神の働き、神の性質、そして神自身 2

(その4)

次に、ヨブが2度目の試みに遭った時の聖書の箇所を読んでいこう。

3.サタンがもう一度ヨブを攻撃する(ヨブが皮膚病にかかる)

a.神が語った言葉

(ヨブ記 2:3)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

(ヨブ記 2:6)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

b.サタンの言葉

(ヨブ記 2:4-5)サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

c.試練に対するヨブの態度

(ヨブ記 2:9-10)時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

(ヨブ記 3:3)わたしの生れた日は滅びうせよ。「男の子が、胎にやどった」と言った夜もそのようになれ。

神の道に対するヨブの愛は他の全てを越える

聖書には神とサタンの会話が次のように書かれている。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした』」(ヨブ記 2:3)。この会話の中で、神はサタンに対して同じ質問を繰り返している。この質問から、ヨブが最初の試練で見せた信仰に対してヤーウェ神が良い評価を与えたことが分かると同時に、試練の前の評価と何ら変わらないことも分かる。つまり、試練に遭う前のヨブは神の目に完全であり、故に神はヨブとその家族を守り、祝福した。ヨブは神に祝福されるに相応しかったのである。試練の中で財産と子どもたちを失っても、言葉によって罪を犯すこともなく、ヤーウェの名を讃え続けたのである。神はヨブの行いを讃え、満点の評価を与えた。ヨブにとって、子どもたちも財産も、神を捨てるほどの価値あるものではなかったのである。言い換えれば、ヨブの心にある神を、彼の子どもたちも彼のどれほど価値ある財産も引き換えにすることはできなかったのである。ヨブは最初の試みの中で、自らの神に対する愛、神を畏れ悪を避ける道に対する愛が他の全てを越えることを神に示した。この試みは、ヤーウェ神から報いを受け、財産と子どもたちはヤーウェ神に取り上げられるという経験をしたに過ぎなかった。

ヨブにとってこの試みは、自らの心を洗い流す実体験となり、いのちのバプテスマで満たされる経験となった。更に、ヨブの神に対する従順と畏れを試すための壮麗な祝宴でもあったのである。この試みはヨブを富める者から無一文へと変え、サタンによる人間への虐げも経験させた。ヨブは追い詰められてもサタンを憎むことはなかった。むしろ、サタンの卑しい行いにサタンの醜さと卑劣さ、神に対する敵意と反抗を見たのである。それによりヨブは更に、神を畏れ悪を避ける道への決心を固くした。財産や子ども、家族といった外的な要因によって神を見捨てることも神の道に背を向けることもけっしてせず、サタン、財産やどのような人に対しても虜になるようなことは決してないことをヨブは誓った。ヤーウェ神が唯一の主であり神であると誓った。それがヨブの強い思いであった。この試練での別の側面は、その大きな試練の中で、ヨブが神からの豊かな富を得たということである。

それまでの数十年間の人生において、ヨブはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェ神からの祝福を受けてきた。神に対して特に何もしていないと感じていたヨブは、自分に与えられている祝福は身に余るものと恐縮していたが、それでも膨大な祝福と恵みを享受していた。そのためヨブは、しばしば祈り、神にお返しできることを願っていた。神によってなされた業と偉大さを証しし、自分の従順さが試され、更には自分の信仰が純化されて自分の従順さと信仰が神に認められることを願っていた。試練がヨブに臨んだとき、ヨブは神に祈りが聞かれたと思った。長年の願いが叶うことを知ったヨブは何よりこの機会を喜び、決して軽んじることはなかった。この機会は神に対する自身の従順と畏れを試すものであり、純化される機会であったからだ。それだけでなく、神に認められ、近付く機会となるであろうからだった。そのようなヨブの信仰と求める思いにより、ヨブは試練を通して更に完全なものとなり、神の心に対する理解を大いに深めた。ヨブはますます神の祝福と恵みを感謝し、神の業を益々讃え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛と偉大さ、聖さを求めた。この時すでに神の目にはヨブが神を畏れ悪を避ける者として見られていたが、試練という経験を通してヨブの信仰と認識は急速に成長した。信仰が増し、その従順さは揺るがぬものとなり、神への畏れが深まった。ヨブの試練はヨブを霊的に成長させ、いのちの成長があったが、ヨブはそれだけで満足して前進するのをやめるようなことはなかった。試練を通して得たものは何かを考え、自身の弱さを考えながらヨブは静かにいのり、次の試練を待った。自らの信仰、従順、神への畏れが続く試練によってさらに成長することを願っていたからである。

神は人間の心の奥深くにある思い、人間の言動を全て見ている。ヨブの思いはヤーウェ神に届き、神はヨブの祈りを聞いた。そして予想通り、神の次の試練がヨブに臨んだのである。

耐え難い苦しみの中、ヨブは人類に対する神の労りを実感する

自分へのヤーウェ神の質問を聞いたサタンは密かに喜んだ。神の目に完全である人間をもう一度攻撃できるだろうと思ったからだ。サタンにはまたとないチャンスだ。この機会を利用してヨブの確信を揺るがせ、ヨブが信仰を失って神を畏れることもヤーウェの名前を讃えることもなくなることを望んでいたのだ。サタンにとっては、いつでもどこでもヨブを思いのままもてあそぶことができるチャンスだった。サタンは悪意に満ちた企てを完全に隠すことはできても、その邪悪な性質を抑えることはできなかった。聖句に書かれているサタンのヤーウェ神への返答からそれが事実であることがうかがえる。「サタンはヤーウェに答えて言った、『皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」(ヨブ記 2:4-5)。神とサタンのやりとりから、サタンの邪悪さをはっきりと理解し、感じることができるだろう。真理を愛し悪を憎む者であるなら誰でも、このサタンの惑わしを聞いて更にサタンの下劣さと無恥さを嫌悪し、ぞっとするであろう。同時に、ヨブに対して心からの祈りと願いを捧げ、ヨブという正しい人が完全にされ、サタンの誘惑に負けずにどこまでも神を畏れ悪を避けることができるように、そして光の中を歩み、神の導きと祝福の中を歩むことができるようにと願うであろう。そしてヨブの義なる行いが、神を畏れ悪を避ける道を追い求める人々の励みとなり続けることを願うであろう。サタンの邪悪な意図はこの言葉から明らかだが、神はサタンの「要求」を快諾した。ただ、ひとつだけ条件を提示した。それは、「彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」(ヨブ記 2:6)ということである。サタンは次にはヨブの肉と骨に触れようとしていたので、神は「ただ彼の命を助けよ」と言ったのである。神はヨブをサタンに渡したが、命は守ったということである。サタンはヨブの命を奪うことはできなかったが、それ以外のことであれば、ヨブに対してどんな事もでき、それをどのようなやり方でもできたのである。

