唯一無二の神自身 3

(その2)

人間の人生における六つの節目

全ての者が、人生の中で一連の重要な節目を経験する。こうした節目は最も基本的かつ重要な段階であり、その者の人生の運命を決定する。次に、こうした人生の中で誰もが経験する重要な節目に関して概説する。

出生:第一の節目

ある者が生まれた時、どのような家庭に生まれるか、性別、容姿、出生時期などが、人間の人生における第一の節目の内容である。

第一の節目のこうした部分に関して選択出来る者はいない。それらの部分は、創造主により遙か以前に定められたものである。こうした部分は外的環境の影響を一切受けず、創造主により予め定められたこれらの事実は、人的要因によって変わることが無い。ある者の出生は、創造主が定めた運命の第一段階を、創造主が既に完了したことを意味する。創造主は遙か以前にこうした詳細を全て定めているので、それらを変える力を持つ者はいない。その者の出生後の運命とは関係なく、その者の出生の条件は予め定められたものであり、定められた通りであり続ける。それらの条件は、その者の人生の運命や、その人生の創造主による統治に影響を与えることは、一切無い。

1.新たないのちは創造主の計画から生まれる

第一の節目の詳細すなわち、ある者の出生地、家族、性別、容姿、出生期日のうち、人間が選択出来るものはあるだろうか。ある者の出生は、明らかに受動的な事である。その者は、自分の意志とは関係なく、ある時、ある場所で、ある家庭に、ある容姿で生まれ、ある家庭の一員となり、ある家系を継ぐ者となる。第一の節目において、人間には選択の余地が無く、創造主の計画に従って決定された環境で、特定の家庭に、特定の性別と容姿で、特定の時期に生まれるが、このことは、その者のその後の人生と密接な繋がりがある。この重要な節目に、人間は何が出来るだろうか。先述の通り、そうした出生の詳細に関して、人間には選択の余地が一切無い。創造主による予定と導きが無ければ、この世に新しく生まれるいのちは、どこへ行き、どこに留まるかを知らず、全く無関係で、どこに属する事もなく、自分の家も無いであろう。しかし、創造主の周到な采配のため、新たないのちは、留まる場所、両親、そのいのちの属する場所、親戚が揃った状態で、人生の旅路に就く。この過程全体を通して、新たないのちの誕生は創造主の計画により決定され、そのいのちが持つあらゆる物事は、創造主によって新たないのちに与えられる。影も形も無い浮遊物体の状態から、次第に血と肉を持ち、目に見える、神の被造物である有形の人間となってゆく。その人間は考え、呼吸し、寒暖を感じ、物質世界での日常活動に参加可能であり、造られた人間が人生で体験する必要のあること全てを体験する。ある者の出生に関する創造主による予定は、生存に必要な物事の全てを、創造主がその者に対し与えることを意味する。同様に、その者が生まれるということは、生存に必要な物事の全てを、創造主からその者が授かること、そしてその時点からは、別の形態で、創造主の備えのもとに、創造主の支配の下で、その者が生きるということを意味する。

2.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由

人々は、もし自分が生まれ変わったならば、名家に生まれる、あるいは女性の場合は、白雪姫のような容姿で皆に愛されること、男性の場合は、全世界を意のままにし、何ひとつ不自由のない、白雪姫に登場する王子のようになる、などと想像することが往々にしてある。自分の出生について多々幻想している人は多く、彼らの多くは自分の出生に大いに不満を抱いている。自分の家族や容姿、性別、さらには出生時期までも不満なのである。しかし人々は、自分が特定の家族に生まれた理由や、なぜ自分がそのような容姿を持っているかを全く理解していない。そうした人々は、出生地や容姿の如何を問わず、創造主による経営のもとで、自分が様々な役割を担い、様々な使命を果たさねばならず、その旨は決して変わらないということを知らない。創造主の観点から見ると、人間の出生地、性別、肉体的な外観は、全て一時的なものである。こうした事は、神による全人類の管理の各段階における一連のささいなもの、僅かな象徴である。また、ある者の真の終着点と終わりの時は、どの段階においてもその者の出生により決定されていないが、それぞれの人生において全うする使命や、創造主の経営(救いの)計画が完了した時点における、その者に対する創造主の裁きにより決定される。

