唯一無二の神自身 6

(その3)

多くの人が今、神の聖さとは、正確には何なのかについて述べて欲しいと望んでいることは承知していますが、わたしが神の聖さについて述べる時、わたしはまず神の行なう業について話します。その後で神の聖さとは正確には何なのかをあなたがたに尋ねますので、注意して聞いてください。わたしは、あなたがたに直接述べず、あなたがたに自分で理解してもらいたいので、そのための余地を与えます。このやり方をどう思いますか。(良いと思います。)それでは注意して聞いてください。

サタンが人間を堕落させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることもありません。サタンが行うことは、神にとって全て明瞭であり、神はその全てを理解しています。サタンが何をしても、サタンがどのような動向を引き起こしたとしても、神はサタンが何をしようとしているかを知っており、神はその選民を見捨てることは無いのです。神は、その代わりに、誰の気を引くこともなく、秘密裏に、静かに、必要なことすべてを行います。神が誰かに対して働き始める時、誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またサタンに告げることも無ければ、それを誇示することが無いのは、なおさらです。神は静かに、そして自然に必要なことを行うのみです。まず、神はあなたの家族を選びます。家族の背景はどのようなものか、あなたの両親や祖先は誰かといった事柄は、既に神により決定されています。つまり、そうした事柄は神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業です。神があなたの家族を選ぶと、神はあなたが生まれる日を選びます。今、神はあなたが産声を上げてこの世に生まれて来るのを、あなたの誕生を見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ています。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、今では走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できます。こうして人間が成長するにつれて、サタンの眼差しは獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれています。しかし神は働く時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべきこと、行なわなくてはならないことを行います。成長過程において、人が自分が好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがあります。しかし、その道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにあります。神は、人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証をあなたに与えます。あなたは、それを知らずに育ちます。あなたは新たな物事に接し、この世の中と人間を知るようになります。あなたにとってすべてが新鮮です。あなたは自分のことや、好きなことをするのを好みます。あなたは自分の人間性と生活環境の中で生活し、神の存在については一切の認識をもちません。それでも神はあなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを見ています。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることが無いのです。あなたは、他の人々と全く同様に、世界を知り、世界と接触するなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味の対象を持ち、高尚な大志を抱くようになります。あなたは、自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどうなるかを思い描きます。しかし、その過程で何があったとしても、神は全てをはっきりと見ています。あなたは自分の過去について忘れたかもしれませんが、神以上にあなたを深く理解している者はありません。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟します。この間、神の最も重要事項は、誰も気付くことができず、誰も知らないことです。神がそれについて、あなたに伝えることは当然ありません。その最も重要な事とは何でしょうか。それは、神がある人間を救うという保証であると言えます。つまり、神はその人を救うことを望むので、神はそれを行う必要があり、その務めは人間にとっても神にとっても極めて重要なのです。知っていますか。あなたがたは、このことについて実感や概念が全く無いようなので、わたしが話します。あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの働きを行なってきましたが、神が行ったことを全て詳しく伝えることはありません。神はあなたに知らせることはなく、あなたに伝えませんでした。しかし、人間にとって、神の行いは全て重要です。神にとって、それは行うべき事です。神の心中には、神がなすべきことで、それらよりも遙かに重要なことがあります。何でしょうか。それは、人間が生まれてから現在に至るまで、神は人間ひとりひとりの安全を保証する必要があるということです。これを聞いても、あなたがたは完全に理解できないと感じ、「その安全とは、それほど重要なものなのか」と言うかも知れません。「安全」という言葉の文字通りの意味は何ですか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することが無いことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているでしょう。しかし、安全とはそれほど単純なものではないということを、あなたがたの心中で知らなければなりません。それでは、わたしがこのように話している、神が行うべきこととは一体何でしょうか。安全は、神にとって何を意味するのでしょうか。本当にあなたがたの安全の保証のことでしょうか。ちょうど現在のように。いいえ。それでは、神が行なうことは何でしょうか。この安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということなのです。これは重要ですか。あなたはサタンに食い尽くされていませんが、そうであれば、これはあなたの安全に関連するでしょうか。これはあなた個人の安全に関わり、それよりも重要な事はありません。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの魂も肉も、もはや神に属しません。神はあなたをもはや救いません。神はそうした魂や人々を見捨てるのです。ですから、神が行うべき最も重要なことは、あなたの安全、あなたがサタンに食い尽くされないことを保証することだと言うのです。これは極めて重要ではありませんか。それでは、あなたがたはなぜ回答できないのですか。あなたがたは、神の大いなる優しさを感じることができないようですね。

