日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 83
人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでも…
世の終わりに神は言葉を発することを主な目的として来る。神は聖霊の観点から、人間の観点から、第三者の観点から話す。神は異なった話し方をする。ある期間は一つの話し方をし、人間の見方を変え、漠然の神の姿を人間の心から除くために、様々な話し方をする。これが神のする主要な働きである。人間は神が癒やし、悪霊を追い払い、奇跡を行い、人間に物質的な幸いをもたらしに来たと考えているため、神はこの段階の働きをする──刑罰と裁きの働きを──そうした観念を人間の思考から除くために。人間が神の現実性、神の正常を知るように。そして、イエスの姿が人間の心から消え、新たな姿に置き換えられるように。人間の心の中にある神の姿が古くなるとすぐに、それは偶像になる。イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を示しはしなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられ、神の一部分を示した。イエスは神の全体像を示したわけではなく、一部の働きをして神を示したのだ。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、計り知れないからであり、神がそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからだ。神がこの時代に実行した働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の性質の実体と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的概念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことであった。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならなかった。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする。律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させた。そして、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の能力が限られていて、知識を完全にすることができなかったため、神は話し、働くことを続けた。恵みの時代、人間は再び神の働きの一部分を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、癒やし、悪魔を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は、神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上のものを人間に見せなければ、それで、神について人間の知識はそこまでに限られる。だから、神は働きを続け、自分に関する人間の知識が深まるようにし、人間が徐々に神の実体を知るようにする。神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は言葉によって明らかになり、その宗教的概念は神の実在性によって置き換えられる。神は終わりの日に「言葉は肉となり、言葉は肉の間に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するために受肉するが、あなた方がこのことについて完全な知識をもっていなければ、まだ堅く立つことができない。終わりの日には、神は主に言葉が人となるという働きをするつもりだが、これは、神の経営(救いの)計画の一部である。
『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)より
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人は神を経験し、自らを知り、自分の堕落した性質を捨て、神を知るためにいのちの成長を求める。もしあなたが、自らを知り、堕落した性質に取り扱うことだけを追い求め、神の人に対する働きが何であるかを全く知らず、神の救いがどれほど偉大なものかを知らず、神をどのように経験し、神の業の証人とな…
自分の良心的感情だけに依存するなら、人は神の愛しさを感じることができない。良心だけに依存するなら、神への愛は弱々しいものになるだろう。神の恵みと愛に報いることだけを語っているなら、あなたの神への愛には何の活力もないだろう。自分の良心的感情に基づいて神を愛することは受け身なやり方で…
地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタ…