神の働き、神の性質、そして神自身 2

(その2)

アブラハムが生きたその時代、神はひとつの町を滅ぼしている。その町の名はソドム。間違いなく多くの人がソドムの町の物語を知っているが、ソドムを滅ぼしたことの背景にある神の思いを知る人はいない。

そこで今日は、以下の神とアブラハムのやり取りを通して、当時の神の考えを学ぶと同時に、その性質についても学んでいくことにする。では、次の聖書箇所を読んでいこう。

B.神はソドムを滅ぼさなければならなかった

(創世記 18:26)ヤーウェは言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

(創世記 18:29)アブラハムはまた重ねて神に言った、「もしそこに四十人いたら」。神は言われた、「それをしないであろう」。

(創世記 18:30)アブラハムは言った、「もしそこに三十人いたら」。神は言われた、「それをしないであろう」。

(創世記 18:31)アブラハムは言った、「もしそこに二十人いたら」。神は言われた、「滅ぼさないであろう」。

(創世記 18:32)アブラハムは言った、「もしそこに十人いたら」。神は言われた、「滅ぼさないであろう」。

これらは聖書から抜粋したものである。抜粋であるため、原本とは異なる。もし原文を読みたければ、自分で聖書を読んでほしい。時間を節約するため、原文から数カ所省いた。いくつか鍵になる箇所と文に絞り、今日の話に関係のない部分を省いた。今日の話では、それぞれの物語の詳細や登場人物については省略し、当時の神の思いと考えに絞って話を進める。神の思いと考えの中に、わたしたちは神の性質を見ることができ、そして神が行った全てのことから真の神自身を見ることができる。そうすることで、わたしたちの目標を達成できる。

神は自身の言葉に従い、命令に従う者のみを慈しむ

上の箇所はいくつかのキーとなる数字を含んでいる。始めヤーウェは、もしその町に五十人の正しい人を見つけたならば、その町全部を赦し、滅ぼさないと言った。結果はどうであったか。五十人の正しい人がいたか。いなかった。アブラハムは速やかに神に何と言ったか。「もし四十人いたら」と言った。すると神は、「滅ぼすまい」。するとアブラハムは言った。「もし三十人いたら」。神は言った。「滅ぼすまい」。「もし二十人いたら」。「滅ぼすまい」。「もし十人いたら」。「滅ぼすまい」。実際に十人の正しい人がその町にいたか。十人はいなかった――いたのはひとりだけだった。それは誰か。ロトだ。この時ソドムには正しい人がひとりしかいなかったが、神はそのことを厳しく、細かく追求しただろうか。しなかった。人間に「もし四十人いたら」、「もし三十人いたら」、そして最後に「もし十人いたら」と聞かれても、「たとえ十人だとしても、その町を滅ぼすまい、その十人のために。滅ぼさず、その十人以外の全員を赦そう」と言った。十人しかいないことでも十分哀れだが、実際にはソドムに十人の正しい人はいなかった。そうであれば、この町の人々が神の目には滅ぼすしかないほど罪と悪に満ちていたことがわかるだろう。五十人の正しい人がいたなら、町を滅ぼさないと神が言ったその意味は何だろうか。これら数字は神にとって重要ではなかった。重要なのは、神が望むような正しい人がその町にいたかどうか、であった。ひとりでも正しい人がその町にいたならば、町を滅ぼしてその正しい人に危害が及ぶことを神は許さなかった。つまり、この町を神が滅ぼすか否か、そこにいた正しい人が何人なのかに関係なく、この罪深い町を神は呪い、嫌っており、滅ぼされて神の目の前から消えるべきだったのである。そして正しい人は生かされるべきだったのである。時代や人間の進歩がどのような段階であれ、神の態度は変わらない。悪を憎み、神の目に正しい人を慈しむ。この明確な神の態度は、神の本質の真の現れでもある。ソドムの町に正しい人がひとりしか見つからなかった時、神は滅ぼすことを拒まなかったからだ。結果ソドムは滅ぼされた。このことから何が見て取れるだろうか。その時代、たとえその町の正しい人が五十人でも十人でも、神は町を滅ぼすことはしなかった。つまり、神を敬い、崇拝する僅かな人間のために、神は全員を赦し忍耐したか、あるいは導きの働きをしたであろう。神は人の正しさを重要視する。自身を崇拝し、自身の前に良い行いのできる者を重要視する。