神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にも、さらなることを行います。神は、誰かを選んで救う準備のために、数多くの働きを行います。まず、あなたはどのような性格か、どのような家庭に生まれるか、両親は誰か、兄弟姉妹は何名いるか、家庭の状況と経済的地位はどのようなものか、あなたの家庭状況はどうかなどは、神があなたのために、苦心して用意しました。あなたがたは、神の選民の大部分が、どのような家庭に生まれているかを知っています。名門の家庭でしょうか。そんな家も数件あるかも知れません。全くないとは断言できませんが、極めて少ないです。百万長者、あるいは億万長者など極めて裕福な家庭でしょうか。その種の家庭はまずほぼありません。それでは、神がそれらの人々のために用意するのは、どのような家庭でしょうか。(普通の家庭です。)それでは、普通の家庭とは、どのようなものですか。専ら労働者の家庭です。労働者は賃金に依存して生活し、基本的な必需品を購入することができます。労働者家庭は何があってもあなたを飢えさせることはありませんが、物質的必要性を全て満たすことは期待できません。また農家の家庭もあります。農家は作物の栽培に食糧を依存し、食糧として穀物があるので何があっても飢えることは無いですが、良い衣服はありません。また、事業や小規模商業を営む家庭や、両親が知能労働者である家庭などがあり、それらもまた普通の家庭と見なせます。また両親が事務職に従事する場合や、下級公務員である場合もあり、それらも名門とは見なすことはできません。多くの人々は普通の家庭に生まれ、それもまたすべて神が用意したことです。つまり、あなたの生活する環境は、あなたが想像するような資産家の家庭ではなく、神があなたのために決めた家庭であり、大部分の人々が、こうした家庭の制約範囲内で生活します。ここでは、例外は取り上げません。それでは、社会的地位はどうですか。ほとんどの場合、両親の経済状況は平均的であり、社会的地位は高くありません。彼らにとっては、職があるだけで十分です。長官はいるでしょうか。それでは総裁はいますか。(いません。)地位が高かったとしても、小企業の経営者や下位管理職にとどまり、社会的地位は中間で、経済状態は平均的です。もう一つの要素は家庭の生活環境です。まず、自分の子どもに影響を与えて易断や運勢判断などの道へ進ませる両親は極めて少ないか全くいません。大部分の両親は極めて普通であり、あなたがたに似ています。神は人間を選択すると同時に人間のためにこうした環境を用意しますが、それは神が人間を救う働きに大いに有益です。外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えますが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからです。しかし実際には、神がすることは全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要な全ての条件を用意するためのものです。神は、各人に指定された時間になると即時に人々を神の前に戻します。あなたが神の声を聞く時が来ると、それはあなたが神の前に行く時です。その時、ある者は既に人の親となり、ある者はまだ誰かの子のままです。換言すると、既に結婚して子をもうけた人もいれば、独身のままで自分の家庭を持っていない人もいます。しかし、人々の状況を問わず、神はあなたが選ばれる時期、神の福音と言葉があなたに届く時期を、既に決定しています。神は、あなたが神の言葉を聞くことができるよう、既に状況を設定し、あなたに福音をもたらす特定の人物や状況を決定しています。神は、あなたが知らないうちに神の前に来て神の家に戻るよう、必要とされる全ての条件を既に用意しています。また、あなたは知らないうちに神に付き従い、神があなたのために段階ごとに用意した、段階的な働きに入っていきます。神がこの時人間のために物事をおこなうのにはどのような方法があるのでしょうか。まず、神が最低限度として行うのは、人間が享受する慈悲と保護です。神は、人間が神の存在と神による業をそこに見出せるように、様々な人々や出来事、物事を用意します。たとえば、家族が病を患っているために神を信仰する人がいて、「家族が病気だが、いったいどうしたらよいのか」と言ったとします。誰かが「主イエスを信じよ」と言い、それゆえに神を信仰するようになります。その信仰は状況が原因となって生まれました。それでは、この状況を用意したのは、誰ですか。(神様です。)この病により、若い者も年老いた者も全員が信者である家庭が存在する一方で、信仰する者としない者がいる家庭も存在します。外見上は疾病のために神を信じるようになったけれど、実はその疾病は神の前へと行くように、あなたに与えられた条件であり、すなわちそれは神の優しさです。ある人々は、家庭生活が困難で平安を見出すことができないために、誰かが福音を伝える機会が訪れ、その誰かが「あなたの家庭には困難がある。主イエスを信じよ。主イエスを信じれば、平安が訪れる」と言います。その後、無意識のうちに、この人は極めて自然な状況下で神を信じるようになります。これは一種の条件ではありませんか。(その通りです。)それでは、その人の家庭に平安がないというのは、神がその人に与えた恵みではないですか。(その通りです。)それ以外の理由で神を信じるようになる人々もいます。信仰には様々な理由や在り方がありますが、神を信じるようになった理由がどのようなものであれ、実際には、それは全て神が用意し、導いたものなのです。最初、神は様々な方法であなたを選び、あなたを神の家に連れてきます。これが神があらゆる人に与える恵みです。

