惜しまず全てのものを創造した意味があったと思えるのは、ノアの協力があったからだった。神が苦しんでいた時、神にとってそれだけがその心の痛みを和らげるものだったのである。それ以来、神は彼らが神の呪いではなく祝福の下で生きること、洪水によって世界が滅ぼされるのを彼らが二度と見ないこと、そして彼ら自身も滅ぼされないことを望み、人間への期待の全てをノアの家族に託した。

ここからわたしたちは、神の性質のどのような面を理解すべきだろうか。人間が神に敵対したため、神は人間を忌み嫌った。しかし神の人間に対する思い、配慮、憐れみは変わることがなかった。人間を滅ぼした時でさえ、神の心は変わってはいなかった。人間が堕落と神への不従順に満ち、それが一定の程度に達したとき、神は自身の性質と本質、そして神の原則のゆえにこのような人間を滅ぼさなければならなかった。しかし、神の本質のゆえに、神はそれでも人間を憐れみ、様々な方法で人間を贖い、彼らを生かし続けたいとすら願った。しかしながら人間は神に反逆し、神への不従順を続け、神の救いを受け入れることを拒絶した――つまり神のよい意図を受け入れることを拒んだ。神がどのように人間に呼びかけ、思い出させ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解または感謝せず、あるいは注意を払うこともしなかった。痛みの中にあっても、神は人間が心を改めるのを待ち、最大限の寛容を人間に与えることを忘れなかった。そして神が自身の限界に達した後、神は自身が行わなければならなかったことを迷いなく行った。別の言い方をすれば、神が人間を滅ぼすことを計画し始めた時から、実際に人間を滅ぼす働きを正式に始めるまでの間には、一定の期間と過程があったということだ。この過程は人間が心を改める機会を与えるために存在した。そしてそれは神が人間に与えた最後のチャンスだった。では神が実際に人間を滅ぼすまでの期間、神は何をしていたのだろうか。神は人間に思い起こさせ、忠告するために多くの働きをしていたのである。神の心がどれほどの痛みと悲しみにあったかに関わらず、神は人間を配慮し、心配し、溢れるほどの憐れみを人間に注ぎ続けたのである。このことからわたしたちは何を見るだろうか。神の人間に対する愛が真実であって、お世辞のようなものだけでないことがはっきり見て取れる。その愛は実際に存在し、感じ知ることができ、偽物ではなく、汚れたり、欺いたり、あるいは偽装したりしていないものである。神は自分が愛すべき者であることを人々に見させるために、騙したり、イメージを繕ったりすることは決してしない。偽証によって自分の魅力を人々に見せようとすることも、自分の魅力や聖さを誇示することもない。このような神の性質は人間の愛を受けるに値するものではないか。礼拝されるに値するのではないだろうか。大切にされるに値するのではないだろうか。ここで、わたしはあなたがたに尋ねたい。これらのことを聞いた今、神の偉大さは単に紙に書かれている言葉だけのものだと思うか。神の魅力はただの虚しい言葉か。違う。絶対に違う。神の至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛……これら全ての様々な神の性質と本質の側面は、神が業を行うたびに現れるものであり、神の人間に対する意志が具現化されたものであり、そして全ての人間に対し履行され、反映されるものである。あなたがこれまでにそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神は全ての人をあらゆる方法の限りを尽くして思いをはせ、一人一人の心を温めるため、そして一人一人の霊を呼び覚ますため、誠実な心、知恵、そして様々な方法を用いている。これは議論の余地のない事実だ。何人ここに座っているかに関わらず、一人一人が、神の寛大さ、忍耐、愛をそれぞれ経験し、感じてきている。端的に言って、それらの神の経験、そして神に対する感じ方または認識と言った肯定的なものは全て神からのものである。そのような自分が得てきた神の経験と認識を融合させ、あなたがたは今日読んだこれらの聖書のくだりと結びつけることにより、神についてのより現実的で正しい理解を身につけることができただろうか。