人類の最初期から今日に至るまで、神が真理を語り、神の道を誰かに語る記録が聖書に書かれているのを読んだ人はいるだろうか。ひとりもいない。わたしたちが読む神の言葉は、人々がすべきことを示しているだけだ。その通りに行った人もいれば、行わなかった人もいる。信じた人もいれば信じなかった人もいる。それだけのことである。したがって、この時代の義人たち、つまり神の目にあって義と認められた人たちは、神の言葉を聞いて神の命令に従うことができるというだけだったのだ。彼らは人々の間で神の言葉を実行するしもべだった。そのような人々が、神を知っていたと言えるだろうか。神によって全き者とされた人たちと言えるだろうか。いや、言えない。それならば神にとって、正しい人の数に関係なく、彼らを神の親友と呼ぶに相応しかったのだろうか。彼らを神の証人と呼ぶことができるだろうか。決して呼ぶことはできない。神の親友とか証人などと呼ばれる価値など勿論ない。では神はそのような人々を何と呼んだのか。聖書の中の今日読んだ聖句の中で、神は何度も彼らを「わたしのしもべ」と呼んでいる。つまり、当時このような義人たちは神のしもべであり、地上で自身に使える人々であった。神はしもべと呼ぶことをどう思っていたのだろうか。なぜしもべと呼んだのだろうか。人々の呼び方に対して神の心に基準があるのだろうか。もちろんある。義人、全き人、公正な人、しもべ――どう呼ぶにせよ、神には基準がある。神はある人を「神のしもべ」と呼ぶ時、神はその人が使いを受け入れることができ、自身の命令に従い、使いによって命ぜられたことを実行できるという確信がある。このしもべと呼ばれた人は何をするのか。神が人に命じ、地上で行うようにと言われたことをするのである。この時、神が人間に地上でせよと言われたことは神の道と言えるだろうか。いや、言えない。当時神はほんの僅かの事しかせよと言っていないからである。神は人に少しの単純なことを、これをせよ、あれをせよというように命じただけだった。神は自身の計画に従って働いた。それは当時、条件がまだ揃っておらず、機も熟しておらず、人間が神の道を背負うのは難しかったため、神の心から神の道が発せられていなかったからである。ここに、三十人であれ二十人であれ、神が義人を語る時には、神の目に彼らはみなしもべであったことを見ることができる。神の使いが彼らに臨んだ時、彼らは使いを受け入れることができ、命令に従い、使いの言葉通りに行動することができた。神の目には、これが正にしもべが行い、成し遂げるべきことだった。神は人々の呼び名に関して思慮深い。神が彼らをしもべと呼んだのは、彼らが今のあなたがたのような者だったからではない。つまり、彼らが説教を沢山聴き、神がなにをしたいかを知り、神の心の多くを理解し、神の経営(救いの)計画について深く知っていたからではない。ただ彼らの正直で、神の言葉に従うことができる人間性によるものである。神が彼らに命令すると、彼らは自分のしていることをやめて、神が命令したことを遂行することができたのである。それゆえ、神にとっては、しもべという彼らの呼び方に込められたもうひとつの意味は、神の地上での業に協力する者ということだった。彼らは神の使いではないが、地上で神の言葉を遂行し実現する者たちだったのである。このようなことから、これらのしもべ、あるいは義なる者たちは神にとって非常に重要な存在だったことが理解できる。神が地上で行おうとしていた業は神に協力する人間なしでは行うことができず、神のしもべによって引き受けられた役割は神の使いには果たせないものだったのである。神がこれらのしもべに命令したことのひとつひとつは神にとって非常に重要なことであったため、神は彼らを失うわけにはいかなかった。これらのしもべの神への協力がなければ、神が人の間で行った業は行き詰まり、その結果、神の経営(救いの)計画も神の希望も無になってしまうだろう。