神の許可を得たサタンはヨブのもとへ急ぎ、ヨブの皮膚を傷めた。ヨブの身体中の皮膚が腫れ、痛みを伴った。だがヨブはヤーウェ神の素晴らしさと聖さを讃えたため、サタンは更に手荒になった。人を傷つけることを喜びとしたサタンは、ヨブの肉を痛めつけ、腫物が彼の身体を覆うようにした。ヨブはすぐに痛みを感じ始め、それは他に匹敵するものがないほどの痛みであり、ヨブは頭の先からつま先までをさすった。肉体の痛みが彼の魂までも打つことのないようにしていたかのようであった。ヨブは神が彼とともにいることを知ってたので、苦難に耐えられるように自分の感情を殺そうとした。ヨブは再び地に伏して言った。「あなたは人の心を見られ、苦悩を見られます。あなたはなぜ人の弱さを心配されるのでしょう。ヤーウェ神の御名はほむべきかな」。ヨブはサタンの目の前で耐え難い苦しみを経験したが、それでもヤーウェ神を捨てることはしなかった。そこでサタンはいそいでその手を伸ばし、全ての骨を砕くばかりの勢いでヨブの骨を痛めつけた。ヨブは瞬く間に経験したことのない苦しみに陥った。それはあたかもヨブの肉が骨から剥がされ、骨を徐々に砕かれるかのようであり、その痛みはヨブがいっそ死んでしまいたいと思うほどであった。彼の忍耐は限界に達していた。ヨブは叫び声を上げ、少しでも傷みを和らげるために自分の皮膚をはぎ取りたい程であった。それでもヨブは叫ぶこともなくこらえ、自分の皮膚を引き裂くことをしなかった。自分の弱さをサタンに見せたくなかったからだ。そして再びひざまずくと、今度はヤーウェ神の存在は感じなかった。ヤーウェ神はしばしばヨブの前に、もしくは後ろか左右のどちらかにいることをヨブは知っていたが、今回はこの痛みの中で、神はヨブを見ていなかった。神はその顔を隠して隠れていた。神が人間を創造したのは、人間に苦しみをもたらすためではなかったからだ。この時ヨブは涙を流し、必死に痛みに耐えていたが、それ以上神に感謝せずにいることはできなかった。「人はひと吹きで倒れる。人は弱く、未熟で無知である。それでもなぜあなたは人を労り、心配されるのですか。あなたはわたしを打ちますが、あなたはそれに痛みを感じておられます。人のいったい何が、あなたの労りと思いやりにふさわしいのでしょう」。ヨブの祈りは神の耳に届いた。神は黙って見ていた。……あらゆる手を尽くしてヨブを試みたサタンは、効果がないことを知って静かに去った。だがヨブに対する神の試みはまだ終わっていなかった。ヨブに現された神の力はまだ公表されていなかったため、ヨブの話はサタンの退散では終わらなかった。別の登場人物によって、さらに壮大な場面が続くのである。

どのような中でも神を褒めたたえることにより、ヨブの神への畏れと悪を避ける姿勢が再び明示される

サタンによる破壊を経験したヨブは、それでもヤーウェ神の名を捨てなかった。サタンの代わりにヨブを最初に攻撃したのは彼の妻であった。聖句には次のようにある。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」(ヨブ記 2:9)。これは人間の形を取ったサタンによる言葉である。そのような言葉はサタンの攻撃であり、非難であり、誘惑であり、中傷である。ヨブの肉への攻撃に失敗したサタンは、ヨブの神に対する忠誠心を直接攻撃し、神への忠誠心を手放し、神を捨て、生きることをやめるように仕向けたかった。それゆえサタンはそのような言葉を用いようとした。ヨブがヤーウェの名を捨てるならば、苦しみに耐える必要はなく、肉体の苦しみから解放される。妻からの忠告を聞いて、ヨブは妻を叱責して言った。「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記 2:10)。これらの言葉をヨブは以前からずっと知っていたが、この時、これらの言葉に対するヨブの認識が証明された。

ヨブの妻はヨブに対して、神を呪って死ぬようにと言ったが、その意味はこうである。「あなたの神はあなたに対してそんな扱い方をしたのです。それならなぜ神を呪わないのです。それでもなお生きて何をしているのです。あなたの神はあなたに対してそれほどにも不公平な扱いをしたのです。それでもなお、ヤーウェの御名は褒めたたえるべきだと言うのですか。あなたがヤーウェを讃えているというのに、災難をもたらすというのはどういうことです。さっさと神の名を捨て、従うのをやめなさい。そうすれば災難は終わるのです」。この時、神の望んでいた証しがヨブの中に生まれた。そのような証しができる者は他に誰もいなかった。聖書の中にそのような証しができる人物の記録もない。だがヨブがこのような言葉を発するずっと前に、神はそれを知っていた。神はこの機会を用いてヨブが全ての人間に、神が正しいことを証明させただけのことである。妻の忠告を聞いたヨブは、神に対する忠誠心を失わず、神を捨てなかっただけでなく、妻にこう言った。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。これらの言葉には重大な意味があるだろうか。これらの言葉の重大さを証明できる事実はひとつだけここに含まれる。これらの言葉が重要なのは、神がそれらの言葉を認めており、神が望んでおり、神が聞きたい言葉であり、神が求めた結果であるということである。これらの言葉はヨブの証しの真髄でもある。これにより、ヨブの完全さ、正しさ、神を畏れ悪を避けることが証明された。ヨブが尊いのは、彼が誘惑に遭い、皮膚が腫物に覆われ、極度の苦しみの下で、妻や身内に叱責されても、ヨブがこのような言葉を発することができたところだ。言い換えれば、ヨブは自身に降りかかる誘惑がどれほど大きくても、どれほどの苦痛や困難の中にあっても、たとえ死に直面しても、神への信仰を捨てることはなく、神を畏れ悪を避ける生き方をやめることはないのである。そうであるならば、ヨブの心の中の最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心の中にあったのは神のみであったということである。そのような理由で、聖句には次のようなヨブに関する言葉が書かれている。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ヨブはその唇で罪を犯すことはなかっただけでなく、神に対して心の中で不平を言うこともなかった。ヨブは神に対して酷い言葉を発することもなく、神に対して罪を犯すこともなかった。ヨブはその唇によって神の名前を褒めたたえただけでなく、その心の中でも神を褒めたたえた。ヨブの言葉と心の中は一致していた。これが神の見た真のヨブであり、神がヨブを大切に思ったのはこのためである。