あらゆる結果には原因がある、結果に原因が無いことは無い、と言われている。したがって、ある者の出生は、必然的にその者のその時点における人生や前世と結びついている。ある者の死がその人生の終わりであるとすれば、その者の出生は新たな周期の始まりである。従前の周期がその者の前世であるとすれば、新たな周期は必然的にその時点における人生である。ある者の出生は、その者の前世と、その時点における人生と関連しているため、その者の出生に関連する場所、家庭、性別、容姿その他の要素は、全てそれらに関連している。つまり、その者の出生は、その者の前世に影響されるだけでなく、その時点の人生の宿命によっても決定される。このことにより、人間が生まれる様々な環境が説明される。貧しい家庭に生まれる者もいれば、裕福な家庭に生まれる者もいる。一般的な家庭に生まれる者もいれば、名家に生まれる者もいる。南部地域で生まれる者もいれば、北部地域で生まれる者もいる。砂漠で生まれる者もいれば、緑の生い茂る場所で生まれる者もいる。喝采、歓喜、祝賀を伴って生まれる者もいれば、悲哀、災難、苦悩を伴って生まれる者もいる。生まれてから宝のように扱われる者もいれば、雑草のように見捨てられる者もいる。端正な容姿で生まれる者もいれば、奇抜な容姿で生まれる者もいる。愛らしい外観で生まれる者もいれば、醜い外観で生まれる者もいる。深夜に生まれる者もいれば、真昼の陽光の中で生まれる者もいる。様々な人間の出生は、すべてその人間のために創造主により準備された運命により決定される。その者の現在における人生の運命、その者が果たす役割、遂行する使命は、その者の出生により決まる。こうした物事は、すべて創造主による統治の対象となり、創造主により予め定められたものである。そうした定められた場所から逃れられる者、その者の出生時の状況を変更出来る者、自分自身の運命を選択出来る者は、存在しない。

成長:第二の節目

人間は、生まれた家庭により異なる様々な環境で育ち、自分の両親から様々な教えを受ける。これにより、ある者が成長して大人になるまでの条件が決定され、成長は個人の人生における第二の重要な節目となる。この節目においても、人間には選択の余地が無いことは言うまでも無い。この節目もまた、事前に定められた既定のものである。

1.人間の成長時の条件は創造主により決定される

人間は、自分が成長する際に啓発や影響を受ける人物や要素を選択出来ない。人間は、どのような知識や技能を身に付けるか、何を習慣とするかを、選択出来ない。人間は、誰が自分の両親や親戚となるか、自分がどのような環境で成長するかに干渉する余地は一切無く、他の人々との関係、出来事、周囲の物事、またそうした物事が自分の発達にどのような影響を及ぼすかは、すべて自分で制御出来る範囲外にある。それでは、こうした事柄は誰が決めるのであろうか。こうした事柄を事前に決めるのは誰だろうか。人間には、こうした事柄を選択することも、自分で決めることもできず、また明らかに自然と決まるものでも無いので、こうした事柄の形成は創造主の掌中にあることは言うまでも無い。創造主は、各人の出生する具体的な状況を予め定めるのと同様に、各人が成長する具体的な状況も予め定めることは言うまでも無い。ある者の出生により、その者の周囲の人々や出来事、物事が変化する場合、必然的にその者の成長や発達もまた、それらの人々や出来事、物事に影響を与える。たとえば、貧しい家庭に生まれるが、裕福な環境で成長する人々がいる一方で、裕福な家庭に生まれるが、その家庭の財産が減ってゆき、貧しい環境で育つ人々もいる。出生が一定の法則により管理されている者はおらず、必然的な一定の状況下で成長する者もいない。こうした物事は人間が想像したり制御したり出来るものでは無く、人間の運命の結果であり、運命により決定されるものである。無論、根本的にそうした物事は、創造主によりその者の運命に予定されている。その者の運命の創造主による統治と計画により決定されている。

