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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神がすでに完遂した全ての業や、神が最初に行った事柄については、たった今述べたばかりである。こうした業や事柄は、すべて神の経営計画と神の旨に関連する。またこれらは、神自身の性質と本質に関連するものである。神の中にある物事や神の存在に関する理解を深めることを望む場合、旧約聖書や律法時代に留まることは不可能であり、神が業における段階を先へと進むのに合わせて先へと進む必要がある。それゆえ、神が律法時代を終え、恵みの時代を開始するのに従って、人間もまた、恵みと贖いに満ちた時代である、恵みの時代へと進んだ。この時代では、再び神が初めての重要な事を行った。この神と人間の両者にとっての新時代における業は、新たな出発点であった。この新たな出発点もまた、神が初めて行なった新たな業であった。この新たな業は、神が行なった前代未聞の事柄であり、また人間や全ての被造物が想像できないものであった。その業とは、現在においては、すべての者に知られていることであるが、神は初めて人間の姿になり、初めて人間の姿で、人間として業に着手した。この新たな業により、神が律法時代の業を完了し、神がその後、律法に基づいて業を行うことも、言葉を述べることもないことが示された。神は、それ以後に律法という形あるいは律法という原理や規則に従って言葉を述べることも業を行うこともなかった。すなわち、律法に基づく神の業は永遠に止まり、それ以後継続することはなかった。なぜなら、神は新たな業を開始し、新たな行動を実施することを望んでおり、神の計画は、再び新たな出発点に立ったからである。そういうわけで、神は人間を次の時代へと導く必要があった。

このことが人間にとって喜ぶべきであるか、忌むべきであるかは、人間の本質が何であるかにより決まる。このことは、一部の人々にとっては嬉しい知らせではなく忌むべき知らせであった。なぜなら、神が新たな業を開始した時、律法と規則に従うのみであった人々、教義に従うのみで神を畏れることのなかった人々は、神の従前の業をもって新たな業を非難しようとする傾向にあった。こうした人々にとって、このことは悪い知らせであったのに対し、汚れなく率直であり、神に対して誠実であり、神の贖いを喜んで受けた人々にとっては、神の最初の受肉は極めて喜ばしい知らせであった。人間が創られて以来、神が霊ではない形で現れ、人間とともに生活したのはこれが初めてであり、神は人間として生まれ、人の子として生活し、人々の中で業を行った。この「初めての出来事」は、人々の観念を破壊し、あらゆる想像を越えるものであった。さらに、神の信者は、実質的な利益を得た。神は旧時代のみならず、神の旧来の業の方法と方式をも終わらせた。すなわち神は、使者に神の旨を伝えさせることを止め、もはや雲間に隠れることもなく、「いかずちの光」により現れ、人間に命令口調で語ることはなくなった。それ以前とは異なり、人間にとって想像もつかず、理解することも受け入れることも極めて困難な方法、すなわち身体を持つという方法で、人の子となり、その時代の業を展開した。この段階は、人間にとって驚異であり、また不快なものであった。なぜなら、神はまたしても、神がそれまで行ったことのない業を始めたからである。ここでは、この新時代に神が実現した新たな業について、また新たな業の全てにおいて、人間が理解できる神の性質、神の中にある物事、神の存在とは何かを検討する。

次に挙げるのは新約聖書に記された言葉である。

1.そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。(マタイによる福音書12:1)

2.「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)

まず、「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」という聖句を検討する。

この聖句を選んだのは何故か。この聖句と神の性質には、どのような関連があるだろうか。この聖句で最初に気付くのは、これが安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子達を率いて麦畑を歩いていることである。さらに「法外」なこととして、「穂を摘んで食べはじめた」のである。律法時代において、ヤーウェ神の律法では、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりすることはできなかった。安息日にしてはならないことが沢山あったのである。主イエスのこうした行動は、長く律法の下で生活していた者にとっては不可解であり、非難に値するものでさえあった。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかについては検討せず、まず主イエスがとりわけ安息日にこうした行動を取ったのは何故か、またそうした行動により、律法に従って生活していた人々に伝えたかったことは何かについて検討する。ここで議論したい神の性質とこの聖句の関連性が、ここにある。