人々のヨブに対する多くの誤解

ヨブの試練は神の使いによってもたらされたものでもなければ、神自身の手によるものでもなかった。それは、神の敵であるサタンが直接もたらしたものである。その結果として、ヨブは大きな苦しみを経験したのである。それでもヨブは神に対する日々の認識、行動の原則、そして神に対する姿勢を余すところなく表した。これは事実である。ヨブが誘惑に遭わなかったならば、神がヨブに試練を与えなかったならば、あなたは、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言ったヨブを偽善者と呼ぶだろう。神はヨブに多くの財産を与えたのだから、ヨブがヤーウェの名を讃えるのは当然だと。もしヨブが試みに遭う前に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言っていたなら、あなたは、「ヨブは誇張しているだけだ。神の名を見捨てるはずがない、神の手により何度も祝福されてきたのだから。もし神がヨブに試練をもたらしたのであれば、ヨブは神の名を捨てた筈だ」と言うだろう。だがヨブは、誰も望まないような、誰も見たくないような、そして誰もが恐れ、神ですら見るに堪えない状況に置かれ、それでも神に忠実であり続け、こう言った。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。仰々しい話や教義を好む人々も、そのようなヨブを見て言葉を失った。口先だけで神を称え、神からの試練を受け入れようとしない人々は、ヨブが決して手放すことのなかった神への誠実さ故に咎められ、神の道からそれることなく堅く立つことができると信じたことのない人々は、ヨブの証しにより裁かれる。試練の中にあるヨブの態度とヨブが発した言葉を聞いた人々の中には、困惑する人もいれば、羨む人、疑念を抱く人もいる。中には無関心に鼻であしらう人もいるだろう。なぜなら、試練の中にあるヨブの苦しみとヨブの言葉だけでなく、試練の中でヨブが見せた「弱さ」もまた垣間見ることができるからである。この「弱さ」は全き人であるはずのヨブに見られる不完全性であり、神の目に完全であるヨブに見られる欠点であると、そのような人たちは考えるからである。つまり、完全な者は欠点も染みもなく、弱さもなく、痛みを知らず、悲しんだり落ち込んだりせず、外的ないかなるものにも憎しみなどの激しい感情や姿勢を持つことがないと彼らは信じているからである。それ故に、ほとんどの人々は、ヨブが真に完全な人とは信じないのである。ヨブが試練の中にあって取った態度を、人々はあまり認めない。例えば、財産と子どもたちを失ったヨブは、人々が想像するように、泣き叫ぶようなことはしなかった。ヨブの見せた「非礼」が、人々にヨブは冷たい人間だと思わせた。彼は涙を流すこともなく、家族への愛もなかったと考えるのである。ヨブはまずこのようなマイナスの印象を人々に与えてしまう。その後のヨブの態度は更に彼らを困惑させる。「衣を裂いた」のは、神に対する軽蔑と解釈され、「髪をそり」は神に対する冒瀆と反抗だと誤解された。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」というヨブの言葉を除いては、神に称えられたヨブの義は人々に理解されず、理解不能、誤解、疑い、叱責、そして理論上だけの承認というのが大半の人々の評価である。ヨブは完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であるというヤーウェ神の言葉を真に理解し、認識できる人はひとりもいない。