2.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる

ある者の出生の状況により、その者が成長する環境や状況の基本的な水準が決定され、その者が成長する状況は、その者の出生の状況の結果でもある。その者は、この期間に言語を学び始め、その者の心は新しい物事に数多く遭遇してそれを吸収するようになり、その過程においてその者は継続的に成長する。その者が聞く事柄、見るもの、心で感じる物事は、その者の内部の世界を次第に豊かにし、活性化させる。その者が遭遇する人々、出来事、物事、その者が学ぶ常識、知識、技能、その者が影響され、植え付けられ、教えられる考え方の全てが、その者の人生の運命に影響を与える。ある者が成長する時に学ぶ言語とその者の考え方は、幼年期を過ごす環境と不可分であり、その環境は両親や兄弟姉妹、その他の人々、出来事、その者の周囲にある物事で構成されている。したがって、ある者の発達は、その者の成長時の環境により決まり、また成長時に遭遇する人々、出来事、物事により異なる。その者の成育時の条件は遠い過去に定められているため、その過程における生活環境も必然的に定められている。それは、その者が好みで選んで決めたものではなく、創造主の計画にしたがい、創造主の入念な采配と、創造主によるその者の人生の運命の統治により決定される。したがって、誰であれその者が成育時に出会う人々や遭遇する物事は、すべて必然的に創造主の采配と計画に関連している。人間はそうした複雑な相互関係を予測することも、制御することも、推測することも出来ない。ある者の成育環境には様々な物事や様々な人々が関連し、そうした広大な網の目のように広がる関連性を用意したり、指揮したりすることが出来る者はいない。創造主を除き、いかなる人間や物事も、様々な人々、出来事、物事の発生、存在、消滅を制御することが出来ず、ある者の発育を創造主により定められた通りに形成し、人の育成環境を形成し、創造主による経営の働きに必要とされる様々な役割を造り出して、人間がその使命を完遂するための堅牢な基盤を固めるのは、極めて広大な網の目のような関連性である。

独立:第三の節目

ある者が少年期と思春期を経過し、当然の結果として徐々に成熟した後の段階は、青年期と訣別し、両親を離れ、独立した個人として将来の道へと向かうことである。この時点において、人間は成人が直面しなければならない人々、出来事、物事、そして自分の運命の鎖の接合部のひとつひとつと直面する必要がある。これが、人間が経験しなければならない第三の節目である。

1.人間は独立後に創造主による統治を経験するようになる

人間の出生と成長が、人間の運命の基礎を築くための人生の旅路の「準備期間」であるとすると、人間の独立は、その者の人生の運命における幕開けの独白である。ある者の出生と成長がその者の人生の運命のために蓄積された富であるとすると、その者の独立は、その富を消費ないし追加し始める時である。ある者がその両親を離れて独立する時、その者が直面する社会の状況、その者が得る職業や経歴は、共に運命により定められ、その者の両親とは無関係である。大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しの所で逃してしまい、その後の成功運は失われたように思われ、人生の旅路における初心の志が消沈する者もいる。先行きが順調か困難かが分からなくなった時、そこで始めて、人間の終着点は実に様々だと実感し、生活に希望と恐れを抱く。それほど優れた教育を受けていないにもかかわらず、著書を出版し、ある程度の名声を得る者や、ほぼ無学でありつつ事業で生活できるだけの金額を稼ぐ者もいる……。自分が選ぶ職業や、生計を立てる手段などについて、その選択に成功するか失敗するかを、人間は制御できるであろうか。人間が望み、決定した通りになるだろうか。大部分の者は、労働時間を減らし、収入を増やしたい、日照りや雨の中で骨折って労働したくない、身なりを良くしたい、目立ちたい、他人よりも優れた存在になりたい、家の名を上げたいと思う。人間の願望は極めて完璧であるが、人生の旅路の一歩を踏み出した時、人間の宿命がどれほど不完全であるかを認識するようになり、また自分の将来に大胆な計画を立て、大それた夢を抱くことが出来ても、それを叶える能力や力を持つ者や自分の将来を制御する立場にある者はいないという事実を、本当の意味で始めて理解する。自分の夢と直面する現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決して無い。そうした現実に直面するので、人間は決して満足することが無い。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいる。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められた物事は超越出来ない。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。

