日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 124
独立:第三の節目 ある者が少年期と思春期を経過し、当然の結果として徐々に成熟した後の段階は、青年期と訣別し、両親を離れ、独立した個人として将来の道へと向かうことである。この時点において、人間は成人が直面しなければならない人々、出来事、物事、そして自分の運命の鎖の接合部のひとつひ…
神がこの世に来るのは、神の普通の人間性を完成させるためではない。神は普通の人間性の働きを行うためではなく、普通の人間性の中で神性の働きを行うためだけに来る。神が普通の人間性と見なすものは、人間が想像するようなものではない。人は「普通の人間性」を、妻または夫、息子や娘を持つことと定義する。人にとって、それらは対象者が普通の人であることを証明する。けれども神の考えは違う。神は普通の人間性を、普通の人間の思考を持ち、普通の人間の生活をし、普通の人々のもとに生まれることとして捉える。しかし神における普通性とは、人が普通性と見なす、妻または夫、および子どもを持つことを含まない。つまり、神が語る普通の人間性とは、人にとっては人間性がなく、感情がないかのようであり、肉的必要がないかのようであり、ちょうどイエスのように、単なる普通の人の外見をし、普通の人として現れることとなったが、本質的に普通の人が伴うものを完全に伴っているわけではなかった。そのことから、肉となった神の本質とは普通の人間性全体を包含するものではなく、普通の人間生活の規則と普通の人間の理知を維持するために人々が持つべき一部の事柄だけを包含する、と理解できる。ただ、それらの事柄は、人が普通の人間性と見なすものとは関係はない。それらは肉となった神が持つべきものである。肉となった神は、妻、息子や娘といった家族を持つ場合にのみ、普通の人間性を持つと言える、と主張する人もいる。家族を持たない場合、神は普通の人間ではないと彼らは言うのである。それではあなたに尋ねよう。神には妻がいるだろうか。神が夫を持つことは可能だろうか。神は子を持つことができるだろうか。それらは誤った考えではないのだろうか。それでも、肉となった神が、岩の割れ目から現れたり、空から落ちてきたりすることはありえない。神は単に普通の人間の家族に生まれうる。そのため神には親や姉妹がいる。それらは、肉となった神の普通の人間性が伴わねばならないものである。イエスの場合、そうであった。イエスには父と母、姉妹、および兄弟がいた。それは全く普通のことである。けれどもイエスに妻、息子や娘がいたなら、神は肉となった神において、自らが望んだ普通の人間性の存在とはなっていなかっただろう。その場合、彼は自らの働きで神性を表すことはできなかっただろう。彼が神性の働きを行えたのは、彼が、妻や子どもを持たないものの、普通の家族に普通の人間から生まれたためである。さらに明確に言えば、神が普通の人と見なすものは、普通の家族に生まれた人である。そのような人のみが神性の働きを行う資格がある。一方、妻、子ども、または夫がいる人は、神性の働きを行うことができない。それは、その人が神の求める普通の人間性ではなく、人間の求める普通の人間性を伴っているに過ぎないからである。神の思考と人々の理解は、しばしば大きく異なり、かけ離れている。この段階での神の働きの多くは人々の観念に反し、大きく異なる。この段階の神の働きは、すべて神性の実践によって行われ、そこでは人間性が支えとなると言って良い。自身の働きを人にさせるのではなく自分で遂行するために神は地上に来るので、その働きのために神自身が(不完全な、普通の人間として)受肉するのである。神は、新しい時代を人間に示し、神の働きにおける次の段階を人間に伝えるためにその受肉を使うのであり、それにより彼らは神の言葉が述べる道に従って実践することができる。それをもって、神は肉における自らの働きを完結する。神は人間から離れる必要があるが、普通の人間性となるその肉の中にもはや留まることはなく、むしろ自らの働きの他の部分を行うために人から移り去ってゆくのである。神はそれから、自らの心にかなう人を使い、この世における自らの働きをこの一団の中で続けるが、それは人間性における働きである。
『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)より
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