神の働き、神の性質、そして神自身 2

(その6)

ヨブの証しとヨブのいくつかの側面に関する学びを通して、大半の人々が自身の進むべき道に対して計画が立てられると信じている。それと同時に、心にある不安や恐れが少しずつ消え、心身ともに穏やかになり、心安らかになっていくことと信じている。

次の箇所もまたヨブに関するものである。読み続けていこう。

4.ヨブは神のことを聞いて知っていた

(ヨブ記 9:11)「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」。

(ヨブ記 23:8-9)「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」。

(ヨブ記 42:2-6)「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

神がヨブに自身を現さなくてもヨブは神の主権を信じた

この言葉が言わんとすることは何か。ここにはある事実が含まれることに気が付いた者はいるだろうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのか。そして彼はどのようにして天と地とあらゆるものは神によって支配されていると知ったのか。ふたつの聖句にその答えを見つけることができる。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ記 42:5-6)。この言葉から、ヨブが直接神を見たというより、言い伝えから神を知っていたということが分かるが、そのヨブが神の道を歩み始める中で、神が自分の人生の中において実際に存在し、すべての中に存在することを確信するようになる。ここには否定できないひとつの事実があるが、それは何であろうか。神を畏れ悪を避ける道を進んでいたヨブだが、神を見たことは一度もなかった。この点で、ヨブも今日の人間も同じではないだろうか。ヨブは神を見たことがなかったということは、ヨブは神について聞いてはいたが、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかといった主観的要因に関しては知らなかったのである。客観的には、ヨブは神に従い、神はヨブに現れたこともなく語ったこともない。これは事実ではないか。神がヨブに語ることも何らかの命令を下すこともなかったが、ヨブは神の存在を知っており、すべてのものとヨブが耳にした言い伝えに神の主権を認識しており、その後に神を畏れ悪を避けるようになった。そのようにしてヨブは神に従うようになったのである。ヨブがどれほど神を畏れ悪を避けても、どれほど高潔でも、神がヨブに現れることはなかった。次の箇所を読むと、ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」(ヨブ記 9:11)と言った。つまり、ヨブは神が近くにいるのを感じたかもしれないし、そう感じなかったかもしれないが、とにかくヨブは神を見たことはないということである。神が自分の前を通り、或いは行動し、人を導くのを想像したことはあったが、実際にそれを見たことはない。神は人間が予想しない時に来る。神がいつ来るのか、どこで来るのか、人には分からない。人には神が見えないからである。そのような訳で、神は人からは隠されているのである。

神が隠されていてもヨブの信仰は揺るがない

次の聖句でヨブはこう言っている。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記 23:8-9)。ヨブの経験の中で神がずっと隠されていたことがこの記述から分かる。神は公然とヨブの前に現れることもなく、ヨブに言葉を語ることもなかったが、ヨブは神の存在を確信していた。目には見えなくても、神は自分の前を歩いていたり、傍らで行動していたりし、自分のすぐ側で支配していると信じていた。ヨブは神を見たことはなかったけれども心から信じ続けることができた。これは他の誰にもできなかったことである。なぜ他の人たちにはそれができなかったのだろうか。神はヨブに語ることも現れることもなかったのだから、ヨブが本当に信じていたのでなければ、耐え続けることも、神を畏れ悪を避ける道に固く立ち続けることもできなかったであろう。そうではないだろうか。ここに書かれているヨブの言葉を読んでどう感じるだろうか。ヨブの神に対する完全さと正しさと義が真実で、神を過大評価しているからだとは思わないだろうか。神はヨブに対して他の人々と同じように扱い、ヨブに現れたり語ったりすることはなかったが、それでもヨブは神に高潔であり続け、神の主権を信じつづけ、更には神を怒らせたかもしれないという恐れから全焼のいけにえを頻繁に捧げて祈ったのである。神を見ないままに神を畏れたヨブに、ヨブがいかに善なるものを愛したか、いかにその信仰が堅く本物であったかが分かる。神が自分から隠されているからといってヨブは神の存在を否定することはなく、神を見たことがないからと言って神への信仰を失ったり神に背いたりすることはなかった。それどころか、すべてを支配するという神の隠れた働きに神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのである。神が隠されているからと正しさを捨てることもなく、神が一度も現れたことがないからと神を畏れ悪を避ける道から外れることもなかった。ヨブは神が公然と現れてその存在を証明して欲しいと願ったことはなかった。すべてのものにおける神の主権を知っており、他の人々にはない祝福と恵みを自分が受け取っていると信じていたからである。神はヨブに隠されたままであったが、だからと言ってヨブの神への信仰が揺るいだことは一度もなかった。そのような訳で、ヨブは他の人々が得たことのない報い、つまり神からの承認と神からの祝福を得たのである。

