日々の神の御言葉: 聖書にまつわる奥義 | 抜粋 265
長年にわたり、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことだった。聖書から離れることは主への信仰ではなく、邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じているなら聖書を読まなけ…
受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊的な目をこすり、非現実的な考えに満ちた言葉の餌食になってはならない。わたしたちは神が現実に行なう働きについて考え、神の実際的な面を見るべきである。イエスをまったく知らず、見たこともなく、イエスの意志をどう理解したらよいかわからないあなたがたを引き受けるために、主イエスが突然雲に乗ってあなたがたのもとに降りて来る日をひたすら楽しみにしながら、調子に乗ったり、空想にふけって自分を見失ったりしてはいけない。現実的な事柄を考えているほうがよい。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)より
神が肉とされた時、彼は自分に与えられた働きをもたらす。神が何者か現すため、彼は全ての人々に真理をもたらし、いのちを与え行くべき道を指し示す。神の本質を内に秘めていないなら、どんな肉体でも神の受肉ではありえない。神の受肉は神の本質と表現を具現化する。
神の性質と言葉と業によって神の受肉と真理の道を確証しなさい。彼の本質を注視しなさい。神の外見ばかりに目を奪われるのは無知で愚かなことである。内なるものを外見では判断できない、神の業は人の思いと一致するものではない。
イエスの外見は人々の期待とは違っていたのではないか。彼の姿や身なりは本当の姿を隠していたのではないか。パリサイ人たちはそのことが原因で彼に敵対したのではないだろうか。彼らはイエスの外見だけに目を奪われ、イエスの発した言葉には耳を傾けなかった。
神の出現を求める兄弟姉妹が歴史を繰り返さないことを神は望んでいる。パリサイ人たちの例にならい、神をまた十字架に打ちつけてはならない。だからよく考慮しなさい、再臨するイエスをどう迎え入れたらよいか。どう真理に従うか明瞭な意見を持ちなさい。それはイエスの再臨を待つ全ての者の義務である。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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長年にわたり、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことだった。聖書から離れることは主への信仰ではなく、邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じているなら聖書を読まなけ…
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パウロによる働きは人々に公然と示されてきたが、彼の神への愛は、実際どれほど純粋で、また彼の心の中でどれほど深く根付いていたのだろうか――それは人が見て確認できるものではない。人は、パウロが行った働きのみを見ることができ、その働きから彼が確かに聖霊に使われたのだということを知る。そ…