2.両親を離れ、人生の舞台で真面目に自分の役割を果たすこと

ある者が十分に成長した時、その者は親元を離れて独立することが出来るようになるが、この者が真に自分の役割を担い、人生における使命の曖昧さが無くなり次第に明瞭となるのはこの時である。名目上、この者は両親と密接に繋がっているが、その者の人生における使命と、果たすべき役割はその者の父母には無関係であるので、実際には、この密接な繋がりは、その者が独立してゆくに従って次第に消えてゆく。生物学的な面から見ると、人間は無意識に両親に依存せずにはいられないが、客観的に言うと、成人後、人間は自分の両親とは完全に分離した生活を送り、独自に決めた役割を果たす。子に対する両親の責任は、出生と子育てのほか、単に子に正式な成育環境を与えることである。なぜなら、創造主の予定を除き、人間の運命に関係する物事は無いからである。ある者の将来がどのようになるかを制御出来る者はいない。その者の将来は遙か以前に定められ、その者の両親でさえも変えられない。運命に関しては、人間は皆独立しており、各人には独自の運命がある。したがって、ある者の両親がその者の運命を阻むことも、その者が人生で担う役割に何らかの影響を与える事も出来ない。その者が生まれる家庭や、その者の成育環境は、その者の人生における使命を果たすための前提条件でしか無いと言えるであろう。そうした物事は、何らかの形でその者の人生における運命を決めたり、どのような宿命の中でその者が使命を果たすかを決めたりすることは無い。したがって、ある者の人生における使命遂行を、その者の両親が助けることも、その者の人生で担う役割を、その者の親類が助けることも出来ない。その者の使命遂行方法や、どのような生活環境で役割を遂行するかは、その者の人生の運命のみにより決定される。つまり、創造主により予め定められたその者の使命に、その他の客観的条件が影響を与えることは無い。人間はみな、自分に特定の成育環境で成人に達し、段階的に自分自身の人生の道を歩み始め、創造主が各人のために計画した使命を果たし、自然と無意識のうちに人類の大海原へと入り、その生涯における役割を担い、そこで創造主の定めと統治のために、被造物として自分の責任を全うする。

結婚:第四の節目

ある者が成長して成熟すると、自分の両親や自分が生まれ育った環境から離れて行き、自分の両親とは異なる、自分の人生の方向性と人生の目標を追究するようになる。この時、その者は両親を必要としないが、一緒に生活出来る者、すなわちその者の運命が密接な関連性を持つ、配偶者を必要とする。このように、その者が独立してから最初に遭遇する主要な出来事は結婚であり、それが、人間が経験する必要のある第四の節目である。

1.人間には結婚に関して選択の余地が無い

誰にとっても結婚は人生における重要な出来事であり、人間が様々な役割を本当の意味で担う時であり、次第に様々な使命を遂行し始める時である。人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。この邪悪な時世においては、結婚に関して、歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人間に様々な負担が課せられ、人間の態度が異常になっている。しかし、結婚経験者は、その者が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題では無いことを知っている。

人間は、人生において多数の人々に出会うが、誰が結婚相手となるかを知っている者はいない。誰もが結婚という問題に対する個人的な概念や意見を持っているものの、結婚に関して、最終的に誰が相手となるかを予測出来る者はいない。また、自分の意向はほぼ問題外である。自分が好きな人物と出会い、その後その人物を追いかけることは出来るが、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められる問題ではない。自分が慕う人物は、必ずしも自分が人生を共に出来る相手ではない。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が不可分に結びついている人物、すなわち配偶者となる。そうしたわけで、世界には数百万の結婚があるが、それぞれの結婚は他の結婚とは異なるものである。不満な結婚、円満な結婚、東西にまたがる結婚、南北にまたがる結婚、完璧な相性の結婚、同じ階級同士の結婚、幸福で調和した結婚、辛く悲しい結婚、羨望される結婚、誤解され、疑問視される結婚、幸福に満ちた結婚、涙に溢れた絶望的な結婚は、それぞれいくつあるだろうか。こうした様々な結婚の中で、人間は結婚生活への忠誠、一生の約束、愛情、慕情、不可分性などを示し、あるいは放棄、理解の欠如、背信、時には憎悪などを示すこともある。結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わる事が無く、したがって皆それを全うする必要がある。また、それぞれの結婚の背景にある運命は変わらない。なぜなら、それは創造主により遙か以前に定められているからである。

2.結婚は二人の配偶者の運命によって誕生である

結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。表面的には、結婚の目的は人類の存続であるが、実際は、結婚はその個人が使命を全うする過程で経験する儀式に他ならない。結婚において人間が果たす役割は、単に次の世代を養育することだけではない。結婚を継続する過程においてその者が担う様々な役割とその者が果たす様々な使命がある。ある者の出生は、人々、出来事、その者の周囲の物事に影響を与えるので、その者の結婚もまた必然的にそうした物事に影響を与え、さらにそうした物事を色々な意味で変化させる。