ヨブは神の名を称え、祝福を受けるか災いに遭うかは考慮しない

聖書の中のヨブの物語では語られていない事実がひとつある。それが今日のテーマである。ヨブは神を見たこともなければ自分の耳で神の言葉を聞いたこともないが、ヨブの心には神の居場所があった。ヨブの神に対する態度はどのようなものであったのだろうか。先ほど読んだように、「ヤーウェのみ名はほむべきかな」というものであった。ヨブは神の名を無条件に、無制限に、理屈抜きに称えた。ヨブは神にその心を捧げ、神に自身の心を支配してもらった。ヨブの考えたこと、決心したこと、心に計画したことは神の前に明らかにされ、隠されることはなかった。ヨブが神に敵対することはなかった。彼は神に対して何かしてほしいあるいは与えて欲しいと願ったことは一度もなく、神を崇拝しているからと言ってなにか途方もない報いを期待することもなかった。神に対して取り引きの話をしたり、神になにかを要求したり、命令したりするようなことはなかった。ヨブが神の名を称えたのは、すべてを支配するその偉大な力と権力故であり、祝福を受けたからとか、災いに遭ったからというものではない。ヨブは神が人々に祝福をもたらすか災いをもたらすかに関わらず、神の力と主権は不変であり、故にその人の状況に関係なく神の名は褒めたたえられるべきだと信じていた。神の主権故に人は祝福されるのであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権故である。神の力と権威は人間のすべてを支配し計らう。様々な人間の富は神の力と権威の現れであり、人がどう見ようと、神の名は褒めたたえられるべきである。ヨブはそれを自らの人生で経験し、悟ったのである。ヨブの考えたことと行なったことのすべてが神の耳に届き、明らかにされ、それは神に重要なものと見なされた。ヨブの認識と、ヨブがそのような心の持ち主であることを神は大切に思った。ヨブの心は常に、どこにいても神の命令を待ち、自分にいつ何が起ころうとも、すべてを歓迎した。ヨブが神に何かを要求することはなく、彼はひたすら神の計らいを待ち、神の計らいを受け入れ、向き合い、従った。ヨブはそれを自身の本分とし、それこそ神がヨブに望んでいたものである。ヨブは神を見たこともなく、神の言葉を直接聞いたことも、命令や教えや指導を受けたこともなかった。今日の言葉で表現するならば、真理に関して神から何の啓きも導きも、施しも与えられていなかったヨブがそのような知識と姿勢を持つことができたのは、神にとって尊いことであり、ヨブの表現したものは神にとって十分であり、称賛に値する証しであり、神はそれを大切に思った。ヨブは神を見たこともなければ直接神の教えを聞いた事もなかったが、ヨブとヨブの心は、神の前で難しい理論を説いたり豪語したりいけにえを捧げたりはするけれども神の真の認識を得たことはなく、心から神を畏れたことのない人々の心より遙かに尊かった。ヨブの心は純粋で神から隠れておらず、正直で優しい人格の持ち主であり、義と正しいものを愛した。そのような心と人格を持ち合わせた者だけが神の道に従うことができ、神を畏れ悪を避けることができる。そのような者が神の主権を知ることができ、神の権力と力を知ることができ、神の主権と采配に従うことができるようになる。そのような者だけが真に神の名を褒めたたえることができる。それはその者が、神が祝福を与えるか災いをもたらすかを見ておらず、すべては神に支配されていることを知っており、人間が思い煩うのは人の愚かさ、無知、理不尽さ、そして神がすべてのことにおいて主権を握っていることへの疑いと神への畏れのなさが原因であることを知っていたからである。ヨブの知識は正に神が求めていたものであった。それではヨブはあなたがたより素晴らしい理論的知識を持っていただろうか。当時の神の業と言葉は僅かで、神に関する認識を獲得するのは容易ではなかった。神の業を経験しておらず、神の声も聞いておらず、神の顔も見ていないにも関わらず、ヨブがそれだけのものを達成したのは見事である。ヨブは神に対してそのような態度でいることができたのは、彼の人間性と彼が追い求めたもの故であり、それは今日の人々にはないものである。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」と当時神が言ったのは、そのような理由からである。神はその当時すでにヨブをそのように評価しており、ヨブをそのような人と結論付けたのである。神の言ったことが今日でも真実であることは言うまでもない。