このようなヨブに対する印象は、人々をヨブに対して彼の義も疑わせる。聖書に書かれているヨブの行動は、人々が想像するような、感動を伴うようなものではないからだ。特別な技能を使ったりしなかっただけでなく、ヨブは焼き物の破片を取って灰の中で自らの皮膚をかきむしったのである。ヨブのこの行動に人々は驚くだけでなく、懐疑的になり、ヨブの義を疑いさえした。自らの皮膚をかきむしりながら、ヨブは神に祈ることも誓うこともせず、痛みから涙を流すこともなかった。この時に人々が見たものは、ヨブの弱さでしかなく、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」とヨブが言うのを聞いても、まったく感動することはなく、ヨブへの考えは揺れ動いており、ヨブの言葉から彼の義を見抜くことはできなかった。試練の中にあるヨブが与える印象は、彼が卑屈にもならず、傲慢にもならなかったということである。ヨブが見せた態度の背景にある彼の心の奥深くにある姿勢を人々は見ることがなく、神に対する畏れや悪を避けるという原則に堅く立っているヨブの心の中を見ることもない。ヨブが冷静なのをみて、彼の完全さと義は口先だけで、神への畏れも単なるうわさだと考える。つまり、外見上のヨブの「弱さ」が人々に強い印象をあたえる一方で、神が完全で義であるとしたこのヨブという人間に対して「新しい見識」や、更には「新しい理解」すら持つのである。そのような「新しい見識」や「新しい理解」は、ヨブが口を開いて自らの生まれた日を呪うことで証明されることになる。

ヨブの受けた苦しみは想像を絶する、人間の理解を超えるものであったが、それでもヨブは信仰から外れるような発言をせず、自分のできる手段でその痛みを和らげようとした。ヨブの言った言葉が次のように聖書に書かれている。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」(ヨブ記 3:3)。誰もこの言葉を重視しなかったかもしれないし、この言葉に注意を払ったものがいるかもしれない。あなたがたの考えでは、ヨブは神に背いているだろうか。ヨブの言葉は神にたいする不平だろうか。あなたがたの中で、ヨブの言葉に対して特定の考えを持っている者は多いと思う。その者たちは、ヨブが完全で義なる人であれば、弱さや嘆き悲しみを表現するのではなく、サタンのどのような攻撃に対しても立ち向かい、サタンの誘惑に対して笑みすら浮かべるべきだと、恐らく思っているだろう。サタンによって肉体にもたらされた苦しみに何の反応も示すべきではなく、感情も表すべきではなかったと。それどころが、更に厳しい試練を神に求めることすらできた筈だと。揺るぎない信仰に立って神を畏れ悪を避ける人はそのようでなければならないと考える。この極度の苦しみの中、ヨブはただ自分が生まれたことを呪った。神に不平を言うようなことはせず、神に背こうなどとは尚更考えていない。これを実行するのは言葉で言うほど簡単ではない。遙か昔から今日に至るまで、ヨブほどの誘惑と苦しみを経験した者はいない。ヨブほどの誘惑を経験した者がいないのは何故か。それは、神の目には、ヨブほど自分に託されたことを忠実にこなし、尽くし、さらには自らの誕生を呪っただけでなく、神の名に背くのではなく、ヤーウェ神の名を讃えつづけられる人間は、ヨブの他にはいないからである。そのような事ができる者がいるだろうか。わたしたちは今の話の中でヨブを称賛しているのだろうか。ヨブは正しい人であり、神への証しとなり、サタンにしっぽを巻いて退散させ、二度とヨブを責めようと神の前に現れることはなかった。それならヨブを称賛しても良いのではないか。あなたがたの基準は神の基準より高いとでも言うのか。同じ試練があなたがたに臨んだならば、ヨブ以上に立派に対処できるとでも言うのか。ヨブは神に称賛された。それに対して何か異議を唱えることができるか。