このストーリーを読み、この出来事を通して現されている神の性質のいくつかを理解したあなたがたは、どのような神への真新しい理解を得ただろうか。神と神の心について、より深い理解を得ただろうか。再びノアのストーリーを読むとき、以前とは違った思いを持つだろうか。あなたがたの視点から見て、これらの言葉を伝えることは不要だったと思うだろうか。これらの言葉について聞いてみて、あなたがたはこれが必要なかったと思うだろうか。必要だったのではないだろうか。わたしたちが読んできたのは物語だが、これは神が一度は行った業の真の記録である。わたしの目的はこれらの物語や登場人物の詳細をあなたがたに深く理解してもらうためでも、あなたがたが登場人物を学ぶためでもなく、ましてや聖書を改めて勉強するためなどではない。わかるだろうか。これらのストーリーは、あなたがたの神に対する認識の助けになっただろうか。このストーリーはあなたがたの神への理解に何を与えてくれただろうか。香港の教会の兄弟姉妹よ、教えてくれないか。(神の愛はわたしたち堕落した人間は誰も持っていないものだということがわかった。)韓国の教会の兄弟姉妹よ、教えてくれないか。(神の人間への愛は真実だということが分かった。神の人間への愛は神のご性質を現すものであり、神の偉大さ、聖さ、至高、寛大さを現すものであることが分かった。このようなストーリーを通してそれら全てが神のご性質の一部分であることをより知ることができ、そしてわたしたちがより深く理解しようとする価値のあるものであることも知ることができる。)(先ほどのような交わりを通して、一方では義であり聖い神のご性質をわたしは見ることができ、そしてもう一方では、神の人間への思い、神の人間への憐れみ、そして神のすることの全て、また神の考えることや思うことの全てに神の人間に対する愛と配慮が現われていることもわたしは見ることができる。)(わたしは、以前は神が洪水を用いて世界を滅ぼしたのは人間が一定程度まで邪悪になったためであり、そして神が人間を滅ぼしたのは人間を憎んでいたからであるかのように理解していた。今日神がノアのストーリーについて語り、神の心は苦しみに満ちていたことを知ってはじめて、実は、神は人間を滅ぼしたくはなかったことを悟った。単に人間が不従順すぎたために、人間を滅ぼすほかなかっただけだった。事実、神の心は人間を滅ぼした時、悲しみに満ちていた。このことから神のご性質に人間への思いと配慮を見ることができる。これはわたしが今まで知らなかったことだ。)素晴らしい。次の方もどうぞ。(わたしはこれを聞いてとても影響を受けています。わたしは聖書を読んだことはありましたが、今日のように、神がこれらのことを直接分析してわたしたちが神を知ることができるという経験は初めてです。このように聖書を理解できるよう神がわたしたちを導いてくださり、人間が堕落する以前、神の本質は人類への愛と配慮であったことをわたしに理解させました。人間が堕落したときから今の終わりの日まで、神はずっとその義のご性質を現しながらも、神の人間への愛と思いは変わらない。それにより、神の愛の本質が、創造から今まで、人間の堕落にも関わらず決して変わらないことがわかります。)(今日わたしは、神の本質はその働かれる時や場所によって変わることのないことを理解しました。また、神が世界を創造するにしても、あるいは人間の堕落の後に滅ぼすにしても、神のすること全てには意味があり、そして神のご性質を内包するものだということも理解しました。それによってわたしは神の愛が永遠で計り知れないことを理解し、そして他の兄弟姉妹が言ったように、神の世界を滅ぼした時の人間に対する配慮と憐れみも知りました。)(わたしはこのようなことは今まで知りませんでした。今日の話を聞いて、神は真に信頼できるお方で、真に信じるに値するお方で、信仰を持つ価値のあるお方で、実際に存在されるお方だとわたしは感じます。神のご性質と神の愛がこれほどまでに真に揺るぎないものであることが良く分かります。今日の話を聞いて、そう感じました。)素晴らしい。今日の話をあなたがたはしっかり心に受けとめたようだ。