神は人から隠されてはいるが、全てのものにおける神の業により人は神を知ることができる

ヨブは神の顔を見たこともなければ神の声を聞いたこともなく、ましてや神の業を直接経験したこともなかった。それでもヨブの神に対して抱く畏れと、試練の中でも証しとなったことは人々が認めており、神に愛され、喜ばれ、称えられた。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、さらに讃美を捧げた。ヨブの人生自体が偉大であったわけでも非凡であったわけでもない。他の人たちと変わらない、普通の生活であった。日が昇れば仕事に出かけ、日が落ちると帰宅して休息した。他の人たちと違っていたのは、その数十年間に、ヨブが神の道を見分けることができるようになり、神の偉大な力と主権を知るようになり、それが他の人が誰も成し得ないほどであったということである。他の人たちよりヨブが賢かった訳でもなく、ヨブの生き方が執着心の強いものであったわけでもない。ましてや彼に何か隠れた能力があったなどということはない。だがヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義を愛し、善きものを愛するという性格があった。これらはいずれも普通の人間にはないものである。ヨブは愛と憎しみを区別し、義を見分けることができた。自分の信じるものを譲ることも変わることもなかった。自らの考えに喜びを感じていたため、地上での普通の生活を送る中で神の驚くべき業を見ることができ、神の偉大さ、聖さ、義を見ることができ、人間に対する神の労り、恵み深さ、守りを知り、至高の神が褒めたたえられるべきであり、主権を握っていることを知ることができた。他の誰も獲得できなかったこれらのことをヨブが獲得することができた第一の理由は、ヨブが純粋な心の持ち主であり、ヨブの心は神に属しており、創造主により導かれていたからである。第二の理由はヨブが追求したものである。ヨブは全き者となること、天の心と一致することを求め、神に愛されて悪を避けることを追い求めた。神を見ることも神の言葉を聞くこともできなかったヨブがこれらのものを獲得し、追い求めたのである。神を見たことはなかったが、神がどのように全てを支配するかをヨブは理解し、また、神が全てを支配するその知恵を理解するようになったのである。ヨブは神の語る言葉を聞いたことはなかったが、人に報いることも取り上げることも神によるものであると知っていた。ヨブの人生は普通の人のそれと何ら変わらなかったが、それだからと言って全てのものにおける神の主権に関する認識を妥協せず、神を畏れ悪を避ける道への服従を妥協することはなかった。ヨブの目には、全てのものにおける法則は神の業で満ちており、神の主権は人生のいたるところで確認できるものであった。ヨブは神を見たことがなかったが、神の業をいたるところで認識することができ、彼の地上の生活のあらゆるところで、神の驚くべき不思議な業を見ることができ、神の不思議な計画を知ることができた。神が隠していたことと無言であったことはヨブが神の業を認識する上で障害とはならず、全てのものにおける神の主権を知る障害にもならなかった。ヨブの人生は、あらゆるものの中にあって隠されている神の主権と采配を認識する日々であった。それだけでなく、ヨブは日々の生活の中で、あらゆるものの中で無言である神が、全てのものに対する法則を支配する中で現した心の声と言葉を聞き、理解した。人々がヨブと同じ人間性と追求する姿勢を持っていたならば、彼らもヨブと同じ認識と知識を得ることができ、全てのものにおける神の主権に対する理解と知識をヨブ同様に獲得することができるであろうことがこれで理解できる。神はヨブに現れても語ってもいないが、ヨブは全き者となることができ、正しいものとなることができ、神を畏れ悪を避けることができた。つまり、神が現れることも直接語ることもなくても、全てのものにおける神の業と全てのものに対する神の主権により、人間は神の存在、力、そして権威を認識することができ、神の力と権威は人間に神を畏れさせ悪を避けさせるのに十分だということである。ヨブのような普通の人間が、神を畏れ悪を避けることができるのであれば、神に従う普通の人であればだれでも同じことが可能なはずである。これは論理的推論に聞こえるかもしれないが、物事の法則と矛盾しない。それでも事実は予想と一致していない。神を畏れ悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように感じられる。「神を畏れ悪を避ける」と聞けば、人々はヨブだけに可能なことであり、あたかも神を畏れ悪を避けることはヨブの名でブランド化されており、他の人には無関係であるかのようである。その理由ははっきりしている。正直で心優しく、正しく、公平と義、善なるものを愛する人格を持っていたのはヨブひとりだけであり、それ故ヨブだけが神を畏れ悪を避ける道を進むことができたのである。この意味をあなたがたは全員理解できたはずだ。つまり、誰も正直で心優しく、正しく、公平、義なるもの、善なるものを愛する人間性を持っておらず、誰も神を畏れ悪を避けることはできず、ゆえに誰も神の喜びとなることはできず、試練の中にあって堅く立っていることができないのである。これはまた、ヨブ以外の全ての人間がサタンに束縛されサタンの罠に陥ったままであり、サタンに非難され、攻撃され、中傷されているということである。サタンはヨブ以外の全ての人間を呑み込もうと試みており自由がなく、サタンの虜となってしまっているということである。