ヨブが自分の生まれた日を呪ったのは神に心を痛めてほしくなかったからである

わたしはしばしば、神は人の内側を見るが、人間は人の外側を見ると言う。神は人の内側を見るので、人の本質を理解するが、人間は人の外側からその人の内側を判断する。ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪った時、ヨブの3人の友人を含めて多くの霊的な人たちは非常に驚いた。人は神から来たのだから、神から授かったその命と肉体、そして生まれた日を感謝すべきであり、呪うべきではない。これはほとんど誰にでも理解できることである。誰であれ神に従うならばこれは犯すことのできない神聖な事実であり、変わることのない事実である。だがヨブはこの規則を破った。彼は自分の生まれた日を呪った。大半の人はこのヨブの行いが、一線を越えたと見なした。人々の理解と慈悲を得る資格がないだけでなく、神の赦しを得る資格もないのだ。同時に、さらに多くの人々がヨブの義に懐疑的になった。なぜなら、神に気に入られたヨブは自分に寛大になり、与えられた祝福と彼の人生でずっと与えられてきた神の慈しみに感謝しないばかりか、自分の生まれた日を呪うほど大胆で無謀になったと考えるからだ。これが神への反抗でないとすれば何だろうか。このような表面的な見方は人々がヨブの罪を証明する原因となるが、しかし当時ヨブが考えていたことは本当は何かということが一体だれに理解できるだろうか。そしてだれがヨブの当時の行動の理由を知り得るだろうか。この出来事の真相とヨブにこのような行動を起こさせた理由を知っているのは神とヨブのみである。

サタンがヨブの骨を痛めつけようとその手を伸ばした時、ヨブは逃げる手段も拒む力もないまま、サタンの手中に落ちた。ヨブの身体と魂は激痛に襲われ、それによりヨブは肉に生きることの無意味さ、もろさ、無力さに気づいた。同時に、神がなぜ人間を憐れみ、見守るのかに関する深い理解を得た。サタンの手中に落ちたヨブは、肉と血による人間が実に無力で弱いことを知った。ヨブが跪いて祈ると、あたかも神がその顔も姿も隠してしまったかのように感じられた。神がヨブを完全にサタンの手中へ預けてしまったからである。同時に神もヨブのために涙を流し、苦しんだ。ヨブの痛みで神も痛みを感じ、ヨブが傷ついたことで神も傷ついた。ヨブは神の痛みを感じ、神にはそれが耐え難い痛みであったこともヨブは感じた。それ以上神を悲しませることをヨブは望んでいなかった。それ以上神が涙を流すことも、ましてや自分のために痛みを感じることも、ヨブは望まなかった。この時、ヨブは自分の肉を取り除きたいとひたすら思った。そうすれば肉の傷みから解放され、自分の痛み故に神にそれ以上痛みを加えずにすむからだ。だがそうすることが叶わないヨブは、肉の痛みに耐えなくてはならないばかりか、神に心配をかけたくないという辛い思いにも耐えなくてはならなかった。このふたつの痛み、つまり肉の傷みと霊の痛みは、ヨブに胸が張り裂けるような、はらわたがちぎれるような痛みをもたらし、肉と血による人間の限界がもたらす失望感と無力さを痛感させた。そのような状況の中で、ヨブの神を求める思いは更に強くなり、サタンに対する嫌悪感はさらに増した。ヨブはこの時、人間の世界に生まれて来なければよかったと思った。神が涙を流し、自分のために神が痛みを感じなければならないくらいならば、自分が存在しない方が良いと思った。ヨブは自分の肉を深く忌み嫌い、自分自身がつくづく嫌になった。自分の生まれた日、自分に関係のあるもの全てを忌み嫌った。自分の生まれた日やそれに関連するものを全て忘れたいと思い、それだからヨブは、口を開いて自分の生まれた日を呪ったのだ。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」(ヨブ記 3:3-4)。ヨブの言葉には「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」という自分への憎しみと、「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」という自分に対する叱責と神に痛みをもたらしたことに対する自責の念が込められている。このふたつの聖句は当時のヨブの感情を表しており、彼の完全さと義を全ての人に示すものである。それと同時に、ヨブが望んだ通り、彼の信仰と神への従順、そして神に対する畏れは、間違いなく高まったのである。これは勿論、神が予想した通りの効果であった。