神は自身が慈しむ人々に対しては溢れるほどの憐れみを与え、神が忌み嫌い拒絶する人々に対しては深く怒りを覚える

聖書の記録では、ソドムに十人の正しい者はいただろうか。いや、いなかった。この町は神に救われるに値したか。町の中で唯一ロトだけが、神の使いを受け入れた。これが意味するのは、町に神のしもべは一人しかいなかったこと、ゆえに神はロトを救い、ソドムの町を滅ぼすほかなかったということである。これらのアブラハムと神のやりとりはシンプルに見えるが、実はとても深いものを示している。神の行動には原則があり、決断を下す前に神は長い時間をかけて観察し、熟考する。決断を下すべき時がこなければ決断しないし、結論を急ぐこともない。アブラハムと神のやりとりは、神がソドムを滅ぼすという決断には少しの間違いもなかったことを示している。神は町に正しい者が四十人、いや三十人、いや二十人もいないことを既に知っていたからである。正しい者は十人すらいなかった。町で正しい者はロトだけだった。ソドムで起こった全てのこと、そしてその状況を神は見ており、手に取るように分かっていたのである。したがって、神の決断が間違っているということはありえない。そして神の全能性とは対照的に、人間はとても鈍く愚かで無知であり、まったく近視眼的な視野しか持っていない。これがアブラハムと神とのやりとりからわたしたちが理解することである。神ははじめの時から今日まで、自身の性質を現し続けている。この箇所でも同様に、わたしたちが見るべき神の性質がある。数字はシンプルで、それ自体は何も示さないが、ここには神の性質を示す非常に重要なことが表現されている。神は五十人の正しい者がいれば、その五十人のために町を滅ぼさない。これは神の憐れみによるものだろうか。これは神の愛と寛容によるものだろうか。神の性質のこの側面をあなたがたは気づいただろうか。たとえ十人しか正しい者がいなかったとしても、その十人のゆえに神は町を滅ぼさないつもりでいた。これは神の寛大さと愛だろうか、あるいは違うだろうか。これらの正しい者たちに対する神の憐れみ、寛容、そして慈しみゆえに、神は町を滅ぼさなかった。これが神の寛容である。そして最後に、わたしたちはどのような結果を見ただろうか。アブラハムが「もしそこに十人いたら」と言った時、神は「滅ぼさない」と言った。その後、アブラハムはそれ以上何も言わなかった。ソドムにはアブラハムが言ったような十人の正しい者はおらず、彼はそれ以上何も言えなかったので、彼はなぜ神がソドムを滅ぼすと決めたのかを理解したのだ。ここにあなたは神のどのような性質を見るだろうか。神はどのような決断をしたのだろうか。つまり、もし町に正しい者が十人いなかったら、町が存在することを許さず、当然滅ぼすという決断である。これは神の怒りではないだろうか。この怒りは神の性質を表すだろうか。この性質は神の聖い本質を示すものだろうか。これは人間が犯してはならない神の義なる本質の現れだろうか。ソドムに十人の義人がいないことを確認すると、神はソドムを滅ぼすことを決め、彼らが神に敵対し、非常に汚れて堕落していたために、町にいる人々を厳しく罰することを決めた。