今日話した聖書の箇所を含む聖書全体に通じるある事実にあなたがたは気づいただろうか。神は自分の考えを表現したり、人間への愛と配慮を説明したりするために自身の言葉を用いたことがあるだろうか。神がどれだけ人間を思い、愛しているかを神が平易な言葉を使って表した記録はあるだろうか。ない。違うだろうか。この中の実に多くの人が聖書あるいは聖書以外の本を読んだことがあるが、あなたがたの中の1人でもそのような言葉を見たことのある人はいるか。絶対にいない。つまり、神の言葉や神の業の記録を含む聖書の記述の中では、どの時代あるいはどの期間にあっても、神が自身の感情を説明したり、人間への愛や思いを表現するために自身の方法を用いたり、あるいは自身の気持ちや感情を伝えるために言葉や行動を用いたことはない――これが事実ではないだろうか。なぜわたしはこう言うのか。なぜこれを示さなければならなかったのか。それは、これもまた神の魅力と神の性質を内包しているからである。

神が人間を創造した。彼らが堕落していようと神に付き従っていようと、神は人間を自分の愛する者として、あるいは人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接し、オモチャのようには扱わなかった。神は自分が創造主であり、人間は神が創造したものだと言っている。ということは、そこには少しの格の違いがあるように思われるが、実際には神が人間に対し行ってきたことというのは、この関係の性質をはるかに越えるものである。神は人間を愛し、思い、そして配慮してくれる。そして常に絶えることなく人間に与え続けてくれる。神はそれを心の中で余計な仕事とも、多くの賛辞に値することとも感じていない。また神は人間を救い、彼らに与え、全てを与えることを人間への大きな貢献とも思っていない。神はただ静かに、神自身のやり方で、神自身の本質を通して、自身の持っているものとその存在そのものを与えてくれるのである。どれだけ人間に与えてくれていても、どれだけ助けても、神はそれを手柄と考えたり、それによって手柄をたてようと考えたりしない。これは神の本質によるものであり、そしてまさしく神の性質の真なる表現なのである。それゆえ、聖書その他の本の中に神が自身の考えを現わしているものを見つけることもできなければ、また、自身が行う働きに関して人間に対する大きな愛を説明したり表明したりして人間に自身への敬意を感じさせたり称賛させたりするようなものを見つけることはできないのである。神は傷ついている時や心が激しく痛む時でさえ、ひとり静かにひたすらその傷と痛みに耐えながら、人間に対する責任あるいは思いを忘れずにいる。その一方で神は、いつものように、人間に与え続けるのである。人間は神をしばしば賛美したり証しをしたりするが、それらのどれもが神に要求されているものではない。なぜなら神は、人間に感謝されたり見返りを得たりするために人間によい働きをすることなどないからである。神を畏れ悪を避ける人々、誠をもって神についていき、神にうかがい、神に忠実で神に従う人々は、神の祝福をしばしば受け取るのであり、神はたくさんの祝福を惜しみなくこれらの人々に与えるのである。さらに、人々が神から受け取る祝福は、しばしば人間の想像を超えるものであり、人間が自らの行いや自らが払った犠牲に対する代価として受け取れるものをはるかに超えている。人間が神の祝福を楽しむ時、神の行っていることを気にかける人はいるだろうか。神がどのように感じているかに配慮を示す人はいるだろうか。神の痛みを理解しようとする人はいるだろうか。これらの問いへの正確な答えは「いない」である。当時神が感じていた痛みを理解できる者が、ノアを含めた全人類の中にひとりでもいるだろうか。神がなぜあのような契約を打ち立てたかを理解することができる人はいるだろうか。人間には理解できない。人間は神の痛みを理解しない。それは人間が神の痛みを理解できないからでも、神と人間の差によるものでも、神と人間の立場の違いからでもない。人間が単に神がどう感じているかを気にかけることすらしないからである。神は独立した存在なので、人が神を思ったり、理解したり、配慮を示したりする必要がないと人は考える。神は神であって、痛みを感じることもなく、感情もない。神は悲しむこともなければ、嘆くこともなく、泣くことすらない。神は神であって、感情の表現は一切必要なく、そして感情的な慰めも一切必要としていない。もしある状況下で感情の表現や慰めが必要ならば、そのときは神が自分自身で解決し、人間からの助けは一切必要としない。逆に、神の慰め、施し、励ましを必要としているのは、弱く未熟な人間のほうであり、人間はいつでもどこでも神に慰めてもらわなければならない。そのような考えが、人間の心の奥底に隠れている。弱いのは人間のほうだ。彼らは何においても神に世話してもらう必要があり、神からのあらゆる助けを受けるにふさわしく、自分のものであるべきだと感じるものを何でも神から求めるべきだ。神は強い。神は全てを持っている。そして神が人間の後見人であり、祝福を授ける存在であるべきだ。神はすでに神であるから、神は全能であり、人間からは決して何も必要としないのだと。