ある者が独立する時、その者は自分自身の人生の旅路に就くが、その旅路は、その者の結婚に関連する人々、出来事、物事へと、その者を段階的に導いてゆく。それと同時に、その者と結婚する他方配偶者もまた、その者と同じ人々、出来事、物事へと次第に導かれてゆく。創造主による統治下において、関係の無い個人二名が関係する運命を共有し、次第に結婚する方向へ進み、奇跡的に家族、すなわち「一本の縄にいる二匹のいなご」となる。したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。

子孫:第五の節目

結婚後、人間は次の世代の養育を開始する。どのような子どもが何人生まれるかについて、人間は干渉する余地が無く、それもまた、創造主が予め定めた、その者の運命により決定される。これが、人間が経験しなければならない第五の節目である。

一人の人間が子の役割を果たすために生まれた場合、その者は、別の子の親としての役割を果たすため、次の世代を養育する。こうした役割の変化により、その者は人生の様々な段階を、様々な立場で経験する。またこれにより、その者に様々な人生経験が与えられ、そうした様々な経験において、その者はそうした経験に共通する創造主による統治、そして創造主の定めを逸脱したり変更したり出来る者はいないという事実を知るようになる。

1.人間は自分の子孫がどうなるかを制御出来ない

出生、成育、結婚は全て、様々な種類と程度の失望感を人間に与える。家族や容姿に不満がある者もいれば、両親が嫌いな者や、成育環境に対して憤慨したり、沢山不服を持ったりする者もいる。そして大部分の人々にとって、こうした失望感のなかでも、結婚が最も大きな不満となる。出生や成長、結婚にどれほど不服であるかを問わず、そうした節目を既に経験した者は、自分の出生地や出生期日、自分の容姿、自分の両親、自分の配偶者を選ぶことは出来ず、天の意を受け入れるほか無いことを知っている。しかし、人間が次の世代を養育する時になると、人間は自分の半生で叶わなかった願望を子孫に期待し、自分が経験した失望感が、子孫により埋め合わせられることを願う。そうしたわけで、自分の娘は息を呑むような美女に育つ、自分の息子はさっそうとした紳士に育つ、自分の娘は教養が高く才能に溢れている、自分の息子は優等生になり、卓越したスポーツ選手になる、自分の娘は優しくて気立てが良く、感情が豊かになる、自分の息子は聡明で能力が高く、気配りの利く者になるなど、人々は自分の子に関して様々な幻想にふける。人間は、自分の娘であれ息子であれ、年長者を敬い、両親に配慮し、皆に愛され、称賛される者となることを願う。この時点では、人生の新たな希望が膨らみ、心の中で新たな情熱に火が点く。人間は、自分の人生においては自分が無力であり、絶望的であること、何かに卓越する機会や希望は二度と無いこと、自分の運命を受け入れるほか無いことを知っている。そうしたわけで、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想を、次の世代に期待し、自分の子孫が自分の夢を叶え、願望を実現する助けとなること、そして自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望む。つまり、人間は自分の子が幸運に恵まれることを願う。人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、自分の子の運命は自分の掌中には無いということを知らないであろうか。人間は、自分が自分自身の運命の主では無いにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全く無いにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとする。人間は、自己を過信していないだろうか。これは人間の愚かさと無知さではなかろうか。人間は、自分の子孫のために一切努力を惜しまないが、最終的には、自分がもうける子の人数や、その子がどのような子であるかは、その者の計画や願望通りにはならない。貧しいながら多くの子を授かる者もいれば、裕福ながら子を授からない者もいる。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない者や、息子を欲しがっても息子が出来ない者もいる。自分にとって子が祝福となっている者もいれば、自分にとって子が呪いとなっている者もいる。自分たちは聡明であるが、知能の発達が遅い子を授かる夫婦や、自分たちは勤勉で誠実であるが、育てている子が怠惰な両親もいる。自分たちは親切で正義感があるが、悪賢く残忍な子を授かる両親もいる。自分たちは心身共に健全であるが、障害を持つ子を授かる両親もいる。自分たちは平凡で出世できないが、偉業を成し遂げる子を授かる両親もいる。自分たちは低い身分であるが、授かった子の身分が高くなる両親もいる。