なぜこのようにこの箇所を分析してきたのだろうか。それはこのわずかなシンプルな文章が神の惜しみなき哀れみと深い怒りという神の性質を最大限に表現しているからである。義人を尊び、憐れみ、寛容を示し、慈しむと同時に、神の心の中には堕落したソドムの民への深い嫌悪があった。これは、惜しみない哀れみと深い怒りではないだろうか。どのような方法で神は町を滅ぼしたか。火によって、である。ではなぜ神は火を使って滅ぼしたのか。何かが燃えるのを見たり、自分が何かを燃やそうとしたりする時、その燃える対象に対してどう感じるだろうか。なぜあなたはそれを燃やしたいのだろうか。それがもう不要になったからか、あるいはもう見たくないからだろうか。それを捨てたいのだろうか。神は火を使うのは、放棄、嫌悪を意味し、ソドムをもう見たくないということであった。それがソドムを焼き滅ぼした際の神の感情である。火を使うことは、神がどれだけ怒っていたかを表している。勿論、神には哀れみと寛容があるが、神が怒りを露にする時には、神の聖さと義に背くことを許さない神の側面を見せる。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動することができる時には、神は人に溢れるほどの憐れみをかける。しかし人間が堕落、そして神への憎悪と敵意で満ちている時、神は深い怒りを表す。では神の怒りはどれほど深いのだろうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、神の目の前から消えてなくなるまで続く。そうしてはじめて、神の怒りは消える。言い換えると、誰であれその心が神から離れ、神に背き、神に帰ることがないならば、たとえ外見上神を礼拝し、従い、そして思考の中で礼拝し従っても、その心が神に背いた途端、神の怒りが発せられ、止むことはない。人間に十分な機会を与えたうえで、いったん深い怒りが発せられるならば、それを撤回することはなく、神は二度とそのような人間に憐れみや寛容を示すことはない。これは、神に背くことに耐えることがないという神の性質のひとつである。そうであれば、神の目には罪に満ちた町が存続するのは不可能であり、滅ぼされるべきものなので、神がそのような町を滅ぼすのは当然のように人間にも思われる。そのような町が神に滅ぼされるというのは理に叶っている。しかしながら神がソドムの町を滅ぼす前後に起こったことを見ると、神の性質の全体像が見える。優しく、美しく、善いものに対しては神は寛大で憐れみ深い。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対しては、深く怒り、その怒りは止まることがないほどである。神の溢れんばかりの憐れみと深い怒り――これらは神の性質の2つの原則であり、最も重要な側面であり、初めから終わりまで示されているものである。あなたがたの大半は神の憐れみを何かしら経験しているが、神の怒りを経験している人はごく僅かだ。神の憐れみや優しさは誰の中にも見ることができる。つまり、神は全ての人に対して憐れみ深い。しかし、神は誰に対しても、そしてここにいるどのグループに対しても、ほとんど深く怒ったことはなく、一度もそのように深く怒ったことはないかもしれない。落ち着いてほしい。早かれ遅かれ、誰もが神の怒りを見、経験する。今はまだその時ではないのだ。なぜだろうか。神が常に誰かに対して怒っている時、つまり神がその深い怒りを彼らの上に降り注ぐ時は、神が長い間その者を嫌い、拒絶し、その存在を忌み嫌い、耐えられなくなったということである。一旦神の怒りが下されると、その者たちは消え去る。今は、神の業はまだそこまで進んでいない。神が深い怒りを注ぐ時には、誰もそれに対抗することはできない。そうであれば、神は今の時点ではあなたがたに憐れみ深いだけで、神の深い怒りをまだ知らないということだ。まだ納得していない人がいたら、神が自分に怒りを注ぐように頼んでみると良い。そうすれば、神の怒りや犯してはならないその性質が本当に存在するのが分かるだろう。試してみたいだろうか。

