日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 133
人間は、創造主による統治を受け入れることによってのみ、創造主の側に戻ることが出来る ある者に、神による統治や采配に関する明瞭な認識や経験が無い場合、その者の運命や死に関する認識は必然的に支離滅裂なものとなる。人々は、こうした事柄が全て神の掌中にあることを明確に見ることが出来ず、神…
世の終わりに神は言葉を発することを主な目的として来る。神は聖霊の観点から、人間の観点から、第三者の観点から話す。神は異なった話し方をする。ある期間は一つの話し方をし、人間の見方を変え、漠然の神の姿を人間の心から除くために、様々な話し方をする。これが神のする主要な働きである。人間は神が癒やし、悪霊を追い払い、奇跡を行い、人間に物質的な幸いをもたらしに来たと考えているため、神はこの段階の働きをする──刑罰と裁きの働きを──そうした観念を人間の思考から除くために。人間が神の現実性、神の正常を知るように。そして、イエスの姿が人間の心から消え、新たな姿に置き換えられるように。人間の心の中にある神の姿が古くなるとすぐに、それは偶像になる。イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を示しはしなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられ、神の一部分を示した。イエスは神の全体像を示したわけではなく、一部の働きをして神を示したのだ。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、計り知れないからであり、神がそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからだ。神がこの時代に実行した働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の性質の実体と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的概念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことであった。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならなかった。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする。律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させた。そして、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の能力が限られていて、知識を完全にすることができなかったため、神は話し、働くことを続けた。恵みの時代、人間は再び神の働きの一部分を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、癒やし、悪魔を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は、神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上のものを人間に見せなければ、それで、神について人間の知識はそこまでに限られる。だから、神は働きを続け、自分に関する人間の知識が深まるようにし、人間が徐々に神の実体を知るようにする。神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は言葉によって明らかになり、その宗教的概念は神の実在性によって置き換えられる。神は終わりの日に「言葉は肉となり、言葉は肉の間に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するために受肉するが、あなた方がこのことについて完全な知識をもっていなければ、まだ堅く立つことができない。終わりの日には、神は主に言葉が人となるという働きをするつもりだが、これは、神の経営(救いの)計画の一部である。
『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)より
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人間は、創造主による統治を受け入れることによってのみ、創造主の側に戻ることが出来る ある者に、神による統治や采配に関する明瞭な認識や経験が無い場合、その者の運命や死に関する認識は必然的に支離滅裂なものとなる。人々は、こうした事柄が全て神の掌中にあることを明確に見ることが出来ず、神…
神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、理解不可能なものではない。神の働きはすべて、神の経営に関係しており、人間の救いの働きに関係しており、人間の生命、生活、終着点に関わっているのだから。神が人間の間で、そして人間に対してする働きは、まことに実際的で、意義深いものだと言える。それ…
神は、ただ神の選民だけの神ではないことを人々に知らせることです。現在あなたがたは神に付き従っており、神はあなたがたの神ですが、神に付き従う人々以外の人々にとって、神は彼らの神でもありますか。神は、神に付き従う人々以外の、あらゆる人々の神ですか。神は万物の神ですか。(はい。)それで…
人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰されるか、それともよい報いを受けるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を認識するかどうか、見える神に従うことができるかどうかによって決まる。神に仕えてきたが見える神を認識しないあるいは彼に従順でない人たちはみな真理のない人である。…