もし人の心が神に敵対するのなら、どうして神を畏れ悪を避けることができようか

今日の人々がヨブと同じ人間性を持っていないのであれば、人々の人格の実体と神に対する姿勢はどのようなものだろうか。人々は神を畏れているだろうか。悪を避けているだろうか。神を畏れず悪を避けることもない人々は、次の文字語で表すことができる。それは、「神の敵」である。あなたがたは頻繁にこの表現を使うが、本当の意味を理解していない。「神の敵」という言葉には根拠がある。それは、神が人間を敵とみなすということではなく、人間が神を敵としているという意味である。第一に、人々が神を信じ始めるとき、目的も動機付けも大志もない人がいるだろうか。彼らの一部は神の存在を信じており、神が存在するのを見たかもしれないが、彼らの信仰には何らかの動機付けがあり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得るというものである。人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。わたしはずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約束を下さっただろうか。神はわたしの良い行いを覚えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神から祝福を受けるだろうか」。誰もが常に、頻繁にそのようなことを心の中で計算し、彼らの動機付けであり、大志であり、取り引きがかかっている神に要求する。つまり、人間は心の中で常に神を試し、常に神の計画を考え出し、常に神に対して自分を弁護し、神からの言葉を絞り出し、自分の欲しいものを神が与えるかどうかを見ている。神を求める一方で、人は神を神として扱っていない。人間は常に神と取り引きし、絶えず神に要求し、一与えられればその次は十与えられるように神に強要する。神と取り引きすると同時に神に異議を唱え、試練が来ると自分たちの身の危険を感じ、気弱になり、すべきことに対して受け身になって怠けるようになり、神に対して不満だらけになる。神を信じ始めた時から、人間は神を豊穣の角やスイス・アーミーナイフのように豊かで万能であり、自分は神にとって最も価値ある者と見なすのである。あたかも神に祝福させて言葉を与えされることが当然の権利であり義務であり、神には自分を守り、労り、施す責任があるかのように。信仰を持つ大半の人々にとって「神を信じる」とは基本的にそのような理解でしかなく、それが神を信じることに対する最も深い考えなのである。人間の本質からその主観的な追求に至るまで、神に対する畏れなど全くない。人が神を信じる目的は神を礼拝することとは何ら関係ないのである。つまり、人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは考えもしないし理解もしないのである。このような状況を考えれば、人間の実体がどのようなものかは明らかである。その本質とは何か。人間の心は邪悪で、不実でずる賢く、公正と義を愛するものでも善を愛するものでもなく、卑劣で貪欲なものである。人間は神に対して完全に心を閉ざしている。神に心を捧げてなどいない。神が人の心を本当に見たことなどなく、人間に礼拝されたことなどない。どれ程大きな犠牲を払っても、どれ程人間に対して働いても、どれ程人間に与えても、人間の目が開かれることはなく、全く無関心である。人間が神に心を明け渡したことなどなく、自分の心を考え、自分で決断するばかりである。これは、人間が神を畏れ悪を避ける道に従うことを望まず、神の主権と采配に従うことを望まず、神を神として礼拝することも望まないということの現れである。それが今日の人間の状態である。ここで再度ヨブを検討する。まず第一に、ヨブは神と何か取引をしただろうか。神を畏れ悪を避けるヨブの姿勢には下心があっただろうか。当時神は誰かに終わりの時について話しをしていただろうか。神が当時誰かに終わりの時を約束することがなかったという背景がある中で、ヨブは神を畏れ悪を避けたのである。このようなヨブの姿勢に対抗できるものが今日いるだろうか。あまりに違いすぎて、ヨブと同じ土俵に登れるものはいないだろう。神に対する知識が豊富であった訳でもないヨブが自分の心を神に明け渡し、その心は神のものとなっていた。ヨブは神と取り引きすることもなく、神に対して途方もない要望や要求をすることもなかった。むしろ彼は、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」と信じていた。ヨブがその長い人生で神を畏れ悪を避ける道に留まることで理解し獲得したものはそのようなものであった。同様に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という言葉が現すものをヨブは獲得した。このふたつの言葉はヨブがその人生経験において神に服従した結果ヨブが知るに至ったものを現しており、ヨブがサタンの誘惑に勝利する上で最も力強い武器でもあり、神への証しに堅く立つヨブの土台でもあった。ここまでの話を聞いて、あなたがたはヨブを愛すべき人間と思うだろうか。そのような人に自分もなりたいと思うだろうか。サタンの誘惑を経験することに恐れを感じるだろうか。ヨブと同じ試練を通らせて下さいと神に祈る決意があるだろうか。間違いなく、大半の人はそのような祈りを敢えて捧げはしないだろう。であれば、あなたがたの信仰がどうしようもなく僅かだということは明らかである。つまり、あなたがたの信仰はヨブのそれと比べて取るに足りないものなのである。あなたがたは神に敵対するもので、神を畏れず、神に対する証しに堅く立つこともできず、サタンの攻撃、非難、そして誘惑に勝利することもできない。それで神の約束を受けるなどどうしてできるだろうか。ヨブの物語を聞いて、人間を救うという神の意図を理解し、人間の救いの意味を理解してきた訳だが、あなたがたの信仰はヨブと同じ試練を受け入れられるものになっただろうか。神を畏れ悪を避ける道に従う決心を少しはすべきではないだろうか。