人間は神が表現することのいずれにも注意を払わないので、神の悲しみ、痛み、または喜びを感じたことはない。しかし逆に、神は人間の感情表現を自分のそれのようによく知っている。神は常にどこにいても皆の必要を満たし、一人ひとりの考えの変化を見て、彼らを慰め、励まし、導き、光を灯す。神が人間に対し行ってきた全てのこと、そして彼らのゆえに払った全ての代価に関して、神が人間から何か得ることを求めていることをはっきりと示している聖書のくだり、あるいは神の言葉はあるだろうか。ない。対照的に、どれだけ人々が神の考えを無視しようと、それでも神は人間を繰り返し導き、繰り返し与え、助け、そうすることで人間が神の道に従えるようにし、神が彼らのために用意した美しい終着点へとたどり着くようにしたのである。神について言えば、神の持っているものと神であるもの、神の恵み、神の憐れみ、そして神の全ての報いは、神を愛し従う人々には惜しみなく与える。しかし神は誰にも自身の苦しんだ痛みあるいは自身の心境を明かすことはなく、人間が神自身に配慮せず、自分の意志を知らないことに対して不満を言ったこともない。神はそれらのこと全てを静かに耐え、人間がわかるようになる日を待っている。

なぜわたしはこれらのことを述べたのか。わたしの述べたことから、あなたがたは何がわかるだろうか。最も見落としやすい神の本質と性質の中に、神だけが持つことができるものがある。それは偉大だと思われている人々や良い人と思われている人々、また彼らの想像上の神も持つことができないものである。それは何か。それは、神が無私であることだ。無私について話すと、あなたは自分もまた非常に無私だと思うかもしれない。なぜなら、自分の子供のことに関して言えば、あなたは子供と取引は決してせず、気前良く与えるからである。あるいは自分の両親のことに関してなら、あなたは自分が非常に無私だと思うかもしれない。あなたがどう考えるかに関わらず、少なくともあなたは「無私」という言葉の意味を理解しており、そしてそれは肯定的であり、無私な人であることはとても立派なことだと考えている。自分が無私であるとき、自分は素晴らしいとあなたは考える。しかし全ての物、人、出来事の中にあって、そして神の業を通して、神が無私であることを見ることのできる人はいない。なぜか。それは、人間があまりに自己中心だからである。わたしがこう言うのはなぜか。人間は物質的世界に住んでいる。あなたは神に付き従っているかもしれないが、神がどのようにあなたに与え、あなたを愛し、あなたに配慮しているかを見たり理解したりすることはない。ではあなたは何を見るのか。あなたはあなたを愛してくれる、あなたを可愛がってくれる肉親を見ている。あなたは自分の肉にとって有益なものに目を留め、自分が愛する人々や愛する物事に心を配る。それが人間の言う無私だ。ところがそのような「無私」な人々も、彼らに命を与える神のことは決して気にかけない。神とは対照的に、人間のいう「無私」とは自己中心で卑劣なものとなっていく。人間が信じる無私とは、空虚で現実が伴わず、汚れた、神とは相成れないものであり、神とは全く関係がない。神の無私とは神の本質の真の現れである一方、人間の無私というのは自分自身のためのものである。人間が神の与えられるものを常に受けているのは、まさしく神が無私であるゆえである。あなたがたはわたしが今日話しているテーマにそれほど深く影響されず、単に同意の頷きをしているだけかもしれない。しかしあなたが自分の心の中に神の心を理解しようとすると、あなたはこのような発見をせざるを得ない。この世の全ての人々、出来事、そして物の中にあって、神の無私だけが真実で揺るぎないものであると。なぜなら神のあなたに対する愛だけが無条件で汚れのないものだからである。神以外の全ての者のいわゆる無私は全て偽もので、表面的、そして魂胆があるものである。そこには目的、特定の意図、取引があり、試みに耐えることができない。それは汚れた卑しむべきものだとさえ言える。あなたがたもそう思うか。