主イエスが来た時、イエスは実践的行動により人々と対話した。神は律法の時代を離れ、新たな業を開始し、その新たな業では、安息日を守る必要がなかった。神が安息日の制限から解放された時、それは神の新たな業の前兆でしかなく、神の真に偉大な業は、引き続きその後に行われた。主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。神が新たな業を行った時、神は過去に固執せず、神は律法時代の規則を懸念することがなかった。また、神は従前の時代の業に影響されることもなく、安息日に通常通り活動し、弟子たちは空腹となった時、麦の穂を摘んで食べることができた。こうしたことは、神にとって至って普通であると考えられた。神は、行うことを望んでいた業や、伝えるべき沢山の言葉に対して、新たな始まりを迎えることができた。神は、新たな始まりを迎えた後には、従前の業について述べることも、それを継続することもない。神の業には原則がある。神が新たな業を始めることを望んだ時は、神が人間を新たな業へと移行させることを望み、神の業が一層高度な段階に達している時である。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動を続けたり、そうした事柄を守り続けたりした場合、神はそれを祝福することも讃えることもないであろう。なぜなら、神は既に新たな業を行っており、業の新たな段階へと移行しているからである。神が新たな業を開始したとき、神の性質や神の中にある物事、神の存在に関する様々な側面を人々が理解できるように、神は人間に対して全く新しい側面から、全く新たな印象とともに、全く新しい方法で現れる。これが、神の新たな業の目的のひとつである。神は従来の常套的方法に留まることがなく、神が業を行い、言葉を伝える時、神は人間が想像するほど制約的ではない。神においては、全てが自由であり、開放されており、阻害的な要因や束縛は全く存在しない。神が人間に授ける物事は、すべて自由であり、開放されている。神は生きている神であり、実際に存在する存在である。神は操り人形でも粘土像でもなく、人間が祭る偶像とは全く異なる存在である。神は生きており、活気に満ち、神の言葉や業により人間に授けるのは、命と光、自由と開放である。なぜなら、神は真理、命、そして道を持っており、神は神の業において、いかなる物事にも制約されないからである。人間が何を言おうと、神の新たな業を人間がどう見るか、どう評価するかを問わず、神は何ら不安に感じることなく、業を行う。神は、神の業や言葉に対する人間の考えや批判、さらに強い反感や反抗を懸念することはない。人間的な理由や想像、知識、倫理により、神の業の評価や定義をしたり、神の業に対する信頼性を傷つけたり、混乱させたり、妨害を行うことができる者は、誰も居ない。神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。神の新たな業において、神は永遠に勝利を続ける王であり、敵対する勢力や、異端の者、人間による詭弁は、すべて神の足台の下で踏みにじられる。神が、業のどの段階を新たに行っているかを問わず、その段階は神の大いなる業が完了するまで、必ず人間界において展開され、拡張され、さらに全宇宙において妨害されることなく必ず実行されなければならない。これが神の全能と知恵、そして権威と力である。したがって主イエスは安息日に隠し立てすることなく外出して活動することが可能であった。なぜなら、主の心には規則が皆無であり、また人間から出た知識も教義も皆無だからである。イエスにあったのは新たな業と新たな方法であり、またイエスの業は、人間を自由にし、解放し、人間が光のなかに存在できるようにし、生きることができるようにする道であった。そして、偶像や偽の神を崇拝する者は、サタンの呪縛を受け、様々な規則や禁忌の制約を受けながら日々を過ごす。今日は何かが禁止されているが、明日はまた別の何かが禁止され、こうした者の生活に自由はない。こうした者は手かせ、足かせをされ、喜びについて何ら語ることがない、囚人さながらである。「禁制」とは何であろうか。それは、制約、束縛、そして邪悪である。ある者が偶像を崇拝するということは、とりもなおさず偽の神を崇拝し、悪霊を崇拝することである。そうした崇拝には制約が伴う。あれとこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日はコンロを点けてはならない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある。こうした状況を何というか。こうした状況を「禁制」という。禁制は人間による呪縛であり、サタンの手かせ、足かせであり、邪悪な霊がそれを支配し、人間の心身を束縛する。こうした禁制が、神に存在するであろうか。神の聖なる存在について述べる場合、神には禁制が皆無であることを、まず考える必要がある。神の言葉と業には原則があるが、禁制はない。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからである。

次に、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)という聖句について検討する。ここでいう「宮」とは、何であろうか。「宮」とは、簡単に言えば高い大きな建物を指し、律法の時代は、宮とは司祭が神を礼拝する場であった。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる。」と言った時、「者」とは誰をさしていたであろうか。ここで「者」とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェを礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が「いけにえを捧げる」とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。こうした言葉を現在に当てはめた場合、こうした言葉は当時と同様に正当であり、適切である。現在の人々は律法時代の人々とは異なる業を経験してはいるが、人々の本質は同じである。現在における業に関しても、「神殿は神よりも偉大である」という考えと同様の物事を人々は依然として行っている。たとえば、人々は自分の任務を遂行することを職務と考えており、神を証しすること、大きな赤い龍と戦うことを、人権保護や民主主義、自由のための政治活動であると考えている。また人々は自分の技能を活用する任務を職務とするが、神を畏れ、悪を忌み嫌うことは、単に守らなければならない宗教的教義として扱うなどしている。こうした人間の表出は「神殿は神よりも偉大である」という表出と本質的に同じではなかろうか。2000年前は、人々は自分の職務を物理的な神殿で行っていたのに対し、現在においては、人々は自分の職務を無形の神殿で行っているというだけのことである。規則を重視する人々は、規則を神よりも偉大であると考え、地位を好む人々は、地位を神よりも偉大であると考え、職務を好む人々は、職務を神よりも偉大であると考えるなど、全ての表出の結果として言えるのは、「人々は、口では神を最も偉大であるとして褒めたたえるが、人々の目には、あらゆる物事が神よりも偉大であるように映る」ということである。その理由は、人々が、自分が神に付き従う道で自分自身の才能を示し、あるいは自分自身の業務ないし職務を遂行する機会を見出すとすぐに、人々は神から離れ、自分が好む職務に没頭してしまうからである。神がこうした人々に託した物事や、神の旨については、捨て去られて久しい。こうした状況のなかで、これらの人々と、2000年前に神殿で自分の個人的な取り引きを行っていた人々と何か違うであろうか。

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