神の試みに疑念を抱いてはならない

試練を経験した後にヨブから証しを受けた神は、ヨブのような人々の集まりをひとつあるいは複数獲得しようと決心したが、ヨブに対してしたように、サタンが神に賭けをして誰かを誘惑し、攻撃し、虐げることは決して再びさせないと決心していた。神はサタンが弱く愚かで無知な人間にそのようなことを繰り返すことは決して許さなかった。ヨブに対するサタンの誘惑でもうたくさんだった。サタンの思うように攻撃させないのは神の憐れみであった。神にとって、ヨブがサタンに誘惑されて好きなように虐げられたことでもうたくさんだったのだ。神は同じ事をサタンにはさせなかった。神に従う人々の人生とその人々の全ては神によって支配され作り上げられており、神の選民をサタンが操る権利はなかった。この点ははっきりと理解しなければいけない。神は人の弱さに心を砕き、人の愚かさや無知さを理解する。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければならないが、人がサタンの手によって玩具のように扱われるのを神は喜んで見ることはない。神は人が常に苦しむのを見たいとは思わない。人間は神によって造られ、人間の全てが神によって支配され管理されることは全く義なることである。そうすることは神の責任であり、神が全てを支配する権威によるものである。神はサタンが意のままに人間を虐げ虐待することを許さず、様々な手段で人間を進むべき道から踏み外させることを許さず、更に、人間に対する神の主権を犯すことを許さず、神が全てを支配する法則を踏みつぶして壊すことも許さず、人間を管理して救う神の偉大な働きを踏みつぶして壊すことを許さないのは言うまでもない。神が救いたいと望む人々、神の証しとなる人々は神の6千年の経営(救いの)計画の中心であり結晶であると同時に、神の6千年の働きの代価である。簡単にサタンに渡せるはずがない。