終わりの日の人々は神の言葉の中にのみ神の怒りを見、神の怒りを真に体験することはない

これらの箇所に書かれた神の性質の2つの側面は、ここで説明するに値するものだっただろうか。物語を聞いて、神への理解は一新されただろうか。今はどのような理解を持っているだろうか。創造の時から今日まで、この最後の集団ほどに神の恵みと憐れみを享受した集団は他になかったと言えるだろう。最後の段階では、神は裁きと刑罰の業を行い、威厳と怒りによって業を行っているが、ほとんどの場合神は業を成し遂げるために言葉のみを用いる。言葉により教え、育て、施し、養うのである。その間神の怒りはずっと隠されており、神の言葉の中に神の怒りの性質を体験する場合を除いては、神の怒りを実際に体験したことのある人はほとんどいない。つまり、神の裁きと刑罰の業が行われている間、神の言葉の中に現されている神の怒りによって人々が神の威厳と人間の悪に対する不寛容さを経験することはできるが、神の怒りはその言葉以上のものにはならないのである。言い換えれば、神は言葉を用いて人を戒め、暴き、裁き、罰し、責めることすらするのである。しかし神はまだ人間に深い怒りを持っておらず、そして言葉以外に人間に対する怒りを発したことはほとんどないのである。したがって、この時代に人間が経験した神の憐れみと慈愛も、神の真の性質の現れである一方で、人間が経験した神の怒りは単に神の言ったことと口調の影響に過ぎないのである。多くの人がこの影響を神の怒りの真の経験と認識だと誤解している。その結果、ほとんどの人々が神の言葉の中に神の憐れみと慈愛、そして人間の罪に対する神の不寛容を見たと信じており、ほとんどの人々が神の人間に対する憐れみと寛容を知ったとさえ思っている。しかし人間の行いがどれだけ悪かったとしても、どれだけ人間の性質が堕落していたとしても、神はいつでもそれに耐えてきた。神が忍耐する目的は、自身の語った言葉、神が注いだ労苦、神が払った代価が、神が勝ち取りたいと願っている人々の中に効果をもたらすことである。このような結果の達成には時間がかかる。また人間のために違う環境を用意する必要もある。人が生まれてすぐ大人になることがなく、成熟した本当の大人なるまでに18年から19年かかり、20年から30年かかる人もいるのと同様に、である。神はこの過程の完了を待っており、そのような時が来るのを待っている。そしてその結果を見るのを待っているのである。そしてその待っている間、神はとても憐れみ深いのである。しかしながら神の業のこの期間に、極めて少ない人数の人々は滅ぼされ、また重大な反抗のゆえに罰を受けた人々もいる。そのような例は、神の悪に対する手厳しい性質のより確かな証明でもあり、そしてまた神が選んだ人々に対しての寛大さと忍耐強さの真性の証明である。もちろん、このような典型的な例では、神のこれらの人々に現す性質が、神の全体的な計画に影響することはない。事実、この神の業の最終段階では、神は待ち続けていたその間ずっと耐え続けてきたのであり、神に従う者の救いのため、その忍耐と命を引き換えにしたのである。このことが理解できるだろうか。神は理由なく計画を覆さないのだ。神は怒りを爆発させることもできるし、憐れみ深くいることもできるのである。これが神の性質の現れにおける2つの主要な部分である。はっきりわかるだろうか、あるいははっきりしていないだろうか。別の言葉で言えば、神に関して言えば、善悪、正と不正、肯定的なものと否定的なものの全ては人間に対してはっきり示されているのである。神が行い、好み、また嫌うもの――これらのことは全て神の性質の直接的な反映となりえる。このようなことは神の業にわかりやすく明確に見ることができ、そして不明瞭であったり概要的であったりすることはない。むしろ、これらのことは全ての人々が神の性質と神であることを、揺らぎない、真実性のある、具体的な形でしっかり見ることを可能にする。これが本当の神自身なのである。

神の性質が人間に隠されたことはない――人間の心が神から離れたのである

もしわたしがこのような話をしなかったならば、あなたがたはひとりとして聖書に書かれている物語を通して神の真の性質を知ることはできなかっただろう。これは事実である。というのは、これらの物語は神の業の一部を記録しているけれども、神はわずかしか語っておらず、自身の性質を直接現わしてもおらず、自身の心を公に現してもいないからである。後の時代の人々は、これらの話を単なる物語としてしか捉えておらず、それ故神は人には隠された存在であるかのように感じられ、神の本当の姿が人間に隠されているのではなく、神の性質と心が人間には隠されているように感じる。今日のフェローシップの話を聞いても、神が人から完全に隠されていると感じるだろうか。あなたがたは今でも神の性質が人間から隠されていると思うか。