2.人間は、次の世代を養育した後、運命に関する新たな認識を得る

結婚する者は、大部分が30歳前後で結婚するが、その時点において、そうした者には人間の宿命に関する認識が全く無い。しかし、子育てを始めると、子が育つにつれ、人間は新たな世代がその前の世代と同様に人生を送り、同様の経験をするのを目の当たりにし、そうした状況に自分の過去が反映されているのを見て、自分たちの道と同様に、若い世代が進む道も、計画したり選択したりすることが出来ないことに気付く。人間は、そうした事実に直面すると、あらゆる人間の運命はあらかじめ決められていると認めざるを得ない。そして人間は、自分の願望を、それほど意識せずに捨て去り、心に秘めた情熱は冷めてゆく。そうしている間に、人間は人生における重要な節目をほぼ全て通り越し、人生に関する新たな認識を得て、新たな姿勢をとるようになる。その年齢の人間は、将来にどの程度期待し、どのような物事を見込むことが出来るであろうか。王子が現れるのを夢見続けている50歳の女性はいるであろうか。白雪姫を夢見続けている50歳の男性はいるであろうか。醜いアヒルの子から白鳥へと生まれ変わることを願い続けている中年女性はいるであろうか。高齢男性には、若い男性と同じ昇進の道が開かれているであろうか。要するに、男性か女性かを問わず、この年齢に達した者は、結婚、家族、子について比較的合理的かつ実践的な姿勢になる可能性が高い。そうした者には、基本的に選択肢が無く、運命への挑戦へと駆り立てられる事も無い。人間の経験に関しては、人間がこの年齢に達すると、自然と「運命を受け止める必要がある。子どもには独自の運命があり、人間の運命は天により定められたものである」という姿勢になる。真理を理解しない人々の大部分は、この世の栄枯盛衰や挫折、苦難を経験してきた後、人生に関する識見を「それが運命である」というひと言で表現する。このひと言は、人間の運命が世俗的結論と理解で要約されたものであり、また人類の無力さを表現し、当を得ている、正しいと言える。しかしながら、それは創造主による統治に関する認識からは遠くかけ離れたものであり、創造主の権威に関する認識に代わるものでは無い。

3.運命を信じることは、創造主による統治に関する認識に代わるものでは無い

運命に関する認識について、長年にわたり神に付き従って来たあなたがたの認識と俗世人の認識には大きな違いがあるであろうか。あなたがたは、創造主による定めを真に理解し、創造主による統治を真に知ったであろうか。「それが運命である」という言葉について深い思いのこもった認識がある者もいるが、そうした者は神による統治や、人間の運命は神により定められ、指揮されているということを一切信じず、神による統治に服従したがらない。そうした者は、あたかも大海原に漂流し、波にもまれ、潮に流されるように、受け身で運命に身を委ねるほか無い。しかし、人間の運命は神による統治下にあることをそうした者は気づかない。彼らは人間の自発性への神の統治に気づくことができず、ゆえに、神の権威を認識し、神の采配や計画に従い、運命に逆らうのを止め、神の慈しみと保護、導きの下で生きることが出来ない。換言すると、運命を受け入れることは、創造主による統治に従うこととは異なり、運命を信じる事は、神による統治を受け入れ、認め、知ることではなく、単にその事実と外的現象を認めることである。それは、創造主が人間の運命をどのように支配するかを知る事、神が万物の運命を支配する元であることを認める事、さらには創造主による人間の運命に対する采配と計画に服従する事とは、異なるものである。ある者が運命のみを信じ、それについて深く理解しているが、それにより人間の運命の創造主による統治を知り、認め、それに服従し、それを受け入れることが出来なければ、その者の人生は悲惨なものとなり、虚無のうちに生きる人生となり、創造主による統治に服従する者となることも、造られた人間という言葉が真に意味するところの存在となることも、創造主の是認を享受することも出来ない。創造主による統治を本当に知り、経験する者は、受動的でも絶望的でもなく、能動的であるべきだ。その者は、全てが運命であることを認めると同時に、全てのいのちは創造主による統治下にあるという人生と運命の正確な定義を知っている必要がある。ある者が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、その者は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知る。その者が気付かぬうちにその者を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画である。創造主による統治を受け入れ、神の救いを得ることが出来るということは、何と幸運なことであろうか。ある者の自分の運命に対する姿勢が受動的である場合、それは、神がその者のために用意したあらゆる物事をその者が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味する。神による人間の運命統治に対するその者の姿勢が能動的である場合、その者が自分の旅路を回顧し、神による統治を真に把握するようになった時、その者は神が用意した物事の全てに従うことを一層強く望むようになり、その者の運命において神が指揮すること、それ以上神に反抗しないことに、一層強い決断と確信を得るであろう。運命や神による統治を理解せず、霧の中を敢えて手探りでよろめきながらさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かる。したがって、人間の運命の神による統治を人間が認めた時、賢明な者は、それを知り、受け入れて、引き続き運命に逆らい、いわゆる人生の目標を自分のやり方で追究する代わりに、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別する。ある者にとって神が存在せず、神が見えず、神による統治を明確に認められない場合、毎日は無意味であり、無価値であり、悲惨である。その者がいる場所、その者の職業を問わず、その者の生業やその者の目標追求は、その者に終わりなき悲嘆と癒やされることのない苦痛をもたらすだけで、顧みるに耐えがたいものである。その者が創造主による統治を受け入れ、創造主の指揮と采配に従い、真の人間生活を求めた時のみ、その者はそうした悲嘆や苦痛から徐々に解放され、人生のあらゆる空虚感が払拭されるであろう。