今は終わりの日における神の働きの時となり、神はもはや最初のように恵みと祝福を人間に与えるのみではなく、また人間をなだめることもありません。この働きの間に、人間は経験した神の働きのあらゆる側面から何を認識したでしょうか。人間は、神の愛と神の裁きと刑罰を認識したのです。この時、神は人間にさらに施し、支援し、啓き、導き、人間は次第に神の意図と語られる言葉、そして神が人間に与える真理を理解するようになります。人間が弱く、落胆し、よりどころとするものを失った時、神は言葉により人間を慰め、忠告し、励ますので、霊的背丈の小さな人間は次第に自分の力を見出し、前向きに立ち上がることができ、神と協力することを望むようになります。しかし、人間が神に従わなかったり、神に抵抗した場合、あるいは自分自身の堕落を表した場合、神は容赦なくそうした人々を懲らしめ鍛錬します。しかし、人間の愚かさ、無知さ、弱さ、未熟さに対し、神は寛容と忍耐を示します。このように、神が人間に対して行う全ての働きにより、人間は次第に成熟し、神の意図や真理の一部を知り、肯定的な物事や否定的な物事、邪悪とは何か、闇とは何かを知るようになります。神は人間を常に懲らしめ、鍛錬するとは限らず、また常に寛容と忍耐を示すとは限りません。むしろ、神は各人に対し、異なる方法で、様々な段階において、人間の様々な霊的背丈や能力に応じて施すのです。神は、人間に対して多くのことを行い、大きな代償をはらいます。人間はその代償や業を認識することは無いものの、神のすることはすべて人間ひとりひとりに対して実際に行われています。神の愛は実在します。神の恵みにより、人間は災害を次々と回避する一方で、人間の弱さには、神は何度となく寛容を示します。神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与える物事、神が人間の目を開くこと、そして神による導きにより、人間は、真理の本質、人間に必要な物事、自分が進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。こうした神の業は、神の唯一の元来の目的と不可分です。それでは、その目的とは何でしょうか。あなたがたは知っていますか。神がそのような方法で人間に対する働きを行うのは、何故でしょうか。神はどのような結果を実現しようとしているのでしょうか。言い換えれば、神は人間に何を見、人間から何を得たいのでしょうか。神は、人間の心が蘇ることを見たいのです。神がこのようにして人間に対して働きを行うのは、継続的に人間の心を目覚めさせ、霊を目覚めさせ、人間がどこから来たのか、人間を導き、支え、また人間に与え、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるためであり、創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、人間はどのような道を歩むべきか、人間はどのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるためです。こうした方法が用いられるのは、人間が神の心を知り、理解し、神の人間を救う働きの背後にある大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるためです。人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質の生活を送ることを望まなくなり、その代わりに神が満足する真理を求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンにより支配されることも騙されることも無くなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です。