創造の時以来、神の性質は神の業の段階と調和している。人間に隠されていたことはなく、むしろ完全な形で公に現されており、また人間がわかるような平易な形で現されている。それでも、時が経つと共に、人間の心はこれまでにないほどに神から遠くなり、人間の腐敗が進むにつれ、人間は神からますます離れていった。ゆっくりと、しかし確実に、人間は神の視界から消えていった。人間は神を「見る」ことができなくなり、人間には神からの「知らせ」は何も届かなくなった。人間は神が存在するかどうかが分からなくなり、それだけでなく、神の存在を完全に否定するほど離れてしまったのである。結局、人間の神の性質と神であることに対する無知は、神が人間から隠されていることが原因ではなく、人間の心が神に背いていることが原因なのである。人間が神を信じていても、その心には神がいないままであり、神をどう愛するかも分からず、神を愛したいとも思わない。人間の心は神に近付いたことがなく、常に神を避けているからである。その結果、人間の心は神から遠く離れてしまっている。では人間の心はどこにあるのか。実際には、人間の心はどこかに行ってしまったわけではない。人間は自分の心を神に明け渡したり、神に見て頂こうと神の前に明らかにする代わりに、自分の中に閉じ込めてしまった。「ああ神様、わたしの心を見てください。あなたはわたしの考えることを全てご存知です」などとしばしば祈る人もあり、中には自分の心を神の前に明らかにすると誓い、誓いを守らなければ罰を受けることすら厭わないとまで言うが、事実はその逆なのである。たとえ人間が、神に自分の心を見せたとしても、それは人間が神の導きと采配に従えるという意味でもなく、自分の運命や将来を手放し、全てを神の支配に委ねるという意味でもない。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたの神への態度に関わらず、あなたの心は神の目には閉ざされたままなのである。神に自分の心を見せはしても、それを支配することは許可していないのだから。別の言い方をすれば、あなたは神に自分の心を捧げてなどおらず、神に対して聞こえのいい言葉を並べているに過ぎないのである。一方で、あなたはいくつもの悪賢い考えや企て、陰謀、計画を神には見られないようにし、自分の将来と運命を神に取り上げられるのではないかと深く恐れて手放そうとしない。このように、人間の神に対する誠実さというものを、神は見ることがない。神は人間の心の奥深くを見ており、人間の考えや願い、人間が心にしまい込んであるものを見ることができるが、それでも人間の心は神に属しておらず、人間はその心を神に明け渡してもいない。つまり、神に人間の心を見る権利があっても、それを支配する権利はないのである。主観的な認識に囚われて、人間は自分を神の意のままにして欲しいとも、してもらおうとも思わない。神から自らを閉ざし、それだけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考えようとさえする。聞こえのよい言葉とお世辞を並べてその印象を偽り、そうすることで神の信頼を得、本当の姿を神の目から隠そうとするのである。人間が神にその心を見せたがらないのは、人間が自分の本当の姿を神に知られたくないからである。彼らは神に心を明け渡したいとは思わず、手放さずにいたいと思っている。人間は自分がすること、欲することは全て自分で計画済みで計算済みで、自分で決定済みだということなのである。神に自分の計画に参加してもらう必要も、仲介してもらう必要もなく、ましてや神の指揮や采配など無用なのである。したがって、神の命令、神が与える任務、あるいは神が人間に要求することに関わらず、人間は自分の考えや利益に基づいて判断し、その時の状態や状況に沿って判断するのである。人間は常に自分が馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使ってゆくべき道を判断し選択し、神が仲介し制御することを許さない。これが神から見た人間の心である。

『言葉は肉において現れる』より引用

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