ヨブはサタンを退け、神の目にあって真の人となる

最初に試練にあったヨブは彼の財産と子どもたちを失ったが、ヨブはそれによって躓くことも神に対して言葉で罪を犯すこともなかった。ヨブはサタンの誘惑に勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世的な財産を失うという試練に勝利した。それはつまり、ヨブは神が彼から取ることに従い、そのことに感謝し、神を讃美することができたということである。それがサタンの最初の誘惑に対するヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもある。2度目の試練では、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめた。ヨブは経験したことのない痛みに苦しむが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるほどのものだった。ヨブはその不屈の精神、強い信念、神への従順、そして神への畏れにより、再びサタンに勝利した。ヨブの態度と証しはまたしても神に認められ、喜ばれた。この試練の間、ヨブはサタンに対し、肉の痛みが神への信仰と従順を揺るがすことはなく、神に対する献身と畏れを奪うことはできないということをその態度により表明している。彼は死に直面したからといって、神を放棄したり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしない。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを怯えさせ震えさせた。サタンとの生死をかけた戦いにより、サタンの中の強い憎しみと恨みが膨らみ、ヨブの完全さと義の前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前でヨブを告発することを諦めたのである。これが意味するところは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に勝ったということである。ヨブは正に、完全に神に属する人であった。この2度の試みの間、ヨブは自らの証に固く立ち、その完全さと正しさを生き通し、神を畏れ悪を避けるという生きる上での原則の適用範囲を広げた。ふたつの試練を通ったヨブは更に経験豊かになり、成熟し、鍛えられた。ヨブはそれまで以上に強くなり、更に強い確認に立ち、自身が手放さずに来た義と誠実さは更に確固たるものとなった。ヤーウェ神によるヨブへの試練はヨブに神の人間への配慮に対する深い理解と実感を与え、神の愛の尊さを理解させた。その結果ヨブは、神に対する畏れに加えて、思いやりと愛を持つようになったのである。ヤーウェ神による試みは、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけた。ヨブの肉の痛みが頂点に達した時、ヤーウェ神のヨブに対する労りを感じたヨブは、自分の生まれた日を呪うしかなかった。ヨブのこのような振る舞いは長期計画によるものではなく、神への配慮と愛の自然な表現であり、神への配慮と愛によるものである。つまり、ヨブは自身を嫌ったため、神を苦しめることを望まず、神を苦しめることに耐えられなかった。ゆえに、ヨブの配慮と愛は無私のレベルに達したのである。この時ヨブの長年の神への愛と神を切望する思い、そして献身の思いは、配慮と愛というレベルへ引き上げられたのである。同時に、ヨブの信仰と従順、そして神への畏れも、配慮と愛というレベルへ引き上げられた。ヨブは神にとって痛みの原因になり得ることは一切せず、神を傷つけることは一切せず、神にとって悲しみ、嘆き、さらには不幸の原因とはなるまいとした。神の目には以前と同じヨブであったが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神にとって満足するもので、喜びとなった。この時、神がヨブに対して期待した完全性をヨブは獲得し、神の目から見て、「完全であり義である」と呼ばれるに相応しい者となった。ヨブの義なる行いによりサタンに勝利し、神の証しに堅く立つものとなった。そうしてヨブの義の行いは彼を完全にし、完璧にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでにはなかった高みに登らせ、二度とサタンによる攻撃や誘惑を受けない最初の人物とさせた。ヨブはその義の故にサタンに責められ、誘惑された。義の故に、サタンに渡された。そして義の故に、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、堅く証しに立った。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、真に神の座の前に出た。そして神の祝福の中で、サタンの監視も破滅もなく、神の目には真の人となった――自由になったのだ。

『言葉は肉において現れる』より引用

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