4.創造主による統治に従う者のみが真の自由を得ることができる

人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。しかし、人間は決してそれに成功することは無く、あらゆる行動が妨害される。その者の魂の奥深い所で発生するそうした葛藤は苦痛であり、その苦痛は忘れられないものであり、その者は常に自分の人生を浪費する。こうした痛みの原因は何であろうか。神による統治が原因であろうか、それともその者が生まれた時から不運であったことが原因であろうか。あきらかに、そのいずれも原因ではない。根底にある、人間が進む道、人間が選択する生活方法が原因となっている。こうした物事に気付かない者もいる。しかし、神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定した物事の全てが大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放される。大部分の人々の状態から判断すると、主観的には、従前のような生活を望まず、苦痛から解放されることを望んでいるが、客観的には、創造主による人間の運命統治の実際の価値や意義を真に把握出来ず、創造主による統治を認め、それに従う事も出来ず、まして創造主の指揮や采配を求め、受け入れる方法を知ることなど出来ない。そうしたわけで、ある者が、創造主が人間の運命と、人類のあらゆる物事を統治しているという事実を真に認められず、創造主による統治に真に服従できない場合、その者にとって、「人間の運命は自分の掌中にある」という観念に駆られたり捕らわれたりすることを避けること、運命や神の権威に対抗する厳しい葛藤による痛みを払拭するのは困難であろう。またその者にとって、真に解放されて自由になり、神を礼拝する者となることも困難であるのは、言うまでもない。こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。これは簡単に思えるが、行うのは困難である。苦痛を感じるものと、感じない者がいるであろう。喜んで従うものと、そうでないものがいる。喜んで従わない者は、それを行う事を望む気持ちと決意が不足している。つまり、そうした者は、神による統治を明確に認識し、人間の運命を計画し、采配を行われるのは神であることを完全に知っているが、それでもなお反抗しようとあがき、自分の運命を神の掌中に委ねることを許さず、神の統治に従わず、神の指揮と采配に立腹している。そうしたわけで、自分の能力を知りたい者が常に存在する。そうした者は自分の運命を自らの手で変えること、自分の力で幸福になること、神の権威の範囲を出て、神による統治を超えることが出来るかどうかを試すことを望む。人間の悲しみは、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けられずに、自分の過ちを頑固に押し通そうとすることである。人間は、全く悔い改めることなく、泥の中で戦い続け、頑固に創造主による統治に反抗し続け、悲惨な結末を見るまで拒否を続ける方が良いと考え、うちひしがれ、負傷して倒れた時、やっと諦めて戦いを止める。これが、人間の真の悲しみである。そうしたわけで、服従した者は賢者であり、逃れようとしたものは意固地になっていると言える。

『言葉は肉において現れる』より引用

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