あなたがたがこれらのテーマについてあまり馴染みがないこと、そして本当に理解する前に、自らのものにするための時間がもう少し必要だという事をわたしは知っている。これらの問題とテーマにあなたがたが馴染みがなければないほど、それがあなたがたの心の中にはないことを証明する。もしわたしがこれらテーマについて話さなかったら、あなたがたの中で少しでもそれを知っていた者はいるだろうか。知ることはまずなかっただろう。間違いない。あなたがたがどれだけ理解し、知ることができても、端的に言って、わたしが話したこれらの話は人々に最も欠けているものであり、しかも最も知るべきことである。これらのテーマは全ての人にとって非常に重要だ。それらは尊く、それらはいのちであり、あなたがたがこれから進む道で持っていなければならないものだ。これらの言葉の導きそしてあなたの神の性質と本質への理解なくしては、あなたは神に関していつも疑問を持つことになる。神を理解することさえ出来ていなければ、どうやって神を正しく信じることができるだろうか。あなたは神の感情、神の意思、神の心境、神が考えていること、神を悲しませること、神を喜ばせることについて何も知らない。それでどうして神の心に配慮することができるのか。

神が悲しむ時はいつでも、神は自身に全く気を留めない人間に向き合い、神に従い、自分は神を愛していると言いながら神の感情を完全に無視する人間に向き合う。これでどうして神の心が傷つかないことがあろうか。神の経営の働きの中で、神は誠実に働きを実行し、ひとりひとりに語り、そして自分自身を惜しみなく現わす。それとは逆に、全ての神に従う人間は神に対し閉鎖的であり、積極的に神に近づいていったり、神の心を理解しようとしたり、神の感情に気を留めようとする者はいない。神と親友になりたいと思っている人々でさえも、神に近づこうとせず、神の心に配慮しようとせず、神を理解しようとしない。神が喜ぶ時、誰もその喜びを分かち合える人間はいない。神が人々に誤解されている時、神の傷ついた心を慰める者はいない。神の心が痛んでいる時、神が打ち明けることに耳を傾けようとする者は一人もいない。何千年に亘る神の経営の働きを通して、神の気持ちを知る者も、深く理解する者も感じる者もおらず、ましてや神に寄り添って神の喜びや悲しみを分かちあう者などひとりもいない。神は孤独だ。神は孤独なのだ。神が孤独なのは単に堕落した人間が敵対するからだけではない。霊的であろうとし、神を知ることを追い求め、神を理解しようとし、さらに神に人生の全てを捧げたいと思っている人々ですら、神の考えを知らず、神の性質と感情を理解しないからである。