サタンの邪悪について話し合ったときは、人間の生活は極めて不幸であり、人間の生活は不運を極めていると皆に感じさせました。しかし、神の聖さと神の人間に対する働きについて話した今では、あなたがたはどのように感じますか。(非常に幸福です。)神の行なう全てや、人間に対して神が慎重に用意する物事が全て完璧であることが分かりました。神が行なうことには誤りがありません。つまり、非の打ち所がなく、誰の修正も、助言も、変更も必要ないのです。個々の人間のために神が行なうことには、疑問の余地が無く、神はあらゆる者の手を引いて導き、あなたを常に見守り、あなたの傍らを決して離れません。このような環境と背景の元で人間が成長するとすれば、実際のところ人間は神の手の中で成長すると言えるのではないですか。(はい。)それでは、あなたがたは依然として喪失感を抱いていますか。(いいえ。)落胆している人はいますか。(いません。)神は人類を見捨てたと感じる人はいますか。(いません。)それでは、神は一体どのような働きを行いましたか。(神は人間を守られます。)神の働きの背後にある大いなる心と慈しみには、疑問の余地がありません。さらに、神がこの働きを行なう間、神は、神があなたのために負う代償をあなたが知り、それゆえ神に対して深謝するようにと、何らの条件や要求事項もあなたがたのうちの誰にも出したりすることはしなかった。神はかつてそのようなことをしたことがありますか。(ありません。)基本的に、長い人生の中では、誰もが数多くの危険な状況や誘惑に遭遇します。これは、あなたの傍らには、常にサタンが存在し、あなたを見据えているからです。サタンは、あなたが災害に見舞われたり、災難が降りかかったり、何事もうまくいかなかったりすることを喜び、また、あなたがサタンの罠にかかることを喜びます。しかるに神は、常にあなたを守り、次々起こる逆境や災難からあなたを守ります。これが、平安や喜び、祝福、身体の安全など、人間が持つものは、実際のところ全てが神の支配下にあり、神が各人の人生と運命を導き、決定する、とわたしが言う理由です。しかし、一部の人々が言うように、神は自分の地位について仰々しい概念を持っており、「わたしは最も偉大な存在であり、わたしがあなたがたを支配している。あなたがたは全員わたしに慈悲を請わなければならず、わたしに従わない者は死をもって罰とする」などと言うのでしょうか。神はかつて、このように人間を脅迫したことがありますか。(ありません。)神は、これまでに「人類は堕落しているので、わたしが人間をどのように好き勝手に扱ってもどうでもよい。人間に対して周到な用意を行う必要は無い」などと言ったことがありますか。神はこのように考えるでしょうか。(いいえ。)神がそのように行動したことがありますか。(ありません。)それとは反対に、神による人間それぞれに対する処遇はまじめで責任感があり、あなたが自分自身に対するよりも責任感に溢れています。そうではないですか。神は無益に言葉を述べることも、尊大に振る舞うことも、人々を欺くこともありません。その逆で、神は誠実かつ静かに、自身が行うべきことを行います。それらの業は人間に祝福、平安、喜びをもたらし、人間を平安かつ幸福のうちに神の前へと来させ、神の家へと連れて行き、人間が神の前に行き神の救いを受けるために必要な、正しい理知、思考、判断、心構えを人間に与えます。それならば、神はその働きにおいて他意があったことがありますか。(いいえ。)かつて神が人間に対して親切を装い、少々の愛想のよい言葉で慰めた後に裏切ったことがありますか。(ありません。)かつて神が、あることを述べ、それと一致しないことを行ったことがありますか。(いいえ。)かつて神が、これをしてあげよう、あれをするのを助けてあげようと空虚な約束をし、豪語した上で消え去ったことがありますか。(ありません。)神には、狡猾さや偽りがありません。神は信実で、神のすることはすべて真実です。神は、人間が信頼し、自分の人生などの全てを託すことのできる唯一の存在です。神には狡猾さが無いのであれば、神は最も真摯な存在であると言えますか。(はい。)当然言えます。今このような言葉で神を叙述すると、言葉が無力であり、人間的でありすぎるものの、人間の言語の制約があるため、どうすることもできません。ここで神を真摯であるとするのは僅かに不適ですが、当座はこの語を用います。神は信実かつ真摯です。それでは、こうした側面について話すことは、何を意味しますか。神と人間の相違点や、神とサタンの相違点ですか。そう言うこともできます。なぜなら人間は、サタンの堕落した性質を全く神に見出すことができないからです。そう言って間違いないですか。これにアーメンと言って貰えますか。(アーメン!)サタンの邪悪さが神において明らかにされることを見る事は決してありません。神が行ない明示する事柄は全て人間にとって有益であり、役立つものであり、人間に施すために行われ、いのちに満ちあふれ、人間に対して進むべき道と方向性を与えます。神は堕落しておらず、さらに神のすること全てを検討すると、神は聖なる存在であると言えますか。(はい。)神には人類の堕落が一切不在であり、堕落した人類の性質やサタンの本質と僅かにでも類似していたり同一であったりするようなものは一切無い。この観点から、神は聖なる存在であると言うことができます。神が堕落を示すことはありません。神自身が聖であることは、その働きにおける本質の明示により十分確認することができます。このことが理解できますか。では神の聖なる本質を今、知るために、しばらく次の二つの側面について検討しましょう。①神には堕落した性質が全く無い、②人間に対する神の働きの本質により、人間は神自身の本質を理解することができ、この本質は完全に肯定的であること。一つひとつの神の働きが人間にもたらすものは、全て肯定的であり、まず、神は人間が誠実であることを要求します。これは肯定的ではないでしょうか。神は人間に知恵を与えます。これは肯定的ではないですか。神は人間が善と悪を見分けることができるようにします。これは肯定的ではないですか。神は人生の意味と価値を人間に理解させます。これは肯定的ではないですか。神は人間に人々、出来事、物事の本質を真理に従って理解させます。これは肯定的ではないですか。(はい、そうです。)これら全ての結果として、人間はサタンに騙されたり、危害を加えられたり、支配されたりすることが無くなります。つまり、人間はサタンの堕落から完全に解放され、したがって神を畏れ悪を避ける道を徐々に歩むことができます。あなたがたはこの道をどの程度歩いてきましたか。言いにくいのではないでしょうか。しかし、少なくともあなたがたには、サタンが人間を堕落させる方法や、何が邪悪であり、何が否定的な物事かに関して初歩的な知識がありますか。(はい。)その初歩的な知識により、あなたがたは少なくとも正しい道を歩んでいます。そう言えますか。(はい。)