人々は神からの試練をしばしば懸念し、恐れながらも常にサタンの罠の中に生き、サタンに攻撃されて虐待される危険な領域で生活している。それでも人々は恐れることもなく、落ち着いている。どういうことなのだろうか。人間の信仰は、その人が見える範囲のものに限られる。人間は神の人間に対する愛や労り、優しさや配慮に対して全く感謝することがない。神の試練、裁き、刑罰、威厳、怒りに対する僅かな不安と恐れがなかったならば、人間は神の善なる意図を全く理解しないのである。試練と聞いただけで神にあたかも隠れた動機があり、神には悪い計画があるとさえ思い込む者もいる。そして神が本当に何をしようとしているかを理解することはない。それゆえ、神の主権と計画に従うと叫んでいながらも、人間に対する神の主権と計画に対してあらゆる手段で抵抗する。気をつけていなければ神に間違った方向へ連れていかれてしまう、自分の運命にしがみついていなければ持っているものを全て神に取り上げられてしまい、人生が終わってしまうかもしれないとすら思っているからである。人間はサタンの陣営にいながらサタンに虐待されることを恐れず、サタンに虐待されていながらサタンの虜になることを恐れない。人間は神の救いを受けると言いながら、神に信頼することはなく神がサタンの爪から真に救うとも信じない。人がヨブのように神の采配と計画に従うことができ、自分の全てを神の手に委ねることができれば、ヨブ同様、最後に神の祝福を受け取るのではないのだろうか。神の主権に従うことができたのならば、人が失うものなどあるだろうか。それだから、あなたがたは自分の行いに注意し、自分に降りかかること全てに注意するように。軽はずみに何かをしたり衝動的に何かをしたりすることのないように。神や人、物事そして神が用意した物事を急いで扱ったり、ありのままで対応したり、想像や概念に従って扱ってはならない。自分の行いに注意深くし、更に祈り、求め、神の怒りを招くことのないようにしなさい。これらのことを忘れてはならない。

次に、試練を経験した後のヨブを検討する。

5.試練の後のヨブ

(ヨブ記 42:7-9)ヤーウェはこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、ヤーウェが彼らに命じられたようにしたので、ヤーウェはヨブの祈を受けいれられた。

(ヨブ記 42:10)ヨブがその友人たちのために祈ったとき、ヤーウェはヨブの繁栄をもとにかえし、そしてヤーウェはヨブのすべての財産を二倍に増された。

(ヨブ記 42:12)ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

(ヨブ記 42:17)ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

神は神を畏れ悪を避ける人々を大切にし、愚かな人々を卑しめる

ヨブ記 42:7-9では、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼んでいる。この「しもべ」という言葉に、神にとってヨブがどれ程大切であったかが表されている。神はヨブをさらに高尚な名前で呼ぶことはなかったが、ヨブを大切に思う神の心は呼び名と関係がなかった。「しもべ」はヨブに対する神のあだ名であり、「わたしのしもべヨブ」と繰り返し言っている神の言葉から、ヨブをどれだけ喜んでいたかが分かる。神が「しもべ」という言葉の持つ意味を語ったことはなかったが、次の聖句で神が語った言葉から神がどのように「しもべ」を定義していたかが分かる。神は最初にテマン人エリファズに言った。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。この言葉を通して、ヨブが神からの試練を受けた後のヨブの言動を神が全て受け入れたことを初めて公に示し、ヨブの言動が正確で正しいことを公に確かなものとした。エリファズと他の人々のことを神は怒っていた。なぜなら、彼らの話は間違っていて、不条理であり、また、ヨブも彼らも同じように神の現れを見ることも神の語る言葉を聞くこともなかったが、ヨブは神に関する正しい認識を持っていた反面、彼らは盲目的に神を想像し、神の心に背き、何をするにも神の忍耐を試したからである。結果として、神はヨブの言動の全てを受け入れたが、他の人々にたいしては怒りを感じた。彼らの中に、神を畏れることを現実的に見ることができないばかりか、彼らの言葉の中に神を畏れることを聞くことが全くなかったからである。そのようにして、神は彼らに次のような要求をした。「それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」。ここでは、神はエリファズと他の人々に、罪の贖いとしてすべきことがあると述べた。彼らの愚行はヤーウェ神に対する罪であり、自身の犯した過ちの償いとして全焼のいけにえを捧げなければならないと述べた。全焼のいけにえを捧げることは頻繁にあったが、ここでの全焼のいけにえは、ヨブに対して捧げられたというところが他の全焼のいけにえと異なる。ヨブは試練の中にあって神に対して証しとなっていたため、神に受け入れられた。一方ヨブの友人たちは、ヨブが試練を通る中で明らかにされていった。つまり、彼らの愚行故に神に責められ、神の怒りを引き起こした。そのため彼らはヨブの前で全焼のいけにえをささげることで神に罰せられなければならないのである。その後、ヨブは彼らに対する神の罰と怒りを静めるために祈った。この出来事における神の目的は、彼らを恥じ入らせることであった。彼らが神を畏れ悪を避けることをせず、ヨブの高潔を非難したためである。ここで示されることのひとつは、神は彼らの行いを受け入れていないと言っていると同時に、ヨブを喜んでいるということである。そしてもうひとつは、神に受け入れられることにより、人は神の前に引き上げられるということである。愚行により人は神に嫌われ、愚行は神の怒りを引き起こす。そのような者は神の目には低く卑しいものであるということである。これが神による2種類の人間の定義であり、この2種類の人間に対する神の姿勢であり、2種類の人々の地位や価値に対する神の明確な説明である。神はヨブをしもべと呼んだが、このしもべは神に愛されており、他の人々のために祈り、その人々の過ちを赦す権威を与えられていた。このしもべは神と直接話すことができ、神の前に出ることができ、その地位は他のだれよりも栄誉あるものであった。これが神の言う「しもべ」の意味である。ヨブは神を畏れ悪を避けたために特別な栄誉を与えられた。他の人々が神のしもべと呼ばれなかったのは、彼らが神を畏れ悪を避けることをしなかったからである。神のはっきりと異なったふたつの態度は、2種類の人々に対する態度である。すなわち、神を畏れ悪を避ける者は神に受け入れられ、尊いが、神を畏れず悪を避けることのできない愚か者は神の好意を得ることはできず、しばしば神に嫌われ、責められる。彼らは神の目に卑しい者たちである。