ノアの物語の最後で、わたしたちは神が普通とは違った方法で自身の感情を表したのを見た。その非常に特別な方法とは、人間と契約を結ぶことだった。それは神が洪水によって世界を滅ぼすことが二度とないということを宣言する方法だった。一見、契約を結ぶということは実に普通のことのように思える。それは両者の利益を保護することを目的として、言葉を用いてお互いを侵害行為から守るものでしかない。形の上では、それは非常に普通のことであるが、その背景にある動機と神がこのことを行った意味からすれば、この契約は神の性質と考えを真に現すものなのである。もしあなたがただこれらの言葉を脇に置いて無視するならば、わたしが事の真実をあなたがたに伝えない限り、人間は決して神の考えを知ることはない。あなたの想像の中では神はこの契約を結んだときに微笑んでいたか、もしくはおそらく神の表情は真剣だったと思っているだろう。しかし多くの人々が想像するような神の表現とは関係なく、誰も神の心や神の痛み、まして神の孤独は誰も見ることができない。自分を神に信頼させることのできる人間、または神の信頼するに値する人間などいない。神が自身の考えを表現したり、自身の痛みを打ち明けたりできる人間もいない。それゆえに神はそのようなことをするしかなかったのだ。表面的には、神はかつての堕落した人間と決別するために簡単なことを行い、過去を終結させ、自らが起こす洪水よる世界の破滅に対し完璧な結論を描いたように見える。しかしながら、神はこの瞬間から、自身の痛みを心の奥深くに埋めたのである。誰にも心を打ち明けられる者がいない当時、神は人間と契約を結び、二度と洪水によって世界を滅ぼすことはしないと伝えたのである。虹が出るのはかつてこのようなことがあったと人々に思い起こさせ、悪を行わないように警告するためだ。そのような痛みの中にあっても、神は人間を忘れず、人間へ多くの配慮を示し続けた。これは神の愛であり、無私無欲さではないだろうか。しかし人々が苦しんでいる時には何を考えるだろうか。そのような時が、彼らが神を最も必要とする時ではないか。このような時はいつも人々は神を引きずり出し、神に慰めでもらおうとする。どんな時でも、神は人々を落胆させることはない。そして神はいつも人々を苦境から抜け出させ、光の中で生きるようにさせてくれる。神は人間に非常に多くを与えているにも関わらず、人間の心の中では、神は単に安心するための薬か気付け薬以外の何物でもない。神が苦しんでいる時、神の心が傷ついている時、被造物あるいは誰か人間がそばにいて慰めを与えるなどということは、神にとって間違いなくただの高望みともいえるものだ。人間は決して神の感情に気を留めない。ゆえに神は決して自分を慰めることのできる誰かにいて欲しいと願ったり、期待したりすることはない。神は自身の気持ちを表現するために、ただただ、自身の方法を用いる。人々は、そのような苦しみを神が通ることが大したことだとは考えない。しかしあなたが本当に神を理解しようとする時、神の行うこと全てにおける心からの意図を真に理解できる時、神の偉大さと神の無私を感じることができる。神は虹を用いて人間との契約を結んだが、神はなぜそうしたのか、なぜその契約を打ち立てたのかを誰にも言っていない。つまり、神は自身の本当の考えを誰にも話していない。それは、神が自らの手で創造した人間への愛の深さを真に知ることができる者は一人としておらず、そして人間を滅ぼした時にどれほどその心が痛み、苦しんだかを理解できる者はいないからである。したがって、神がたとえ自分がどのように感じるかを人間に伝えたとしても、彼らにはその信頼を受け止めることができないのである。痛みを感じているにも関わらず、神は次の段階へと自身の働きを進める。神は全ての苦しみを静かに負いながらも、人間には自身の最善の側面を与え、最善のものを与えてくれる。神は決してこれらの苦しみを広く打ち明けることはない。むしろ、神はそれらに耐え、静かに待つ。神の忍耐は冷たくはなく、無感覚なものでもなく、無力なものでもなく、弱さの印でもない。それは神の愛と本質が無私であるという印である。これは神の本質と性質の自然な現れ、そして創造主なる神の身分を真に具現化したものである。

このように言ったところで、わたしの言ったことを誤解する人もいるかもしれない。わたしが神の感情をこのように細かく、煽動的に説明してきたのは、人々に神を気の毒だと思わせたいからだろうか。そのような意図はあっただろうか。(ない。)わたしはあなたがたが神をよりよく知るようになり、神のすべての面を知るようになり、神の感情を理解するようになり、そして神の本質と性質は、人間の空虚な言葉、文字、教義の空想により描かれたものと反対に、徐々に、確実に、その働きを通して表されているということをあなたがたが知るようになるためだけにこれらの話をしてきている。つまり、神、そして神の本質というのは実際に存在する。それらは絵画や想像上のものでも、人間に造られたものでもなく、人間に捏造されたものでも勿論ない。それが理解できただろうか。もし理解できたのならば、今日のわたしの目標は達成された。

今日わたしたちは3つのテーマについて話した。あなたがたがこれら3つのテーマを通して多くを学んだと信じている。これらの3つのテーマを通して、わたしが説明したような神の考え、あるいはわたしが話した神の性質や本質が、人々の神への概念や理解を変え、皆の神に対する信仰を覆すことすらし、さらに、心の中で称賛されていた神のイメージを覆したとわたしは確信を持って言える。いずれにせよ、今日聖書の2つの箇所から学んだ神の性質があなたがたの役に立つことを願う。そして帰宅後さらに深く考えることを願う。今日の集会はこれで終了する。さようなら。

2013年11月4日

『言葉は肉において現れる』より引用

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