神の聖さについての話はこれで終わりにしますが、これまで聞いたり学んだりしたことから、神の聖さが何であるかを述べることができる人はいますか。わたしの言う神の聖さとは、何を指しますか。暫く考えてください。神の真実性は、神の聖さですか。神の誠実さは、神の聖さですか。神の無私さは、神の聖さですか。神の謙虚さは、神の聖さですか。神の人間への愛は、神の聖さですか。神は人間に真理といのちを無償で与えます。これは神の聖さですか。(はい。)神が顕すことは、全て唯一無二であり、堕落した人間には存在せず、それを見出すこともできません。サタンが人間を堕落させる過程や、サタンの堕落した性質やサタンの本質や本性では全く見ることができないものです。神のもつもの、神であるものは、すべて唯一無二であり、そうした本質を持つのは、神自身のみです。ここまでの話を踏まえ、あなたがたのうち、これほど聖なる人間を知っている人はいますか。(いません。)あなたがたが人類で崇拝する有名人や偉人、偶像のうち、これほど聖なる存在はいますか。(いません。)それでは、神の聖さは唯一無二であると言うことができますが、神はそれを真理とともに名前においても具現していますか。(はい。)その通りです。これらに加えて、実際面もあります。今、わたしが述べている聖さと、あなたがたが以前考え、理解、想像していた聖さには、差がありますか。(はい。)どの程度の差ですか。(とても大きいです。)とても大きいとはどれくらい大きいのですか。人間が聖さを議論する場合、あなたがたの言葉で説明すると、しばしばそれは何を意味するものであろうか。(何らかの外見的振る舞いのことです。)振る舞いや何かを描写するために、人間は聖なる何かと言います。ではその「聖なる」という叙述は、理論ですか。それはただ清潔できれいで、人間にとって見かけや響きが良いもので、聖さの実際的な内容が無い物です。これは理論です。さらに、人間が考える「聖さ」の実際面は何を指していますか。それはおもに人間の想像や判断によるものですか。たとえば、仏教徒には修行中、座して寝ている時に死ぬ人がいます。こうした死者は聖なる存在となり、天国へと飛び立ったと言う人がいます。これも想像の一種です。また、天国から舞い降りる妖精が聖なる存在であると考える人がいます。実際には、人間の「聖なる」という言葉の概念は、従来から基本的に実際的な内容の無いうつろな想像と理論であり、また聖さの本質とは無関係のものです。聖さの本質は真の愛ですが、それ以上に真理や義、光の本質なのです。「聖なる」という言葉は、神に用いられた時のみ適切であり、創造物のうちで聖なると呼ぶに相応しいものは存在しません。人間はこれを理解しなければなりません。これからは、神にのみ「聖なる」という言葉を使います。これは妥当なことですか。(はい、そうです。)

『言葉は肉において現れる』より引用

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