神はヨブに権威を授ける

ヨブは友人たちのために祈るが、ヨブの祈り故に、神はヨブの友人たちをその愚かさに従って扱うことをしなかった。つまり、神は彼らを罰することも報いることもしなかった。それは何故か。神のしもべであるヨブの祈りが神の耳に届いたからである。神はヨブの祈りを受け入れたゆえ、彼らを赦したのである。ここで何が分かるだろうか。神が誰かを祝福する時、神は多くを報い、それは物質的なものに限定されない。彼らに権威も与え、他の人のために祈る権利を与える。そしてその者の祈りを聞いた神は、彼らの過ちを忘れ、赦す。これが正に神がヨブに与えた権威である。ヨブの彼らへの責めをやめるようにという祈りを通して、ヤーウェ神は愚かな彼らを恥じ入らせた。これは勿論エリファズたちに対する神の特別な罰であった。

ヨブは再び神に祝福され、二度とサタンに責められることがなくなった

ヤーウェ神の言葉の中に、「あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」という一節がある。ヨブが語ったこととは何であったのか。これはここで既に議論した内容でもあり、ヨブ記の中でヨブが語ったとされる何ページにもわたる多くの言葉を指している。これらのページに記録されたヨブの言葉の中で、ヨブは神に対して一度も不平や疑念の言葉を発していない。彼はただ静かに結果を待った。ヨブのこの姿勢はヨブの神に対する従順であり、その姿勢とヨブの神に対する言葉により、ヨブは神に受け入れられた。ヨブが試練に遭い、苦難を経験する間、神はヨブの傍らにいて、たとえ苦しみが神の存在により軽減することはなくても、神は自身の望むものを見ることができ、聞きたいと望んだ言葉を聞くことができた。ヨブの言動のひとつひとつが神の目と神の耳に届いた。つまり、神はヨブの言葉を聞き、ヨブの態度を見た。これが事実である。当時、その時代にあっての神に対するヨブの知識と思いは今日の人々の持つそれらほど具体的ではないというのが事実であるが、その時代にあって、神はヨブの言動の全てを認めた。なぜなら、ヨブの態度と考え、そしてヨブが現したものと明示したものは、神の要求を満たしていたからである。ヨブが試練に遭っている間、ヨブの心の思いと決心は神に結果を示すものとなり、それは神にとって満足できるものであった。その後神は試練を勝ち抜いたヨブの試練を取り除き、ヨブに再び試練がふりかかることはなかった。ヨブは既に試練に遭い、その中で揺らぐことなく立ち続け、サタンに完全に勝利した。神は彼にふさわしい祝福を与えた。ヨブ記42章の10、12節に書かれているように、ヨブは再び祝福を受け、それは最初の祝福を上回るものだった。この時サタンはヨブのもとを去り、再びヨブに話しかけたり働きかけたりすることはなかった。ヨブが再びサタンに妨害されたり攻撃されたりすることはなく、神がヨブを祝福することを叱責することもなかった。

ヨブは人生の後半を神の祝福の中で過ごす

当時の祝福というものは、羊、牛、らくだ、その他物質的なものに限られてはいたものの、神がヨブに与えたいと思ったものはそれを遙かに越えるものだった。神が当時ヨブに与えたいと思った永遠の約束がどのようなものであるかは記録されているだろうか。ヨブを祝福した神は、ヨブの最後に言及することはなく、神の心にヨブの存在は大きかったが、要するに神はヨブに対する祝福を見極めていた。神はヨブの最後を告げなかった。これはどういう意味か。当時、神の計画は人間の最後を公示するところまでに達しておらず、神の働きの最後の段階に入っておらず、よって神が人間の最後を語る事はなく、人間に対して物質的な祝福を与えるに留まったのである。つまり、ヨブの人生の後半は神の祝福の中にあり、周りの人たちにとってヨブはそれまでと違う存在となったのである。それでもヨブも他の普通の人たちのように年齢を重ね、皆と同じようにこの世に別れを告げる日が訪れた。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」(ヨブ記 42:17)と書かれている通りである。この「日満ちて死んだ」とはどのような意味だろうか。神が終わりの時を宣言する以前の時代、神はヨブの寿命を決めた。ヨブがその年齢に達した時、神はヨブをこの世から自然に去らせた。ヨブの二度目の祝福から彼の死までの間、神はヨブに更なる試練を経験されることはなかった。ヨブの死は神にとって自然なものであり必要なものであり、極めて普通のことであった。それは裁きでも非難でもない。ヨブが生きている間、彼は神を崇拝し、畏れた。つまり、ヨブが死んだ後に彼がどのような最後を迎えたかに関して、神から何の発言も説明もなかった。神は自らの言行に対して思慮深く、その言葉と働きの内容と原則は、自身の働きの段階に沿っており、自身が働く期間に沿っている。ヨブのような人間の最後は神にとってどのようなものなのだろうか。神は何らかの決意をしただろうか。勿論決意した。人間がそれを知ることがないだけである。神はそれを人間に知らせたいとも、知らせようとも思わなかったのである。このように、表面的には、ヨブは年老いて死んだ。ヨブの生涯はそのようなものであった。

ヨブがその生き方で生み出した価値

ヨブは価値ある人生を送っただろうか。ヨブの人生のどこに価値があっただろうか。ヨブが価値ある人生を送ったと言われるのは何故だろうか。人間にとってヨブの価値はどのような意味があるだろうか。人間的な観点から言うと、ヨブは神が救いたいと願う人間を現していた。サタンと世の人々の前で、神への証しに堅く立っていたからである。ヨブは神に造られたものとしての本分を尽くし、神が救いたいと願う全ての人々の模範となり、型となり、そうすることで、神に信頼していればサタンに勝利することが間違いなく可能であることを示したのである。では神にとってのヨブの価値は何だったのか。神にとってのヨブの人生の価値は、ヨブが神を畏れることができ、崇拝することができ、神の業を証しし、神のする事を讃え、神に慰めと喜びを与えることができたことにあった。そしてまた、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世界の人々の前で神への証しに堅く立ち、人々の中にあって神を褒めたたえ、神の心に慰めをもたらし、神が望む結果を見ることができようにし、希望を持つことができるようにしたことが、神にとってのヨブの人生の価値であった。ヨブの証しは、人が神の証しに堅く立つことができることの前例となり、神によって、神が人間を管理する働きのなかで、サタンを辱めることができることの前例となった。これがヨブの人生の価値ではないだろうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、それによって神は栄光を受ける喜びを味わうことができ、神の経営(救いの)計画にとって素晴らしいスタートとなった。この時以来、ヨブという名前は神を褒めたたえる象徴となり、サタンに対して勝利する人間の象徴となった。ヨブが生涯貫いたものとサタンに対する勝利は神に永遠に尊ばれ、ヨブの完全さと正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるだろう。傷のない、輝く真珠のようにヨブは神に尊ばれるだろう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれる価値ある人間なのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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